地球ことば村
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2018年度総会記念講演

「ふたつの文化の間で育つ―バイリンガルの子どもたち」


■日時:2018年6月16日(土)午後3:00-4:30
■会場:慶應義塾大学三田キャンパス南校舎445教室
■講演者:桐島洋子氏(エッセイスト)
■司会:八木橋宏勇ことば村理事(杏林大学准教授)


講演要旨

司会 ことば村の活動の中、大きな柱のひとつに「バイリンガルを考える」ということがあり、バイリンガルのテーマを今までに何度か扱ってきました。これまでは元副理事長の唐須教光先生など研究者を中心にお話を伺ってきましたが、今回は桐島洋子さんに、お子様をバイリンガルに育てたというご経験を話していただく機会といたしました。
 それでは講演に先立って、井上理事長からひとことご挨拶いたします。

井上理事長 ことば村村長の井上と申します。今日はみなさんお集まりいただき、ありがとうございます。また桐島洋子さん、そしてノエルさんという豪華な壇上になりまして、楽しみにしております。今日は「ふたつの文化の間で育つ―バイリンガルの子どもたち」というタイトルで、桐島さんがお子さんをバイリンガルに育てたという点、非常に関心がありますが、やはり、「ことば」で生きていらした方、「ことば」でずっと仕事をされてきた、そういう桐島さんのお人そのものにも、個人的に大変関心を持っております。
 地球ことば村は、キャッチフレーズ的には「家庭のことばから世界の少数言語まで」幅広くいろいろなことばの問題を扱って、文字通りノンプロフィットオーガニゼーション、お金はないのですが、高い志を持っている人たちの集まりで、その活動にご賛同いただけたら、またお越しください。

司会 本日の講演は桐島洋子さんとことば村の小幡監事が昔からの友人であったことからお引き受けくださいました。まずは桐島さんから預かっております紹介文をご紹介します。
 桐島洋子さんは1937年東京生まれ、文藝春秋に9年間勤務の後、独身のままアメリカ人パートナーとの間にもうけた三人のお子さんを育てつつ、フリーのジャーナリストとして海外各地を放浪されました。70年に処女作「渚と澪と舵」で作家デビューされ、71年に「淋しいアメリカ人」で第三回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、以来メディアの第一線で活躍されています。長女のカレンさん、次女のノエルさん、長男のローランドさんはそれぞれのジャンルでご活躍中、お孫さんは7名いらっしゃいます。50代から「林住期」、人生の収穫の秋を宣言してカナダのバンクーバーに家を持ち、一年の三分の一はそこで暮らしていらっしゃいましたが、最近は日本に落ち着いているとのこと。数々のベストセラーを生んでこられましたが、主な著作として「聡明な女は料理がうまい」「マザーグースと三匹の子豚たち」「本当に70代は面白い」などなど。
 本日は桐島洋子さんの講演ですが、ノエルさんと、井上理事長にも加わってもらい、対談的に進めていただきます。それではよろしくお願いいたします。


桐島 初めまして、桐島洋子と申します。寄る年波で、最近は講演もあまり自信がないので、変なことを言ったらノエルにそばでつついてもらいます。(笑)

ノエル できるだけ出しゃばらずに。(笑)

桐島 多少私の歴史をお話しして、自己紹介したいと思います。私が物心ついたのは上海でした。その頃の上海は、まさに世界一のバイリンガル都市だったと思います。我が家でも、家族は日本人、メイドは上海人、コックは香港人、門番はインド人、隣近所もみんな外国人で、何カ国のことばが混じっているかわからないという環境で育ちました。ですから、私はバイリンガルというより、いくつもの言語がごちゃ混ぜになっているような言語感覚だったと思います。ことばは、文字と合体しないとなかなか維持できないので、しゃべっているだけの言語は、その環境から出るとたちまち雲散霧消してしまいます。ですから日本に帰ってしまうと、英語も中国語も一切覚えていませんでした。その後外国人と・・・彼は何国人だっけ?

ノエル (笑)スコットランド系のアメリカ人!

桐島 と、いっしょになり三人の子どもを持ちました。子どもたちもほったらかしで自由に育ちましが、一応ハーフなのに英語もできないのでは恥ずかしいかなと、しばらくアメリカで一緒に暮らしたこともあるので、子どもたちは英語はきちんとできて、一応バイリンガルといっていいと思います。自己紹介はこのくらいで。私ももう80になります。80になると本当にがたっと来ますね。

ノエル 母は去年傘寿を祝いまして。

桐島 ですから、あと何年生きるかわかりませんけど、今までとは違うノンビリした生活もいいかなと思っております。


桐島洋子氏


ノエル 今日はバイリンガルのテーマなので、その上海のお話からはじめたら・・・。

桐島 上海は、いろんな国の人がいましたが、特にその頃はヒットラーの迫害を逃れてきたユダヤ人がいっぱいいました。

ノエル お母様が住んでいたのは?

桐島 上海は川を挟んで向こう側にはよく写真にもある大きな、ブロードウェイマンションという高層ビルがあって、当時の上海の中心的なホテルというかマンションなのですが、私が上海に行ってすぐの時にはそのマンションに住んでいました。それから橋を渡ってフランス租界のほうへ、西洋人の多い地域に移りました。

ノエル それは本当に小さい頃、戦争が始まる前ね?

桐島 そう、5歳くらいのとき。でも戦争はブロードウェイマンションに居るときに始まったの。すごい爆発音がして、すっとんで起きて両親の寝室に飛んでいったら、大人もみんな起きていた。そうしたら、窓の外に鉄鎖がジャラジャラと降りてきて、それを伝って兵隊さんがドカドカっと降りてきたんです。で、ガンガン窓をたたくの。

ノエル それは日本兵?

