地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2010・ 2月のことばのサロン
▼ ことばのサロン

 

シリーズ「よみがえる ことばたち」8
「カナダ西海岸先住民サーニッチの文化復興運動」


● 2010年2月20日(土)午後2時-4時30分
● オフィス・ヘンミ会議室
● 話題提供:渥美一弥先生(自治医科大学准教授)


講演要旨

渥美一弥先生 今日はカナダ西岸に住む先住民サーニッチの文化復興運動についてお話します。特にブリティッシュ・ コロンビア州(以下BC州)における先住民の同化教育とサーニッチの教育自治の歴史、現在自主運営されているサーニッチの学校(サーニッチ・トライバル・ スクール)の様子とBC州経済の関係を指摘し、現在サーニッチが復興している「伝統文化」を(文化人類学の流行の用語で恐縮ですが)「資源」とするための 先住民の「良いイメージ」とそのイメージを裏付ける長老たちの語る「伝統文化」について、そして、その「伝統文化」をモチーフとした作品を制作し、経済的 に自立している芸術家たちについてお話したいと思います。

1.サーニッチの居住地域・人口・言語とその生活の場の紹介

 カナダでは先住民を指してFirst Nationsと呼びます。(米国ではNative American。)First Nationsとは、BC州で言えば、18世紀末にヨーロッパ人やアメリカ人が到達する以前からこの地域に居住していた人々を祖先に持つ人々のことです。 非常にゆるやかな定義で、政府に申告して政府がそれを認めれば、First Nationとなります。サーニッチもそうしたFirst Nations のひとつです。
 文化人類学ではサーニッチの人々を(北米大陸)「北西海岸先住民」というカテゴリーに入れますが、彼らの居住地域は、BC州の西端にあるバンクーバー島 サーニッチ半島で、州都ヴィクトリアから北に約40キロのあたりです。ここに4つの指定居留地(RESERVE)があり、それぞれのおおよその人口は Tsartlip(ツァートリップ)に700人、Tsawout(ツァワウト)に600人、Pauguachin(パウガチン)に300人、 Tseycum(ツァイカム)に170人で、合計約2000人です。
 言語はセンチョッセンと言い、アサバスカ語族のコースト・セイリッシュ系ノーザン・ストレイツの一つに分類されています。コースト・セイリッシュの言葉 はより内陸の集団の言語に近いといわれていて、このことから、サーニッチは内陸からやってきた集団の一部でこの海岸地域に定住したのではないかと考えられ ています。

 サーニッチの人々の暮らし方の特徴としては、他の先住民と比較して「白人」ときわめて隣接した地域に住んでいることが挙げられます。しかし、「白人」か ら すると居留地は非常に遠いところと感じられている。つまり、精神的に遠いものは距離的にも非常に遠く感じられるらしく、(「白人」にとっては)「過去」の 世界に属している先住民の居留地に行くと言うと、まるでタイムマシンに乗って(時間的にも、空間的にも)遠くへ行くように感じるらしいのです。すぐ隣の 「白人」居住区域で日本から調査・研究に来たと言うと、「あそこは危険だ、アルコール中毒の調査に行くのか?」などと言われました。
 7メートルほどの舗装道路を挟んで、南は「白人」、北は「サーニッチ」の居住地域になっているのですが、その道路を境にはっきりと町並みの様子が断絶し て います。「白人」側は、イギリス風の生垣があって、庭にはきれいな花が咲いています。先住民居留地側に行くと、庭など無く、小さな家がごちゃごちゃと建て 込んでいます。動かなくなった車や壊れた電気製品がそのまま放置してあって、子どもたちがその上に乗って遊んでいる風景から、すぐにここはリザーブだと分 かります。
 サーニッチの人々の間には、次のような洪水神話があります。洪水のときにフサルス(創造主)に選ばれた人々が聖なる山(ラフウェルネフ)の頂上で木にカ ヌーを結びつけて生き残り、それがサーニッチの祖先になったというのです。サーニッチのトライバル・スクールの名前にもなっているその山は、居留地から見 た側の斜面には木が繁って聖なる山の雰囲気を残していますが、それと反対側の「白人」の居住地側はコンクリートで固められて高級住宅が立ち並び、マウン ト・ニュートンと呼ばれています。カナダで地図を買うと、どの地図にも、この山は、マウント・ニュートンとしか記載されていません。サーニッチにとっての 聖なる山は、その反対側が金持ちの「白人」の住宅地になっていて、これがサーニッチにとっての「日常」を象徴しているように思われます。

