地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2012・10月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「北朝鮮で暮らすということ」


● 2012年10月27日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス大学院棟234教室
● 話題提供:韓錫圭氏 解説:高柳俊男先生(法政大学)


講演要旨
Ⅰ 解説:高柳俊男先生(朝鮮近現代史)

 韓錫圭さんの書かれた『日本から「北」に帰った人の物語』の巻末に、「解説にかえて」というタイトルで、私の考えを綴ったものが20ページほど載っております。参考にしていただけたらと思います。今日は、私の書いた「帰国事業50周年に思う」(『光射せ』第4号)と、『アサヒグラフ』1959年9月13日号掲載の「『朝鮮』を出版した人々」のコピーを資料としてお配りしました。これも後でご参考までお読みください。

 この「北朝鮮帰国事業」というのが、50年以上も前の話ですので、今ではわかりにくくなっているということがあります。当時の話、今の話、それから、「地球ことば村」の会ですので、「ことば」の面でも少し触れたいと思います。

 1959年から北朝鮮帰国事業が始まりました。戦前、朝鮮半島は日本の植民地でしたので、日本に働き口を求めてやってくるとか、戦時中は労働力不足を補うために強制的に連れてこられた人たちが、日本敗戦時にだいたい200万人ほどいました。そのうち3分の2くらいは戦後すぐに帰るわけです。のこり3分の1が残って、今の在日朝鮮人の原型になります。あるいは戦後の早い時期に、朝鮮半島での南北の対立、済州島での民衆反乱、朝鮮戦争など危険な状況から逃れて、新たに日本へ渡って来た人たちもいます。また、戦後いったん帰ったけれど、そういう危険な状況や経済状況の悪さから舞い戻る、または別れた家族と再会するために再び日本へ戻って来た人もいます。在日韓国・朝鮮人、今ですと、在日コリアンという言い方が一般的になったかもしれませんが、その中には、戦前からいる人、戦後すぐ渡ってきた人、あるいはここ20年くらいにニューカマーとしてやってきて定着する人という具合に、いくつかの層があります。

 日本と朝鮮半島の間は海があるとはいえ、そう距離があるわけではないので、古代以来たくさんの人が渡ってきて密接な関係があったわけですが、この帰国事業は、「帰国」というより「移民」という色彩が濃いと思います。というのは1959年から北朝鮮に、日本国籍の妻や子どもも含め、だいたい9万3千人くらい渡って行ったのですが、そういう人たちは決してもともと北朝鮮に住んでいて何らかの事情で日本内地へ来て、また戻った、というわけではありません。祖先の古里が北朝鮮だという人もごく一部いましたが、ほとんどの人は現在の韓国、つまり北緯38度線以南が出身地です。いま在日韓国・朝鮮人に本人ないし先祖の出身地を尋ねて北朝鮮の地名を挙げる人に出会ったら、それはすごく珍しいことで、全体の5%もいないでしょうね。38度線より南から来た人たちが約95%です。そのことと、朝鮮総連や北朝鮮を支持するということは、全く別の問題です。あるいは、国籍上、「韓国」になっているか「朝鮮」になっているかというのも、全く別の問題です。

 では、植民地時代に朝鮮半島北部の人たちは移動しなかったのかというと、河を渡って、現在の中国とか、ソ連などに移動して行ったわけです。ご承知のように、中国にも朝鮮族と呼ばれる人たちが200万人くらいいて、そのうち5万人くらいの朝鮮族はいま日本で暮らしています。ソ連に渡っていった人たちは、1937年にスターリンの命令によって中央アジアのカザフスタン、ウズベキスタンなどに強制移住させられましたので、今30万人くらいの朝鮮民族(高麗人)が中央アジアに暮らしています。

 ですから、半島南部の人が日本に渡って来て、帰国事業で半島北部へさらに渡った、ということで2度の移住を経験している訳です。同じ朝鮮人ではありますが、やはり体制が日本は資本主義、北朝鮮は社会主義と違います。あるいは日本にいた時より経済状況が圧倒的に悪かったと思いますし、ことばももちろん違う。いろんな面で異文化の中へ投げ込まれた、と言えます。一世はともかく、二世世代にとって、それはなおさらでしょう。日本を経由して、ある種の異分子として行ったと言えるのだと思います。当然そこには不適応が生じたり、あるいは体制や社会からある種の偏見や警戒のまなざしをもって見られたりして、大変な苦労をすることになるわけです。

 今日は嬉しいことに、私の大学の学生さんも参加してくれていますが、授業の中でこういう北朝鮮帰国事業のことを話しても非常にわかりにくいのです。というのは、今の目で見ると、北朝鮮についてはいい話題がありません。経済的にも厳しいし、政治的にも自由が無いような土地に、なんでわざわざ行ったのか。一方、日本はいま経済状況が悪いと言っても、食べていくには困らない中で暮らしていると、この日本を捨てて、なぜあんな北朝鮮へ行ったのか、理解が難しいのです。しかも、もともと北にいた人が帰ったのではなく、現在の韓国の地域から来た人が北へ「帰った」ということですから、よけいになぜそんなことをしたのかがわかりにくい。しかし、それをきちんと理解する、まずは当時の文脈に沿って背景をきちんと理解することが大事だと思います。

 そもそも日本も、1959年当時は高度経済成長以前で貧しかった。社会保障も充分に行き届いていないし、在日韓国・朝鮮人はさまざまな差別を受けていた。一方で当時は、社会主義全体が輝かしく見えていた時代です。とくに韓国は軍事独裁政権だったので、それに対して北の方が発展しているようなイメージがありました。日本の中でも左翼的な人が多くそう思っていましたが、全体としても北朝鮮の評価やイメージはそれなりに高かったのです。そういう時代の中で、この日本で苦労するよりは思い切って北朝鮮に行って新しい国家の建設に尽くそう、という考えで渡って行った人が多かったのです。

 お配りした『アサヒグラフ』のコピーには、なつかしい人たちが計8人掲載されています。これがちょうど1959年9月ですから、まさに帰国事業が始まる時ですね。もう帰還協定が結ばれて、これから帰国希望者を募る募集になります。とくにこの8人の中でも、寺尾五郎さんは『38度線の北』を出版した人です。新日本出版社から出ていますね、つまり日本共産党と朝鮮労働党がまだ仲が良かった時代です。実際に寺尾さんは北朝鮮に行って、この本を書いた。在日朝鮮人はもともと南からきている人たちですし、北朝鮮へ帰国するときも片道切符だったため、在日朝鮮人で北朝鮮を実際に見た人って、まずいないわけです。行って帰ってくるとか、自由に往来するなど、当時はできないわけです。ですから、日本人が実際に北朝鮮へ行って、そのすばらしさを書いたこの本が、帰国事業に大変大きな役割を果たしました。これを見て、「こんないいところならぜひ行こう」と決めた在日の人たちがかなりいただろうと思います。

 当時、在日の一番有名な言論人は、寺尾五郎さんの隣に掲載されている作家の金達寿(キム・ダルス)さんですが、彼の記事の終わりに、「いずれは私も兄の家族のあとを追って故国へ帰るだろう(中略)私にはまだこの日本でしなければならない仕事があるがこの仕事が終わったら、私は一人の労働者として帰りたいと思っている」とあります。金達寿さんはこれをあちこちで言っています。かの金達寿さんですら、自分もやがて北に帰ると、しかもそのときは作家ではなく一介の労働者として帰るのだ、と強調しているのです。ほかに、在野の在日朝鮮人史研究をリードすることになる、若き日の朴慶植(パク・キョンシク)さんも、「私は教師ですから帰国も遅れると思いますが、日本にいる間に近代の日朝関係を明らかにして、両国の友好に役立つよう勉強をしていきたいと思っております」と書いていますね。実際には2人とも帰らず、日本に残って亡くなりましたが、当時は在日の多くの人たちが帰ろうという気になった。そういう時代的な雰囲気だったのです。もちろん韓国系の人はそうではありませんでした。逆に韓国系の人たちは「北送」と呼んでいました。北朝鮮や朝鮮総連は「帰国」と言い、日本政府や赤十字は、日朝間に国交がないため「帰還」事業と言っていました。それに対して、韓国や民団は「北送」と言って、自分たちの同胞を北の地獄のようなところへ無理やり送っているのだとして反対し、帰還船が出る新潟の手前で線路の枕木に身を横たえて、品川からの帰還専用列車の通行を妨害したりしました。

 帰国した人々はその後、どうなったのか。実際には現実は厳しく、期待したような国ではなかったということがその直後から明らかになってくるわけです。その問題は決して過去の話ではなくて、現在も続いている重大な問題です。これについては、このあとの韓錫圭さんの体験を踏まえたお話に、全面的に譲りたいと思います。 最後に、「ことば」のことで言いますと、第三国を経由してまた日本に戻って来た「脱北帰国者」の人たちがいま200人ほどいるようですが、そのうち北朝鮮で生まれた二世三世の人たちに、日本語の問題が出てくるわけです。ちょうど、中国残留孤児の二世三世と同じようにです。逆に、日本語が上手になると今度は朝鮮語を忘れてしまう現象もあり、母語保障という問題も出てきます。そういう意味で、今日の韓さんのお話は、ことばの問題にも繋がってくると思います。


II 講演「北朝鮮で暮らすということ」:韓錫圭氏

 初めまして。韓錫圭と申します。これはペンネームです。私はまだ本名を明かせる立場に立っておりませんのでご理解をいただきます。


なぜ、日本へ戻って来たのか

 私はよく質問をされます。「なぜ、日本へ戻ってきたのですか」と。1959年から始まった帰国事業は、在日朝鮮人だけの問題ではありませんでした。在日朝鮮人を代表する朝鮮総連が北朝鮮とどういう約束をしていたか、そこまで私は知りません。けれども、朝鮮総連も在日朝鮮人に良かれと思って進めた事業だ、と私は理解しておりました。帰国事業が始まる前から、第二次世界大戦が終わった後、日本に2百万ほどいた在日朝鮮人は祖国が解放された!とどんどん帰りました。行ってみたら現実に合わなくてまたリターンしてきた人たちもいました。そういうどさくさが一応落ち着いたのが50年代の後半期で、その頃は在日朝鮮人60万人と言われました。その中にはリターンしてきたモグリとかいましたから、当時在日朝鮮人の間では70万人くらいいるのじゃないか、と言われておりました。