桐島 そう。ドカドカっと入ってきて、これからこの部屋は作戦会議室にするから明け渡せ、と。父が新聞社にいたので情報が早くて、戦争が始まったらしい、とわかり、それからいろんな関係者がゾロゾロやってきて議論が始まったのです。朝日が昇ると、目の前の川の向こうにはイギリス領事館など大使館の類いが並んでいるのですが、イギリスやアメリカなどの国旗が、すごすごと負け犬の尻尾のように下ろされていく。代わりに日本の日の丸がどんどん揚がっていくのですよ。
 それを見て、うちの父や仲間は反戦的な、リベラルな人たちなのに、やっぱり、やったやった、なんて手をたたいて。まったく男なんてしょうが無いわね、と母が苦笑していましたけど。
 そんなことで戦争が始まってしまって。でもそこでドンパチがあるわけではなく、生活は相変わらず続いていて、かなり豊かな生活を楽しんでいました。日本ではなかなか見られない演劇などがあって、父は特に音楽が好きだったのでしょっちゅう音楽会に行っていました。私は音楽が苦手で全然わからない。といって、子どもを家においておくと誘拐されないとも限らないので、私も連れて行かれます。そういう毎晩のお付き合いは、こちらはぐうぐう寝ていますから苦痛とは言えないのですが、演奏が終わるとポンとお尻をたたかれて起こされます。私には花束贈呈というお役目があるのです。両親には芸術家を援助し、花も捧げるべきだというポリシーがあったので、いつも豪華な花束が用意されていて、それを私が持って行って差し上げるわけです。
 ある夜、ヨーロッパから命からがら逃げてきたプリマドンナでしたが、花を受け取ったらそれを横に置いて私を抱き上げ、胸に抱きしめて唄を歌い始めたのです。後で母に聞いたら、それは有名な子守唄だったのですが、それを歌いながら涙滂沱として泣いているのですね。聴衆は、初めは呆然としていましたが、次第に一緒に泣き始めまして、本当に劇場が一心になって泣いているという不思議な光景が繰り広げられました。後でわかったのですが、彼女はヨーロッパから逃げてくる途中で連れてきた娘を亡くしていて、私がその娘と同じ年格好で非常によく似ていた。なので、まるで死んだ娘が戻ってきたようだったので思わず抱きしめて子守唄を歌った。それを聞いて母は、娘を見せびらかすようなことをして申し訳なかったと、大変落ち込んでいました。それ以来私は劇場へのお供を免除されることになって私にとってはありがたかったのですけど。これは上海の生活の中で、強烈に心に残っている場面のひとつです。

ノエル 上海には何年ぐらい?

桐島 3歳の時に行って、小学校2年の時に帰ってきたから何年かしら?

ノエル 上海では普通の日本人学校へ?

桐島 上海には日本人がたくさんいたから、日本人の第一小学校、第二小学校もあるわけですよ、大抵は橋向こうなのだけど、ひとつだけ私たちが住んでいるフランス租界よりにあって、そこに入学したのだけど、しょっちゅうテロがあるとかで通行止めになっちゃう。そうすると知っていた道を帰れなくて、何回か迷子になって肝を冷やしました。上海で迷子になるのはものすごく危ないことで、誘拐されたら最後ですから今思ってもぞっとしています。
 上海ではいろいろな経験をしました。ちゃんとボーイフレンドもいて、金髪の、ドイツ人だったかな?ある日彼が貯金箱を持ってやってきて、うちの父と母の前で神妙に、僕はこれだけのお金を貯めました、これでもって洋子を売っていただきたい(笑)、とプロポーズされたのです。両親もかわいくて笑っちゃったのですが、それが私の人生の初めてのプロポーズだった。甘酸っぱい思い出になっています。

ノエル 上海では普通の日本語学校に通っていても、マルチリンガルな世界に触れてはいたのですよね。

桐島 そう。でもただ覚えただけでは、ことばって保たないのよね。日本に帰ったら上海で覚えたことばは何も残っていなかった。読み書きで固定される前のお別れだったから。

ノエル そして日本に帰ってきたのね。

桐島 ええ。日本に帰ってもまだ戦争は終わってなくて、東京の家は危ないというので葉山の別荘に居たのだけど、そこも敵前上陸があるだろうと。父はそういう(用心深い)ところがあって、まぁ、子どもが三人もいたらそうならざるを得ないだろうけど。

ノエル お母様と違って!(笑)

桐島 それでどこに疎開したらいいだろうと。その時も父の発想って面白くって、地図を広げて、海から一番遠いのはどこだろうって探すのですよ。で、木曽の中の妻籠というちいさな町になったのです。島崎藤村がいたところだということですが。当時まだお金持ちだったので、豪勢な庄屋さんの家を借りて生活をはじめました。ただ庄屋さんが母だけはそのままに居させて欲しいというので、お母様だけ二階にいらした。そのかたはとても上品なおばあさまで、おゆうさまと呼ばれて藤村の初恋の人という噂でした。教養も高く、お手玉やおはじきなど日本の遊びも教えてくださって、それまで上海にいてあまり触れることのなかった日本の古典的な文化を私に伝えてくれました。とても贅沢なことだったと思います。

ノエル 上海では日本的な生活はしていなかったのかしら?

桐島 いえ、それは学校でも家でも日本人の生活をしてはいましたよ、日本料理もなんでも作れたし。だからあまり外国にいると言う感覚はなかった。フランス租界などに行けば俄然フランスだったけどね。

ノエル そんな小さい頃のことをよく覚えているのね。

桐島 この間行ったらそんなに変わっていないので凄く懐かしかった。

ノエル そこから一気に木曽って。(笑)

桐島 そう!それもいい経験でしたよ。それで忘れもしない8月15日、真っ赤に日の照る中、今日は重大な放送があるからと集められて、天皇の声を初めて聞きました。戦争をここでおしまいにするということですね。広いお屋敷の中でかくれんぼなんかして遊んでいたのですが、天皇がお泊まりになった部屋があって、そこは線香くさいようなところで、なんとなく、天皇は幽霊のようなイメージだった。ところがラジオでいきなり天皇の声がして現実的な話があって、とても不思議な感じがしたのを覚えています。で、もう木曽に居る必要がなくなったので葉山の家に帰りました。

ノエル すごい没落生活だったのよね?

