地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2010・5月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「在日中国人の生活とことば」


● 2010年5月15日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス第1校舎108教室
● 話題提供:周飛帆先生(千葉大学言語教育センター・教育社会学)


 1980年大量に来日したニューカマーとしての在日中国人、そのイメージとして掴んでいただくために私の個人史をご紹介します。そしてそれ以前から日本にいた華僑・華人、いわゆるオールドカマー、その双方の特徴 についてお話しします。ことばの問題についてはどの程度お話しできるかわかりませんが、話題を提供するということでお話しします。

はじめに-私の個人史

周飛帆先生 日本語を勉強するようになったのには父親の影響がありました。父は1935年生まれ、大学で日本語を学びました。戦後間もない1950年代当時、敵国だった日本のことばが学べるところは非常に珍しかったのですが。父は小さいとき、国民党軍隊のひとと結婚した日本人が隣人にいたことから日本に興味を持つようになり、北京大学の東洋文学言語学部に入って日本語を学びました。大学卒業のころに共産党の政治闘争が始まり、本来は学生とは関係がなかったのですが、大学内の右派の弾圧があり、それに巻き込まれて卒業後下放となって、農村部で思想改造教育を4年間受けました。その後、故郷の湖南省に帰り、図書館員として働きました。私が日本語を初めて覚えたのが5、6歳のころ、丁度文化大革命の最中ですが、父は遊びながら日本語の歌などを教えていたことがありました。1950年代から70年代の中国では、日本語はあまり公にはできないという時代でした。ただ、湖南省は北京から遠く離れていたこともあり、70年代に入ると日本語に対してもそれまでよりは厳しくなくなりました。小学校でそれぞれのクラスが歌やダンスをやる演芸会がありまして、担任の先生から日本語の歌を歌ったらといわれて、当時の革命歌を父が日本語にして、歌ったことがあります。そのように少しずつ、外国の文化に対する取り締まりがゆるやかになってきました。1978年文化大革命が終わり、当時の党の副主席・鄧小平が訪日し、新幹線に乗ったりしているその映像が中国にも流されました。それまでアメリカや日本は帝国主義で非人道的であるとか、生活が苦しいと宣伝されていたので当時の中国人はそれらの映像に衝撃を受けます。それから日本の文化、映画やTVドラマなどがたくさん紹介されるようになりました。山口百恵の「赤い疑惑」シリーズが若者の間で人気になり、日本の文化に関心を持つ人がかなり増えました。当時の改革・解放路線で外国の文化が入るようになるとともに、全国の大きな大学での日本語学科も復活しました。

 私も父親の影響もあったので、1986年に上海にある復旦大学の日本語学科に入学し、町で日本人に会うと観光案内を申し出たりしながら日本語を勉強しました。1985年に、父が筑波大学の客員教授に招かれて、未成年のこどもは同伴してよい、ということで、私も初めて来日しました。筑波大学で半年聴講生として在学し、中国へ帰って大学を卒業してから再び日本へ来た、というわけです。

80年代の留学生について

 1947年から2007年までの日本在留中国人の人数の推移をみると、1980年代半ばまでは5、6万人でほとんど増減がありません。おもに戦前から居る華僑(特別永住者)の方々です。1980年代とくに1987年あたりからぐっと増えていますが、彼らは主に私費、公費、国費をふくめての留学生たちです。2007年のデータでは60万人を超えていますが、この中には帰化した人(帰化申請するひとは毎年5000人程度なので、47年から07年までに10万人程度)やオーバーステイの人は含まれませんので、実際は60万より1割以上多い80万人くらいになるのではないかと言われています。

 80年代の留学生はかなり複雑な手続き・厳しい審査がありますので、国を出るのはかんたんではありませんでしたが、私費、国費(日本の奨学金)、公費(中国の奨学金)ともに増えています。彼らは日本の大学で学位を取って、国へ帰ることを目標にしていました。公費の場合はそれが条件になっていました。当時バブル期で物価水準の違う日本で暮らすため、私費の場合は特に、生活費を稼ぐためにアルバイトをするパターンが多く、かなり均質的ないわゆる苦学生的なイメージが当時の留学生です。ほとんどのひとは学位をとって、中国へ帰りました。