 そういう状況の中で、日本政府は日本政府として、在日朝鮮人の問題にすごく頭を痛めていたわけです。表面では表現できなくても、国際赤十字にいろいろとお伺いを立てていた訳です。在日朝鮮人問題を何とか処理する方法がないものか、と秘密裏に運動を行っておりました。結局、日本政府と、朝鮮総連と、北朝鮮の利害関係がいっしょに、繋がったと言いますか、その結果として帰国事業が実現したのだと、私としては理解しておりました。だから、私自身は北朝鮮に行きましたが、行った時点までは誰かを責めようとは思いませんでした。帰国事業が始まってすぐから、おかしいのではないか、ということは分かりだしてきたのです。どうしてか。行った人たちが向こうの想像もしていなかった現実にあわてふためいて、日本へ援助を求めだしたわけです。それは、帰国してからすぐ始まりました。朝鮮総連が宣伝するとき 北朝鮮へ行ったら、自分の希望する職業につけますよ、教育はただですよ、医療費はただですよ、住宅も保障されますよ、そういういろいろな絵を描いたわけなのですが、向こうへ行った人たちからすぐに、自分の親兄弟、親戚に向かって経済的援助を求めだした。それは不思議だと思わなければダメなわけですよね。

 朝鮮総連は組織を作るときに打ち出したスローガンが、在日朝鮮人の生活の安全と民族的権利のため、民族教育のため、という根本的な目標があったわけです。そこに則って考えたら、行った人たちの、行った後のことも考えなくてはならないはずなのに朝鮮総連は一方的に行かせるだけだった。59年12月14日から始まった帰国事業が1984年度まで続きましたから数10年の間続いたわけです。少しは途切れましたが。それをどうして、おかしいな、と思った時点でストップしなかったのか。私の疑問はそれでした。私自身が船に乗って行ってみて、朝鮮総連は何をやっているのだ、本当に在日のための組織なのか。どうしてストップをかけないのか。しかし誰もそれについて動いた形跡がありませんでした。

 私は自分自身が行って、最後に、どうしてもこの国を脱出しなければならない、と決心したのはどうしてか。あまりにも閉ざされてシャットアウトされている国だから、外の世界では誰も北朝鮮の中の事情を知らない、だから、本当のことを誰かが知らせなければダメなんだ、知った上でどうしてくれるか、は知った人たちが考えてくれることだけれど、私には伝えなければならない義務がある、そう思っておりました。脱北ということは、ほかの脱北者にもお会いになればわかると思いますが、命をかけないとできないことです。自分が日本へたどり着く前に死んでもいい。それくらいの覚悟がないと動けません。沢山の人もまた、死んでいます。あの豆満江(トウマンガン、中朝国境の川)を越える時、自分でおぼれて死んだ人もいますし、狙撃されて死んだ人もいます。色々な死者をたくさん出しています。本当にたどり着けたのは幸運の中の幸運。私はそういう状況で日本へ帰ってきました。


「日本から『北』へ帰った人の物語」を書く

 私が日本へ帰ってきて最初にやったことが、「日本から『北』へ帰った人の物語」の本を書くことでした。その頃、私は母と一緒に地方の故郷にいました。日本へ帰って初めにやったことがパソコンを買うことでした。私は自分一人で北朝鮮に行きましたので、親兄弟はそのまま日本に居たわけです。パソコンを買うと言ったら、弟達が「姉ちゃん、何を言ってるんだ、年はいくつなんだよ、パソコンなんか何にするんだ!」というんですよね。「日本でずっと生きて来た俺達だってパソコンをやっていない、姉ちゃんが今更何すると言うんだ?」でも私はどうしてもパソコンが欲しかった。で、自分で買いました。買うのに協力してくださった方が、ローマ字打ちの方法を教えて下さいました。それだけ教わり、あとは自分で勝手にやって、あの本を一冊書きました。

 どこで出せばいいか分からないから、母のところにあった本の後ろを開けて出版社のリストを作りました。最初に送ったのが講談社でした。講談社編集部から返事が来て、「とてもいい内容だとは思います。でもわが社では今出版する状況にはありません。他の出版社なら出版できるでしょう。」それを読んだ時、私は頭にカチンと来て、いい本なら、テメェの所で出せばいいじゃないか!(笑)自分は出さないのに、どうしてよその出版社が出してくれるって言えるんだと不快に思って。でも、断られたのですからしょうがないです、その次にリストにあったのが今の出版社でした。どういう出版社か、私には分からないけれど、送ったわけです。送ると同時に、もしもこの原稿を出版するつもりがなかったらそう伝えて下さい、それなら、今度は複数の出版社に同時に送りますから、と。私はどうしても出したかったので。そうしたら社長さんからお返事があって、それはストップしてください、こちらで何とか致しますからと。その後、ご縁があって東京に参りました。先ほど言った、日本でやらなければならないことが、地方に居てはちょっと無理なんじゃないか、と思いましたから。上京してきて色々な方のご協力のもとにあの本が出たのです。

 あの本を読んでくだされば、少しは、理解していただけるかと思います。行った人たちがどういう状況になったのかを。私が特に言いたかったことは、当時の在日朝鮮人が色々な雰囲気の中で、帰国事業は国を挙げての事業でした。お祭り騒ぎ、どんちゃん騒ぎの中で送られて行きました。海の向こうに待っている生活がどんな生活なのか誰も知らなかったのです。行った人たちの運命がどうなったか、それを広い世界に知らせたいと思ったから本を書いたわけです。それと同時に、私の周りであまりにもたくさんの帰国者が亡くなった。本当に不運な色々な状況の中で。精神に異常をきたしたり、法にひっかかったり、病気になったり、たくさんの人たちが亡くなりました。私は私の書いた本の中ででも、彼らに生きていてほしい。本当にひとことも言えずに、胸が張り裂けそうになってもひとことの言葉も発せられないで亡くなった方々が私の書いた本の中ででも、生きていて欲しい。それを願ってあの本を書きました。場所とか名前とかは違います。違いますが、書いた内容は、嘘は一切ありません。どうして証明できるか。最近になって、ある脱北者の方があの本を読みました。そうしたら、本の中に、自分の知っている方のことが書いてあったのです。偶然私の書いた方がその人の知り合いだったのです。本を読んだその人が私に何と言ったか。「あれほど正確に再現できるというのは不思議です。本当に嘘偽りない、ひとつも加えることも削ることのない現実をそのまま書いてくださった」そう評価してくださったのです。ですから、あぁ、そうか、私は自分で書こうと思った内容を少しは書けたのだ、と思っておりました。もうひとつ本を出しておりますし、高柳先生が持っていらした「光射せ」にも何篇か、短編として書いております。


今していること―北朝鮮で見たこと考えたことを伝える活動・脱北者支援活動

 それから今日のように、北朝鮮で数十年生きて来た人間の思っていること、見たこと聞いたこと、考えたことをお話しして理解していただくための活動もやっております。最近まではやりませんでした。私は一人で日本に来て、私の家族はそのまま北朝鮮におります。その家族に私のことが露見した時に、日本でのように職場を追われるとか、村八分にされるとか、そんなことじゃないです。生首がチョン、と飛びます。北朝鮮に残っている彼らの命は私のものじゃない。彼らの命をもぎとる権利はない。だから私は最近まで人様の前でお話しすることはしませんでした。でも、私は今七十歳です。自分の歳が七十の大台になってみますと、もしかしたら、自分のやりたいことをやれないで人生を終わってしまうのじゃないか、そういう恐怖心に襲われて、もしかしたら、という危険性を冒してでも私はもう少し前に進むべきじゃないか、そう思いまして、小牧代表と話し合って、今はこういう集まりでお話をさせていただいています。現在まではまだ、向こうで露見したという連絡はありません。最大限注意はしているつもりなのですが、どこからほころびが出るか、これから先はわからないのですが、それだけの危険を冒して私は今お話ししております。

 今は文章を書く仕事とお話して伝える仕事、それから、私より先に、後に北朝鮮から渡って来た人たちの中で、日本語を全然知らない人がいます。その人たちに日本での初期教育、日本語の初期、また日本語だけではなく、ショッピングの仕方、電車の乗り方、銀行の利用の仕方、日本に定着する上で私がアドバイスできることをいろいろとやっております。日本語教室は東京へやって来た瞬間からやっております。最近では日本人じゃない方、中国の方にも教えています。それからお料理教室もやっております。韓国料理とはまた違う、北朝鮮の料理といいますか、それを時々やっております。お料理を広めることに目的があるのではなくて、北朝鮮というと、先に拒否反応が出るのが日本の現状です。北朝鮮から来ました、というと「そうですか、良かったですね」と言ってくださる方はあまりいません。こういう活動をしていらっしゃる方々はそうですが、一般の、普通の方は一歩引きます。北朝鮮から来た、特に若い人たちは職場へ行って「私は北朝鮮から来ました」となかなか言えないのです。そう言うと途端に雰囲気が変わってしまうのです。まだまだ社会的に拒否反応がある。だから、お料理という場を通して、北朝鮮から来た人間も普通の人間なんだ、と言う事を理解していただきたいし、また、お料理を作りながら色々な話を交わすことによって日常生活をどういうふうに送っています、などをお互いに交換し合ったり。ハードな雰囲気じゃなくもう少しソフトな雰囲気の中で北朝鮮を理解していただきたい。来月もやるのですが、一回に四、五人、いらっしゃって、いっしょに作って食べてお話しして。そういう教室も時々やっております。北朝鮮を理解していただくために今、私はこのような色々な活動をしております。