桐島 そうそう。もうお金は無くなっちゃって、売り食いの生活ですよね。毎日のようにお蔵の物を出しては買いに来る人に売って。方々で破産してしまった家があるので、それがわかっている商人が買いに来るのね。二束三文で骨董も着物も食器も、みんな売ってしまいましたね。時代がそうだったのでどうしようもないのですけど。
 葉山には斜陽族の家が多くて、その中で英語やダンスの心得のある奥様方は駐留軍のパーティーに重宝されるのです。友達のお母様にそういうかたが多くいて、お家にいくと冷蔵庫に一杯駐留軍のおみやげの食品が詰まっている。私はそれがうらやましくて、「お母様も駐留軍のパーティーに行けばいいのに」と言ったら、パシっと頬をたたかれ「卑しい!」と言われました。母は卑しいことが大嫌いで意地汚いことをすると厳しく叱られたものです。今は、あの痛さがとてもなつかしいです。あんな風に本気で叱ってくれる親って、今はいなくなったのではないかと思います。
 やがてその葉山の家も売って、東京に移りました。葉山の時は清泉女学院というカトリックの学校に通って半分はカトリックに傾倒し、半分は反抗して・・・。外国人のシスターがいたので英語はかなりよくできるようになりました。東京に引っ越して普通の区立中学に入ったときは断然英語ができて先生のごひいきになり、入った途端に子ども都議会の代表に選ばれたりしました。その子ども都議会の議長だった人は日比谷高校の秀才でしたが、彼が開会を宣言してもシーンとして誰も手も挙げない。彼が困って目を白黒させているので、私が助け船を出して、何か言って、窮地を救ったのです。そうしたら、帰り際に彼が追いかけてきて、「桐島君、さっきはありがとう!」と御礼を言われ、ふたりで帰った。それはそれっきりのことでしたが、その後、40代の頃、私は熱烈な恋愛をしました。その恋人が我が家に遊びに来て古いアルバムを見て、あ、これ僕じゃないか!と指さしたのが、その少年だったのです。不思議な縁があるものだと思いましたけどね。

ノエル 高校時代はまた東京で、普通の高校に?

桐島 そう、駒場高校に行った。その前に、ある雑誌から高校の合格者座談会というのに参加を頼まれたのです。まだ試験も受ける前なのだけど、必ず合格すると思われたみたい。で、駒場高校に受かったという記事が出て、実際にも受かったので、本当はあんまり行きたくなかったのだけど、行かざるを得ないわけ。しぶしぶ行ったのだけど、行ってみたらいい友人がたくさんできて、それまでにない財産になりました。同志がたくさん居るんだなということがわかって楽しかったし、隣に東大があって、東大にも入り浸って一緒に学生運動なんかもやって。良い高校生活だったと思います。
 家の経済状態もあったから、公立大学に入れればいいけれど私立はきついだろう、と。公立は8科目も受験科目があって嫌いな理数科まで受けなくちゃいけないから、大学に行く気が無くなって、行かないというか行けないというか・・。
 永井龍男さんのお嬢さんが当時の親友で、よくはがきで近況報告していたのですが、永井先生が郵便箱から手紙などを取り出すと私のはがきが載っていてちょっと読んでみる、すると、この子はなかなか文章がうまいじゃないか、私のはがきの愛読者になってくださった。で、私が大学を諦めていることがわかって、文藝春秋社を受けてみたらどうだろうと・・・。そのことを友人から聞いて、文藝春秋なんて、入れれば素晴らしいけれど、本当に高卒の女の子なんか採ってくれるのかしらと言うと、高卒を数人採る、と。応募の期限は過ぎていたのを永井先生の口利きで受験資格を与えてもらい、また、その受験科目が英語と作文だけ。私にとっておあつらえ向きで、トップで入ることができたのです。

ノエル お母様がそこまで英語を身につけられるようになったのは高校での教育で?

桐島 それ以前に、父は十分できたし母も簡単な童話の翻訳ぐらいはできていたわね。

ノエル じゃぁ、お母様もなにげにバイリンガルなんじゃない。

桐島 えーと。それで文春に入りましたが、高卒だと最初から編集者になれるわけじゃなくて、送稿とか販売部とかつまんないところに配属されて嫌になって、もうやめようか、と思ったけど、親を心配させてもいけないと我慢して・・・。そのうちに、文春の中で文春句会というのがあって、社長さんから小使いさんまで誰でも参加できる民主的な句会なの。俳句なんてやったことがないけど入るとおいしいお弁当が出るし、賞品も出る、そこで欲のために行ってみたら、意外に面白かった。行く度に入賞しては賞品を稼いで、そうすると幹事にもなれて次回の賞品も好きな様に選べる。またそこであの子はなかなか言語感覚がある、と偉いかたの目にとまる。それで、やがて編集部に移ることになりました。
 編集部に移る前、受付の時代がありました。受付は来訪者の応対だけでなく、全国から届く質問状や批判など山のような手紙に返事をかかなくてはいけない。大変な作業なのですが、私は筆まめなので、いつでもちゃんと返事を書きました。それが非常に評判が良くて、その後私がある程度名前が出てからも、日本のあちこちから、文藝春秋に手紙を出したら懇切丁寧なお返事をいただいた、それが桐島さんという方だったと思いますがあなた様でしょうか、なんて手紙をいただいたりしました。うれしかったですね、やっぱりいい仕事をしておくべきだと思いました。
 文春のころ、日活アパートに部屋を借りてくらしていましたが、土日は湘南の父母の家に帰る。週末だけ貸そうと思って、外人記者クラブに公告を出してもらった。で、やってきたのがローランド・グールドというイギリス人の記者で、いろんな事をいっしょにできる素晴らしい友達になりました。彼のおかげで私の生活もどんどん国際化して。ちなみに息子のローランドは彼の名前をもらっているのです。
 そのうちに恋人ができ、けしからぬことに子どもまでできちゃって、20代の終わりくらいにカレンを産みました。

ノエル それは内緒でね?

