地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2010・6月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「『在日』というコトバから」


● 2010年6月12日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス第1校舎105教室
● 話題提供:佐藤久先生(朝鮮語教師・翻訳者)


まえおき

佐藤久先生  「在日の基本的な問題、言語生活、将来の見通しなどについて」話すようにとのご依頼でした。「誰かを紹介してくれという話ではありません、あなたからお話を聞きたいとおもっています」との由。これは弱りました。人前で話すのは、一昨年大学の朝鮮語の授業でゲストスピーカーに呼ばれ、つたない朝鮮語の独習歴を何度かお話した程度です。雑駁な話になるかもしれませんが、どうかご了承ください。

 後ろに掲示した地図は、網野善彦さん(日本中世史)のご本で紹介されていた、富山県がつくった『環日本海諸国図』です。地図の下が北西、上が東南方向になっていますから、朝鮮半島が下から上に突き出て、日本列島がそれを取り巻いている。網野先生は、「アジア大陸の東辺には、北から南に、五つの巨大な内海が連なっている」ことの説明に使っていらっしゃいました。日本海は、その中央にあたります。普段目にするのとは異なる視角の地図をじっと眺めていると、なんとも不思議な気分に襲われます。

 入り口の資料は、1968年の金嬉老事件の際に作成された資料集の一部です。お近くの麻布十番にある、在日韓人歴史資料館のパンフレットも頂戴してきました。そこの展示をごらんになると、「在日」の人々の文化や歴史に網羅的に触れることができると思います。私がボランティアをしている「現代語学塾」のチラシも持参しました。

「怠け者」の自己紹介

 私は朝鮮語をきちんと習ったことがありません。大学の朝鮮語の授業も3回出席しただけで、投げ出してしまいました。その後は、せっかく買ったテキストがもったいなくて、細々と勉強だけは続けてきました。もっとも、怠け者を自称するからには、いささかの自負もなくはありません。和田春樹さんの本に、レーニンというペンネームの由来について、これまで言われてきたレナ川ではなく「レニーヴイ(怠け者の)」ではないか、という仮説を見つけました。「レーニンは、自分を『怠け者』と意識して、己れにたえず鞭打つという意味を込めていたのではないか」というのです。私の朝鮮語も、『いい加減が、よい加減』だったところもあるのでは、と思いたいです。

 生まれたのは福岡県の久留米ですが、そこには三月しか居りませんでした。ですから私の場合、出生地にはほとんど意味がありません。それよりも、主に精神形成を行った場所が大切です。これからは小学校時代を過ごした京都を出身地にしようかな、と思っております。このことは、日本に暮らす「在日」の方々を考えるときにも、共通するところがあるかもしれません。幼いときに、親に連れられて来て、日本で育った方たちですね。

 私にとっては、「在日朝鮮人」が一番自然な言い方です。朝鮮人というコトバの正統性といいますか、かつて日本が支配していた朝鮮半島に暮らす人たちですから、自分のなかではやはり「朝鮮人」ということになる。北朝鮮は日本と戦った人たちが作った国、それだけではありませんが、そういうイメージも自分にはあります。60年代の韓国といえば、当時は北朝鮮に比べて経済的にもはるかに劣っていて、10代の私にもアメリカの植民地のように映りました。その国の人たちだけをとりあげて「韓国人」と呼ぶのは、自分の頭のなかでは落ち着かない。統一されたら朝鮮人という呼称にもどるのだろう、と。

 しかし70年代以降、韓国の民主化運動を通じて認識が変わり、在日韓国人・朝鮮人と自然に口にできるようになりました。姜尚中さんは、いまは「在日コリアン」とおっしゃいますが、私にはあまりしっくりしません。「地球ことば村」のように、地球村に暮らす朝鮮人、そんなふうにとらえて行きたい、早くそういう時代になるようにと願います。

「在日」というコトバについて

 「在日」というコトバですが、たんに「日本に在る」という意味だけでなく、いまはその人々までをも対象にして「在日」と呼ばれています。「滞日」、「定住」ということばもあり、どこがどう違うのか。法務省の定義では、「定住外国人とは、日本政府が許可して与えた永住資格を持つ者」ということのようです。こういう、ことばひとつをとってもどう言っていいのかわからないという状況自体が、重苦しい気がします。

 「在日」といっても、いつまでが在日なのでしょうか。百済や新羅から来た人たちはどうなのか。そもそもそんな時代に、はたして日本という国があったのかということになりますので、考えなくてもいいのかもしれませんが。網野先生は、7世紀の終わりから8世紀の初めに日本国という国制が敷かれ、北九州から関東あたりまでを覆っていた、したがって「縄文時代の日本」や「弥生時代の日本人」という表現は、「日本人の歴史意識を混濁させてきた」と書いています。