90年代以降の留学生

 80年代から90年代に状況が変わってきました。90年代、入管法の一部改訂により在留資格の変更ができるようになったこともあって、留学生の中に日本の企業に就職するひとが現れてきました。最近の留学生は中国語でいう「80後」(バーリンホウ)即ち80年代に生まれた人たちで、一人っ子政策の時代の「ちいさな皇帝」と呼ばれる世代です。彼らは80年代の留学生と好対照をなしています。私たちのグループの調査では、最近の経済発展によって、特に都市部では収入が高くなっていて、80年代留学生の一日のアルバイト代が10,000円だとすると、それは当時の中国の一か月の給料にもあたりましたが、最近はそのような差が無くなり、バーリンホウの人たちは家からの仕送りで生活していることが多い。日本に対する印象も変わってきて、日本のサブカルチュア(アニメ・マンガなど)から日本のイメージを作っている、そういう人たちも来日しています。彼らは情報化社会の中でコンピューターを操る技術も持っていて、就職先も中国か日本かという二者択一的な考え方はなりなりました。チャンスがあれば、日本で見聞を広めた上で、ヨーロッパでもアメリカでもどこにでも行く、という考え方です。情報収集力が彼らの可能性を実現させるようになっています。

会場の様子 さて、私の専門の分野で最近調査したことに触れたいと思います。まず、①なぜ移民・移住をするのか、そのメカニズムと傾向性を見る。②各国の住民の統合政策にはどのようなものがあり、どんな問題点があるか。③外国人内部の組織やネットワーキング、またその変容の形、です。もともと私は教育学が専門で、家族、家族関係と子供の教育に関心を持っていて、これはあとで触れますが、さまざまな要因によって外国人内部の構造が変わってきている、外側の要因も見ていく必要があると考え、最近の研究は広がってきています。

華僑・華人の社会の特徴-三縁・三宝・三把刀

 華僑ということばは日本人になじみ深いと思いますが、僑というのは一時滞在を意味します。中国人で一時滞在の人です。それに対して華人は中国籍から在住国に国籍を移した人です。2世、3世になるにつれて、現地化することは日本のみならず東南アジアに見られる現象です。

 1980年代に日本にやってきた人たちは、新華僑、ニューカマー、ニューカマーズ、あるいは新来中国人などと呼ばれています。華僑と呼ばれる人たちとこのニューカマーとの相互交流は、今のところあまり進んでいません。華僑・華人は長く日本に居て華僑社会を作っていて、新しく来た人々と意識が違う点があります。具体的にどう違うのかというと-

 戦前の華僑の文化は三縁「血縁・地縁・業縁」で集まり、三宝「僑団(華僑の団体)・僑校(華僑の学校)・僑報(華僑の新聞)」があって、三つの職業をいう三把刀(包丁・散髪鋏・仕立て鋏)にみられるように職業的にもかなり均質性がありました。東南アジアの中国社会と比べ、日本の華僑の特徴として出身地が広東省、福建省などが多いものの、北方の山東省など三江地方の出身者もいるという点です。

新華僑の特徴-重層化・多様化・定住化

 それに対し新華僑にはどういう特徴があるかというと、重層化、多様化、定住化が挙げられると思います。新華僑は両極化しています。一方では技術者、専門家たとえばIT技術者が大量に入ってきています。かれらは都市部の知識人です。中国でも高学歴で一定の仕事をしていて、技術移民ということで日本やアメリカ、ヨーロッパに出ていき、専門職につく人々。他方ではブルーカラー、非熟練労働者、日本でいう中国人研修生の層もあります。その2極が新しく来た中国人の主体を成しています。1980年代に中国では農村の改革がありました。厳しく管理されていた農村経済から、個人の請負制度に変え、農業の機械化も推進されて農村の社会構造がかわり、余剰の労働力が生まれました。さらに沿海地域の工業化が進み、余剰労働力を吸収しました。これは中国社会の大きな変化です。農村から沿海州へ人の移動が始まりました。彼らは民工と呼ばれ、都市部では主にサービス部門に職を得ました。店員や清掃員などです。この都市下層部に失業者が生まれるようになりました。先ほど触れたブルーカラー、研修生と呼ばれる中国人は、貧しい農村の出身ではありません。海外に出るということ自体が非常にコストのかかることです。不法移民(密航者)でも2万元(30万円程度)の費用がかかります。農村部で一度出稼ぎを経験した人々、または都市部で仕事がみつからず、しかもある程度の資金を捻出できる人々が仲介料を払って、正規あるいは非正規に外国にわたる、ということです。こうしたブルーカラー層と先ほど述べた技術移民あるいは留学生の層と2極化が見られます。華僑と違って、ニューカマーはこうした形で階層化、細分化されていると言えます。