桐島 もちろん!会社に知られないように。親にも知られないはずだったのだけど、ある日、私が大きなおなかで横になっていたら、母が、近くまで来たからと突然現れて、ギャッと叫んで。こっちもギャッと叫んで。(笑)当時ほんとにショックだったと思います。

ノエル ダディと付き合っていたことは知っていたんでしょ?

桐島 それは知っていたし、彼も湘南の家に遊びに来て「ママのシチューは最高だ!」なんてゴマすって。彼女に気に入られていたのだけど。でも20いくつも歳が違うし娘の婿になるとは思っていなかったのですよ。でも子どもなんて生まれてしまえばかわいいものらしくて、母はたちまちメロメロになっていたし。そして翌年ノエルを。で、カレンの時は会社を維持していたのだけど・・・。

ノエル 腎臓を悪くしたとか嘘をついて。二宮に家を借りて。(笑)

桐島 そうそう。

ノエル そしてそこで子どもを産んで。何事もなかったかのように会社にもどって。(笑)

桐島 そうそう。それはうまくいったのよ。でも二回目ともなるとなかなか・・・。そしてわたしはどうしても外国へ行きたかったので、外国で人目を忍んで産もうと考えた。

ノエル でもそのころ、日本には渡航制限とかあった。

桐島 そう、簡単ではなかったけど、お金と目的がちゃんとあれば大丈夫だった。

ノエル でもそれを会社に申し出たわけでしょ?しばらく休みを取りたいって。

桐島 いくらでももっともらしいことを言えるから。六ヶ月ほど行きたいって言ったのかな、そうしたら二週間なら休暇をやると。二週間じゃ子どもを産めないじゃない(笑)、それでかくなる上は、と泣く泣く辞表を書いたけれど予定通り出発して。旅をするなら楽しもうと、船でウラジオストックへ行き、汽車で大陸を横断して、世界一周の最後、香港から日本へ向かう船の中であなたを産んだわけ。朝産んで、夕方に到着したの。なかなか計算したってそうはいかないくらいうまく行っちゃったのね。

ノエル だって妊娠8ヶ月とかでしょう?当然1ヶ月のクルーズには乗せてくれないじゃないの。隠してむりやり乗って、途中でいろんな人にチクられて、船から降ろされそうになったりしたんでしょ。(笑)だってこんな大きなおなかで、エジプトでラクダに乗っている写真とかあるんですよ!(笑)ちなみに私が中に入っているわけですけど。で、マダムが大きなおなかでラクダに乗っていたとキャプテンにチクリが入ったとか。(笑)

桐島 まぁまぁ。結果として降ろされなかったから。味方もいたし。

ノエル それで神戸に着いて。

桐島 そう。神戸に着いて私の父や子どもの父親もドヤドヤやってきて。お祝いだ!って歓迎されたわけですよ。

ノエル で、私はおばあちゃまの家に預けられたのよね。お母様は小さいカレンだけをつれてアメリカに行って、カレンを知り合いの家に預けて、アメリカ中放浪して本を書いていた。

桐島 そう。

ノエル で、祖母の家に預けられていた私が、アメリカに会いに行ったのだって?カレンはそれを覚えているの。初めて自分の姉妹に会えるって興奮して。で私が来たら私は日本語しか話せない、カレンは英語しか話せない、で、自分の姉妹とことばが通じないことにものすごいショックを受けたのだって!私は全然覚えていないのだけど。

桐島 そんなこと、あったのかな。

ノエル あったのよ!(笑)ワーオ!

桐島  ともかくスッチャカメッチャカの放浪生活だから病気一つしたらおしまいだけど健康だけは恵まれました。葉山での生活と両親に感謝ですよ。


桐島洋子氏とノエル氏


ノエル それからしばらくは、私たちは日本で育ったわけじゃない。私はちょっとだけ、幼稚園から小学校2年生までアメリカンスクールに行っていたけど。カレンは幼稚園だけアメリカンスクールに行って、普通の日本の学校に入学した。私も途中から日本の学校に転校した。ローリーは最初っから日本の学校に行っていたかな。そして、私が小学校5年生の時にアメリカに行くことになった。

桐島 そうね。みんなハーフだし英語ができないのは格好がつかないし。そのころ「聡明な女は料理がうまい」(1976年)という本を書いてお金がはいったところだったから、大盤振る舞いで一年くらいアメリカに行くか、ということで。子どもたちを連れてアメリカに行きました。アメリカのどこに行くかは決めていなかったのです。着いたらまず二日間ディズニーランドでしっかり楽しんで、作り物の世界はもうこれでいいでしょう、これからは本当の生活をしましょう、と。どこにしようかと探しながらアメリカを歩き、たどり着いたのがイーストハンプトンという場所、お金持ちの避暑地で、それは私の趣味ではないのだけど、行ってみたらそういういやらしさが全然無くて。いいとこだったわよね、イーストハンプトンは。