 それでは、秀吉の朝鮮侵略で連れて来られ、薩摩焼の陶工になった沈壽官(シム・スグァン)の場合はどうだろうか。この方も「在日」なのでしょうか。司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』のモデルになったのが14代の沈壽官で、早稲田大学を出て、就職先がみつからずに鹿児島に帰って親の仕事を継いだ。その息子さんは99年に15代を襲名したのですが、父親と同じ早稲田を出て、イタリアの国立美術陶芸学校を修了して韓国に行き、キムチ甕の制作工場で修業の後、日本で陶工をしている。お父さんとはずいぶん違います。ひとつの世代をまたぐと、日本と韓国・朝鮮との関係がずいぶん変わってきていることを示しているのだと思います。しかし元をたどれば、まぎれもなく朝鮮からの拉致被害者だった人の末裔、ということですね。

 「在日本朝鮮人総連合会」という名称も、私にはなじみ深いものです。ここに所属する人々は朝鮮民主主義人民共和国の海外公民とされ、この団体はその海外公民の利益を護るために作られたもので、「朝鮮総連」と略称されます。その若い世代の組織に、「留学生同盟」があります。留学生というからには、いずれは故国へ帰るのだという立場を表明しているのでしょう。「在日大韓民国民団」というのが韓国系の団体で、略して「民団」と呼ばれています。どちらにも「在日」がついていますね。

 最近出たものに『私のピョンヤン滞在記』(金日宇・金淑子著)があります。朝鮮人の父親と日本人の母親をもつ、在日の方が書かれたものです。そのなかにお父さんが亡くなって、朝鮮民主主義人民共和国にあるお墓まで納骨に行く、今は制裁がかかっているので、北京経由で大変な思いをして行かれた。行く先々で横断幕を掲げて記念撮影をするのですが、その横断幕の文字は、「朝鮮民主主義人民共和国海外公民 金鍾淳 チュチェ98年-祖国の地の土となる」です(金日成主席の生まれた1912年がチュチェ1年とされる)。

 「植民地朝鮮に生まれた一世たちの多くがそうであったように、アボジ(父)もまた独立国家の公民という意識が強く、祖国を何よりも大切にし、共和国の海外公民であることを誇っていた。1965年の正月からは、表札に『朝鮮民主主義人民共和国海外公民 金鍾淳』と刻み、玄関の前に掲揚台を作って共和国の祭日には、共和国の国旗を掲げていたのである。『拉致世論』で『北朝鮮バッシング』が日に日に激しくなり、その表札をはずさざるをえなくなったときのアボジの悔しさは想像するに余りある。知人に送る年賀状にも『朝鮮民主主義人民共和国海外公民』と必ず記す、そんなアボジだった。最後も遺言に従い、『朝鮮民主主義人民共和国海外公民 金鍾淳』と記した赤い布で棺を覆い、送ったのだった」。

 特別の人ではありません。私と同世代の方が書かれた文章です。ですからひとくちに「在日」といっても、お一人おひとりの違った生き方があるのですね。

強制連行をめぐって

 私は20歳前に、ヴェトナム戦争反対の市民運動から出発したのですが、朝鮮に関心をもつようになったきっかけは、『朝鮮人強制連行の記録』朴慶植(パク・キョンシク)著(1965年 未来社)でした。当時大変よく売れた、またいまも出続けている本だそうです。

 京都にいたころは、クラスに一人か二人、必ず朝鮮人の友達がいました。三角屋根の、ガスも水道もない、電気だけはかろうじて通じていましたが、家の前で煮炊きをしている、そんな家によく遊びに行きました。友人は北に帰り、その後どうしているかはわかりません。小学校時分には、身の回りにそういう人たちがたくさんいたのです。その人たちがどうして日本にいるのかということを、この本を通じて学びました。当時の若い世代に読まれ、「入管闘争」と称されておりましたが、そういう朝鮮人に対する日本政府の政策を批判し、彼らを支援する、その運動の片隅に私も加わっておりました。

 当時は、在日外国人六十万のうち、95%は朝鮮人です。ですから、非常に考えやすかった。この本は相当に影響力があって、一方では、日本にいる朝鮮人はみな強制連行で連れて来られたという印象を与える結果にもなりました。この本には、決してそうは書いていないのですが、結果としてそういう印象を与えることになったのです。

 在日朝鮮人の年度別の人口をみますと、韓国併合が1910年ですが、その当時は2000人でした。それが1939年には96万人、終戦直前には200万人を超えます。希望者は本国に帰すという政策により、戦後2年ほどで60万人に激減します。この時期に朝鮮に帰って行った人たちの多くは、戦時の徴用によって連れて来られた人たち、そう考えることができるでしょう。そのとき日本に残った60万の人たちは、強制連行されたのではなく自由意思で来たのだという本が、鄭大均の『在日・強制連行の神話』(2004年 文春文庫)です。

 著者は2004年に日本に帰化した、首都大学東京の先生です。この本は比較的冷静な筆致で記されていると思います。日本に来ることになった経緯はそれぞれに異なっていて、ほとんどが強制連行の被害者だというのは誤解である、と。そういう面では、この本には積極的な意味があると思います。

