地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2010・7月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「日系ブラジル人の暮らしと絆」


● 2010年7月10日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス西校舎512教室
● 話題提供:信重優子氏(ポルトガル語通訳)


 神奈川県在住の信重優子と申します。人前でお話しするのはあまり得意ではありませんが、今日は少人数でアットホームな雰囲気ですから、キャッチボールをするようにお話しできたらと思っています。

私のプロフィール

信重優子氏  私の名前は漢字で書いてありますが、22歳で日本国籍を取得しました。父は日本人、母はブラジル人で、生まれはブラジルのパラ州。中学生の時に日本へ来て、22歳までは二重国籍、22歳になるとどちらかに決めなくてはならないので、私は悩んだ末に日本国籍を選びました。旅行が好きなので、日本のパスポートはどこでも行ける便利さがあるという理由もありますが、将来日本に住み続けたいと考えたからです。ファビアニ・ユウコ・ソウザ・ノブシゲ というブラジル名も持っていました。ソーザは母の名字です。ブラジルでは必ず両親の名字を名乗りますから。日本国籍を取得して4年になりますが、それによって特に変わったこともありません。でも、最近母が、私の性格が日本人っぽくなった、と言い(笑)ちょっとさびしい気持ちになっているようです。

故郷パラ州で触れた日本文化

 生まれた場所のパラ州は、ブラジルの北にあります。ブラジルの中でも2番目か3番目に大きな州です。中央部のサンパウロやリオデジャネイロには季節がありますが、パラ州は赤道直下に近いので、一年中暑いです。梅雨があるくらいで蒸し暑いです。トロピカルな場所でフルーツがとてもおいしいです。サンパウロの人もよく知らないようなアサイとか。これは健康によいと注目されているフルーツです。サンパウロは日本人街があって、日系人が多い場所ですが、実はパラ州もサンパウロに負けないほど日系人が多いところなのです。私のような2世、3世、4世が非常に多くて、日本の文化に触れることのできるところです。私はそのパラ州のカスタニャールという小さな町に生まれました。日系人が多いので小さい町なのですが日本語学校があります。実は私の祖父が作った学校なのですが。パラ州全体でも各町の日本語学校の生徒を集めて年1回の相撲大会とか、野球大会、私の学校でも年一回運動会をやって、お母さんたちが集まってお寿司を作ったり、お祭りをしたり、ブラジルと日本の両方の文化を充実して感じることができるところです。

初めての来日とことばの問題

 そのように、日本語、日本文化に触れる環境に居たのですが、実はずっと英語を勉強したくて、日本語学校へ行くのがとても嫌でした。無理やり父親に行かされていて、あんまり勉強していなかった、非常に残念なことですが・・・。日本語学校へは週に何回か行っていたのですが、勉強するより遊ぶ、みたいな。今ではかなりくやんでおります。転機になったのは、その後父親が日本へ出稼ぎに来ることになって、1991年に家族で日本に来たことでした。この時はまだ小学校3年生でした。これが初めて日本に来たときです。市役所で簡単な会話などの日本語能力のテストを受けなくてはならないのですが、私の日本語力が低いので小学校1年生から入った方がいい、ということになり、当時住んでいた神奈川県の寒川町で小学校の1年から通ったのです。それが「ことばの壁」にぶつかった初めての経験でした。ちゃんと勉強すればよかったなぁとか(笑)正直にくやしかったですねぇ。ただし、小学校では子どもたちと触れ合って無邪気に遊んでいて、子ども同士でわからなくてけんかになったり、ということは全くなくて、「ことばの壁」を感じたことはありませんでした。これは、遊べばなんとかなる、という小学生時代だったから、ということがあるのでしょう。まわりがすぐに受け入れてくれて、外国人だからと差別されることもなかったですし。また、私の場合は、父親が日本人ですので、後で触れますが日本に来る外国人の多くが抱える問題、つまり、両親が日本語がわからないためにこどものサポートができない、ということもありませんでした。私の場合は、父親が学校との連絡など、母親ができない分すべてをサポートしてくれて。父親がいてくれて本当に良かったと思いました。母親からみるとさびしかったみたいですが。ことばを覚えるスピードも、子どもですから、まったく問題なく対応できて、すぐに覚えて・・。