 次の特徴は、日本社会との接し方における多様化、「適応」パターンの多様化です。その背景として、日本社会・日本人の意識の変化が挙げられます。私はもう20年以上も日本で生活しているのですが、確かに日本社会は外国人に対する寛容度を持つようになったと思います。80年代、当時の中曽根首相は日本がなぜ経済的に発展しているかと言えば、人種的な均一性があるからで、アメリカはなぜうまくいかないかというと多人種だからだと発言して、かなり反発を招いたことがありました。その反省かどうかは分かりませんが、このような発言はこれ以降少なくなってきているようです。また、今では中国人をはじめブラジル人など外国人が多く住むようになって、当然日本人との摩擦を起こす場面もあるでしょうが、同化的な圧力は以前ほど強くなくなっているのではないかと思います。地方政策においても、福祉政策においても、外国人に対する制限を撤廃するなど、また、民間のボランティア活動も含めて、外国人に対する考え方が確実に変わってきているのではないかと思います。この日本社会の意識変化が、在日外国人に多様な生活の仕方が許されるようになってきたことへの、背景のひとつとしてあげられると思います。

 80年代の在日中国人は学位を取得、あるいは収入を得て帰国する、ということが目的でしたが、「80後」の人たちはいい仕事があれば、どの国でもかまわない。かなりやわらかい考えを持っていて、昔の華僑のように白い目で見られることもないので、日本社会を好意的にとらえています。帰国や再来日の移動ルート、手段もかんたんになって、それも意識の変化になっていると思います。中国人60万人の中で定住化が進んでいますが、私はその定住化はカッコ付きだと定義したい。日本にずっといる、と考えていない人が、実は多いのです。昔の華僑は、いつかは自分の根っこの中国へ帰る、と考えていた、あるいはハワイやブラジルの日系移民は、この国に来た以上、もとの国とは縁を切る、というように考えたひとも多かったと思いますが、今の移民は考え方がかなりフレキシブルになっています。

 アメリカ日系人移民の場合ですが、四国に親の家が残っていて、サンフランシスコに住んでいるかたに老後はどうなさいますかと聞いたところ、どこに住むというはっきりした決めはなくて、行ったり来たりするだろう、と。国や地域にとらわれない居住の仕方、職業の選択についても柔軟な考え方になっています。トランスナショナルと言いますが、居住地や職業を自由に選択する移住者が最近の調査で多く見られます。地域社会に参加する意欲も見られるようになりました。華僑の場合は中国社会を作って、地域社会にはあまり顔が見えない面があると思いますが、新来中国人は積極的に地域に参加するひとも増えています。埼玉の中国人IT技術者がまとまって住んでいる地域では、摩擦もありながら、地元のお祭りに参加したりしています。オーストラリアの中国人も、地域の選挙、政治的な関心も持つなど、今住んでいる社会への貢献を考えるようになってきていると思います。

 中国人ネットワークをしらべる最近の調査で、あなたは周囲の誰に助けを求めるかと尋ねると、中国人、日本人という色分けをせず、場面によってふさわしい使い分けをしています。情報利用の点でいうと、現在日本ではたくさんの中国語新聞が発行されていますが、必ずしも彼らの利用率は高くありません。隔離された、あるいは閉鎖的な団体では、往々にして彼らだけの新聞を発行して、共有思想を作り、仲間意識を高めようとしますが、昨年の中国人にたいする調査では、もっぱらインターネットや口コミ情報を利用していると分かりました。口コミ情報も中国人からとは限らず、就職の場合は日本人から、とか柔軟に考えるようになっていると思います。