2.BC州の同化教育の歴史とサーニッチの教育自治獲得まで

会場の様子  先住民に対する政府の同化教育は1870年代に始まり、1970年代まで続きました。一世紀にわたって強力な同化政策が敷かれていたということです。ア メリカ政府は先住民を殲滅する政策を取っていたのに対し、カナダ政府は比較的おだやかな先住民政策を取っていましたが、唯一アメリカに倣ったのがこの同化 教育でした。
 1887年に当時のインディアン局長官が教育委員会に宛てた手紙があります。そこには次のように、同化教育の理念とも思われるものが書かれているのでご 紹 介します。

 「持っていたもの(土地・文化など)を全て奪われたあわれなインディアンに、それを奪った『白人』が埋め合わせとして、『白人』と同じ成功の機会を与え る には、のちの人生の成功を約束するような教育をインディアンの子どもに施していくことである」。

 これが同化教育の底に流れている理念、つまり、「白人」と同じ「成功をさせてあげよう」ということが「善意」なのだという理念です。しかしここで我々人 類学者として発したい問いは、「文明人」の持っている価値観が絶対なのか、というものです。ここで言う我々「白人」は幸せで、このシステムはうまく作動し ているかもしれない。しかしそれが先住民の人々にとってどうなのか、ということは全く考えない――これを文化人類学ではエスノセントリズム(自文化中心主 義)と言います。サーニッチに対する同化教育は、たとえそれが善意からであったとしても、強者のエスノセントリズムが弱者を不幸に陥れるという例だと考え られます。