 ただ、私が理解しがたいのは、次のような部分です。

 「エスニック日本人の男たちは戦場に送られていたのであり、朝鮮人の労務動員とはそれを代替するものであった。兵士として戦場に送られることに比べて、炭坑や建設現場に送り込まれ、重労働を強いられることが、より『不条理』であるとか『不幸』であると、私たちは言うことができるのだろうか。日本人の場合だって、1938年に成立した国家総動員法により、15歳から45歳までの男子と16歳から25歳までの女子は徴用の対象となったのであり、それは強制的なものであった。『赤紙召集』(徴兵)であれ、『白紙召集』(徴用)であれ、それは強制力を伴うものであり、応じない場合には、兵役法違反や国家総動員法違反として処罰され、『非国民』としての社会的制裁を受けたのである。いいかえると、朝鮮人であれ、日本人であれ、当時の日本帝国の臣民はすべて、お国のために奉仕することが期待されていたのであり、多くの者は、それに従属的に参加していた。つまり『不条理』は、エスニック朝鮮人のみならず、この時代の日本国民に課せられた運命共同性のようなものであり、したがって『強制連行』などという言葉で朝鮮人の被害者性を特権化し、また日本国の加害者性を強調する態度はミスリーディングと言わなければならない」

 私はこの部分を書くことで、この本の価値はついえてしまったと思いました。朝鮮人も同じ日本帝国の臣民だったのだから「不条理」はガマンしろ、そう言って済むことでしょうか。この本のもつ客観性に対する信頼を、かえって損ねることにもなってしまったのではないかと思います。

 在日朝鮮人は、それぞれのお考えと決断で、国に帰られたり、国籍を変えたりされたのであって、なにかひとつ、これが正しいというようなことは存在しないでしょう。日本人である自分としては、これからもお一人おひとりのお気持やご判断を理解し、尊重しながら歩んでいきたいと思っています。

それぞれの在日の在り方

会場の様子 ちょうどワールドカップが始まりましたので、鄭大世(チョン・デセ)と李忠成(り・ただなり)について触れてみます。鄭大世は1984年名古屋生まれ・川崎フロンターレに所属する在日三世です。今回北朝鮮代表のフォワードとして出場します。TV・8チャンネルのスポーツニュースで、なぜ北朝鮮代表になるのかと聞かれ、<北朝鮮は自分のプライド・自尊心を育ててくれた国、当然のことだ。日本と韓国が対戦したら、自分は日本を応援する。だってJリーグが盛りあがるからね、これも当然のこと>と答えていました。彼は韓国籍から朝鮮籍(朝鮮半島出身者を意味するもので、北朝鮮の国籍ではない)に変えようとしましたが、日本政府に拒否され、朝鮮総連の支援で北朝鮮のパスポートを取得、国際サッカー連盟も鄭選手の北朝鮮代表としての出場を認めたのでした。

 愛知県の第二初級学校(朝鮮総連傘下の小学校)4年の時にサッカーを始め、小平にある朝鮮大学校の体育学部に在籍した。川崎フロンターレと専修大学の練習試合に参加して5得点を挙げ評価されて、卒業後の2006年川崎フロンターレに入団します。朝鮮大学校からJリーグに進んだのは、この鄭大世選手が初めてです。

 一方、李忠成という選手がいます。1985年生まれ、東京都田無市の出身で、いまはサンフレッチェ広島のフォワードです。東京朝鮮第九初級学校から、都立田無高校を卒業します。在日韓国人を父に持つ四世ですが、2007年に日本国籍を取得します。彼も日本と韓国のサッカー界の友好を、常々口にしています。

 ところで先日(5月15日)、Jリーグでベガルタ仙台と浦和レッズが対戦しました。1対1で引き分けたのですが、ベガルタ仙台の得点は、在日のリャン・ヨンギ選手が挙げたものでした。彼も北朝鮮代表としてワールドカップに出場します。その試合で引き分けた後に、浦和レッズのファンが罵声を浴びせかけた、それが問題になりました。

 日本のマスコミは、こういう場合、どういう言葉を口にしたのかをまったく明かしませんが、私ははっきりさせた方がいいと思います。どうやら<北朝鮮に帰れ>と言ったらしい。また、<チョン、死ね>とも。これについて協会は、差別発言は許されない行為であるとし、浦和レッズは、ファン・サポーターへの啓発活動に不十分な点があったのを改善する、と公式表明がありました。

 しかし私は、このように何をどう言ったかをはっきりさせない曖昧なやり方はやめて、仮に朝鮮籍であることを理由に誹謗されたのならば、それを真正面からとりあげるべきだと思います。北朝鮮がいかに世界から孤立している国であろうと、日本に生まれ育ったJリーガーが中傷されるのを、ただ黙って見過ごしている、それは許されるべき行為ではありません。

 去年「ディア ピョンヤン」という、在日の女性が作った映画を見ました。朝鮮総連の熱心な活動家である父親を主人公にしたドキュメンタリーですが、少しずつお父さんの気持ちが変化していく様子を、よく描写してありました。これからはこういうものも出てくることでしょう。

