地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2012・9月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「モンゴルの言語と文字の歴史」


● 2012年9月29日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス研究室棟研究会議室
● 話題提供:宮脇淳子先生(東洋史家・学術博士)


講演要旨

宮脇淳子先生はじめに:モンゴルという名称

 「モンゴル」の名称は、7世紀・唐代の文書に初めて現れるが、13世紀になって、それ以前の遊牧民を統合した名称となった。強い人物が出てきたときに、その一族と結婚によって結びつくことが行われて血がつながっていった。双方が娘をやりとりする「相互いとこ婚」であり、同じ姓の者とは結婚しない。強い者の姓を名乗りたがる。そうすることで親戚が増えていったため、モンゴルといっても、違うことばを話す人々も含まれていたと思われる。したがって、歴史上のモンゴルは民族名というより、部族連合と考えたほうが良い。


Ⅰモンゴルの文字
Ⅰ-1.モンゴル文字の誕生

 モンゴル帝国成立の2年前、1204年にテムジン(のちのチンギス・ハーン)が西方の遊牧部族ナイマンを滅ぼしたとき、タヤン・ハーンに仕えていたウイグル人顧問のタタトンガは、主人から預かっていた黄金の印章を懐にして逃げ出したが、モンゴル軍に捕らえられた。「印章は何に用いるものか」とテムジンに問われたタタトンガは、「財物の出し入れや、人の任命など、あらゆる文書に捺して、君主の命令の証拠とするものです」と説明した。テムジンは彼が気に入り、側近にして、命令書には印章を捺すことにした。またテムジンは、タタトンガに命じて、息子たちに、ウイグル文字のアルファベットを使ってモンゴル語を書くことを教えさせた。これが現在まで通用している縦書きのモンゴル文字の起源である。(『元史』の記事による)

ウイグル文字モンゴル語
ウイグル文字モンゴル語


Ⅰ-2.モンゴル文字の起源は地中海

 このようにモンゴル語を書写するために借りたウイグル文字は、もともとは中央アジアのサマルカンドを中心に活躍したソグド人の文字で、ソグド文字の起源は、北セム系のアラム文字である。全てのアルファベットの祖であるエジプトのヒエログリフを源として、シリアに誕生したアラム語アラム文字は、BC8世紀末から、アッシリア、バビロニア、アケメネス朝で外交用語・公用語として用いられたので、中央アジアにまで広く伝播した。『聖書』のアーメンもアラム語である。文字がアルファベットとして簡易だったので、さまざまな言語が書写語に利用した。現在のアラビア文字も同起源で、ソグド文字は右から左に横書きで書いたが、ウイグル人が漢字混じりで書くようになって、縦書きになる。

アラム文字
アラム文字

ソグド文字
ソグド文字

ウイグル文字
ウイグル文字

 ソグド文字はアラビア文字と同じく子音のみである。これは、元来文字とは、知っている言葉を「覚えのためにメモするもの」であって、知らない言語を表記するものではないからだと考える。したがって、子音だけで足りるわけである。また、文字が伝播するのは、宗教を伝えるためだと考える。どうしても伝えたい内容=経典を表記するためなのである。

 ちなみに、現在の新疆ウイグル自治区のウイグル人は、清朝時代には固有の民族名称を持たず、単にイスラム教徒と呼ばれた人々で、ロシア革命のあと1921年に古代のウイグルという名前を復活させた。チンギス・ハーンが支配下に入れたウイグル人(仏教徒)と直接の関係はない。そもそも、「民族」は19世紀に出来た観念である。モンゴル帝国当時「ウイグル民族」という考え方はなかった。中央アジアに沢山の民族が成立したのは、1917年のロシア革命後、「民族確定会議」が開かれ、キルギス民族、カザフ民族などが定められたからである。混血している人々については、本人に所属民族を選ばせたのである。

『元朝秘史』
『元朝秘史』
モンゴル語の題は『モンゴルン・ニウチャ・トブチャアン』と言うが、
モンゴル文字の原本は見つかっておらず、原文のモンゴル語を、
日本語の万葉仮名のように、一音ずつ漢字で写し、その脇に漢文で一語ずつの直訳を付け、
一節ごとに漢文で意訳を付けたテキストだけが現存している。