 1870年代、BC州政府は、各先住民の居留地に、宣教師を送り込みます。宣教師たちは英語の使用を強制し、キリスト教への改宗を強要し、これらを根幹 とした教育システムを作り上げます。フレンチカナディアンはカソリック、英国系カナディアンも、(ご存知のように)英国教会はプロテスタントといってもカ ソリックを王の離婚問題で勝手に変えたものですから、非常にカソリック色の強い宣教師を各居留地に派遣し、子どもたちを通学させて教育し始めたわけです。
 1920年にインディアン法(インディアン・アクト)が修正され、「白人」化教育(同化教育)が含まれるようになりました。1930年代になると、宣教 師 に代わってインディアン局が教育に携わる、つまり、政府が先住民の教育を直接コントロールするようになったのです。それに伴い、宗教色は薄くなっていきま す。当時のインディアン局の問題は、ヨーロッパ人の持ち込んだ疾病による先住民の人口の激減でした。その対応として、インディアン局は、各居留地に一人ず つ看護師を置くことにしました。その看護師の夫が自動的に学校の教師になりました。看護師の夫で「白人」ならばその資格は問われず、全く教育法など知らな くても教師になれたのです。
 1940年代になると、先住民の生活の全権をインディアン局が握るようになります。そうするとインディアン学校を作ったほうがよい、ということになっ て、そこに資格を持った教師を雇おうということになりました。そして、より効果的に同化教育を進めるために寮生活を強いたのです。カナダでは1年生から9 年生の学年構成ですが、1年生から8年生までは寮生活をさせ、9年生になると、「白人」の家庭や「白人」経営の工場に雇われて、労働力とする、日本で言え ば中学3年生くらいの子どもを働かせるわけです。
 1947年にダイヤモンド・ジェニスという文化人類学者(だと言われる人ですが、古い学説の「文化進化論」というヨーロッパ文化を頂点とする理論を支持 していた人のようです)が、教育委員会での基調講演「25年以内におけるインディアン問題の解決策」で、「居留地を解消し、同化政策を基盤としたシステム を設立すべきだ」と唱えます。このように政治権力を背景にした同化教育は60年代に入っても強化され続けていきます。
 1960年代、アメリカで公民権運動が起こります。これに影響されて、カナダでも先住民が選挙権を得ます。1960年代にやっと選挙権が与えられたとい う事実はあまり知られていません。この頃から次第に先住民の政治に対する意識が変化してきます。しかし相変わらずインディアン学校は存続していて、60年 代でも、そこで民族のことばを話すと口に石鹸を入れて洗われた、寮での食べ物が本当に粗末だった、先生たちの部屋からローストビーフのいいにおいが漂って くるのだけれど、自分たちは豆しか食べられなかった、といったことが聞かれます。
 もともと北西海岸先住民の社会は階層社会です。映画等でよく知られているスー族(ダコタ族)などの平原インディアンの平等な社会とは違って、北西海岸先 住民は首長(チーフ)、貴族、平民、奴隷という階層がありました。そういう身分の意識は、インディアン学校に行ったことで薄れていきます。それでは、どう いう子どもがリーダーになったのか、というと、まずケンカの強い子ども、そして無言で「白人」の教師に抵抗する子ども、この2つのタイプが子どもたちの尊 敬を得たと聞きます。ほとんどの子どもは学校を職業訓練所だとみなし、「教育機関」という「白人の教育理念」とは程遠い意識で、非常に辛い所だと思ってい ました。民族運動のリーダー、ジョージ・マヌエルはこう語っています。「三つのことが私に学校時代を甦らせる。空腹と英語の強制使用と祖父のことで野蛮人 と呼ばれたことだ」。この状況は60年代に入っても続いていました。
 1970年代に入ると、先住民とインディアン局との間で先住民の待遇についての団体協議が行われるようになりました。1870年から一世紀にわたるイン ディアン学校は多くの中途退学者を出していて教育システムとしては全く成功していなかったのです。先住民の生活にそぐわない教育を「白人」が管理して押し 付けたことが原因なのは明らかです。それに対して法的に訴える先住民が現れてきました。BC州の北部・ニスカの人々が1970年代の教育自治運動のリー ダーになります。なぜかというと、このニスカの人々はBC州を遠く離れたアルバータ州で寮制の同化教育を強いられ、集団としてのアイデンティティーに危機 感を覚えていたからです。親元で育つということが「伝統文化」を伝える必須条件で、したがって、自宅定着が必要なのだと法廷に訴えました。その結果 1976年に、ニスカの人々がBC州で初めて教育の自治権を獲得し、他の地域の先住民もそのあとを追います。その後、先住民の教育自治に向けての政府との 話し合いは法廷闘争を含めていくようになります。
 その結果、1980年代になると、この自治への運動が加速し、徐々にインディアン学校は消滅していきます。しかし、逆に言えば、1980年代まで、同化 教育の学校が実在していたという事実、これはほとんど知られていません。サーニッチでは1989年に独自の学校、トライバル・スクールを設立します。サー ニッチの属する北西海岸先住民社会では、昔から、木材等の材料さえ用意できれば親族が集まって自分たちの家を建てるという慣習がありました。そこでサー ニッチは自らの学校の校舎も自らの手で建設したのです。そして現在にいたる教育自治運動が続き、2008年2月には生徒数約225名を数えています。

 ちょっと時代は戻りますが、1969年にBC州の各部族の首長が集まって、UBCIC(BC UNION OF INDIAN CHIEFS)「BCユニオン・オブ・インディアン・チーフス」が作られます。これが先ほど言った政府との団体交渉をするようになるのですが、1972年 にその団体の第3回年次総会に集まった人たちの会議の記録が残されています。その中の一文が、先住民が教育自治を獲得していくための理念になったと思われ ますので、ご紹介します。

 「21世紀に生き延びるには、インディアンも『白人』の行動様式を身につけなくてはならない。ただ過去を嘆いているだけでは駄目だ。『白人』にも多くの 長 所がある。彼らの作り出した産業技術は我々も利用していかなくてはならない。我々はインディアン文化と『白人』文化の調和点を見出す努力をしなくてはなら ない。現代の世界に、立派なインディアンとして生きていくためには、インディアンのことばと『白人』のことば、インディアンの行動様式と『白人』の行動様 式の双方を身につける必要がある。今まではそうした努力をする必要がなかった。しかしこれからは、こうした努力なしにはインディアンは生き延びられない。 今までのインディアンの歴史は、我々にそう告げている」。