変化する社会状況

 70年代からみると、状況がどんどん変わってきています。ヴェトナム戦争当時、日本に住むヴェトナム人留学生が、東大や東工大などにたくさんおいででした。この人たちは日本で、祖国ヴェトナムの平和と統一を求めて活動するのですが、それが問題とされ「帰国入隊命令」が届きます。本国(当時の南ヴェトナム)からの送金で暮らしているのに、それも打ち切られます。そこで、我々もできることをしようじゃないかということになったのですが、最も力強い支援をしたのが、在日朝鮮人の方でした。板橋でしたか、ご自分の家を提供してヴェトナム人留学生を住まわせる、そして自分たちが日本に来てからのご苦労を語り、残飯をあさってでも生きていく、それくらいの覚悟がないと、この日本では外国人は生きていけない、そうおっしゃった。日本の中世史を専攻していた留学生のお一人は、その後在日の女性と結婚されました。そのとき花嫁のお父さんは、日本人以外ならだれでもいい、とお二人を祝福されたそうです。いまはカナダの大学で教えておられます。

 統計によれば、日本人以外ならだれでもいい、そう言われた70年代前半には、朝鮮人の半分以上は朝鮮人同士、同胞間で結婚していました。日本人との結婚は3分の1強でしょうか。それが2007年になると、同胞間の結婚は1割を切り、日本人との結婚が87,8%となっています。ことばの問題でも、親の話す母語を聞いて育った世代から、その子ども、さらにまたその子どもとなると、肝心の両親が日本語でしか話せなくなってしまいます。

 辛淑玉(シン・スゴ)さんが書いていますが、在日にはすでに六世が誕生しているそうです。そうなると、もうどう考えたらいいのか、このままの状態が続いていけば、いずれはひとつになっていくのかな、という気もします。日本人は、少しさかのぼれば、どこから来たのかはっきりしない、私自身どこの馬の骨だかわかりません。族譜を大切にする朝鮮人とは、決定的に異なります。

 韓国併合条約が合法であったかについては、議論が残るようです。それはとりあえずおくとして、強制により国を失う結果になった、そこで日本にやってくる、それを自由意思とみなすのは問題です。むりやり日本に都合のよい近代化を押しつける、朝鮮は独立を維持できないのだから、ほかの国に取られる前に日本が取ってしまえ、という大変乱暴な話です。そうやって手に入れたのですから、国を失った人々を指して自由意思でやって来たというには、無理があるでしょう。むしろ、一番肝心なところを見失ってしまうのではないかと思います。小熊英二さんの『単一民族神話の起源』にあるように、併合した後も、都合のいい時は「内鮮一体」の同じ日本人だが、都合の悪い時は受け入れない。戦時中の強制連行以前、まだ日本の労働力が不足していなかった時期には、やって来た朝鮮人を送り帰すこともずいぶん行われていたようです。

 戦後の59年末から始まる北朝鮮への帰国運動も、テッサ・モーリス=スズキさんの『北朝鮮へのエクソダス』によりますと、吉田首相に始まって日本赤十字を中心に、日本政府にとって好ましからざる朝鮮人を排除したい、というのが最も大きな理由だった。貧しい人たち、生活保護を受けている世帯も多かった。ですから、そういう負担も減らしたかったし、なんといっても潜在的には革命勢力ですから、居てもらわない方がありがたい。日本政府も帰国運動を進めました。

 映画『キューポラのある街』のなかに、川口の駅前で「金日成将軍の歌」を演奏しながら、帰国する朝鮮人を送り出すシーンも出てきます。今になってこれを取り上げ、あんなひどい国に送り帰したのか、主演して一役買った吉永小百合は自己批判しろ、などと言う人もいるそうです。しかし少なくともあの時代、北朝鮮の方が一人当たりのGNPもはるかに高く、希望を抱いて帰国するなら、当時アジアの最底辺にあったような韓国ではなく、北朝鮮へというのが有力な選択肢だったことでしょう。なかには、北の状態をある程度理解しながら、それでも帰った人たちがいたはずです。困難はあっても自分のできることで貢献したい、そんな方も相当におられたのではないでしょうか。

 それには、日本のなかで在日の人々が暮らしにくい状況があったからです。大学を出ても就職口はないに等しい。いま若い方々にその時代の話をしても、全く理解してもらえません。なぜ就職口がないの? 優秀な人もたくさんいて、取らなくちゃ損じゃないか、と。確かに今はそうかもしれません。しかし当時はそれが当たり前で、パチンコ屋で働くとか、まじめな人は朝鮮総連の活動家になるとか、それくらいでした。

 私より少し若い世代の方ですが、「東大法学部に入って、アボジから死ぬほど殴られた」人がいます。弁護士の方です。初めて在日で弁護士になった金敬得(キム・ギョンドゥク)さんに続く方でした。医学部を受験するよう父親に言われていたのですが、東大の法学部に入ったところ、お前は何を考えている、法学部を出ても何にもなれないぞ、というわけです。卒業後、なるほどどこを受けても落とされて就職できない。そのころ、すでに金敬得さんが弁護士になっておられたので、そちらに進むことになった。