高校三年生で、ひとりで北朝鮮へ−最初の疑問

 今日お話するのは、皆さん情報のない北朝鮮について知りたい方々ですので、私が経験したこと、感じたことをこれからお話いたします。

 私が船に乗って行ったのは高校三年生の時でした。すごく元気な高校生でした。船に乗って、最初に、あ、ちょっと違うんじゃないか、と思ったこと、それは、日本の公海の中までは海上保安庁の船が着いてきてくれるんです。あの頃は韓国がすごく反対していましたから、リ スマンが大統領の頃です、自分が生きているときは帰還船を一隻も北朝鮮に着かせない、と堂々と言っていましたから。海上で何があるかわからない。そのために北朝鮮は、北朝鮮ではなくて当時まだ健在だった社会主義ソ連、そのソ連の船を2隻チャーターしました。迎えにきた北朝鮮の役員だけが北朝鮮の人で、乗組員は全部ソ連人です。韓国がもしその船を沈めたら、ソ連が黙っていない状況を作ったのです。私も初めてソ連人を見たので、みんなで物珍しく付いて歩く。そういう船に乗り、日本の公海の境界まで来たら、日本の海上保安庁の船がここまでです、さようならと帰って行きました。

 しばらくしたら、誰が言ったのか、今でも分かりませんが、また、別の帰国船に乗った人の話を聞くと帰国船ごとに同じことがあったようで、組織的にやったとしか考えられませんが、「日本の食べ物をみんな捨てなさい」と言われたのです。私は一人で行ったのですが、それでも餞別とか親が買ってくれたとかで、結構持っていましたし、家族で行った人たちは子どもたちのおやつとか沢山買いこんでいました。別送品ではなく、手荷物としていろんな食べ物が沢山ありました。それをみんな捨てなさい、と。どうしてなのか。すると、朝鮮民主主義共和国はもともと日本の植民地だったから日本の食べ物を見たら喜ばない、というのです。嫌な顔をするから捨てなさい、と。食べ物に何の罪があるの、と思ったのですが、みんな捨てているのです。私も仕方なく、持って行って捨てました。船の周りが食べ物だらけなのです。ふろしき包みや、包装紙のままのもの、色とりどりの食べ物が船の周り中一杯浮いているのです。私は、えぇ・・・、どうしてこんなことをするのでしょう?と、それがまず、第一の疑問でした。

 私の乗った船は、海が荒れてものすごく揺れて、本当にこの船は北朝鮮に着くのかしら、沈んでしまうのではないか、そう思ったくらいです。私は小さい女の子ひとり、高校三年生でひとりで行くのは初めてでしたから、珍しがられて、私に割り当てられた部屋はお年寄りのおばあちゃんとお孫さんといっしょの一等船室でした。で、おばあちゃんのお守をするのが嫌なので、私は荷物だけその部屋に置いて若い人たちの船室、甲板を越えて舳先に行ったところの部屋へ遊びに行きました。おしゃべりして、もどろうと甲板に出たら、でっかいソ連の船員が手を広げて止めるのです。見てごらんなさい、というわけです。山のような波がサブーンと甲板を洗っていて、出たら海に落ちる。遊びに行った船室にもどりましたが、一晩あけたらすごくいいお天気になりました。「祖国が見えるぞー!」とみんながバーッと甲板に上がって行きました。雲があってよくわからないのですが、北朝鮮の代表の人が、向こうに見えるでしょ、というのです。雲か陸かわからないような影が見えました。すると、「あれがこれから向かうチョンジンです」船の上のひとたちはみんな大喜びで、唄を歌って、旗を振って、涙を流して、みんなそういう歓喜のもとで行ったわけです。


チョンジン入港−さらなる疑問

 船がチョンジンの港に入って行きました。人の顔が見えるくらいになりました。埠頭には人が一杯いて、唄を歌い、花束を振って歓迎してくれているのですが、ピンク一色でした。船が岸壁に横付けになると、その舳先のところに、若い男の人がひとり立っているのです。うわーうわー、と怒鳴っているんです。あの人は誰だろう? 先に帰国していて自分の家族を探しに来たのかと思いました。私たち若者たちは舳先のところにずらっと立っていたのですけど、だんだん近づいていったら、「こらー!そこの三人、降りてくるなぁ!この船でそのまま日本へ帰れ!」と怒鳴っているのです。ぱっと見たら、私の先輩だったのです。上級生でした。その上級生と同じクラスだった人たちが私の船で行ったのです。その同級生たちと、下級生だった私も彼は知っているじゃないですか、私たちに向かってどなっているのです。「絶対に降りてくるなぁ!」ってね。「そのまま日本へ帰れ!」と。 びっくりして、何と言うことなんだろう、と思って。一緒に居た同級生たちは、「あいつ、気が狂ったんじゃねぇか?」と言っているうちに、みんな集まれぇということになって私たちも集まったのですが、その上級生は運が良かったのです、結局そういうことをやったけど、帰国船から人が降りてくるから、警察はみなタラップのところへ行っていて、この人のやっていることを見つけられなかったみたいです。あとで聞いたら、捕まらなかったそうです。捕まっていたら死んでいましたね。

 そのように、私たちは集まった。その時に北朝鮮の役人に何と言われたか。「手荷物を運ぶのを手伝ってくれるひとがこれから上がってくるけれど、腕章を付けていないひとには荷物を渡さないでください」それを聞いた時に、2番目のクエスチョン―帰国事業を宣伝するときに、朝鮮総連が言った、「北朝鮮には泥棒がいない。だから家にカギをかけません」結局宣伝していた人たちも見ていなかったのですけどね。見てもいないことを上から言われて信じたのでしょうね。泥棒がいない、と言われていたのに、腕章をしていない人にはわたすなということは、泥棒がいるっていうことじゃないですか。みなけげんな顔をして、初めて緊張したのです。あ、これは何ということだ。お年寄りや子どもたちは手をひいて降りなくてはならない、そうすると手荷物が邪魔になりますよね、預けたいのですが、みな疑心暗鬼になって自分たちがみんな持って降りて行く。そう言う状況。それが私の2番目のクエスチョンでした。

 埠頭の印象は、負の印象というか、港全体が黒っぽい感じ。新潟港も昔は漁港でしたから派手な港ではありませんでした。でもチョンジンの都市全体が黒ずんでいる。後で分かったのですが、チョンジンは大きな製鉄所のあるところで、その煤煙ですすけて見える。その原因もあったのでしょうが、なにしろ初めて見る人たちの印象としては、どうしてこんなに黒いんだろう、と。人の顔も黒かった。黒人じゃないのに、と思うほど本当に黒かった。それも後で分かったのです。外でする労働量が多い。事務員であろうと、何であろうと、必ず外で肉体労働をしなくてはならないことが一年中あるから、黒くならざるを得ないということを。でも初めて見た私たちには、それも異様な姿に映った。それに着ているものが余りにも粗末だった。日本では全然想像できないような、そういう服装でした。グレーのスフという葦から取る繊維があって、一律にスフの労働服、男性も女性もみなグレーの服を着ていて、ほんのときたまチマチョゴリの人がいたのですが、それも臙脂のチョゴリに黒いスカートをはいていて、みなさん、運動靴なのです。革靴を吐いている人はいなくて。みなさん、素足なんですよ。靴下をはいている人がいなかった。目に入った印象は、あれっ、こんなとこだったの?という感じ。荷物の問題もありましたから、みんな、バーっと興奮していたのが、ばたっと静まった感じ。

 そんな雰囲気で船から降りて、大きな講堂のようなところで休憩時間がありました。長椅子が一杯あって、帰国者がそこに座った。だれかがどこかの本に書いていましたが、休憩所に入ったときに、出られないように外からカギをかけた、と。それは嘘です。そこまではやりません。カギはかけなかったけど、外に出て行く必要もなかったし、帰国者は船酔いでみんなぐたっとして坐っていただけです。それぞれ家族や友人たちとグループを作って坐っているところに、お弁当が配られました。木の皮で作ったお弁当箱、昔日本もそうでしたよね、ふたつずつ配られたのですが、みな船酔いでぼーっとしていますから食べる気もしないし、荷物の問題、見える人たちの様子など、精神的にショックを受けた状態ですから食べようとしないのですが、若い人たちは好奇心から、その蓋を開けて見ました。私も開けたら、ひと箱はご飯で、ほとんど玄米に近い黒っぽいご飯、三分搗きくらいかな、そういうご飯、ひとつはおかずなんですけどキムチが少し、韓国のキムチとは違って、本当はそのほうがおいしいのですが、緑色の葉っぱのキムチが少しあって、それから豚肉だったと思うのですが、お肉が少し、そのあとは私の知らない山菜のようなもののナムルでした。でも、誰も手を付けようとしない。その船に乗って行った1,200~1,300人の人たちが誰も手を付けず、長椅子の脇に積んであったのです。それぞれ話をしたり、若いひとたちはちょっとおかしいよね、とか言ってみたり、北朝鮮の人はほとんどいなくて、自分たちだけで坐っていたのですが、急に、あ、何をやっているの!という光景が目に入ったのです。


お弁当を集める少女

 女の子がひとり、昔あった一反風呂敷、緑色や紺色のところに唐草の白い模様がある日本独特の大きな風呂敷、を床に広げて、そこへ帰国者用のお弁当をせっせと集めているのです。集めながら自分で自分に言い聞かせていたんだと思います。坐っている人にも聞こえるくらいの声で、「こんなご飯ももう食べられなくなるよ。どうして食べないの」そう言いながらせっせと積んでいるんですよ。ぱっとその女の子の顔を見て、自分の心臓が止まるかと思いました。私より先に帰国した私の下級生だったのです。正直言って、乞食じゃないですか、人さまの食べないものを集めているということは。日本から帰国して何カ月もたっていない人間がやっていることなんです。私はびっくりして、この子、何をしているんだろう、と思いましたが、後ろを向いて頭を下げました。どうしてか。私は活発な人間ですから、面と向かって顔を合わせたら、何かひとこと言ってしまうかもしれない。ひどいことをその子にいうかもしれない、そういう直感があって、自分の顔を隠しました。

 でもショックは大きかった。あの子はどうしてこんなことをするのだろう。これから先、私は飢え死にするようなことがあっても、こういうことはしない、その時私が思ったことです。その本人も、私が見たこと、思ったことを今も知りません、私は日本へ帰ってくるまで口外しませんでしたから。数十年経った今でも、その時の光景が鮮明に浮かんできます。