3.サーニッチ・トライバル・スクールの状況

 サーニッチはsurvive という言葉をよく使います。wisdom for survival。これは「インディアンとして生き残るための智恵」だと私は理解しています。この考えに基づいて造られたトライバル・スクールを、私は 1991年から調査 していますが、現在に至るまでを三つの時期に分けて考えたいと思います。

【1】1986年~1996年 始動期 
1. 朝食を全員、学校のホールで食べるシステム。
 当時の女性の40%程度がアルコール依存症で、朝、子どもに朝食を作ってやれないという状況があったのです。子どもたちが朝食を摂らないということが学 習 の障害につながりかねない。そこで、朝食を学校で摂らせることを、ロレッタ・ホール(先住民で初めて教育学修士号を取った女性)が校長として提案、実施し ました。これが「白人」の学校や、インディアン学校と大きく違う点のひとつです。
2. センチョッセンの授業が始まる。
 カナダは2言語2文化を認めている国で、通常は英語とフランス語です。しかしこの2言語は法的に決められているわけではなく、民族語と英語あるいはフラ ン ス語でも法律的には問題がないはずなのです。そこで、サーニッチでは民族のことばセンチョッセンと英語を教育言語としました。
3. 伝統文化の教材を使う。
 美術や音楽の教材に伝統文化の教材を使います。伝統的な太鼓をたたいて大地に祈りをささげる歌を音楽の時間に学ぶ、美術の時間には伝統的彫刻やインディ ア ンのデザインを学ぶ、など。

【2】1997年~1999年 停滞期
1. 朝食の廃止
 子どもたちの生活状況が改善されて、朝食を学校で摂る必要がなくなったというより、ロレッタ・ホール校長が、「白人」一般教員と先住民の長老である補助 教 員の給料格差をめぐって辞任し、同時に教育委員会も混乱していて、朝食への関心が薄れたことが原因ではないかと思われます。
2. センチョッセン授業の縮小
3. 教材開発の停止
 朝食の廃止と同時期にセンチョッセンの授業も縮小され、教材開発も停止してしまいます。その原因は、教材開発の資金が出なくなったことです。BC州の景 気 が悪かったということです。

【3】2000年~ 第2活動期
1. センチョッセンのホームページ開設
 景気が回復した2004年に、センチョッセンのホームページが出来ました。センチョッセンがネットで閲覧 できるようになり、長老たちの話などがどんどん掲載され、センチョッセンが記録保存されるようになりました。 
2. 新しいカリキュラム
 学校のカリキュラムも改正され、以前は週に3回程度だったセンチョッセンの授業が30分を4回、35分を1回と、確実に毎日受けられるようになりまし た。
3. 高校の新設
 2008年には、初めての高校が作られました。これまではサーニッチの中学校を出ると、近隣の先住民の高校に入り、3年間通う、そしてもし大学へ行くと す ると、また「白人」の学校に3年間行かなくてはいけない決まりでした。ですから先住民の子どもは22歳くらいになって初めて大学に行ける、ということが習 慣化されていたのです。教育に携わっている私の友人たちは、自分たちでレベルの高い高校が作れれば、卒業生は直接大学に行けると長年望んでいましたが、そ の希望が2008年に実現したわけです。
4. 伝統文化の授業の拡大
 伝統文化の教材も充実してきます。伝統彫刻の芸術家が自立して活動するようになったため、そういうプロの彫刻家などの指導を受けられるようになりまし た。

 以上を概観すると、トライバル・スクールの状況はBC州の経済と緊密にリンクしていることが分かります。不景気の時には1学年30名のトライバル・ス クールの生徒のうち、15名しかセンチョッセンの授業を取らなかったこともありました。2010年現在、カナダの経済はアメリカに比べて好調です。その裏 づけがあって先住民の文化復興活動も活発に行われています。このことから先住民の文化復興運動も経済と連動しているということが言えそうです。