ノエル うん!私にとって心のふるさとみたい。70年代後半当時のアメリカは面白いいい時代だった、今思えば。

桐島 その家の主人はハーバード出の役人だったらしいのだけど、引退していて、すごいケチな人でうるさかったわよ。電気代だとか、家具に傷をつけたとか。ガラクタしかないのに。

ノエル でもすてきな家だったじゃない。イーストハンプトンは私たちが初めての日本人で、私と姉は公立のミドルスクール、弟は小学校に入りました。私たちは英語をすっかり忘れていて・・・。

桐島 最初はパニックでしたね。学校も、英語がわからない外国人が入ってくるっていうので・・・。

ノエル でも入れてくれる。そこがすごいところだよね。

桐島 しかもタダでね。税金で運営されていたから。

ノエル 今はそうじゃないよ。カナダのパブリックスクールでも外国人を受け入れるけど、結構高い学費を取るの。ウェルカムなんだけど、それで稼いでいる。(笑)当時はね、タダだったからねぇ。しかも私たちひとりひとりに特別のティーチングアシスタントを付けてくれて。すばらしかったよね、アメリカは豊かだったからね!あの頃は。(笑)学校の最初の日に、母は車の運転はしたことがないので、学校へはスクールバスに乗るしかないんですよ。バスに乗る前に、母に、学校に着いたらこれを偉そうな人に渡しなさいって、紙切れを渡されて。で、カレンとふたり、手を握り合って、どうしよう・・・(笑)と言いながらバスに乗って、学校に着いて大人の人にその紙切れを渡したんですよ。

桐島 ひとつだけ英語を教えたのよ。“Where is the principal’s office?”って言いなさいって。

ノエル そうだっけ?その紙にそう書いてあったのね。校長先生のところに連れて行かれて、もう、先生たちパニック!(笑)ひとことも英語話せないんだから。最初はカレンと私と同じ学年に入れられて、まったく話せない状態から、6ヶ月くらいで、まぁ話せるようになったんだよね。

桐島 そんなにかかったっけ?

ノエル かかったと思うよ。(笑)全校でアジア人として韓国人がひとりいるだけだった。よくお母様もそういう環境に子どもを放り込んだな、と。

桐島 二週間後くらいに、学校から喜び勇んで電話がかかってきて、「今日ノエルちゃんが初めて“I forgot my homework”って、ちゃんとしたセンテンスの英語を話しました」って。(笑)何度も言ってごらんと教室を連れ回したって。

ノエル 全然覚えていないんだけど。(笑)

桐島 一回宿題を忘れただけなのに、何度も言わされたってぶーぶー言っていたわよ。(笑)ひとことそのようなきちんとしたことばが出ると自信がついて、だーっと進歩するのですよ。それからはもう、一瀉千里という感じで、毎日のようにことばが増えていきましたね。私はことばのことは全然心配しませんでした。私が追い抜かれるのもすぐだなと覚悟していましたし。

ノエル ローリーは2ヶ月くらいで日本語を忘れはじめたね。

桐島 忘れたって心配することないのよ。日本に戻ったらすぐ思い出したしね。

ノエル 私とカレンはなんとか日本語を維持できたのよ。本当は一年だけで帰るつもりだったのだけど・・・。

桐島 あなたたち、帰りたくなーいってストライキをして。(笑)

ノエル それで子どもたちだけ残ったのよね。一年間。私の小学校の先生の娘さんがベビーシッターみたいに一緒に生活することになって。ほかに何もチョイスがない、という環境で私たちも早く英語を覚えたのだろうけど。学校の先生は家でもできるだけ英語で、と言っていたのね。

桐島 そう、でも私は日本語も大事だから、と、家では日本語で。英語はしゃべらせなかったけどね。

ノエル で、2年後に日本に帰って横浜に住んで、アメリカンスクールに三人とも入学した。

桐島 せっかく身についた英語を、日本の学校に入ったら失うのではもったいないから。ちょっとお金はかかるけど。良かったでしょ、それで?

ノエル まぁね。(笑)私は2年間日本の小学校に行ったので、多少読むこともできて。漫画が大好きだったので、漫画って漢字にルビがふってあるから、それですごくたくさん漢字を覚えましたね。日本に帰ってきたときは、かなり日本語が怪しくなってはいましたが。姉も小学校での読み書きの基礎が残っていて、日本語を維持できた。私もエッセイを書いたりしていますが、パソコンで漢字を選ぶことはできる。カレンは6年間行っていたからね。問題ない。ローリーはどうなんだろう。

桐島 まぁ、問題なく暮らしているんじゃないの?あんまり文字は必要ない仕事だし。

ノエル カメラマンだから・・・。

桐島 まぁ、そういうわけで、ともかくバイリンガルにはなったから良かったですね。(笑)日本にいて普通のひとが子どもをバイリンガルにとしようとしても簡単ではないでしょ?

ノエル 今、カレンの子どもは4人全員アメリカンスクールに行っています。私は結婚してカナダに移住して娘を産んで育てました。娘は小学校の時に5年くらい日本に戻って、インターナショナルスクールに行っていた時期もあって、大分日本語が上手になって、読み書きも私よりうまくできるようになったのですけど、その後カナダに戻ったので、やっぱり・・・。娘が嫌がったので日本の補習校に入れなかったのですね。今は怪しい日本語を話す程度で、読み書きはほとんど覚えていないみたい。弟の子どもたちは幼稚園から日本の学校に通っているので、逆に英語は全然話せない。(笑)

井上 ちょっと口を挟んでもいいですか?

桐島・ノエル どうぞ、どうぞ!お願いします。

井上 1年間、アメリカにお子さんを置いていかれたわけですよね。ベビーシッターもアメリカ人で。日本語については何かされていたのですか?