 そういうショックの中で、二週間同じ宿舎で、全国各地へ送られる準備をしていました。まずは食事が合わなくて、一番困ったのは家族づれの方でした。それぞれアパートを宿所にしたものですから、家族単位で部屋に入っています。私のような独身者は、おばあさんと孫、みたいな家族の中に入れてもらう。家族で来た人達は戸を閉め切って、夫婦喧嘩をしている。家族の中には、必ず、行こうと言った人と行かないと言った人の対立があったのです。家族全員が行きましょう、と言ったのはほとんどなかった。そういう家族が、そういうところへバーンと連れて行かれた時に、まず子どもたちが食べ物を欲しがるんだけど、みんな海に捨てちゃいましたから。あれを持っていたら数日間は持ったでしょうが、捨ててしまったので、子どもたちにあげるものがない。宿所でも少しはお菓子とかアメとかあったのですが、噛んだら歯をケガしそうに、固いんです。私たちはそれをレンガ菓子と呼んでいました。朝鮮語でピョットル カジャというのですが。噛みきれないので、子どもたちは食べられない。アメはお砂糖をぐっと固めたような感じ。だからすぐ溶けてべちゃべちゃになる。日本のおやつに慣れている子どもたちは食べてくれません。だからお腹がすいてピーピー泣く。そうするとご夫婦は喧嘩する。そういう異様な雰囲気になって、でもそれを表現してはダメだということを納得させられる事件が起きました。


宿舎での事件

 10日ほどたった時に、みんな会議室に集まれ!という指示が降りたのです。それで会議室に行ったら、北朝鮮の人が来ていない人達をチェックして、来ていない人を連れに行って。(宿所の北朝鮮の人達はすごく親切なんです。みんなにこにこして。後で、俺らはそれにばかされていたと・・・。家族単位で、何処に行きたいと面談をしますよね、北朝鮮の人はにこにこして、はいはいと聞いて記入してくれます。関係なかった、それは。ただ、形式をとるための方法にすぎなかった。でも結局、普段はすごく親切なんですよ。)その時はとたんに凄い顔になって。おっかない顔になって会議室の周りにずらっと並んでいるのです。どういうことだろう・・。すると役員の人が前に立って「とんでもないことをやらかしてくれた人間がいる」と言う。でっかい会議室ですから前にはもちろん、金日成のでっかい油絵の肖像画がある。横の壁にいくつも金日成の革命活動を表現した絵があるわけです。みなさんもご覧になったことがありますよね。ぺクトゥ山の湖の前で、白馬に乗った金日成とか、一番有名なのは、北朝鮮の国境のところにポチョンボという場所があります。日本の時代に金日成が軍隊を連れてポチョンボという集落を攻撃して勝った、「ポチョンボ戦闘の絵」というものです。それが金日成の業績を表した絵の中で一番有名なものです。後ろの建物が炎をあげて燃えていて、金日成がちょっと高い所に立って右手を挙げて演説をしている、その前にはポチョンボの民衆が演説を見ている、そういう絵です。その絵を引きずりおろして、足で踏んでめちゃくちゃに壊した人間がいる、というのです。これは大変な反革命だ、というわけです。ものすごい剣幕で、こういう現象が二度とあってはならない。今度の帰国船に乗って来た人の中にこういう人間が出たと。その時の雰囲気が、どういうのでしょう、下手をすると、命が無くなるんじゃないか、と切実に感じるという雰囲気。でも、その中に勇敢な人がいて、ひとりの青年が立って、「その問題を起こした人間は何処にいるのですか。連れてきたら、我々も一言ずついいますよ」と言ったんです。そうしたら、「あ、いや、その人は別に勉強をさせているから」と言うんです。でも勉強させたのではない、その時点で抹殺されたんでしょうね、二度と、私は数十年北朝鮮に居ましたけど、その人に会うことはなかった。その時の雰囲気で、あぁそうか、北朝鮮では人間が変なことを言ってもダメだし、行動してもダメだということをすごい圧力で言うんですよね。あぁ、見たものを素直にしゃべってはダメなんだ、北朝鮮がどうの、とか言っちゃダメなんだ、見ても聞いても自分だけの中にしまっておかないとダメなんだ、そういう自由がない、ということを、その時に認めないわけにいかなかった。


死ぬ自由も無い国

 私なんかはましな方だったです。一人で行きましたから、苦労しても一人です。悩んでも一人です。自分の家族が苦労したり、病気になったりしてるのを見る、そういう辛さを経験しなくてすんだ。家族で行った人たちは、さっき言ったように、自分が主張して行った人はまず、そのために家族の攻撃にあったし、その攻撃も妥当だと思うから本人はすごい責任感を感じるし。そういうところから、いろんな現象が出ました。まず、自殺する人。でも自殺は何人か出たあと、無くなりました。どうしてか。北朝鮮だけではなかったと思います。社会主義国はみなそうだったと思いますが、自殺=反逆罪なんです。自殺者には国にたてついたというレッテルが貼られて、その死体に家族は触ることもできないし、見ることもできない。警察が来て、むしろでぐるぐるっと巻いて、ぱっと持って行ったらそれで終わり。埋められたのかどうなのかも分からない。それを聞くことも許されない。朝鮮半島の人たちは命日にはお膳の上に一杯並べて祭祀をやりますよね、それもやっちゃダメ。一切、その家族を自分の心から抹殺してしまえ。それから、自殺した人の処理がおわってしばらく経ったら、全家族がいなくなってしまう。どこへ送られたんだかも分からない。追放されてしまうんです。それは、私が北朝鮮を出る時まで同じでした。自殺は許されない。帰国者も、自殺してはいけないんだということを納得しました。死ぬ自由もなかったということです。

 まずは、一番困ったのは食生活。住宅はなんとか与えられました。一週間に千人くらい行きましたから、北朝鮮も大変ですよね。結局は、帰国者を受け入れる時は、日本で苦労している人達を喜んで受け入れますよ、と朝鮮総連で宣伝する時は、色々な生活は保障されますよ、基本的人権も保障されるし、結社の自由、出版の自由、みんな保障されている、衣食住、基本的な生活は保障されますよ、心配しないで、裸一貫で船に乗ってください。最初に行く人たちで、自分の荷物を沢山持っていく人たちを、朝鮮総連はむちゃくちゃ批判しました。そのあとになって、何でも持って行っていいということになりましたけど、初期の人たちは一家族に柳行李ふたつくらい。そんな人たちが一杯いました。私は高校生で行って、向こうでも高校に入ったのですが、私の同じクラスに静岡から来た女の子がいました。その子のお父さんはすごい事業家で、その頃すでに日本でキャデラックに乗っていたそうです。58年、59年の当時、日本で自家用車を持っている人はそんなにいませんでした。その頃キャデラックを乗り回し、家が何軒もあって、すごい暮らしをしていたそうです。そのお父さんが朝鮮総連の宣伝に乗って、一切の財産を朝鮮総連に寄付してしまった、9人の家族が、今はもう見ることもない、柳を編んだ柳行李にふたつだけ、茶碗も箸も持たずに、ただ、おばあちゃんが結婚する時の嫁入り道具として、昔のシンガーミシンを手放さないと、意地をはったからそれだけは持って行ったのです。ミシン一台、着替えが柳行李ふたつ。

 住宅はなんとか与えてもらいました。対応に困って、旅館で何カ月か居た人もいましたが、でも、元居た人を追い出してでも、一応住宅はくれました。皆無だったのは着るものです。自分で持って行ったもの以外はありませんでした。殆どお店で売っているものは無くて、大卒のエンジニヤとかに一年に一回、スーツ地を生地として支給される、それを仕立てをする人のところへ持って行って仕立ててもらう。たまにお店に服が出ると、人民班という末端行政単位、その班長に票が回ってきて、今度はあなたがもらいなさい、と。だから着るものは本当に貧しかった。子どもたちで冬にパンツをはいている子を見たことがありませんでした、あの寒いところで。みんなはだしでお尻を放り出して走っている。みんな肘は出ているし。外に出歩かないお年寄りは下着だけ。肘も膝も出ている下着。家はオンドルですから床は寒くないわけです。着る生活というのは本当に貧しかった。

 それから、食生活ですね。今考えると、すごい沢山の量と思えるのです。大人と大学生一日700グラム。中学生500グラム、小学生400グラム、専業主婦・子どもたち・働いていないお年寄りは300グラム。都会の人です。今考えて見てください。乾いたお米の状態で700グラムをご飯に炊いたら、みなさん食べられますか?量が多すぎるじゃないですか。700グラム食べられる方、いないと思います。その、主食の量だけを考えたら、すごい量なんです。でも、副食が無いんです。おかずがないんです。おかずとして出る量はひと月に醤油がいくら、最初行ったころは少し、中国から来る大豆油をくれていました。すぐになくなっちゃったんですけどね。お味噌が少し、一番自由になったのは塩ですね。それ以外の副食は無い、わけなんです。おやつも無い。主食だけを食料として食べた場合、足りないんです。絶対的に足りないんです。

 ピョンヤンだけは別です。昔も今も。我々北朝鮮に居る時なんと言ったか。北朝鮮民主主義人民共和国というのはイコール、ピョンヤンだけ。そのピョンヤンにまともな暮らしをさせるために全国民が働かされていた、強制労働と同じような状況で働かされていた。ピョンヤンは90%真っ白な白米。雑穀は10%だけ、白米だけでは物足りないからというので、小豆とかメリケン粉とか混ぜてくれる。ピョンヤンには定期的に海産物、お肉を供給してくれる。お菓子も供給してくれる。ピョンヤンだけは別世界。脱北者でピョンヤンに住んでいた人には、私は「しゃべらないで!それは朝鮮じゃないんだから!」そう言います。

 地方の人たちは90%の雑穀。トウモロコシを90%くれて、つぶしてくれた時はまだましなんですが、丸ごとくれるとどうにもなりません。加工して食べるのが大変なんです。それに、はじめのうちは10%のお米をくれました。小さい子のいる家ではその子どもにも回らないくらいの量なんです。トウモロコシとかジャガイモとか大豆とか中国製のコーリャ、キビに当たるのかな、それでご飯を炊くと、お箸でつまめない。スプーンですくってもぼろぼろ落ちる。そんな状態のものを90%くれると、帰国者のほとんどが肝臓炎になりました。栄養が偏ってしまうし、消化できないものを食べるからすぐに下痢をするし、病気になる。一番困ったのは、大豆90%をくれるとお手上げなんです。みなさん、大豆食品はすごくヘルシーで健康にいいとおもうじゃないですか、そうじゃないんです。大豆90%を家族分もらってくると、こんな袋にふたつあるんですよ。三食それを主食にしなさいと言われたら、どうにもならないんですよ。大豆をやわらかくなるまで炊いて、でもそれを食べられないんです。北朝鮮は家ごとに鉄で作った碓と鉄の杵があって、何かを潰すために使う、チョルグっていう道具があります。そこにふやかした大豆を入れてオカラみたいにして食べる。それも一食、二食です。毎食は食べられません。すぐに下痢します。