 1940年代まで同化教育の学校で「白人」の教師から落ちこぼれの烙印を押された子どもたちは、宿舎を脱走し、居留地に戻って、生きるために伝統的な漁 法やシカ猟(密漁・密猟ということですが)をして暮らします。この世代は、現在トライバル・スクールに通っている子どもたちの曽祖父・曾祖母の年代にあた り、幸運にもセンチョッセンを母語として覚えています。現在50~60歳代の第二世代は、自らの生活の中でセンチョッセンを学んだ経験はありません。現在 の子どもたちは、学校で教科としてセンチョッセンを学ぶので、曽祖父母の話すセンチョッセンを自分の親に通訳する学業優秀な子どももいます。つまり、「白 人」の学校から落ちこぼれたものが残してきたものを、今は優秀な子どもが学んでいるのです。一方、現在、学校から落ちこぼれる子どもは、「白人」のTVを 見たりして過ごし、センチョッセンには関心を持ちません。中学くらいから飲酒やドラッグを始める子どもも少なからずいます。学校掲示のポスターに 「Smoke Salmon, not Drug」というのがありましたが、調査を始めて、時代の変化と、センチョッセンを学ぶ子どもの変化に気付かされました。
 生徒の親の世代は40代くらいですが、ほとんどセンチョッセンを話すことはできません。そこで、1980年代には、長老たちが先生になって、大人にセン チョッセンを教える講座が出来ていました。不景気だった99年にはこの大人のためのセンチョッセン講座も中断され、7、8人の若者が長老を招いて、同好会 的に講座を開いてはいましたが、組織だったものはしばらくありませんでした。しかし、2001年に調査したときには、またBC州の景気がよくなってきたの につれて、少しずつ復活してきていました。私の友人にもこの講座でセンチョッセンを学び、今では長老たちと流暢に話をしたり、食前の祈りをセンチョッセン でサーニッチの創造神フサルスに捧げたりする人もいます。その友人の話を紹介します。

 「ある晩、私の妻の父の家での夕食に招かれたとき、妻の父が『白人』であるために、その席には数名の『白人』も同席していた。私は義父から食事の前の祈 りを依頼された。私はいつものようにセンチョッセンで祈りをささげた。それがその場に居た『白人』たちに感銘を与えたようだった。祈りの内容は理解できな かったが感銘を受けたと言ってきた。ところが、私の祈りを聞いていたセンチョッセンの分からないサーニッチの大人の中には、私を見せびらかしていると非難 した者がいた」

 これが、今のサーニッチの大人たちの複雑な状況を象徴するエピソードの一つです。「白人」による同化教育では、インディアンの文化は野蛮だとされて遠ざ けられました。しかし今ではセンチョッセンを話せるサーニッチは「白人」、とりわけその中の、異文化に関心の高い教養人や上流階層から尊敬を受けることが あります。一方で、同化教育からも、トライバル・スクールからも落ちこぼれて、センチョッセンの話せないサーニッチは心に葛藤を抱いている。それを感じま した。言語を通して、大人たちの中にこういう状況があることは否定できない事実です。

 