 金敬得さんは早稲田を出られ、76年に司法試験に合格します。しかし司法研修所に入るには、日本国籍が条件でした。最高裁に意見書を提出し、それが認められて79年に弁護士登録をします。この方も、早稲田の就職課で言われたそうです。「ジャーナリズム業界は決して朝鮮人を採用しない、一部上場企業もだめ、二部上場なら可能性はある、あなたの才能が惜しいという社長さんが現れるかもしれない、ぜひ登録しておきなさい」と。彼は結局登録せずに、司法試験のほうへ向かったのですが。朴鍾碩(パク・ジョンソク)さんの日立への就職差別問題、在日ということがわかって採用取り消しになった問題ですが、それを裁判で認めさせた運動もありました。70年代というのは、そのような在日の人たちからの異議申し立てが進められ、日本社会にも影響を与えた時代でした。

 日本社会は、やはり変わってきた。その原因には、韓国経済の成長ということがあったのだと思います。70年代後半に入って、韓国経済がテイクオフします。これにはヴェトナム特需、米国の傭兵として命まで差し出したこと、また中東への出稼ぎもありました。朝鮮戦争で経済復興をはたした日本とも、相通ずる道だったのかもしれません。80年代に入り、軍政の下でも韓国の人々は努力して経済発展を成し遂げ、88年にオリンピックを迎える。そのように韓国の地位が高まったことが、日本社会の変化に大きな影響を与えたと思います。

 ソフトバンクを作った孫正義さんは1957年生まれ、韓国籍でした。お父さんから、在日なのだから日本人より頑張らないと出世できないぞ、そう言われた。1976年、19歳の時に、「20代で名乗りをあげ、30代で軍資金を最低1000億貯め、40代でひと勝負して、50代で事業を完成させ、60代で後継者に引き継ぐ」、そんな人生計画を立てたそうです。91年、事業を進める上で具合がいいようにと、日本国籍を取得されました。プロ野球チームのホークスを買い取ったときの様子など、TVで見ていて、あぁ、この人にはやはり朝鮮人の勢い、日本人にはないようなバイタリティーがある、そう感じました。

 小沢一郎氏の国際担当秘書を務めた、金淑賢(キム・スッキョン)さんという人がいます。2000年に、当時自由党の党首だった小沢さんの秘書に抜擢され、韓国人初の国会議員秘書として7年間勤めました。ソウルで大学を卒業後98年日本に留学し、東大在学中に、秘書を務めながら韓国と中国の修好に関する研究で博士学位を取りました。東アジアに関するプロジェクトなどを企画していたそうです。小沢さんのアジア政策に、この人がかなり影響も与えているのではないかと考え、内心期待しておりました。今回小沢氏が辞任して、その点では残念です。金淑賢さんは、現在東北大学の准教授です。

 私には、在日といえば「サンフランシスコ講和条約以前から日本に住んでいる人、そして日本で生まれたその子孫」というイメージがあまりに強いので、金淑賢さんも在日だとは、なかなか考えにくいです。

 国際政治学の李鍾元(イー・ジョンウォン)さんは、ソウル大学に入った74年春、民青学連(全国民主青年学生連盟)事件で逮捕されます。この事件は捏造されたもので、最近政府から謝罪もなされました。70年代の韓国は、経済建設を果たしながら、反体制や言論への弾圧が激しく続く時代でした。釈放された李鍾元さんは、来日してICUに入学します。そして東大の大学院に進みますが、坂本義和教授の目にとまり、院生にしておくのは惜しいと助手に採用されます。助手論文が評価されて東北大学の先生になり、現在は立教大学です。ある講演会で在日の講師の方が、彼の評価する在日知識人の一人に李鍾元さんの名前を挙げました。私は、いずれは韓国に戻り、向こうで活躍なさる人物と思い込んでいたので、少し吃驚したのですが、これは私の前提の方がおかしいのでしょう。

 59年の暮れから帰国運動が始まりますから、北に帰った人たちも、2世、3世、4世へと代を継いでいます。我々の耳に届くのは、今のところ脱北した人たちの声だけですが、なかには日本から帰った人もいて、いろいろなことを話します。しかし人間は、今ある立場で考えたり話したりしますから、新しい記憶として当時のことを語る人も出てくるでしょう。無条件に、検証もなしにそのまま受け入れる、あるいは伝えることを、私はつつしみたいと思っています。そういう過酷な社会のなかで生き抜いている人たちへの理解を、日本人の側もする必要があるのではないか。北に帰った人のほとんど、9割以上は南の出身です。その人たちが全く異なる社会体制の北に帰る、故郷に帰るわけではなく、ほとんど移民のように、誰一人知る人のないところへ帰る、そうして生き残ってきた人たちです。そういう事情を考えずに、北朝鮮という国の、いまの体制だけでみることは、その人たちの積み重ねてきた努力に思いが届かなくなるのではないか、と少し心配しています。