ノエル 母はものすごい量の本を読むんです。家には本があふれていました。母が読むような本ではないですけど、私も小学校のころから週刊文春とか(笑)雑誌は結構読んでいましたし、漫画は大好きでしたから。

井上 遡って伺いたいのですが、文春に入る前、はがきでスカウトされるくらい文才がおありだったのですよね。

桐島 そうのようですね、はい。

井上 それはどのように培われたのでしょうか?

桐島 文才って、踊る才能とか歌う才能と同じように、ある程度生まれつき備わっているものではないでしょうか。それに環境が加わったのでしょうね。父が大変文化的なひとだったから、本だけはいくらでも買ってくれたし、家にも山ほどあったし。勉強しろなんて言わないひとでしたが、英語ができないととても不便だよ、学校の教科書がつまらないなら、面白い本を読めばいい、と愛読書“My life and love”を出してきた、すると母が、娘にポルノを読ませるなんてって。(笑)古めかしい英語なんで私もこれはだめだといったら、ジュール・ヴェルヌの「80日間世界一周」の英訳を持ってきて、読んでごらん、と。80日間で読めたらご褒美をあげる、と。それから毎日夕食の時に、今日はどこまでいったかねと、父のリサーチがはいるわけです。父は世界中旅行しているから、インドの話でもアラビアの話でもちゃんとわかるわけですよね。それで、70何日かで読了してしっかり賞金ももらったし。今でも私の部屋に飾ってあるマチスのリトグラフはそのときの賞品なんです。

井上 それだけ文才があると、ひとつの道としては小説家とか書斎にこもって執筆することもあり得た。

桐島 籠もり型ではなかったのね。

井上 お話を聞いてよくわかりました。ヴェトナムにも行かれましたね。世界中を回ったお父様の影響なんですかね。冒険好き・・・。

桐島 父はそれほど冒険屋ではないけど、私は昔から冒険が好きですね。危ないことを怖がらなかったし。ヴェトナム戦争は、今思えばぞっとする経験でしたけどね。目の前でどんどん人が死んでいく。目の前で若者が死んでいくのを見て、つくづく反戦的になりました。

井上 そういう冒険心はノエルさんにも遺伝的に受け継がれているのでしょうか。

ノエル どうでしょう。(笑)新しいところに行くのは大好きです。

桐島 宇宙ロケットに乗れたら乗るって言ったじゃないの。私は宇宙はごめんだわ。(笑)私は人間好きだから。人間のいないところじゃしょうがないじゃないですか。自然だけだったら飽きちゃいます。いろんな人と出会って、本当に楽しかったです。

井上 僕はたくさんお書きになって生きている方に憧れるというか・・・。ああいうエネルギーは、文筆そのものにあるのか、それとも書きたいものが先にあって、それをことばにしないではいられないような・・・?

桐島 もちろん、何もないところで何かをひねりだそうとはあまりしないですね。書いている内にまた書きたいことがどんどん出てくることはありますが、何かきっかけがないとね。
 さぁ、質問があったらどうぞ、何でも。


会場のようす


参加者A よく帰国子女会で、日本に帰ってきたら外国語を忘れちゃうということが出て。早い段階で戻ってくると忘れるのでしょうか。

桐島 それはそうだと思いますね。7歳では無理です。読み書きでもってかなり固定されるけれど、7歳ではまだ読み書きがあまりできないでしょう。読み書きはとても大事だと思います。

ノエル 7歳では難しいと思います。維持していくのに、ものすごく親の努力と援助がないと。カナダでも、日本人の友達はお子さんをカナダの普通校に入れて、日本語の補習校に通わせ家でもサポートして。そうしていても日本語を維持していくのは大変なことです。
 1年2年と海外に留学して日本に戻ってきて、それから英語を維持できるかというと、親がそれを援助しないと。子どもは基本的に周りの友達と同じでいたい、という意識が強いと思いますね。私の娘も、せっかく日本語ができたのに、カナダに戻ってしまうと、もう日本語で話すのはイヤ!友達と同じでいたい。人前で話すのも恥ずかしい。日本語が怪しくなると余計に変な日本語で話したくない。子どもには子どものプライドがあるから。それを親がだましだまし、補習校に通わせて・・・。それでやっと日本語を維持している。
 ですから逆のパターンで、日本に戻ってきて英語を維持するのも同じじゃないかな。両親とも日本人で、というと難しいと思います。
 姉の子どもたちは東京のインターナショナルスクールに幼稚園から通っているんですね。その学校では1日に1時間、日本語の教科書を使う授業があるのです。そこで中学校を卒業した子たちは、周囲も日本語を話す環境だし、かなり日本語が話せる。英語も話せるようになるし。でも学費はすごく高い。それをサポートするのは親だから。(笑)
 でも、そういう彼らがアメリカの大学に留学して、アメリカで育った子たちと対等に話せるかというと、結構めげて帰ってくる場合も多いのですね。英語がペラペラでも。だからことばだけじゃないと思うんですね。バイリンガルであっても、バイカルチュラルではないから。アメリカで育った子はちいさい時から人前でどうどうとプレゼンテーションとかして。日本よりずっと自分を主張する教育を受けながら育った子どもと対等にできるかっていうと、なかなか難しい。日本のアメリカンスクールに毎年何百万も学費を払って子どもを通わせている親御さんが増えていると聞きますが、それがどこまで意味のあることなのか。私にはちょっとわからない。

桐島 両親がちゃんと援護できていればいいけど、できないと結構辛いところがあるわよね。

ノエル ウン、家でも英語をサポートする家庭教師を付けるとか。なかなか大変ですよね・・・。まぁでも、バイリンガルだったらいい、というわけでもないから。

井上 日本では、自己主張するより相手をわかってあげるところがある。バイカルチュラルのほうが壁が高いのですかね。

桐島 ほかには?何でも聞いて下さってきっかけをつくってくださいな。

参加者B 上海のお話、大変興味深かったのですが・・。1937年に日中戦争が始まったわけですが(桐島 私はその3年後に行ったのですね)日本人勢力のある場所では、比較的平穏な日常だったのですね?アメリカの場合、真珠湾の後、みんな引き上げてきたじゃないですか。真珠湾以降は、イギリス人なんかは敵国になるわけで、いくらなんでも仲良く一緒にいられなかったのじゃないか・・。そういう時期の上海を描いた小説とか、ないでしょうか?