帰国者の頼りはヤミ市

 トウモロコシを連続して食べると、ペラグラという病気になります。ビタミンPPという成分がトウモロコシには無いそうです。連続してトウモロコシを食べていると最初に皮膚がめくれてきます。やけどをした後のようにピンク色になります。顔から全身、舌がひびわれてきます。それから胃腸障害などいろんな症状が起きます。最後に精神までおかしくなる恐ろしい病気です。だから帰国者は慌てふためくわけです。どうするか。ヤミ市というものがあるのです。社会主義から共産主義への過渡期、社会主義国家ではどうなっているかというと、労働者階級は先進階級、その下が農民階級、土地からモノを生産して喰っているから多分に資本主義的成分だと決められている、その農民階級の現金収入のために、ということで、これは共産主義になったらなくなるのだ、今は過渡期なので許さないとならない、ということで、都会でも十日に一回とか、ヤミ市が開かれるのです。そこへ行けば農産物だけではなく、いろんなものがあるのです。帰国者はそこへ行かざるを得なくなった。どうするか。自分たちが持ってきたもの、衣類とか。他のものは持ってくるなと言われて持ってきていないのですから。その衣類も、無くなれば自分たちが困ると分かっていても、背に腹は代えられない。私が大学生のころにはスメソというのがありました。古着を持っていくと買い取ってくれるのです。同じ部屋の人に連れて行ってもらって古着を出すとお金をくれる。そのお金でヤミ市で食べるものを買って帰る。帰国者が一番先に仲良くなったのがそのヤミ市だったのですよ。何かを売りさばいて、そのお金で米や野菜を買ってくる。公共の野菜市場というのもあるんですが、そこは、本当に、何日も見張っていないと、いつ野菜が来るかわからない。野菜が来てもずらりと列をなして並ぶから、そのタイミングを逃すと買えない。無くなった時点で終わり。ヤミ市に行けば、ちゃんときれいな野菜がある。個人ですから、ちゃんときれいにして持ってきているのです。それに頼らざるを得ない。だから、帰国事業が始まってすぐから、日本に居る親兄弟や姉妹、親戚に援助を頼まない訳にいかなかった。在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業が始まったと同時に、日本に残った在日たちもすごい重荷を背負うことになった。数十年の間、援助をし続けた。そういう、考えられないシステムになってしまった。


なぜ朝鮮総連は帰国事業をストップしなかったのか

 私は最初に言いました。それをどうして朝鮮総連がストップできなかったのか。私は今でも聞きたいのです。でも朝鮮総連に行って聞こうとすれば、私が誰だかを言わなくてはならないから、できないのです。北朝鮮を出る時、私は、日本へ行ったら必ず朝鮮総連とそのことで正面から対決しようと思っていました。でも実際、自分が河を越えて日本までたどりついてみたら、それをするのが正しいのか、北朝鮮に残っている私の家族を犠牲にするのが正しいのか、私は余りにも沢山の死者を見ていますので、それはできない。私自身の命なら自由にできるけど、彼らの命を私は自由にできない。私の兄弟は言いました。「姉ちゃん、それほど思うなら自分の家族を犠牲にするしかないじゃないか」でも私は、そういう権利はないと言いました。私は親であっても、生首をちょん切る権利はない。どこかへ送られるとか、退職させられるとか、その程度で終わるならやる。でも、向こうは生首を出さないとダメだから、それは、私にはできない。私のできる範囲でやる。その範囲は、最大でも、今やっているこういうことなんです。


日本人妻の苦境

 北朝鮮に行って、みんな本当につらい思い、苦しい思いをして過ごしましたが、帰国者は、いらっしゃい、いらっしゃいと言われて行ったでしょう、でも帰国者の書類の上には教養改造対象というハンコがバーンと押してあるのですよ。資本主義国家から来た人間たちだから、これは信用する人間じゃない、だから教養して改造しなくてはダメなんだ。そういうレッテルが貼られているわけです。北朝鮮と言う構造の一番下の部類、一般人じゃない。だから一般の人は、最初行った時、帰国者としゃべりもしなかった。しゃべると自分まで疑われる。その中でも一番ひどい扱いを受けたのが日本人妻でした。1800人の日本人妻の方たち、その家族まで合わせると6800人が行ったと言われていますが、私のお友達が言っていましたが、「ねぇ、韓さん、私は朝鮮総連の人から保証されても絶対に来ないよ、すごい悩んだんだけど、日本人が、『いやー、すてきな所ですよ』(ここにある寺尾五郎さんの奥さんなんか最先頭の活動家でしたよね、日本の婦人団体とか日本の職業団体とか、日教組もそうですが、そういう人たちが毎日来て、)『北朝鮮ってこんなにすてきな所らしいですよ』『私なんか主人が日本人だから行けないのですが、あなたはご主人が朝鮮の人ですからこんなにいいチャンスに恵まれたんですよ、早く行って自由な世界で立派な暮らしをして下さい』日本人に背中を押されて行ったわけですよ」

 その日本の人たちは、同じ日本人の妻に何と言ったか。二、三年うちに必ず、里帰りが出来ますから、と。だから、日本人妻の人たちは、北朝鮮へ行ったら二度と日本へ帰れないと分かっていたら、行かなかった。私の友達もそう言いました。永久に帰れないなんて知らなかった。さっき先生もおっしゃいましたけど片道切符だった。それに、帰国者自体が教養改造対象ですが、日本人はさらに自分たちを抑圧していた国の国民、だから全然相手にされない状態だった。何かあったら、つるしあげられる。本当に肩身の狭い思いをして生きていかなければならなかった。


日本人妻の問題を突破口に

 私はもともとは坂中英徳先生の脱北者支援機構でお世話になっておりました。坂中先生は、日本から行った10万人近い在日の帰国運動は正しくないことだったから、全ての帰国者に日本へ戻ってきてもらわなくてはダメだ、という理論の持ち主です。私は先生に言いました。「先生、私はその方法として、日本人妻の救出を先に、という方針を取りたいのです」すると、いや、関係ない、自分は日本人妻を先にとは考えていない、全体を北朝鮮から戻ってくるようにしなくてはならない、と。それは私も在日としてありがたいことです。ありがたいことですが、ひとつの大きな目的を達成するためには戦略と戦術というのがいる。その戦略と戦術の方法として、日本人妻を表に立てないとダメだ、と思います。今の日本の社会の中枢−20代から60代まで、そういう人たちは帰国問題が何だったか、知りません。そういう人たちにむかって、50年以上も前にあった帰国事業で北朝鮮へ行ったことは正しくないのだから帰ってきてもらう、そんなことを言っても誰も受け入れません。朝鮮人は自分勝手に朝鮮へ行ったのに、今頃になってなんで日本へ帰してもらうのだ、と言われるのに決まっています。でも日本人妻は違います。国籍が日本ですから。邦人保護という名目を立てれば日本の社会も納得してくれる。日本は第二次世界大戦が終わった時点で、東南アジアに残った残留日本兵、そういう人たちは何十年が過ぎても帰ってきました。中国に残った残留孤児、みんな受け入れました。今現在も受け入れています。だから北朝鮮へ行った日本人妻の人たちも、日本人だから返してもらわなくてはダメなんだ、そう話せば、日本の社会は受け入れてくれると思います。何十回も何十回も繰り返しそう言って、坂中先生もやっと納得してくださって、いっしょに国会にも行きましたし、議員の勉強会にも行って説明するなど、いろいろのことをしました。私は今もそう思っております。今は日本政府にも少しは理解していただけたみたいです。水面下ではそういう方向で動いているそうです。

 私は日本人妻問題と拉致被害者問題を結合して考えないとダメだ、そう思っております。絶対に拉致被害者問題だけでは北朝鮮政府は応じません。だから日本人妻を返してもらう時に、拉致被害者も一緒に返してもらえばいいのです。拉致被害者は拉致被害者であると看板を立てなくてもいいのだから、家族を返してもらえばいいのだから。そういう方法でなら、実現すると思います。そういう、実現可能な道を私はいろいろと主張しております。


27年目の両親との再会

 行った人たちは、どんな帰国者でも、苦労せずに希望通りになった人はいません。北朝鮮へ行って17歳だった私が最初に思ったこと、何ヶ月か経って私が得た結論は、この社会は正しくない、だからこの国に協力することはできない、でも抹殺されたくはない。それほど自分の命は安物ではない。ひとことでもポロッとこぼせば、その日のうちに首が飛ぶのですから。私は一切協力はしない、でも、お前たちに命も取られない。そのためには、何を見ても何を聞いても一切口には出さない。自分の口にチャックを、鍵をかけました。ま、ずるいですかね、私は自分を悪党だと思っております。そういう方法で生き延びました。

 27年目に父と母が北朝鮮へ会いに来てくれました。その前から、在日は言ったり来たりし始めたのですが、私の父母は自分たちの娘はどこに放り出しても生きていくだろうとたかをくくっていたのでしょうね、来なかったのです。27年目にやっと会いにきました。夜になって、ご存じの通り、監視がいっぱいついています、母が船の中で、船の中と言うのは情報局なんですよね、先に行き来した人たちの話を聞いて、ちゃんと心得て、監視員のポケットにいくばくかのお金を入れる、そうすると、知らん顔していてくれる、向かいの家へ行ってそこで一杯飲んでいる、その間に我々は心にあることを話しあえる。北朝鮮での生活を父母の前でいろいろと。父はあまりにまっすぐすぎるというのですかね、お前、そんなに大変な所だったら、死んでしまえばよかったじゃないか、自殺すればよかったじゃないか、と。親として、聞くに堪えなかったから、言ったと思います。私はお父ちゃんっ子でしたから。私は言いました。私は何千回も何万回も自殺を考えました、でも北朝鮮という社会は、私が自殺して、それが新聞に1行でも、日本から来たどこのだれそれはこの国が気に入らなくて自殺した、と載るとか、ピョンヤンからの有線ラジオのニュースの時間に10秒間でも放送してくれるなら、それを聞いた人があの子はこういう状況で死んだんだと思ってくれるなら死んでいる、と。本当に何千回、何万回、自殺を考えないことは無かったです。この社会で行き延びていなくてはならないのか。でも北朝鮮では、人の命は蠅よりももっと安い。蠅たたきでパチンと蠅を殺すより、ちょっとおかしいな、と思った時点で人を叩き潰してしまう。私はそんな蠅たたきの犠牲にはならない。自分はそれほど安物じゃないと思っていると言いました。父は黙っていました。そして二度と来ませんでした。たった一回来てくれて、二度と現れませんでした。