在日外国人の増加と多様化 そのなかでの在日

 この春、妻の勤務していた小学校の副校長さんが、新宿区の小学校に異動されたので、その学校のホームページを覗いてみました。新大久保の駅前に立てば、朝鮮語ばかりが聞こえます。ニュー・カマーの韓国人が圧倒的に多いところです。ホームページには、「児童の6割は、少なくとも両親のどちらかが外国人」とありました。教える先生はさぞかし大変だろうと思います。中国残留孤児の子どもに日本語を教える、そんな専門職の先生も育ちつつあるようです。

 昔は、在日外国人は60万人で95%が朝鮮人、残りは中国人というわかりやすい数字でした。平成20年末の統計では、外国人登録者数(3か月以上日本に滞在する人)は222万人、そのうち中国人が65万人、韓国・朝鮮人59万人、ブラジル人31万人、フィリピン人21万人、ペルー人6万人、です。中国人の比率は30%、朝鮮人は27%まで下がり、国籍が多様化している。鳥取県は人口60万人、沖縄でも140万人ですから、外国人の222万はすごい数です。長野県が220万人、それに匹敵する外国人を、今日本は受け入れている。

 東京都はどうか。私の住む清瀬市では、10年前には外国人は1%未満でした。今は1.5%です。港区、新宿区あたりですと10%ほどが外国人登録者、東京全体ですと1300万人のうちの42万人、3.2%ということになります。年々増える一方です。新宿区の中山弘子区長は、在日外国人を新宿区の財産と考える、新宿区はこれを「売り」にしていく、在日外国人とともに生きるのだと明言しています。私は歓迎すべきことと思いますが、なかにはそう思わない人もいて、今の高校授業料無償化の問題でも、朝鮮総連傘下の学校は対象にすべきではないと、しかもそれを北朝鮮への制裁のひとつとみなして、無償化から外せと主張する人たちがいる。とんでもない話です。子ども手当自体が、次代を担う子どもの育ちを社会全体で応援するという精神です。授業内容がはっきりしないというのなら、実際に見に行って、問題があれば具体的に指摘し、変化を求めればいいだけのことでしょう。

 在特会(在日特権を許さない市民の会)という団体があります。在日特権ということばは、明らかに韓国・朝鮮人に向けて発せられたものです。部落解放運動に対して言われたことと似たものを感じますが、それだけ日本社会の先が見えにくくなっているから、そういう方向に向かうのかなぁとも思いますね。この団体は、ちょっと目を凝らして見ると結構ほうぼうで活動しています。この人たちが日本の多数派になることはないと思いますが、かつての右翼とは違った、市民運動のようなスタイルも持っています。彼らともよく話し合い、理解してもらう必要があるでしょう。

朝鮮のことばと現代語学塾・金嬉老裁判

 朝鮮語を学ぶうえで私が救われたのは、韓国の新聞を読んだことでした。なにしろ語順が同じで、助詞も同様にありますから、辞書さえ引ければ、まるでパズルでも解くように読み進められます。そこで朝鮮語を教えるときも、読むことからやってもらっています。

 半年間文字と発音を勉強した後で、去年は盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の遺書を読んでもらいました。昨年投身自殺を遂げたご本人の、パソコンのなかに残っていた十数行のメモでした。その次は金大中(キム・デジュン)さんの『最後の日記』で、葬儀の際に参列者に配られたものです。半年かけて読みました。そうやって一年勉強した後、今は「日韓知識人の共同声明」を読んでいます。これはこの100年間の、日本と韓国の歴史についての共通認識として、先月発表されたものです。ほとんどが年配のご婦人、最高齢は82歳で、60代70代は当たり前、そんな教室です。

 言語の呼称としては、私には「朝鮮語」が一番落ち着くような気がしますので、そう言っております。「ハングル語」という人もいますが、ハングル(ハン=偉大な クル=文字)は文字の呼称ですから、「文字語」となると落ち着きがわるい。これは1984年に「アンニョンハシムニカ・ハングル講座」がNHKで放映され始めた、その影響が大きいと思います。呼称をどうするか、NHKで揉めたのもよくわかりますが、大英断を下して「朝鮮語」とやっていただけたらよかったのになと思います。外国語の授業を最初に「コリア語」と称したのは、私の知る限り、上智大学ではなかったでしょうか。その当時は、桂太郎の銅像が建つ拓殖大学でさえ「朝鮮語」でした。今は「韓国語」に変わっていますが。