桐島 今すぐには思いつかないですけど・・・。あるはずですよね、上海はずいぶんといろいろ書かれているから。

参加者B イギリスの文学、例えばジョージ・オーウェルがビルマやインドでの生活について書いている。しかし、中国についてとなると「アカシアの大連」など、思い出みたいに書いているものだけですものね。

桐島 私も上海について書かれているものを読んでみたいですね。

ノエル お母様はいつも「太陽の帝国」を見ると、子ども時代の上海を思い出すって、言っていたわね。

桐島 そうね。ごらんになりましたか?面白い。長い映画だけど。(注:日中戦争当時の中華民国上海で生活していたイギリス少年の成長を描いたスピルバーグの映画。イギリスの小説家G・バラードの自伝的小説がもとになっている。151分。1987年公開。)写実的にその頃の上海が描かれています。

井上 ご著書を拝読すると、お父様お母様は非常に自由に洋子さんをお育てになった。

桐島 そう。うちはすごいリベラルな家で。父は三菱財閥の大番頭の一人息子として厳しく育てられて、自分は絵描きになりたかったのに、とんでもないと、東大から会社に押し込められて、自由が無かった。だから祖父が死んだとたんに、俺はもう自由だと、仕事はほったらかして上海で財産を使いまくって好き放題した人なんです。

井上 洋子さんのご本では、子どもとの付き合いは大人になってからのほうが面白い、と。

桐島 私あんまり子どもって好きじゃないから。(笑)子どもと話したって面白くないじゃない。子ども言葉は使えない、子どものレベルに降りていくのはどうも、ね。

井上 お子さんに対しては自由に・・・。

桐島 ある程度は見張っていないと、何するかわかりませんからね。

井上 3人の中ではノエルさんが一番大変・・・。

桐島 そんなこと書いた?

ノエル さんざんネタに使われて。(大笑)はい、すごい不良娘だった。基本的に、ほんとに放任でした。

井上 お孫さんとはどうですか?英語しか話せないお孫さんもいる?

ノエル 私の娘が一番怪しいのですけど・・・。

桐島 英語だけっていうのはいないわよね。でも関心事が違うから。話が弾むことは少ないですね。

ノエル 子どもに興味がないんですよ、私たちにも興味なかった。(笑)たぶん孫の名前、全部覚えていないですよ。

桐島 同世代の、友達の方がやはりいいですよ。でもこの歳になると友達がどんどん死んでいくから淋しいですね。オールド ブラック ジョーなんて歌が心にしみます。

参加者C 初めまして。桐島さんのご本を読み、カレンさんやローランドさんのSNSなど拝見しているのですが・・・。

桐島 カレンやローランドの何ですって?

ノエル SNS。フェイスブックやインスタグラムとか。

桐島 何?SNSって?

ノエル It’s OK!(笑)

参加者C みなさんすごく日本語がお上手で、語彙が多いと思うのですが、もともと英語と日本語って発想の仕方がちがうじゃないですか。敬語とか。バイリンガルでありながら敬語などの考え方をどうやって身につけていったのか。

桐島 あぁ、そう聞くとなんかほっとして・・・。英語のほうは私の役ではない。私は日本語についてはうるさく言いましたけど。

参加者C 謙譲語なんて考え方、難しいですよね。

ノエル カレンは日本で一番長く教育を受けたからだと思います。でもローリーも、フェイスブックとか結構書いていますよね。でもあの二人は基本、日本で社会に出て仕事して、人と係わっているうちに身についたのじゃないかと思いますね。姉の長女も大学生だったころからインターンをして会社で電話の応対とか、だんだん身についてきた。インターナショナルスクール出の子は敬語を使えない子が多いですからね。あとは・・・、私たち結構本を読んでいたかもしれませんね。私の娘は日本語が話せたときも日本語の本はあまり読まなかったので、日本的な表現は今もわからないみたい。

参加者C お好きだった本はどんなものですか?

ノエル 私はSF好きだったので。(笑)小さい頃は、毎週日曜日は家族で食事に行っていたのですが、しゃぶしゃぶを食べた後必ず有隣堂に連れて行かれるのです。

桐島 二時間ぐらい放牧して・・・(笑)

ノエル そこではいくら買っても怒られないから・・・。あの時代は「なかよし」とか「りぼん」とか。それからは小松左京とかアシモフ、ハインラインとか、古典的なSFを結構読んでいました。

参加者D 英語圏の文化と日本語圏の文化と、どちらの文化が良かったか、こういう場合はこうしたほうがいいとか、ありましたら。

桐島 どっちがいいとは一概には言えないわね。私は日本にいるほうが落ち着くから日本に住んでいますが。でも向こうの文化も好きだし。だから、いいとこ取りするのが一番いいと思いますよ。(笑)