息抜きだったこと

 帰国者は大変な状況の中に生きて、沢山の人が死んでいきました。でもね、息抜きが全くなかったわけではありません。人間って、いつもいつもぎゅうぎゅうにされていたら、生きていけませんよね。中には息抜きもありました。ビデオが流行りだした時、裕福な親兄弟や親せきのある人たちへは、逸早く日本からビデオデッキが送られてきました。北朝鮮でも売り出しているテープはあります。でもそれは本当に限られていて、同じ映画を何十回も見るわけにはいかないじゃないですか、でも、ビデオが見られるようになったころには、中国が経済開放をすでにやっていて、中国回りでテープが入ってくるようになったのです。運び屋がいるんです。隠し持って。私は北朝鮮にいるときに日本の映画もみましたし、韓国の映画も、アメリカ映画は特にたくさん見ました。私のお友達が生活が良くて、彼女から私の職場に電話がかかってきます。今日、おいしいものがあるんだけど、おいでよ、と。おいしいものって、いいテープが入ったから、ということ。いつも夜行って、夜見るんですよ。お友達は一軒家を買って、庭が広くて、少々の音は外に聞こえない。カーテンを閉めて、音が漏れないようにして、夜、見るんです。ある日、昼間にいらっしゃい、というんです。日曜日でした。いいから、昼間にいらっしゃい、行ったら今から映画を見なさい、と。びっくりして、昼間から? いいから、とダイヤルを回したら、寅さんの映画でした。お友達が言うのには、いいの、この映画は真昼間に見ても。普通は捕まったら大変なことになる。へたをすると収容所送りになるし、最低でも毎日呼ばれて始末書を書かされて、何十万も袖の下を出して。みんなびくびくしている。それなのに、どういうことなの、と聞くと、あのね、この映画、金正日が大好きなの。この映画を見てもいい、と金正日が言った、と言うのです。おかげで私は寅さんの映画を1番から54番目まで全部北朝鮮で見ました(笑)。トラック野郎という映画も見ました。それも金正日が大好きな映画だそうで。そういうやくざ映画とか好きなんだそうです。そういう息抜きも少しはありました。絶対に言いつけないということで。

 北朝鮮がどうして今までもっていると思いますか?全世界の社会主義国家が崩壊した中で。私とあなたとあなた。三人がいるとします。あなたとあなたのおふたりに、私を見張れ、と言います。保衛部の担当員が、職場でも家庭でもふたりが私を見張れ、と。何もなくても一週間私にあったことを書いて、担当員の部屋に開いている穴から放り込め、と。私とあなたのふたりはこの方を見張れ、と、そういうふうに、がんじがらめに縛っているんです。だからどこでほつれ目が出るかわからない。自分が何をやったかも知らないで連れて行かれた人はたくさんいるのです。帰国者同志の中にもいますから。帰国者の間では、私、だれさんとだれさんを監視しろって言われたの、と話しちゃう人もいて(笑)。絶対に言いつけないと分かっている人たちの集まり、特に帰国者は一般の人から相手にされなかったから、帰国者同志内々で付き合うしか仕方が無かった。コミュニケーションが取れないと、人間はおかしくなるじゃないですか。大人同士、もし私が誕生日だとしたら、それぞれ自分の作れるものを家で作って行くわけです。持ちよりで、日曜日の午後からとか、その誕生日の人の家に行って、誰にも聞かれないようにするとか、あるいはそこの人民班長に先にちょっと食べ物を持って行って、お世辞を使っておくとか、少し漏れてもいいつけられないように、そうしておいて、その時は言いたいことを言い合います。

 帰国者は、私もそうでしたが、自分の人生は帰国船に乗った時に終わっているんです。なので、帰国者は何十年経っても集まったら、みな同じことしかしゃべらない、帰国船に乗るまでの日本での生活の話しかしないんです。ですから、北朝鮮に居る時に思ったんです、もしも北朝鮮が宣伝されていたようないい社会だったら、私たちはこういうふうになったのかな、と。もしかしたら、いい生活いい環境に順応してあまり日本のことを思い出さないのじゃないか。でも帰国者は本当に何十年経って集まっても、日本での生活の話し、彼氏と有馬温泉に行ったよね、とか私みたいに小さかったのは、高校のクラスのだれかとハイキング行ったよね、とか。楽しかったこと。それぞれ話すんですが、北朝鮮に渡ってからのことは一切しゃべらない。結局は辛すぎて口に出来ないんですよ。船に乗った時点で人生は終わってしまっている。


在日のルーツは日本

 皆さんこう言います、あなた、両親はもともと韓国のひとじゃないですか、なんで韓国へ行かないで日本に来たんですか?私は言います。私のルーツは日本しか無いんです。帰国者は、韓国といわれてもそれは外国なんですよ。関係ないのです。思い出さない。思い出すものも無い。韓国へ行ったこともないし、韓国を自分の国なんて思ったことが無い。だから、もしも、国境を越えて行けるところ、となると日本しかないんです。それに、私でなく、次の世代も同じです。結局、親から日本のことしか聞かされていない、帰国者の子どもや孫は脱北して何処へ行く、となると日本しか目指すところは無いのです。私は韓国へ行こうなんて夢にも思わなかった。日本へ来て改めて聞かれると、あれ?どうしてこの人、そんなこと言うの、ほんとはそうなのかもしれないけど、そうじゃない。在日で行った人は日本しか目指していない。頭の中にも日本しか無い。今言ったように、何人か集まるじゃないですか、そうしたら日本の話をして、特に日本人妻は涙をぽろぽろ流して、唄を歌うんですけど、帰国船に乗るまでの日本の唄。私も演歌とか、私、美空ひばりの唄、上手なんですよ(笑)全盛期の頃に行きましたからね、石原裕次郎の唄も上手です。そういう集まりを一度でもすると、少しは気分がすっとする、楽になれる。そういう息抜きもあったことはありました。そうでなかったら、おかしくなっていたと思います。

 私は生きて日本まで帰って来れた人間としてやるべきことを、なんとか、少しでもたくさんやりたいと思っています。なかなかそうはいかないのですが。思ったようには行きませんし、もともと私のようななまけもので、次の本はどうしているんですか、何しているんですかとしょっちゅう言われるんですが、一番先に出した本が売れなかった。そうすると、あんまり励みにならないから。次の文章が書けないんですよ(笑)。本当はもっと出したいと思っているし、今年の上半期までにもう一冊出そうと思っていたのがちょっとトラブルもあって中止しちゃって。

 知らせたいことは一杯ありますし、特に日本人妻の方たちはどう思っているかというと、在日の私でさえ、絶対に生きて日本へ帰ると思っていたのですから、日本人妻の私の友達は、「ねぇ、韓さん、この国でもしかしたら死ぬんじゃないかと思ったら、夜中でも飛び起きる。絶対にこの国の土にはなりたくない。」日本人妻はそう思っています。日本人妻の里帰りって、2回くらいあったじゃないですか。皆さんご存じのように、それは上から指令された人たちなんですよね、みな朝鮮労働党の党員証を下げて、チマチョゴリをちゃんと着て、金正日さま万歳とかって。それはみんな「言わせ」ですから。そんなふうにしてでも、日本へ来てみたい、それはその人たちの心情ですから、私はそれはそれでよかったと思っています。そうなんですが、日本人は絶対に北朝鮮で死にたくない、「韓さん、私もなんとかしてそのグループに入りたい。もしも日本に行けさえしたら、御先祖の墓参りをして、その墓石を抱いて自殺します、絶対に戻ってはきませんよ」それが終生の願いなんです。日本人妻って結構長生きなんです。どうしてか。今言ったように、北朝鮮で死にたくないから。何としてでも日本へ帰りたいと思っているから。でも、それも限界があります。今何人残っているかわかりません。1600人の、直接日本から行った人たちのうちで、生き残っている人が何人いるかわかりません。私が日本にもどって来てからでも、私の周囲に居た人は殆ど亡くなりましたから。みなさん、ほとんどの人は結婚してお子さんがいたから日本に残れなくて行った人たちなのです。子どもという絆が足かせになって、行った人たちです。だから、私よりも普通、一回りくらい年上。だから亡くなっている人が殆どです。北朝鮮も、今、日本人妻を利用したいと思っているけど、日本も、接点がそこしかない訳なんです。日本政府も早く動かないと、その人たちがみな亡くなってしまったら、どうにもならない。私は一所懸命その話をしているのですが。私の話したいことの主旨はそういうことです。お聞きになりたいことがあれば、お答えします。