Ⅰ-3.パクパ文字からハングルへ、モンゴル文字から満洲文字とオイラト文字へ

 1206年に建国されたモンゴル帝国第五代君主、チンギス・ハーンの孫のフビライは、漢地を領土に入れて元朝を建てた。フビライはチベット人高僧パクパに国師の称号を授け、元帝国のあらゆる言語を書き表すために「蒙古新字」を作らせたのがパクパ文字である。1269年から使用した。チベット文字を縦書きにし、母音を独立させて子音の下に書く。左から右へ書く。

パクパ文字
パクパ文字

 元朝の支配下にあった高麗王国にもパクパ文字は伝わり、高麗朝に代わった朝鮮の世宗王が独力で創ったのがハングル文字で、『訓民正音』という解説書が1446年に公布された。一方、17世紀にモンゴル遊牧民を支配下に入れて清朝を建国した満洲人は、縦書きモンゴル文字を借りて満洲語を書写した。清初のバクシ(学者)たちは、満洲・モンゴル・漢語に通じており、1599年ヌルハチがモンゴル文字を使うように命じ、のち圏点のついた満洲文字が生まれた。西モンゴル族のオイラトは、1648年高僧ザヤ・パンディタがトド(明瞭な)文字を作成した。

訓民正音 現代のハングル文字

清朝時代の満洲文字とモンゴル文字

オイラト文字/現代カルムイク語

モンゴルのソヨンボ文字
モンゴルのソヨンボ文字


Ⅰ-4.コンピューターにモンゴル文字を載せるときの困難

 ウイグル文字を借りた縦書きのモンゴル文字の表記では二つの字を同じ文字で書くことがある。ひとつの文字を辞書で引くとき4通り引かなくてはならないことがある。起源がソグド文字で、子音しか書いてなかったところに母音の形が後から加わったために文字が足りなくなってこういう問題が生じている。しかも、語頭と真ん中と語末では字体が違う。そのためにコンピューターに乗せるときに難しくなる。私も、語の前にスペースが来た時にはこの字、上下に文字があるときにはこの字、というようなことを数式化し、コンピューターに覚えさせて変換できるようにした。しかしやはり学問的記述などに使うのは難しく、飾り文字としてしかコンピューターには載らないように思う。

 17世紀からモンゴル人が書き留めた歴史書「モンゴル年代記」はすべてこういう文字で書かれているので、今のウランバートルのモンゴル人は勉強しないと読めない。日本人も万葉仮名や草書体が読めるわけではないが。


Ⅱモンゴルのことば
Ⅱ-1.中央ユーラシア草原で遊牧騎馬民が誕生する

 モンゴルのことばといっても、800年前にどんなことばを話していたか分かるかと言うとむずかしい。そもそも、モンゴル人とはだれかという問題がある。チンギス・ハーン自身、色々なところから奥さんをもらっている。その人たちがみな、同じことばを話しただろうか。

 まず、モンゴル人とは何かを考えてみよう。
BC8000年頃 西アジアのザグロス山脈で人類最初の農耕が始まる。羊と山羊と牛の家畜化。
BC4000年頃 今のウクライナの草原で野生種の馬がはじめて家畜化される。
BC3500年頃 メソポタミアで車両が発明される。はじめは去勢牛が引いていたらしい。
BC2000年過ぎ 草原地帯で輻式(スポーク式)車輪が発明され、古代戦車が登場する。
BC1000年紀前後 人が馬に乗り広い草原で家畜を追って生活する騎馬遊牧が始まる。
黒海北岸から北コーカサス、ヴォルガ河を越えてカスピ海の東、今のカザフスタンを横切り、アルタイ山脈を越えて、モンゴル高原の東の大興安嶺山脈まで、北は南シベリアからバイカル湖、南は天山山脈から黄河湾曲部までが、遊牧騎馬民が活躍する中央ユーラシア草原だった。