写真左上:センチョッセンの授業風景 / 右上:センチョッセンの大人のクラス /
下:センチョッセンで春を表わす壁紙

4.「資源」としての先住民のイメージ

 それでは、経済と先住民文化とがどういう形で結びついていくのか。先ほど触れた、先住民のイメージの変化―「野蛮な先住民」から「スピリチュアルな先住 民」という変化があります。そうすると、「スピリチュアルな先住民」という「好ましいイメージ」が(人類学の用語でいう)「資源」として考えられるのでは ないか。1960年代、アメリカの公民権運動に影響されて、カナダの先住民たちも権利回復に動き出したとお話しましたが、そのころのカナダのロイヤル博物 館の展示の仕方に、「資源」としての考えの鍵があるのではないかと思います。
 ロイヤル博物館の先住民のフロアは、照明が暗く、一つ一つの展示物を浮かび上がらせるような展示の仕方がなされ、非常に精神的な雰囲気で、説明のテープ もゆっくりで、いかにも先住民は自然とともに生きてきた人々、つまりスピリチュアルな人々というイメージをかきたてます。一方、「白人」入植者のフロアは 明るくて活気があり、色々な産業をカナダにもたらしたというイメージです。つまり、「白人」が来る前は、このBC州には豊かな自然があり、深い精神性を 持った人々が住んでいた、そこに、「白人」が産業を持ってきて発展した。先住民も「白人」も共有できる過去、深い精神性と豊かな物質社会が、共にある過去 として提示されているのです。
 この「好ましいイメージ」を、先住民として使わない手はない。スピリチュアルな人々として、伝統文化に感動を覚える人にアピールするわけです。その表現 の 一つとして先住民の様々な団体のパンフレットにスピリットということばが使われていることが挙げられます。(先住民の起業を助ける団体の「Spirit of aboriginal enterprise」など)メディアでも先住民をエコロジーの代表のように扱っています。この「好ましいイメージ」の拡大を支えたものに、1970年代 のBC州のトーテム・ポールブームがあります。このころ、トーテム・ポールを先住民の芸術家に注文して、色々な建物の前に建てることがブームになりまし た。バンクーバーのスタンレーパークにもトーテム・ポールがたくさん建っている一角があります。これは1970年代のエリザベス女王のカナダ訪問に歓迎の 意を表すために、カナダ独自のものを表現しようとしたところ、先住民の文化(トーテム・ポールやカヌー競技)しかなかったという事情があります。
 このトーテム・ポールブームから二人の人物が現れました。ひとりはBC大学の人類学博物館に多くの作品を出している彫刻家ビル・リード(彼の母親はハイ ダ族出身です)、もうひとりは(クワクワカワクゥ族出身の)ヘンリー・ハントです。彼の父親は文化人類学者フランツ・ボアーズの優秀なインフォーマントで した。この二人が先住民の彫刻家として経済的に成功を収めます。この二人に続けと後に沢山の彫刻家が生まれていきました。1970年代以降、経済的に自立 した先住民の彫刻家の数は、4倍5倍と増えていきます。今は、ほとんどの都市で、彫刻家の作品が「みやげ物」としてではなく美術品として売られています。
 このことが先住民社会にフィードバックし、旅行者などからトーテム・ポールの意味などを尋ねられて答えられないのはまずい、ということで、長老に聞きに 行 く。この循環が70年代以降の彼らの「伝統文化」に意識変革をもたらしたと言えます。このように先住民の「好ましいイメージ」が彼らの「資源」になってい るわけです。

5.「資源」としての長老たちの民族誌的「情報」(伝統文化)

 長老たちというのは、基本的に、文化を残そうというよりも生活の糧として伝統文化を学んだ人たちですが、その中から長老ペナーチや長老ヤクルテなどの何 人かの優れた人が出てきました。
 ペナーチは1972年、カトリック神父が校長をしている「白人」学校の用務員をしていました。彼は用務員室に遊びに来る子どもたちにサーニッチの昔話を してやりました。センチョッセンを教える教材が欲しいと思ったペナーチは、用務員室にあったペーパータオルに昔話を書いて、子どもたちに渡しました。最初 はIPA(国際音声記号)を使って書いていたのですが、子どもたちにとってIPAは難しかった。そこで、彼は少ない給料から初めて中古のタイプライターを 買って、そのアルファベットをもとに記号を加えてセンチョッセンの発音を表す分かりやすい文字の体系を作り出しました。
 1981年に先住民の独自の学校、トライバル・スクールを作ろうという機運が出てきたときには、ペナーチが書いたペーパータオルがかなりの量になってい て、文字としての体系ができており、神話や民話などもその文字体系で書けるまでになっていました。それをもとに、1996年(ペナーチ没後3年目)、ロ レッタ・ホールが校長の時代に、ペナーチの残してくれたセンチョッセンの文字をもとに製本されたセンチョッセンの教科書が出来上がるのです。このペナーチ の残した文字体系(音声表記法)は貴重な文化的「資源」となったわけです。
 ペナーチの甥のヤクルテも「白人」の学校から拒否された一人でしたが、彼は非常に声がよく、また、様々な神話を知っていたすばらしい語り手でした。彼の 語る神話は後にペナーチの表記法を用いて印刷され、センチョッセンの「ストーリー集」として教材になりました。(サーニッチの人々は、私が神話 “mythology”という言葉を使うと、それは真実の物語“true story”だと訂正するように主張します)。
 2000年代に入ると、トライバル・スクールに英語教員として赴任してきたオーストラリア人のピーターという人がコンピューターの達人だったので、セン チョッセンの教師と協働してセンチョッセンのホームページを立ち上げます。ヤクルテの神話も、現在少しずつ音声化され保存されつつあります。このように、 ペナーチとヤクルテの残したもの、即ち、言語と神話は、長老たちが子どもたちに手渡そうとした非常に豊かな「資源」として捉えることができると思います。