ノエル 私は小学校5年生の時アメリカに行き、ものすごい開放感を味わいました。それまで横浜の小学校に行っていましたが、私たちはハーフで・・・その頃はそんなにいなかったから。毛唐とか言われていじめられたりして。そういう時代だったんですよ。また、その頃には母が段々知られるようになっていたので、いい意味でも悪い意味でも差別、区別があった。そういう・・・、自分ではなくて、自分にまつわる周りのいろんなbaggage、重荷のようなものが、アメリカに行ったら全て消えるわけです。アメリカは本当に個人主義的な国で、日本だったら「あなたはどちらのかた、親はどういう仕事で」と、周りから入ることがある。でも彼らは親が何をしているひとかなんて全く興味がない。兄弟のことも聞かれたことが無いし。ノエルはどういう子?何がしたい?何が好き?と、私自身にフォーカスを当ててくれたことがすごくうれしかった。私にとって初めて個人の自由を味わった感覚があったのですね。でも、姉は全然違う体験をしているんです。姉は白人しかいない町でアジア人に対する差別を微妙に感じとっていたみたい。一歳の違いでも印象や体験は全然違っていておもしろいですよ。私は日本には以心伝心みたいな美しさもあれば、それがものすごい重荷のときもある。20年近くカナダに住んで、今年戻ってきたのですが、やっぱりそれが重い。時々ハッキリ物を言ってひんしゅくを買ったり(笑)・・・。私の娘も日本に来るとちょっと窮屈さを感じるみたいです、でもみんなすごく親切だし。思っていることを汲み取ってくれる、それはすごいなぁと思いますね。

桐島 日本は楽な国だよね。

ノエル そうかなぁ・・・。

桐島 ひとによりけりか。

井上 話が戻りますが・・・。ノエルさんとカレンさんが日本語をしゃべれない状態で出会ったのですよね。その記憶はありますか?

ノエル 私は無いんですよ、カレンは覚えているんですが。

井上 どういうふうに始まったんでしょうね?そこが知りたいですねぇ。

ノエル 弟は生まれて1年間愛育病院に預けられていたんですね。私は祖母の家に、姉はアメリカの知人の家に、とバラバラの状態で。不思議な家族関係だよね。日本では私たちはみんな横浜のアメリカンスクールに行っていたんですが、英語と日本語をちゃんぽんに話す。母にはいつも怒られていたのですが。ミーがねぇ、みたいな。(笑)

桐島 私はインターナショナルスクール語と言っているんですがね。独特なのね。くるっくるっと変わっちゃうの。

ノエル It’s so 寒い today、とか。(大笑)アメリカンスクール同士すぐわかるんですよ、アメリカンスクールでしょう!って。そういう話し方すると、戦後のパンパンみたいだからやめなさい!って。(笑)なに?パンパンって?って。(笑)

井上 それはコードスイッチングと言って、この場合バイリンガル同士がスイッチし合う。

ノエル そうなんですね!それから英語環境で英語だけを話すときと、日本で日本語だけで話すときと、人格が変わる、みたいなところがありますね。違う自分になる、というか。

井上 言いやすいことが違うということですか?

ノエル もちろんそれもあるし、日本語だと、ちょっとシャイな日本人になったりする・・・。それはみんなあるみたい。

参加者E くだらない質問ですが・・・

桐島 どうぞ、どうぞ。

参加者E 昔帰国子女の結婚式に行ったときに、仲間が自虐ギャグとして、三つの困りごとがある、ひとつは漢字が読めない、二つ目は敬語が使えない、三つ目を忘れたんですが、三つ目は何だったのでしょうね?(大笑)

ノエル 空気が読めない?

参加者E 20年ぐらい前ですけど、可能性はありますね。

参加者F さきほどの、人格が変わっちゃうということ、昔ことば村でバイリンガルのシンポジウムがありましたよね。スペイン語とかいろんなバックグラウンドの人が来て、皆さんやっぱり、全然違う人間になるって。私自身も英語でしゃべるときは元気になるし、日本語だとおしとやかになる。やっぱり変わりますよね。

ノエル 私は逆に、カナダでパーティーに行っても日本人を演じてしまうとか。

参加者F ドイツ人の同居人と暮らしていたとき、日本に帰国して母と自動車に乗っていた。私たちがしゃべっているのを母が聞いて、なんであなたたち、いつもけんかしているの?って。(笑)ドイツ人はアグレッシブだから。普通に英語をしゃべっていたのですけど、けんかとしか聞こえない。

ノエル 私が最初に行ったときは、自分を卑下するような話し方をしたりしていました。謙遜しているつもりで。でも向こうの人は、なんでノエルはそんなことを言うの?って。なんであやまるの、はしょっちゅう言われる。Don’t be sorry!って。

参加者F だから必然的に元気になるというか。

ノエル そうですよね、日本にいるみたいに謙遜していたら、あぁ、そうですか、そういう人なのねって、向こうは思うだけで。謙虚なつもりで言っているとは思わないですよね。自分を実際より上に見せるのが基本!みたいな。(笑)

参加者F さっきの、ことばが通じない同志がコミュニケーションするということ。私も調査に行くときオーストラリア人の家に小学生の息子を預けていったことがあるんです。息子は英語を全然しゃべれない。友人の子どもは日本語がしゃべれない。友人があとで報告してくれたんですが、息子はピジン英語で、友人の息子は下手な日本語でしゃべっていたって。実際に英語がしゃべれるようになったのは1年後だった。たぶん赤ちゃんといっしょで、ずっと聞いている時期があって、突然しゃべり出した。

ノエル ありますよね、段階的にぱーっと伸びる時期が。

井上 時間が大分過ぎましたが、お差し支えなければ、洋子さんの今後の執筆予定など・・・。

桐島 怠け者だし、もう用はないとおもっていますので、今特にプランはないですが、一応死ぬ前に、死とは何かという本を書きたいと思っています。

井上 どうもありがとうございました。


司会 まだまだ伺いたいことがたくさんありますが、時間になりましたので、終了といたします。これから懇親会もありますので、もっとお話を、というかたはぜひご参加ください。桐島洋子さま、ノエルさま、今日はお忙しい中、興味深いお話をしてくださって、本当にありがとうございました。
(拍手)

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