Ⅱ-2.モンゴルの継承国家

宮脇淳子先生  モンゴルの継承国家は帝国があったところ全部に広がっている。トルコ共和国の祖先はオスマンで、オスマン帝国の長はチンギス・ハーンの血は引いていないもののモンゴルの将軍の血筋である。ロシアについてはモスクワ公が、モンゴルの姫をもらって結婚しているので、モスクワ・ツァーリは母方がモンゴル人である。ムガール帝国の祖ティムールは、自身がモンゴル人で、チャガタイの姫を奥さんにもらっている。そのためペルシャ語でモンゴルを意味するムガールと呼ばれている。これが北インドに入ってムガール朝になるので、インドにもモンゴルの影響がある。カザフもキルギスもウズベクも、チンギス・ハーンの子孫が君主で、下々のものはともかく、貴族階級は直系のモンゴルの子孫である。元朝は、1368年明にとってかわられたが、元朝のフビライの子孫は北に逃げ、これを北元と呼ぶ。明はこれを無かったことに、つまりモンゴル人は全員死に絶えたということにして、「韃靼(ダッタン)=ロシア語ではタタール」と呼び替えた。韃靼はもともとモンゴルより以前にいた遊牧民である。もし逃げたモンゴル人を蒙古と呼ぶと、自分たち・明が簒奪者で、正統は北にあることになってしまう、そこで、モンゴル人は死に絶え、今いるのは何の血のつながりもない韃靼人であると明史で書いたわけである。

 しかし、清朝になると、明のいう韃靼とは、蒙古のことである、とまた書きなおす。なぜなら、清朝は、チンギス・ハーンの子孫から玉璽をもらって君主になるから、正統を引き継いだということになる。清朝は全てのモンゴルの血筋を家来にしたが、中華民国になった時に、モンゴル人たちは、我々は満洲の皇帝の家来だったが漢人の家来ではない、と主張して独立宣言をし、現在のモンゴル国になった。漢人の支配から脱却しきれなかった人々が現在の内モンゴルなのである。つまり、内モンゴルは満洲鉄道や漢人の軍閥・軍隊がすぐそばにあったために独立できなかったのだが、現在のモンゴル国はゴビ砂漠を隔てているし、ロシアとソ連の援助もあって独立できたのである。

 このように、中央アジア諸国、ロシア、モンゴル、中華人民共和国、もちろん内モンゴル自治区、トルコ共和国、それらはたどっていくと全部チンギス・ハーンの何かにつながる。イランも認めてはいないが、本当はモンゴルの文化を受け継いでいる。中国も認めてはいないが、モンゴル文化を受け継いでいる。なぜなら、明代、北に逃げなかったモンゴルの軍隊は明の軍隊に編入されたからである。明の軍隊の長官は次第に漢人の名前を名乗るようになるが、系図をたどるとほとんど遊牧民の出自である。また、10進法で村の隣組制度を決めるとか、10進法で徴税の仕組みができているとか、明の制度はモンゴルの制度を受け継いでいる。


モンゴル帝国地図


Ⅱ-3.モンゴル人の暮らしー遊牧生活

 さて、遊牧民はどんな言語を話したか。我々は言語とかことばというと、源氏物語まで遡ることのできる文化度の高い、書きことば、という意識が強いのだが、遊牧民や、下層の中国人などは文学書が読めなくてもしゃべっているのがことばである。チンギス・ハーンは文字が読めなかった。臣下にはペルシャ文字やウイグル文字、漢字を読める人間がいた。そういう人物はチンギス・ハーンと何語でしゃべったのか。チンギス・ハーンも何語であれ、片言であっても分かったはずである。今でもモンゴル人は遊牧民でもロシア語のテレビ・ラジオがわかるという。しかし、正確な文法で話せるか、といえば、それは別の話である。色々なことばができないと中央ユーラシア草原では生きて行くことができない。

 ミヌシンスク、イシククル、パジリクなど、古墳の考古学発掘調査がおこなわれた場所は、年間降雨量200~300ミリの実質的草原と、もう少し降雨量の多い農耕地帯との接状地帯で、そういう辺縁の地帯に高い文化があったと考えられる。小麦が取れたり、王が住んでいたりする場所だった。

(モンゴルの画像をみながら)
 ゲル(モンゴルの家・フェルトのテント)は女のものである。女は家から離れず、家の一切を管理する。遊牧民の夫婦がケンカをすると、夫が「俺は出ていくぞ」という。放牧は男の仕事なので夫がいないと明日から困るから、これは充分な脅しになる。ゲルがふたつくらいあり、後ろの木の家は倉庫―これくらいがひとつの遊牧単位である。パオというのは中国の言い方で、満洲語のボー(家房の意味)を漢字に移してパオ(包)と言っているだけである。