質疑応答

参加者A:北朝鮮に渡った在日朝鮮人の方の中には、朝鮮語ができない人もいらしたのですか?
韓先生:いました。全然知らなくても行かせましたからね。そういう人たちは工場とか配置された先で、少しことばを勉強させる機会はあったのですけど、そうでなくても、完全に放り込まれると、仕方が無く覚えることになります。今、英語など外国語の勉強がなかなかできないというのは、やらなくても(笑)生きていけるからです。そういう所に放り込まれれば、半年もすれば覚えます。みんな片言はしゃべれるようになります。でも、反骨精神の強い人は故意にしゃべりません。拒否反応ですね、地元の人としゃべりもしないし、できるだけ朝鮮語を使いません。キムチ、食べない人もいましたから。北朝鮮は秋に、半年乃至経済に余裕があるひとは一年間食べられるだけの沢山のキムチを仕込むんです。ひとつの家族で何百キロ、多いとトン単位で。土に埋めるのですよね。絶対にキムチを作らない、白菜や大根を貰っても塩漬けにする(笑)というお友達がいました。拒否反応ですね、自分は絶対に受け入れない。現実を受け入れられない。
参加者A:帰国者の本音を話せる人同士の中では、日本語を話すのですか?
韓先生:日本語ですね。だから、田舎に行った人の中には、日本語を全部忘れた人もいました。私、坂中事務所に居た時、中国回りで来る人を成田によく迎えに行ったんです。事務所の人から、「韓さん、今日来る人はおばあちゃんとお孫さんです。おばあちゃんは日本人妻ですよ」そう言われて成田へ行ったんです。おばあちゃんとお孫さんが出て来たので、私は日本語であいさつしたんです、「お疲れさまでした、お迎えに上がりました」そうすると、分からないって言うんですよね。びっくりして、朝鮮語に切り替えて、日本語、分かりませんか?と聞いたら、全部忘れましたって言うんですよね。
 後で聞いたら、その方は空の下で一番目っていうくらいの山奥へ行った方なんです。日本から帰国した時は朝鮮語は一言もわからなかった。おもしろい方で、御主人がバイヤーというのか、大阪と、その方が住んでいた関東の間を行き来しながら商売している、方だったのですが、急に電話がかかってきて、子どもたちを連れて駅まで来い、と言われたんですって。お子さんはふたり居た。家族三人で自転車に乗って駅まで行ったそうです。そうすると、御主人に汽車に乗れって言われて、乗ったらそれが帰国列車だったのです。そうやって北朝鮮まで直通で行っちゃったんです。意見なんか聞かれることもなく、否応なしに。だから朝鮮語は一言も知らなかった。そういう方なんですが、四十数年も北朝鮮で生きているうちに、日本語を全部忘れてしまった。
 それに、飛行機から降りて、お昼時間だったので食事を御馳走したのですが、私は日本の方だからなつかしいだろうとお寿司を買ったのですよね(笑)そうしたらそのおばあちゃん、食べられなかった。山奥ですから生ものを食べられなかった。私は都市に居ましたから海のものとか食べたし、帰国者との付き合いがあったからお寿司とか作って食べましたが、そのおばあちゃんは完全に地元の人になりきっていて、お寿司を出したら食べられない。あわててパンを買ってきてあげたのですけど、それも余り喜ばれませんでした。ですから、ことばのギャップというものは、そういうところに放り込まれたら覚えます。そのために長いこと苦労した人はあまりいませんでした。初めのうちは身振り手振りでもコミュニケーションしますし、大丈夫、覚えます。
 今ブラジルから来た人たちは、お子さんたちも日本語がしゃべれない。そういうひとたちは同類がたくさんいるからです。私も孫がふたりおります。今日本に。私の娘ひとりと孫ふたりをやっと日本まで連れてきました。小学校6年生と4年生だった、12歳と9歳だったのですが、今、その子たちが外人だと誰も分かりません。本当に東京の子。ボンと放り込まれて、初めに耳に入ってくるのが東京弁。まるっきり江戸ッ子です。母親のことをいつもバカにしています。母親は大人になって来て、なかなか覚えられない。
 でも私が最初から神経を使っているのは、子どもたちがことばを忘れること。北朝鮮のことばを忘れちゃダメだ。今はどういうルールでやっているか、家の中に入ったら朝鮮語を使いなさい、お前たちの持っている貴重な財産なんだから。外では日本語を使うけど、家の中では朝鮮語。そう言うのですが、なかなかそれが通りません。私がいっしょに住んでいればもっと厳しくするのですが、母親はちょっと弱いんですよね。でもまだ忘れはしていません。下の子は字を殆ど忘れていますね。だから、私は日記を書かせろって親に言っているんですが、忙しいから・・・母親も目が届かなくて。今は二人とも中学生なんですけど。でも、しゃべるのはまだちゃんとしゃべれます。ほかの小さい子を見ると、家で注意をしていないと、どんどん忘れて行きます。
 そういうことも、条件の作り方じゃないですかね。ブラジルから来た人の問題も聞いていますし、それから中国から来た人たちに日本語を教えているので、残留孤児の方たちと何回か接触したことがあるのですが、残留孤児の方たちのことは理解できないんです。私が北朝鮮に行く前に、日本に来た人もいるんですよ、あの頃、中国から残留孤児が帰り始めたじゃないですか。その頃にいらした方たちがいらっしゃるんですよ。でも、日本語が分からない。今でも中国語しゃべっているんです。あなたがた、日本人でしょう?って。国籍は日本で、もう半世紀も住んでいるのにどうして分からないんですか。一日に単語ひとつ覚えたって、もう日本語は充分出来るじゃないですか。結局は、その人たちはその人たちのコミュニティーがあるんですよね。日本語をひとこともしゃべらなくても生きていけるから。ことばの問題は環境作りが重要だと、私はそう思っております。

参加者B:どうして、御両親が日本にいたのに、おひとりで、17歳で行くことになったのでしょうか。
韓先生:私だけが行くのではなく、家族全部が行くことになっていました。その頃、在日で行かないという人はあまりいなかったのです。そういう国を挙げての社会的流れ、どんちゃん騒ぎをしていましたから。家族全部が行くことになっていましたが、日本で暮らした後片付けの期間が必要だったのです。でも私は、意固地で言い出したら聞かない性格で、私一人でも先に行きますから、と言ったのですね。親が説得しても聞かない。父はどうしても行きたいなら、先に行って、一年だけ待っていろ、と。一年の間に整理をつけて行くから。そういう約束でした。それで私が先に行ったのですが、現実は愕然とするもので・・・。私は、私が先に来てよかったと思いました。私の家族には絶対に来てほしくない。あの手この手を使って、帰国させないために頑張りました。手紙には書けないから。手紙は全部チェックされますから。だからいろんな方法で相手が分かってくれるようにと。そのおかげで、家族は来ませんでした。で、私の母の親友のおばさんがそのあと、何年か経ってご家族を連れていらっしゃったんですよね。そのおばさんが私を訪ねて来て、「私が帰国するって言ったらあなたのお母さんが来て、うちの娘によると、どうも来るなという意思表示だから、我々みな準備したのに今思いとどまっているんだ、だからあなたも行かない方がいいのじゃないですか、と何回も言われた。」それでもこの方は行くって、お子さんを連れていらっしゃったんですよね。私の所へ来てわぁわぁ泣いて、お前のお母さんの言うことを聞いていればよかったのに、来てしまったって。そういうことでした。

参加者C:ことばはすぐに乗り越えられるということでしたが、ことばと国籍と人種と、みっつ比べたらどういう関係になりますか。
韓先生:今の社会では、余り関係ないんじゃないですかね。人となりが関係あるんであって、人種に関係ないと思いますし、ことばはさっき言ったように、本人の意思がどうか、必ず覚えなきゃダメだと思っているかどうか、そういうことに関係するのであって、あまり人種とかに関係ないと、わたしはそう思っております。今はヨーロッパでは人口の10%が外国人だとか、今日本が一番外国人が少ないほうじゃないですか、でも将来は日本もそういう方向に向かって行くと思うんです、でもいくらでもうまくやっていけると思っております。
参加者C:実は私も頭の中ではそう思っているのですが、でも、先生のお話を伺っていると朝鮮人であるとか、日本人であるということがこだわりになっている文脈で出てくるような気がしたもんですから。
韓先生:でも、それはルーツですよね。
参加者C:例えば日本人と韓国人が結婚したら、子どもはもう、生物学的には関係ないですよね。でもやっぱり僕らはアイデンティティーというか、人種と関係づけて考えがちのような気がするんですが。
韓先生:私は、それはもう、時間の問題だと思うんです。時間が解決する問題だと思います。
参加者C:私もそう思います。ありがとうございました。

参加者D:帰国運動でお帰りになった方たちの中で韓先生は一番若い方ですね。上の世代の方たちはどんどん亡くなって行く。で、日本の中では帰国事業は歴史の教科書で学ぶことになってしまっている。だんだんそのことが風化していきますよね。少なくとも知ることがまず一歩だとは思いますが、知って、どうしたらいいんだろうって途方に暮れるようなお話でもあるわけで。
韓先生:私はさっきも言ったように、知った上でそれぞれがどう行動するかは本人達の問題だと。いろいろな動きがあるじゃないですか、日本には。北朝鮮を助けるNGOもあるし。自由な、いろんな組織があるじゃないですか。自分の選択によって協力してくださればいいと思うんです。私は自分があんまりスケールの大きな人間だとは思っておりません、だから北朝鮮全体を救う、そういう人たちも沢山いらっしゃいますよね、北朝鮮の人権の問題、など全体を考えていらっしゃる・・・。でも私は一番くやしいのは帰国者、行った人間だと、そう思っていますから、まず私は日本から行った人たちの問題を解決しなとダメだと、そう考えておりますので、そのためには何でもやろう、と思っております。それぞれの方たちはお考えになるスケールで、帰国者のために協力していただけるか、北朝鮮全体のために協力していただけるか、それぞれ、受け取った人たちの立場だし、方法だと思います。