 

写真左:ペナーチの文字を使ってセンチョッセンを教えるJ氏 / 右:ペナーチの考案したセンチョッセン文字を使ってセンチョッセンの四季を教えている

6.経済的に自立する芸術家たち

 伝統文化を担う芸術家のひとりとして、チャールズ・エリオットを紹介します。彼は1943年ツァートリップの居留地で生まれ、6歳からガラスの破片をみ つけては木を削っていたといいます。9歳から本格的に彫刻を始め、あわせて絵も描き始めます。学校での結核予防のポスターコンテストに優勝した喜びを味 わって以来、コンテストで毎年優勝、14歳のときにカヌーの櫂を彫り始めます。19歳で卒業後は、材木を運ぶ労働者として昼間は肉体労働をし、夜は彫刻を するという生活を2年間続け、21歳のときにスピリットダンスという神聖なダンスの仮面を彫って、初めて大金を得ます。29歳まで昼間は労働者、夜は注文 を受けた彫刻をするという暮らしを続けたのち、30歳で彫刻家として自立します。このようにして独学で彫刻家となったエリオットの代表作は、1976年に ヴィクトリア大学の依頼で制作され、設置されたトーテム・ポールです。上に二人の人物がいます。これは夫婦です。その下にフサルス、創造主がいます。その 下に夫と妻がいて、石になってしまっている。これはヤクルテの残した神話(サーニッチでは実話とされる)に基づいています。以下がその神話“true story”の内容です。

 「昔、男がいた。男は(スピリットダンスを踊る資格のある)ロングハウスの一員だった。冬の間中、彼は妻から離れた所でスピリットダンスを踊っていた。 冬の祈りの季節が終わるころ、フサルスは『お前のスピリットダンスはとても良かった。良い祈りの季節だった。そこで、お前に褒美をやろう。今からお前は人 間の体の中をなんでも見る力を得る。どんな病気でも見通してしまう力だ。だが、その力のあることを誰にも言ってはならないぞ』男は喜んで感謝し、家に帰っ た。久しぶりに妻に会って、夫婦は喜び合い、妻は夫に祈りの季節について色々尋ねた。男は色々な出来事を話してやった。そしてフサルスからもらった力につ いても話してしまった。それを話した瞬間、ツワッセンの方向から大きな声が聞こえた。フサルスの策側を破ったからだ。男は妻とカヌーに乗って逃げようとし た。フサルスは夫婦に向かって石を投げた。石にあたった夫婦は体が石になってしまった」。

 この神話で、夫婦が石に変えられてしまった場所が、まさしくヴィクトリア大学のキャンパスなのです。そこに建てられたこの巨大なトーテム・ポールはヴィ クトリア大学の学長はじめ「白人」から非常に喜ばれました。一方、エリオットは「自分たちは『白人』たちが来るずっと前からここに住んでいて、ここは自分 たちの土地なのだということをこの大学のここに残しておきたかったのだ」と、このテーマを選んだ真意を語っています。つまり、このトーテム・ポールは、先 住民側から見ても、「白人」側から見ても意味がある。「白人」の先生方も、先住民の土地だということに敬意を表してこれを建立したのです。エリオット自身 はセンチョッセンを母語として話しませんが、ヤクルテの神話から着想を得てこの作品を造りました。
通常、文化というと必ず人から人へ、と考えがちです。現在ではエリオットがサーニッチ彫刻の指導者になって、自らの弟子たちを指導しています。しかし、エ リオット自身には師匠がいたわけではなく、博物館に残っている先祖の彫刻を独力で学んでサーニッチの伝統を受け継いだのです。ここには断絶があるわけで す。後に、エリオットは自分でデザインしたトーテム・ポールを弟子に彫らせるようになります。今サーニッチの学校の入口を飾るサンダーバード(智恵の神) や、ヴィクトリア市警察の正面のトーテム・ポール、最近はスーパーマーケットの入口のトーテム・ポールなどもエリオット指導の下に作られています。1本数 百万円しますが、注文主にはそれに見合った敬意をもたれるメリットがあるのです。単なる宣伝ではなく、先住民文化に敬意を払う人というのが「白人」社会で も教養人として捉えられる側面があるのです。
 もう一人ご紹介するサーニッチの芸術家は、クリス・ポールです。クリス・ポールは1969年に、チャールズ・エリオットと同じツァートリップ居留地に生 まれました。彼は1995年にバンクーバー北部に住むニスカのロイ・ヘンリー・ヴィッカーという非常に有名な彫刻家に師事します。つまり、サーニッチの伝 統とは違うニスカの伝統の継承者に弟子入りしたわけです。バンクーバー国際空港の建物でまず目に留まる彫刻がありますが、これはロイ・ヘンリー・ヴィッ カーがデザインし、弟子たちが彫刻したもので、クリス・ポールが初めて制作に関わった作品です。クリス・ポールの作品は洗練されたデザインの非常に現代的 なもので、「白人」のコレクターの間で大変人気があり、公的行事のポスターに使われるようになります。(鮭をモチーフにしたVictoria Conference Centerの例など)しかし近年、彼は伝統的なモチーフ(コースト・セイリッシュの伝統的「紡ぎ車」のモチーフなど)に戻ってきました。また、リアム・ ベア(熊)をモチーフとしたポールの最近の作品は、アメリカABCテレビの人気番組のセットにも使われています。
 以上述べた二人の芸術家の成功の原因はなにか。それは、「白人」の学校から落ちこぼれた長老たちが残してくれたものにあるのです。そして、チャールズ・ エリオットとクリス・ポールに特徴的なのは、成功をおさめて豊かになっても、(他の先住民集団の成功者とは違って)生まれた居留地にとどまり、長老たちか ら伝えられた文化を学校にフィードバックすることで子どもたちのサポートをしていることです。この点は、私がサーニッチの調査に通っている中で学んだこと です。