 ゲルは井戸か、河のそばに設営される。砂嵐が春にはしょっちゅう来る。ひとつのゲルには両親と子ども2、3人しか寝られない。それだけだと男手がひとりしかいない。「馬」次に「ヒツジとヤギ」、次に「牛」、場所によっては「ラクダ」(五畜という)を順々に放牧して行くには少なくとも3人の男手が必要なので、結婚した息子とか、仲のいい男友達などと2、3家族が組む。そこでゲルが2~3というのが1単位になるわけである。それを家族=アイルという。

 夏だけ雨が降るため、河岸に集まってナーダム(お祭り)ができる。夏だけ、相撲を取る。春秋は家畜に草を食べさせるためにちらばって暮らすが、冬は決まった場所に戻る。そういう一年である。降雨量が少ないため、草はぱらぱらとしか生えず、茶色い草原だが、草の栄養価は非常に高い。

 (画面を示し)これがモンゴルのノウマ(野馬)で、ブルジェワルスキー馬=馬の祖型だが、実はいったん絶滅した。そこでドイツの動物園に居たものを連れて来て、モンゴルの草原でもう一度繁殖させたのである。馬が家畜になったのは、ヒツジやヤギ、牛よりも新しく、農耕が始まって以降のことである。紀元前4000年に馬の歯の隙間に綱を入れて手綱にし、人が乗るようになった。マルクス主義が遊牧は遅れている、文化=農耕、定住することがcivilizationだとし、基本的にそれが「近代化」だったのだが、実は農耕より騎馬遊牧のほうが新しく起こったことなのであり、遊牧民が遅れているから定住させようというのは間違いである。定住政策のためにアラル海は三分の一になるし、カザフスタンには環境破壊が起こった。内モンゴルも草原が荒れ果てた。あの降雨量の少ない乾燥地帯では、実は遊牧が最も環境負荷の少ない生業なのである。社会主義が発展段階説を取り、まだ移動して暮らしているのは遅れた段階だとしてやめさせて都市労働者にしようと、20世紀に一気にそれを行った結果、環境破壊が起こり、日本やアラスカにまで黄砂が飛んでくるほどになったのである。マルクス主義の誤りということは戦後わかったのだがもとにはもどらない。カザフスタンはソ連が羊を殺したり、鉄道を引いて移動できなくしたために、もはや遊牧はない。モンゴルだけが、古い形の遊牧を今なお残しているのである。

 鐙(あぶみ)は実は遊牧民の発明ではなく、馬を輸入したがうまく乗れない農耕民のところで発明された。だから、日本の古墳から出土する鐙は片方だけで、日本には遊牧騎馬民は入らなかったことがわかる。従って天皇は遊牧騎馬民の子孫ではない、という説になる。

 (画面を示し)現在の南ロシア・パジリクの古墳から出てきたフェルトのアップリケの男は、どう見てもコーカソイドの顔つきをしている。この古墳は作られたばかりの時に泥棒が真上から入り、穴をあけたので、雨水が入って、氷漬けで保存された。車輪やフェルト、遺体も皮膚がそのまま残っており、動物の形をした刺青が発見された。40~50代の族長らしく、今のカザフ人、つまりモンゴロイドの骨格に近い。隣に埋葬されていた奥さんはコーカソイド、つまりヨーロッパ風の骨格の人だった。

 これはギリシャの壺だが、騎馬のスキタイ人を表しているが、足をぶらぶらさせている。モンゴル人はじめ騎馬民が戦争で弓を射る時は、後ろを向いて射る。正面から射ると自分も怪我をするかもしれないので、すれ違った後で振り返って射る。この絵でも落馬しないように腰に手綱をくくりつけている。

 ササン朝ペルシャの4世紀の皿で、やはり(皿絵の騎馬像に)鐙がない。後ろを向いて動物を射っている。鐙は鞍とともに4世紀後半に今の北中国のオルドスあたりで片方だけの形で発明された。鐙ができると鞍が必要になるので、それまでは鞍もなかった。


会場の様子


Ⅱ-4.遊牧民の言語はアルタイ系?