 インターネットを見ていたら、「在日朝鮮語」ということばも出てきて、ちょっと驚きました。朝鮮語の日本方言とでもいいたいのでしょうか。「在日朝鮮語」の特徴のひとつは、「語頭が濁る」のだそうです。それもなかなか微妙な問題で、濁る、半分濁る、濁らないというのは、文中の位置や話し方などによっても違うように、私には聞こえます。実際、釜山(プサン)の英語表記はBusanに最近また変わりました。また朝鮮語には口を大きくあけたエと、日本語と同じエとふたつ発音があるのですが、「在日朝鮮語」はみな日本語と同じエなのだ、ともありました。しかしことばは、それ自体が変化するものだし、アナウンサーのように発音する人ばかりではない。韓国の若い人の間では、母音もどんどん簡略化されているとも聞きます。とりたてて「在日朝鮮語」という必要がどこにあるのか。だれがしゃべっても朝鮮語です、こういう腑わけの仕方は気に入りません。

 日本語だって、いろんな日本語があっていい。生徒さんのなかに「舌たらず」の発音をなさる方がいらっしゃるのですが、あるとき、ネイティヴがこの発音を聞いたら、アグネス・チャンの日本語みたいに聞こえるかもしれないと気づきました。それで十分通じるのなら、逐一指摘する必要はない、それよりひとつでも語彙を増やしてもらったほうがいいですね。辞書を引くのをおっくうがらずになさる、そっちのほうがずっと大切かなと思います。

 「流音化」という美しい名前の規則があります。韓流のカンは朝鮮語ではハンですね。ハンのNとリュウのLの音は、ほとんどが隣合わせになりません。隣合わせになるとNLがLLになります。ですからハンリュウと言っても韓国人には伝わらない、ハルリュと発音すればわかるんです。そういうことのほうが大事です。ヴェトナム戦争は、漢字では越南戦争ですが、ウォルナムチョンジェンというと韓国人に通じなくて、ウォルラムチョンジェンとLLに変えたら、すぐに理解してもらえました。ことばが通じるために必要なポイントは別にある、たぶんそうなのだろうと思います。

 塾の生徒さんたちのなかには、歴史意識も強烈にお持ちで、集会に行くたびに見かけるような方もおられる一方、韓流ファンもいらして「(韓国俳優の)発声がいいのよ」とおっしゃいます。そういう方たちに大判の地形図を指しながら、ソウルはここで、などと説明していると、「先生、じゃあ北朝鮮はどこなの、こっち?」と、旧満州の方を指したりする。朝鮮半島全部が韓国だと思っている。それも一人だけではなかったのが驚きだし、私にも勉強になりました。

 その塾は「現代語学塾」といって、いまは目白にあります。金嬉老裁判が始まった頃に、公判対策委員会の「相互理解のためにはことばを学ぶ必要がある」という考えから始まりました。当初は朝鮮語に限るつもりはなかったそうですが、結局朝鮮語のクラスだけが1970年にスタートしました。もう40年続いて、毎期4,50人の人が10のクラスに分かれて学んでいます。70~80年代を通じて、梶村秀樹さんが、いわば塾の顔でした。1980年代後半の2年間だけ、私もここに通いました。東京外国語大学と神田外語大で教えられた長璋吉(ちょう しょうきち)さんには、小説を習いました。長先生は70年代初めの留学経験をもとに『私の朝鮮語小辞典』を書かれ、これを超える本はまだないと思っています。梶村先生は朝鮮史の第一人者で、それまで朝鮮史といえば、中国などから横滑りした研究者がほとんどでしたが、梶村さんは初めて朝鮮史一本で研究を続け、大学の先生になられた方でした。90年を目前にして、現代語学塾は相次いでこのお二人を失うのですが、教室はその後も続き現在に至っています。

 金嬉老事件については、ご存じの方も多いと思います。1968年2月、暴力団員2名を猟銃で撃ち殺した金嬉老が、自分に差別的な侮言を弄した警察官の謝罪を求めて、宿泊客を人質に、寸又峡のふじみ屋という温泉旅館に立てこもった事件です。3日間ニュースで報道されました。これに衝撃を受けた人たち-最初に声をあげたのは中島嶺雄さんだったと聞きます-が、日本人もここで何かするべきではないかと集まります。中島さんは途中で去りますが、残った人たちが続けていき、裁判の特別弁護人となって証言した記録が、今日お持ちした証言集です。普通、裁判とは事実を裁くものですが、この金嬉老裁判は、日本がこの事件を裁くことができるかと問う裁判闘争でした。当時のこういう本(「朝鮮人強制連行の記録」など)の影響を受けていたことは明らかでしょう。幼いときから差別を受け、ろくな就職口もなく、暴力団と付き合うようになった、そういう人が暴力団員の差別的な発言に怒って射殺した、それを日本人は裁けるだろうか、ということですね。当時高校生だった私は、強い贖罪感をもって、これは単純に判断できる問題ではないと感じていました。75年金嬉老は無期懲役になり、99年に日本には戻らないという条件で仮釈放され、韓国へ渡ります。もう一度日本に来て静岡にある母親の墓参りをしたいと嘆願書を出していたそうですが、かなわずに今年の初めに亡くなりました。