 
 

写真左上:ヴィクトリア大学にあるトーテム・ポール / 右上:トライバル・スクールの前にあるトーテム・ポール / 左下:スーパーマーケットの入り口にあるトーテム・ポール / 右下:リアム・ベア

7.まとめ

 さて、これまで述べてきたことをまとめると以下の5点が指摘できると思います。
 第一に言えることは、現象としてのサーニッチの学校発の「文化復興運動」はBC州の経済の強い影響を受けているということです。第二に、「白人」が先住 民に対する(「スピリチュアル」など)好意的イメージを持つ場合、そのイメージ自体が「経済的資源」となり得るということです。第三に、サーニッチが経済 的に「白人」社会と関係を持つ中で、長老たちが守ってきた「伝統文化」は、より若い世代にとって新たな「文化創造」の源泉であるということです。そしてそ れは、これからサーニッチがカナダ社会の中で生きていくための「経済的資源」ともなり得ます。第四に、「伝統文化」としての言語や美術、音楽の保存と伝承 を行う場として学校が存在しているという事実です。その学校は必ず経済に影響を受けると同時に、経済的に自立した芸術家が学校をサポートするという循環が 生まれてきています。第五に、この文化復興運動の維持、進展は特定の個人の創造力および、その影響力に大いに依存している点にあるということです。集団と して心を合わせて運動することはもちろん必要ですが、傑出した個人が運動をリードすることも必要だと考えます。

8.問題点とその対応

 最後に問題点とサーニッチによるその対応をお話しておきます。
 第一に問題となるのは、現在、言語復興という点でセンチョッセンの授業は非常な盛り上がりも見せていますが、母語話者はこの10年の間に半分以下の8名 になったことです。この数字は年々減少していくわけです。この現実への対応として、コンピューター上で、センチョッセンの保存作業が進んでいます。
 第二に、サーニッチの伝統文化復興運動が「白人」社会の経済の盛衰に影響されるという面が指摘できます。その経済的な「依存性」を断ち切るには、サー ニッチの人々自身が経済的に自立することが求められています。その点については、最後にご紹介したチャールズ・エリオットやクリス・ポールのように、サー ニッチで経済的に自立した芸術家が、教育面でも経済面でも、学校をサポートすることがひとつの解決策になり得ると考えられます。

 そのように経済的独立を勝ち得た人々の基盤となったのが、かつて「白人」同化教育から「落ちこぼれた生徒」だった長老たちが伝えてきた「伝統文化」だと いう事実は、我々に様々な視点から考える材料を提供してくれていると思います。

以上

(文責:事務局)