 遊牧騎馬民文化の特徴のひとつに黄金製品がある。そもそも、アルタイ系言語という名称は、インド=ヨーロッパ系言語と対抗してできたもので、アルトゥンはトルコ語、モンゴル語で「金」を、アルタイは「金がある」ことを意味している。17世紀、コサックがシベリアに来た時、古墳を発掘して金を採取しまくった。途中でピョートル大帝がシベリア・コレクションにし、今エルミタージュに収められているがその何倍もの金が溶かされたと言われる。現在のカザフ共和国のイシク古墳(イシククルという湖はキルギス共和国にある)から出土した被葬者は、馬に乗ったときに足が痛まないようにする脚絆をつけている。それらも金で作られているのである。

 へロドトスが描写する遊牧騎馬民スキタイと、BC3世紀に黒海北岸に来たサウロマタイはインド=ヨーロッパ語族に属するイラン系言語を話したといわれている。10世紀頃からトルコ系遊牧民がオアシス地帯に進出して定着し、インド=ヨーロッパ系に代わりトルコ系言語を話す住民が主流になる。モンゴル語は、トルコ語、満洲・トゥングース語とともにアルタイ系言語と総称されるが、祖語が同じであると言語学的に証明されたわけではない。アルタイ系言語という名称が独り歩きしている感がある。

 アルタイ系といわれる言語群は語順が同じで文法もよく似ている。後置詞のテニオハもある。が、語彙は借用語かもしれない。祖語が同じかどうかは疑問がある、という言語学者も多い。なぜこの呼び方が定着しているかと言うと、これはインド=ヨーロッパ語族に対してフィンランドの言語学者が作った名称なのである。アルタイというのは、アルタイ山脈がトルコ語とモンゴル語の接状地帯であることから総称としてふさわしいとして用いられた。トルコ語とモンゴル語が良く似ている、というのもおかしい話で、もともとどちらもモンゴル帝国だったからではないか。満洲・トゥングース語も同じく狩猟民だが、朝鮮語を入れる人も多い。日本語も以前はアルタイ系と言われていたが、最近は疑問を持たれている。

 中央ユーラシア草原には、仏教、ゾロアスター教、マニ教(明教)、ネストリウス派キリスト教、イスラム教等が伝播したが、遊牧民はもとシャマニズム(巫術)を信奉していた。経典を伝えたいので文字を習う、文字ができたら、自分たちのことばを書く、というかたちで、文字の共通性は非常に大きい。しかし言語は、もともと沢山のことばがあり、それが次第にひとつの言語になっていったと考える方が実際に近いのではないかと考える。だから、現在でもモンゴル語にあれほど沢山の方言が残っている。発音も違っている。しかし共通語、ということで上からかぶさっていくと、便利なためにそちらをよく使うようになり、そちらへ同化していく。今はモンゴル語、トルコ語、トゥングース語が残ったが、昔はもっと沢山のことばが話されていたのではないかと考えている。しかし、言語学者は祖語から分かれたプロトタイプは何か、などと考えたがる。それは、言語学がもともと、インド=ヨーロッパ語族の研究から始まっているからである。

 北インド諸語とラテン語、ギリシャ語はアクア、アカなどを例に共通語が多い。インド=ヨーロッパ語族の祖先は中央アジアにいた遊牧民で、その一部が南下して北インドに入り、一部が西に行ってサウロマタイやスキタイ、ゲルマンになった。そこで北インド諸語とヨーロッパ語と共通語がある、という説である。それ以外の言語がどうだったかということで、このアルタイ系言語や、フィン=ウゴール系言語などが考えられたのである。しかし、それらの言語が、インド・ヨーロッパ系言語と同じような発展の仕方をしたかどうかは非常にあやしいのではないか。アルタイ語系の言語学者の中でも大議論が起こっている。栗林均さん(東北大学)のモデルでは、3つある、それのどれも疑問符がついている。私自身は、言語学が専門ではないが、遊牧民は互いに交流するから、ひとつの祖語から分かれたと単純には言えないのではないか、遊牧で交流して借用語が増え、したがって非常に似てはくるが、もとがひとつだけ、そこから分かれたとは言えないのではないかと考えている。

以上

(文責:事務局)