在日中国人のことばの問題

 さて、華僑も新しく来た中国人も含めて、どのようなことばの問題があるか、といえば、まず、ことば自体の問題もあります。長く日本に居ることで、ことばの中に日本語が混ざってきたり、言語スイッチのこともありますし、中国人同士が日本語で話すこともめずらしくありません。

 私は教育が専門ですから、子供の教育ということで、日本語の学習に関心があります。日本語学習というと大人とこどもの場合がありますが、子供に限定してお話しすると、小学校入学前の子供を同伴して来日した場合、最初はこの子にどのように日本語を学ばせるかということをすごく熱心にやっています。日本語ができないと学校でいじめられないだろうかと思うわけです。ところが入学後1年くらいすると、逆に、中国語ができなくなるのではないかと心配になります。一生懸命中国語を教えようとします。すると、子供は反発します。私も日本で生まれた子供がふたりいますが、がんばって中国の教科書を使って、中国語の教員としてのプライドもあって教えたのですが、家では全く通用しませんでした。話を聞いてくれません。中国語で話しかけても返事が日本語で帰ってくる。これは在日中国人家庭の共通の悩みです。さらに高校生くらいになると、親に反発する子供もあらわれる。外出先で中国語で話しかけられるのが嫌だ、声が大きい、周りから注目されるというのが嫌だとか。同僚の歴史研究者の場合、子供にそういう文章を書くのをやめてほしいといわれたと困っていました。そのように、子供のアイデンティティー確立と言語がかかわってくるということがあると思います。

 また、学校教育の中で、話す能力と学問に結びつく言語能力は別だという主張があります。社会や理科の内容は思考言語の能力ができないと理解できない。外国人はホスト国のことばと母語との二重生活をしているわけですから、自分の母語からの干渉が当然出てきます。話し言葉でははっきりは現れないかもしれませんが、たとえば国語の教科は大抵の外国人の子供は苦手です。社会や理科、算数でも思考言語の能力が関係するのではないか。この辺は問題提起としたいのですが。

 言語的なもの、家族の文化は次世代に再生産されるともいわれます。家族の機能にも言語的なものが影響を与えるのではないかと思います。家族にはたとえば情緒を安定させるなど、さまざまな機能があります。次世代に文化を伝えるという機能ももちろんあります。ところが新しく来た外国人の場合は、その文化の断絶ということもいわれています。親の日本語は子供ほど上達しません。子供が学校で学んできた教科内容についてもよく分からない部分があります。一方で子供は日本語が上手になり、互いに言語コミュニケーションが充分にできないということがあります。中国の残留孤児の家族の調査をしたことがありますが、親世代は学校すら行ったことがないというひともいて、読み書きは苦手です。こどもはどんどん日本語が上手になり、子供が対外的な交渉役になっていく。子供がいないと外とは話もできない。そうなると、親に対する子供の反発が強くなって、親子関係がぎくしゃくしてくる、そういう問題もみられました。

 今日本には200万人の外国人がいます。日本では少子化という構造的な問題もあります。日本政府も欧米にならって、移住ポイント制(学歴、年齢、経験などをポイントで数値化する)の導入を検討していると報道されました。日本社会にとって望ましいひとをどんどん入れる、招致する、という考えがある一方、まだ日本の政策自体はまとまっていません。たとえば、介護現場にインドネシア人などに入ってもらうことでも日本の制度にそぐわない、ということがあります。また、外国人に対して日本語教育だけでなく、母語学習の機会を作ろうという動きもありますが、まだ、それは人道的な見地、人権保護を脱していなくて、やってあげる、という政策のように感じられます。外国人がいるからいい、彼らが社会に貢献しているというところまでは行っていません。そこまで考え方を変えていく必要があるのではないかと思います。

以上

(文責:事務局)