再びブラジルで日本語を学ぶ

 ただ、1年後、祖母が危篤状態になったので、1992年にブラジルに戻ることになりました。1年と言う滞在期間ですが、私はポルトガル語を忘れていたのですね(笑)。だから今度はもどって、どうなるかと母親が心配する状況だったのですが、日本のほうが、算数のレベルが高いことなどもあって、問題はなかったです。本来なら4年生ですが、2年留年したというかたちで2年生になりました。適応には問題なく、また、日本語をすぐ忘れるくらいで(笑)。ただ、変わったといえるのは、自分の日本語に対する意識、ですね。将来のことも考えて、もっと日本語を勉強して、もう一度日本へ行きたいなぁという素直な気持ちで、日本語の勉強に取り組むことに決めました。日本のJICAの協力で、日本に来る外国人のための「日本語能力試験」があるのですが、パラ州にもあって、1級を取れれば日本に来るチケットがもらえる、ということで、それをまず目指そうと。3級を取得し、2級も取得し、1級にもチャレンジをしていこうと、勉強していました。

 ところが小学校5年生の時に、父親がまた日本に出稼ぎに行くことになり、私が日本とブラジルを行ったり来たりすることを繰り返していると将来にとって良くない、と心配した母が、ブラジルに残って勉強したければ自分も数年後に戻ってくるし、どちらでも自分で決めなさい、とまかせてくれました。私はブラジルで大学へ行くことも考えていて、本当は残りたかったのですが、正直まだ12歳なので、親と一緒にいたいという気持ちのほうが強く、将来のことはまたそのときに考えればいい、と考えて家族とともに日本へ来たわけです。

再来日で日本人の中に飛び込む

会場の様子 日本でまた、日本語テストを受けて、「あなたは平仮名もカタカナもできるし、結構できるねぇ」と6年生はやらずに飛び級をして中学生1年生に入りました。勉強は結構大変でしたが(笑)ことばも時間がたつと耳が慣れてコミュニケーションがとれるようになりました。ただ、中学生は大人になりかけている時期なので、遊んでいればコミュニケーションが取れた子ども時代とは違って、会話がとても重要になる。一番の不安は友達ができるかなということでした。コミュニケーションをとれる友達ですね、それが一番辛かった点です。私はシャイな部分があって、自分から、というのができなかったんです。そういうところは日本人ぽいと母親に言われるのですが・・・。でも、ここは自分で殻をやぶらなくてはいけない、みなさんのところに飛び込んでいかなくては、と思い、部活に入れば過ごす時間も増えると考えて、バレーボール部に入りました。土日も休みがなくて、かなりハードな部でしたけれど、その分コミュニケーション能力も高まって、みんなと過ごしているうちに日本の習慣とかを覚えたり・・・。ブラジルには無い「縦社会」、一番私はびっくりしました。今でもよくいわれるのが、初めてバレーボール部に見学に行ったとき、「見学していいよ」と言われて普通に座ってしまったんです。座ってはいけない、立って、立って、と友達に言われて(笑)先輩と後輩の関係など、日本独特の文化はやっぱり部活に入らなかったら分からなかったと感じました。ほんとにバレーボール部に入って、友達もたくさんできたし、先輩との交流を学べたり、よかったと思います。

 中2、中3ではそういう壁を感じることがなくて、すごくいい中学校生活が送れました。卒業したら就職するつもりだったのですが、急に中3になって、もう少し勉強したいなと高校に行くことにしました。でも勉強もしていなかったし、まだ漢字もそんなに読めなかったのでどうしようかなぁ、と不安があったのですが、先生が本当に親身になって考えてくれて、いろんな高校の情報を話してくれて。私の中学校には私の他にも、カンボジアやラオスから来ている生徒もいたので、週に一回市役所からそれぞれのことばを話せるひとたちが来てくれて、勉強の分からない所などをみてくれていたのです。それもすごくよかったなぁと思います。実は日本には、日本に来て3年未満の外国籍の学生に関しては特別枠で高校の受験ができるという制度があって、座間市のひばりが丘高等学校(今はなくなってしまいましたが)にその特別枠があると中学の英語の先生が見つけてくれまして、いっしょに説明会にも行ってくださって。その学校は10名の枠で、普通の受験生徒は別に試験を受けることができる。そこで、そこの学校の先生と話して情報を仕入れて、受験しました。20数名が受けて、面接と日本語、数学と英語の筆記テスト、で上位10名が入学できるのですが、私はなんとか受かって、入学したわけです。