 そんないきさつのある現代語学塾なので、敷居が高くてなかなか足が向かなかったのですが、誘ってくださる方があり、短い間でしたが通うようになったのでした。そのころは生徒にも若い人が多く、男女を問わず大変にぎわっていました。10人ほどしか座れないひとつのクラスに20人近くも登録し、授業の終わるころにやってきて、朝まで酒盛りして始発で帰る、そんな場所になっていました。在日の人もたくさんいました。カッコ付きの母語ということばを、さきほどの金子先生のゼミナール知りましたが、その「母語」を取り戻そうとしている若い在日の青年たちがおられました。残念ながら今は、そういう方はあまりおみえにならないようです。

韓国併合100年を迎えて

 1910年の併合条約について、ひとつだけご紹介しておきたいと思います。併合条約が問題になったのは、65年の日韓基本条約締結の時でした。この時に、日本による韓国併合条約は「already null and void 法律的にすでに無効だ」と言われたのですね。これを日本と韓国は別々に解釈しました。

 日本政府は、「当時は対等な関係で結んだ有効な条約であったが、もはや無効である」とし、国内にもそう説明しました。条約の第1条は、「韓国皇帝陛下は韓国全土に関する一切の統治権を完全かつ永久に、日本国皇帝陛下に譲与する」、第2条は「日本国皇帝陛下は前条に掲げたる譲与を受諾し、かつ韓国を日本帝国に併合することを承諾する」という内容です。むこうからどうぞ受け取ってくださいと差し出されたので、よろしいと承諾して併合した、という具合ですね。「この条約は体裁が整っており、国際法上からみても問題はないので、当時は有効だった、しかし日本は戦争に負け、朝鮮は南北にわかれてそれぞれ独立したのだから、今では無効だ」というのが日本の立場です。

 韓国は、そうではなかった。「源泉無効」ということばが使われています。併合条約は強制されたものであったから、当初から無効だ、当時も無効だし今も無効である。北朝鮮も同じ主張です。併合が成立していないので、占領状態があしかけ36年も続いたことになる。「カンジョム=強占(強制占領)」という用語が、白水社の教科書『中級朝鮮語』にも出てきました。「植民地支配期」は、朝鮮では「日帝強占期」、ごくふつうに使われています。

 今回の日韓知識人共同声明は、半年かけて練り上げられたものだそうです。併合条約については、「不義、不正、不当」のほかに、最後のところで「不法」ということばが加わった。「不法」といえば、併合条約が成立したのかしなかったのか、という議論に立ち戻る。私は、日本が軍隊で包囲し、大変乱暴なやりかたで併合条約を結ばせた、そのことで十分ではないかと思います。日清・日露戦争のあたりまで、日本は国際法を守って体裁を整えようとする、しかし実際にやったことはきわめて乱暴なことでした。王宮に押し入ってお妃さまを連れ出し、殺して辱しめ焼いてしまう、それをロシア人に見られる、なんとか手を打たなきゃならない、一方でそういうことをしながら、形だけは整えていく。これが日本の、遅れた帝国主義の在り方だったでしょう。

問題を考える態度について

 板倉聖宣(いたくら きよのぶ)さんをご存知でしょうか。「仮説実験授業」を提唱された方で、「唯物弁証法はことわざのようなものだ」と書いておられます。『争いのもとに正義あり』というのが、そのひとつです。ヴェトナム戦争について、当時私はヴェトナム人民の正義の闘いだと思っていました。若かったといえばそれまでですが、そのように気張って考えることがはたして妥当だったかどうか、今にして思えば疑問です。

 『理想をかかげて妥協する』もあります。理想は理想としてとっておく、それをしっかり持ったうえで妥協する。妥協できない人は、理想のない人とも言えましょう。どのような状態が望ましいのか、実は自分でも判然としないので妥協できない。「慰安婦」問題で、アジア女性基金について批判した人々のなかにも、それを感じました。また「日本人拉致問題」でも、横田めぐみさんのお母さんは、ほとんど娘さんが生きていないのではと思いながら、なお生きているという前提に立って運動を続けておられるようです。このままでは状況を前に進めることができないのではないか、言いすぎかもしれませんが。

 アルフレート・アドラーは、フロイトの弟子で後にフロイトを離れた心理学者ですが、アドラー心理学の日本での実践者が、幸せの3条件を挙げています。まず「自分のことが好きである」、これは私には大変難しいことです。2番目は「他者を信頼できる」、3番目が一番重要だと思うのですが、「人の役に立っていると思える」。この、「思える」ところが大切で、実際には役に立っていなくても、そう思えれば心が落ち着きます。

 北朝鮮にいる人たち、過酷な状況のなかで生きている人たちのことを考えるとき、あの人たちは自分のことが好きだろうか、他者を信頼できるだろうか、助け合わなければ生きのびるのが難しいとすれば、北は助け合う社会という一面も持っているはずです。また、人の役に立っていると思えるだろうか、幸せな気分で日々過ごしていられるだろうか、そんなことを考えながら、私ももう少し人の役に立っていると思えるようなことを続けていきたいと願っております。

以上

(文責:事務局)