高校から専門学校 そして社会人に

 高校生活は、勉強するというより、もっと学校生活に触れたい、日本人の中で勉強したいということの3年間でした。この高校には国際交流学科もあって、いろんな外国人の生徒が来ていて、フランス語とかスペイン語、中国語も選択科目にあり、勉強もすごく分かりやすくて、レベルについていけました。そこでまた、就職するか、進学するかを選ぶときに、私は就職を高校一年から第一志望にしていました。でも、高校2年生のときに、先生から「あなたの成績だったら、大学の推薦もできる」と言われて、それはとてもうれしかったのですが、家の事情もあって、就職一本で行きますと答えたのです。それを踏まえたうえで、ブラジルでも受けることのできた「日本語能力試験」の1級を取れば大学進学に有利になるから、勉強して取得してもいいのじゃない?ということで、チャレンジして1級を取りました。で、大学は4年間ですし、勉強するならもっと専門的なことをやろうかなぁと、高3で専門学校の進学コースを選びました。進学する専門学校は、専門的なことが勉強できることと、英語が勉強できる、あと、マナーが学べるという点で選びました。特に外国籍の学生は、日本のマナーが学べることがものすごく魅力です。謙譲語や尊敬語とかのことばの点でもそうですが、やはり日本のマナーは世界一と言われるくらいサービス業をめざすひとにとってもすばらしいものです。やりすぎる、っていうくらい(笑)そこで2年間、東京、神奈川だけでなく、茨城や大阪から来ている生徒もいて、そういうひとからも話を聞いて、考え方とか習慣を知り、ブラジルと同じで住む場所によって違いますから、いろんな人と触れ合うことができて勉強以外にも社会人になる前の準備段階を経験できました。勉強面でも英検やトーイック、観光英検、秘書検定などいろんなものを受けさせられました。使い物になるかどうか、ということより、第一印象として就職に有利になるのじゃないかと思ってやりました。外国人は、社会に出ると日本人より不利になることがあるので、履歴書に書けるものがあると、おー!と思われる、ちょっとしたダマシ(笑)、そう思ってどんどん受けて、先生にもお願いしますと、勉強させてもらって取れるものはみんな取って。でも漢字検定などは取れませんでした。3級を受けたんですけど、隣で小学生が受けているんです(笑)やはりむずかしいです。

「ことばの壁」を超えて

 実は先ほどもちょっと言いましたが、私は旅行が大好きなんです。さびしがりやなのでひとり旅はできないのですが。で、通訳の仕事をする前に、サービス業の旅行会社に勤めました。大手旅行会社の子会社でしたが、外国人向けマーケットを意識した会社だったため、外国籍の従業員が凄く多くて、配属された新宿店には25カ国語が話せるスタッフがいるというのがひとつの売りでした。私はその中で、南米セクションに配属されて、スペイン語とポルトガル語のお客様の対応をすることになりました。実はそれまで、早く日本の文化に溶け込まなくてはならないということで、ブラジルの文化からは遠ざかっていたために、ポルトガル語もあまり話せなくなっていました。サービス業としてビジネス用語などにも対応できなくてはならないのに、私のポルトガル語はきちんとしていなくて、そこでまた、「ことばの壁」を感じました。ポルトガル語を勉強しなくてはいけないと思いました。困りながら、なんとか日本語をミックスしながら対応していくうちに、ブラジル人顧客が増え、リピーターもどんどん増えて、商売ができたっていうか・・・(笑)仕事ができるようになりました。今までは、日本語をもっと勉強しなければいけない、日本国籍を取得して、ここで住んで行くのだから、ということで、ブラジルのことは、そんなに、まぁいいのかなぁ、と思っていたのです。でも南米セクションに配属されてからは、ブラジル人の問題とか、小さい時に壁にぶつかったことなど考えて、同じように困っている人たちがいるのじゃないかなと思いました。私の場合は2言語が話せて、もっとブラジル人のいるところに入り込んで、助けることができるかもしれない、と。自分の経験も踏まえて、こどもが学校に適応するとか、就職のこととか、悩んでいるひとに少しでも活動していきたいなぁという思いが芽生えてきました。もっとブラジル人と触れ合う仕事がしたいと、母親とも相談して、3年目に退社して通訳に転職しました。

 退職後通訳として働く前に、貯めたお金でチケット買ってあげるからいっしょに行って!と母親とブラジルに2カ月帰国しました。もう一度、親戚にあい、リオデジャネイロなどにも旅行しました。お世話になった日本語学校の先生に会って、将来は日本に居るブラジル人のための仕事がしたいと話し、パワーをもらってもどってきました。日本に帰国後就職活動して、通訳になりました。現在仕事をしている会社は大阪が本社の人材派遣会社ですが、日系人が多いために、ブラジルにも店舗を構えています。日本に居るブラジル2世や3世を仕事先に派遣するという企業、私以外にも何人かの通訳がいて、就職サポートや派遣先企業の面接時のサポートとか、なにか困ったとき、たとえば病院に行くとき、役所に行くときの付き添いをしたり、ビザ更新の手続きのお手伝いをしたり、そういう仕事をしております。

在日外国人の「雇用の壁」

 人材派遣会社で働くようになって、学校時代に感じた「ことばの壁」とは違う「雇用の壁」を感じるようになりました。ブラジル人に限らず、日本人でもそうなのですが、特に派遣という身分が安定していない。そういった雇用問題に、近くにいるからこそ見えてくる問題とか、いい部分もありますが、直面させられて、痛感しました。私は通訳をしているのですが、この不景気の時代、実は現場の仕事もしております。製造業の現場です。日本に来るブラジル人は日本語ができるわけではなく、働いてお金を得て国に帰るというひとが今でも多いのです。ですから製造業につくわけです。私も通訳のかたわら、ブラジル人といっしょに注射器の検査をする部署で1年間くらい働いたことがあります。あとは、土日に自動車部品の会社でアルバイトをしたり、ですね。そういうところでじかにみなさんの意見を聞くと、派遣会社の場合ですときちんとルールにのっとってやっていない会社もあって、特に外国人だと社会保険にも入れなかったり、すぐに解雇してしまったり、とか、契約もむすばなかったり、ことばの分からない分簡単にできてしまうのです。私の会社の場合は、契約もちゃんと翻訳して現地のことばと日本語との両方を渡すのですが。外国人は将来は自分の国へ帰る、という人が多いので、企業も正社員にするのは、と考えるのですが、雇用問題にはもっと目を向けてもらいたいと思います。長期雇用、たとえば、派遣社員ですと、紹介派遣という方法があって、数か月から数年の間、派遣として働けば正社員として雇用してもらえる。外国人だけでなく日本人に対しても、そういうことをもっとやっていけばいいのではないかと思います。

 ブラジル人については、昔は稼いでお金を貯めたら自分の国へ帰る、という考え方が多かったのですが、最近はマイホームを購入し、子どもたちも日本の学校に通わせて、ずっと日本に住んでいたいというかたも多くなってきています。そうすると雇用関係についても長い目で考える、そういう新しい考えを持たないといけないのではないか。私はそう感じています。これからは子どもだけでなく、親に対しても、雇用についてなどのサポートをしていきたい。日本人同様に税金もはらっているのですから、みなが住みやすい環境を社会全体で考えなくてはいけない。日本人も考えるし、外国人も日本のルールや社会に合わせていく、そういう両方の理解の上で良くなっていくことを願っています。

 最初にお話しした「ことばの壁」そして次にお話しした「雇用の壁」、そのふたつについて、これから私が何をできるか、少しでも力になれればと、つくづく思っております。

二つの文化を結ぶ

 今日チャンスをいただいて、少しでもブラジル人の現状について私の体験からお話ししましたが、ブラジル人に限らず私以上に壁にぶちあたっている外国人も多いと思います。日本に来てびっくりしたこともあるし、壁にぶちあたって辛いこともありました。なんで日本人とブラジル人のこどもにうまれたんだろう、と思った時期も実はありました。すぐにブラジルに帰りたい、学校に行きたくないと思ったり・・・。でも今は、ハーフというよりダブル、というような考えを持っていて、二つの文化を肌で感じることができる。日本にきて感謝しているのは、ひとの温かさ、です。日本人のかたがたは親身になって相手のことを考えてくれる。そういう文化だと思います。中学校にはいって、先生方や友達、市役所のかたたちとか、まわりの人たちーブラジルでは、役所に行って通訳がいるところなんて私が知る限り無いですから。私の住む秦野市の市役所には週に何回かスペイン語、ポルトガル語の通訳がいますし、ハローワークにも通訳がいます。神奈川県には、数十カ国語が話せるボランティア通訳がいて、電話一本でつながります。どんなに困っても対応できる団体もあります。そう考えると、日本の社会は非常に外国人にとっては住みやすい場所だと思います。両手を広げて受け入れてくれる、相手を理解しようとする文化があると思いますから、私は日本に来て本当によかった、日本のハーフであり、今は日本国籍であることを誇りに思っています。もうすぐ27歳になりますが、将来はもっといろんなことをしていきたいと思っております。もっともっと在日ブラジル人の中に入っていきたい。私のような通訳のいる派遣会社はたくさんあります。ことばができなくても病院に行ける、そういう環境ができています。ただし、それに甘えずに自分でももっとがんばる、ということをブラジル人に伝えたい、もっと日本文化を知って自立できるように背中を押したい、日本に住んで行くのであれば、ブラジル人の側からの努力も必要だということを訴えていきたいです。最後まで聞いてくださってありがとうございました。

以上

(文責:事務局)