司会:さきほどの高柳先生の解説は短い時間でしたから、何か補足がありましたら、どうぞ。
高柳先生:お配りした『アサヒグラフ』の資料のことで、もう少しお話させていただきます。記事の最初にも、「日朝帰還協定にもとづく在日朝鮮人の北朝鮮送還は、いよいよ間近」とありますように、このころが戦後で初めて、在日朝鮮人に対してプラスの意味で関心が持たれだした時期ということになります。つまり、戦後は戦前の偏見に加えて、例えばヤミ市で日本の経済を混乱させているとか、あるいはたしかに戦後の十年間は在日朝鮮人運動が日本共産党のもとでかなり激しい武力闘争を伴った形で行われましたので、そうした政治的な意味で日本の社会を混乱させているとか、いわば迷惑視・被害視で関心を向けることが多かったのです。ですが、ようやく戦後14年経って、北朝鮮帰国事業で人道的な関心、つまり「彼らが帰るというなら協力してやろうじゃないか」とか、あるいは思想的に同じ人たちはもっと積極的に応援し、贖罪の意識もあって協力したということになるわけです。
 今と違うのは、この当時は朝鮮関連の本がほとんど出ておりません。今は本屋に行くと韓国・朝鮮関係の本は一杯ありますし、在日関係の本もどんどん出ていますが、1950年代に出た数少ない本を書いた人たちが、この『アサヒグラフ』の記事「『朝鮮』を出版した人々」に出ているわけで、50年代というのはこの程度しかないという時代でした。とくに、見てわかりますように、そのうちほとんどが朝鮮・韓国関係のものであって、在日に関する本は入っていません。50年代にあるのは、例えば篠崎平治『在日朝鮮人運動』という、警察関係の出版社が取り締まりの観点から出したものがありますが、そうではなくて、プラスの関心から在日朝鮮人のことを書いて普通の出版社から出たという本は、まだほぼまったく存在しませんでした。
 ようやくこの帰国事業により、「あぁ、こういう人たちがいて、日本で苦労して北へ帰るのだから、人道的に協力しようか」といった具合に、贖罪も含めてそういう気持ちがようやく多少芽生えてきた。今日この資料をお配りしたのも、そんな時代だったということを理解していただきたいと思ってです。
 この記事に登場している人々が、それぞれ帰国事業に触れたコメントを書いています。この中で異色なのは権逸(クォン・イル)さんで、民団系の人ですので、「北送」という用語を使いながら、「人道主義の美名に隠れた在日朝鮮人の追い出し」について批判しています。これは確かにそういう面もあったわけで、日本でこの事業に協力した人の中には厄介払い、つまり日本の中でいろいろ迷惑をかける人達は早く帰ってもらったほうがありがたいという意味で協力した人も、一部はいると考えられます。要するに、この帰国事業にはいろんな要素があります。在日朝鮮人の、北を理想としてそこへ自己を投入し、参与していくという気持ちもあるし、あるいは社会主義・共産主義の優越性を示していこうということもあるし、あるいは厄介払いという要素もある。いろんな思惑がこの中には渦巻いていて、結果としてこの帰国事業が行われた。とくに1959年に始まって60年、61年くらいは本当に大勢の人が帰って行った。少しでも追体験できるようにと思って、最近たまたま見つけたこの資料をお配りしました。

参加者C:1945年の時点で南と北に分かれた時は、南北それぞれ同じような経済状況で、むしろ私は1959年以前に大学で、後に東京都知事になった美濃部さんの経済学の授業を受けた時、南北を比べると、北の方が鉱物資源に恵まれていて絶対に有利だと聴きました。お話をうかがっていると、1959年以降は北の経済状況がいかにひどかったか、ということだと思いますが、韓国の状態もそんなに良くはなかったし、日本だって良くなかった。この三国の関係は大まかにいうとどんなふうだったのでしょう。
高柳先生:私が高校で学んだ時も、朝鮮半島は「南は農業、北は工業」というふうに教わりました。60年代や70年代初めは、まだそういう言われ方が教育の場でされていました。確かに北は、稀少金属を含め、鉱物資源が多いですね。興南の窒素工場のように、日本が1930年代、北朝鮮に一大コンビナートを作ったり、電源開発をしたりして、大々的に工業化しました。ですからそういう影響は戦後しばらくありました。例えば戦後直後、南北が38度線で分断された時期に大きな問題になったのが、「北から電力が来ない」という問題でした。
 一方で、北朝鮮は朝鮮戦争の中で米軍の絨毯爆撃にあって破壊されましたので、この1959年というのは朝鮮戦争が終わってまだ5~6年という時期ですから、あれだけの爆撃を受けた国が、そんな「地上の楽園」になっているということはありえない。第一次五カ年計画にしたがって、懸命に再建に励んでいた時期だと思うんです。でも組織的な宣伝もあって、多くの人が帰っていきました。個人や家族単位でも帰りましたけど、特定の職業集団、たとえば鋳物とか織物とかそういう人々がまとまって帰ることもありましたので、そういう技能をもつ人たちを使って国家建設をしようという思惑もあったのだと思います。
 韓国もご承知の通り、当時はまだ経済的に非常に貧しくて、1960年代の半ば頃は大島渚監督が『ユンボギの日記』をスライド化して作品化したように、街にはガム売りや靴磨きの少年が溢れている状態でした。韓国が経済的に発展していくのは、やはりそれ以降、とくに1965年に日韓条約が結ばれて、いろいろ問題がありながらも、日本の経済協力資金を使ってインフラ整備をしていく時期以降ではないでしょうか。70年代に入ると、「漢江の奇跡」のことば通り、韓国経済は徐々に軌道に乗っていき、その頃から南北の格差が開いていったと言えると思います。
 ちなみに帰国事業は1967年から71年まで、3年半くらい途絶えていた時期がありました。というのは、1959年に最初に条約を結んだ時には、帰国事業の実施期間は一年とか非常に短い期間に設定されていて、何度か更新するわけですが、日本側は早く打ち切って短期決戦で終わりにしたい、しかし北朝鮮側は逆になるべく永くやりたいということで、協定を更新するかしないかをめぐって対立があり、結局協定が途切れた時期が3年半あったということです。1971年に再開して、北朝鮮の貨客船マンギョンボン号が登場してきます。それまでは先ほどのお話のように、ソ連船に乗って帰って行きました。72年以降になると、帰国者は学生などの若者が多いですね。この年の七・四南北共同声明で統一の気運が高まり、また朝鮮高校の中での教育の影響もあって、意気に燃えた高校生たちが渡って行った。むしろ親は、さっきの話のように、帰国事業開始直後から「あれを送れ、これを送れ」と手紙が来ていますので、さすがに大変だ、とても帰るような所じゃないとわかっていました。再開以降は、若い高校生がかなり高い比率になっていて、ちょっと教育の恐ろしさを感じます。

参加者E:「よど号事件」というのがありましたよね。あのちょっと前くらいでしょうか、日本の共産党と朝鮮の労働党が親しかったですよね。今は繋がりがないんですか?
高柳先生:資料にある寺尾五郎さんの本『38度線の北』は、まさに共産党系の新日本出版社から出ているわけです。戦後1950年代から70年代前半くらいまででしょうか、日本共産党と朝鮮労働党は仲が良かった。ただ、中ソ論争などがある中で決定的に関係が断たれて悪化していましたが、その後、拉致事件発覚前までは徐々に良くなってきつつある気がいたしました。
 戦後どんなふうに朝鮮関係の本が出ているのかということを先ほど申しましたが、例えば文学ですね、朝鮮半島の文学がどう翻訳されて日本で出版されたかをみていっても、日本と朝鮮半島との関係史がたどれると思います。まず誰が訳しているかというと、初めのころはほとんどが朝鮮総連系の在日朝鮮人ですね。今は違って、日本人で朝鮮語の達者な方が出てきて翻訳もやっていますが、当時はそれだけ語学力のある日本人も少なく、また内容も韓国のものではなくて、圧倒的に北朝鮮の革命文学で、新日本出版社をはじめとする日本共産党系の出版社から多く出ています。そういう日朝友好運動の流れを今もう一度振り返って、どういうプラスの遺産を残しているのか、逆にどんな弊害や問題点があるのかということを、きちんと検証することが必要かなと思います。
 帰国事業のことでいうと、当時日朝の友好運動や連帯運動が広くありましたので、日本のあちこちに帰国事業に関する石碑とか時計台とか並木などが残っています。「日本でいろんな辛い思いをしたけれど、そうは言ってもやはり日本にお世話になった」という意味で、在日朝鮮人が北朝鮮帰国に際して日本に記念植樹をしていくとか、記念碑を残していくとかしました。東京にも記念碑が、私が知るだけでも3つありますが、全国で一番有名なのは、帰国船が出た新潟の埠頭に通じる道に柳を植えたもので、柳は朝鮮語でポドゥナムと言いますが、「ボトナム通り」と命名されていまも残っています。ほかにも、全国至るところにそうした記念植樹とか時計台とかありますので、そういうものをもとに、日朝友好運動の曲折の歩みを再度振り返ってみることも大事であろうと思います。

韓先生:時間があるなら、もう少しお話してよろしいでしょうか。


大量餓死の時代

 みなさんは不可解に思われるかもしれませんが、どうして北朝鮮は世界で一番ひどい食糧難を経て、大量の餓死者を出したのか。それを理解できない方がいらっしゃると思うのですが、私が最初に行った時に、社会主義という経済のシステムをすごい疑問に思ったのです。まず、農業システム、日本で農家の方は自分の持っている田んぼや畑にこれを植えたら一番収益になる、自分の持っている土地に対して充分理解したうえでやりますよね。ところが北朝鮮に行ってみたらそうではないんですよね。今年、農業はどういうふうにする、5月1日から田植えをする、そう、上で指示をしたら北の端から南の端まで全部5月1日からヨーイドンと田植始めれ!となるんですよね。そうしたら、北の端は稲がこれくらいにしかならないし、南の端は伸びすぎているかもしれない。関係ないんです。5月1日から全国の農民が競争なんです。毎日放送でじゃんじゃんやるわけです。どこの農場は何%植えた、どこの農場はこれぐらいだ、と。適地適作なんて関係なく農業が進められる。


働かない幹部たち

 農業も工業もそうですけど、幹部たちは働かない。農業だと一番末端の作業班というのですが、作業班の班長でも働かない。その作業班には朝鮮労働党の責任者がいる。農民同盟の責任者がいる。青年同盟の責任者がいる。婦人同盟の責任者がいる。すでに4人、それに班長で5人。それは絶対働かない。本当に何にもレッテルのついていない人間しか働かない。そのレッテルの付いていない人間が働かない人の分まで働かなくてはダメじゃないですか、だから加重になるわけです。ところが、農民と言うのは都市が支援することになっているんです。農繁期になると学生、会社員全国から行って田植を手伝うわけです。秋の刈り取りもそうなんです。そうすると農民は沢山来た支援者たちに、あれしろ、これしろと言えばいいのです。北朝鮮では指導農民といいます。直接働かない。指導だけすればいい。だから、専門の農民が農業をやるわけじゃない。全国がそういうシステムになっていているし、農業のやり方自体が上からこうやれと言う指示で動く。

 そうなるとどうなるか。土地がだんだん疲弊します。収穫量が減って行きます。治産治水をしない。幹部でなきゃ生きていけない。そういう社会なんです。工業も同じです。ひとつの作業班で各役人は全部働かない。上からは有給はどれくらいと決めてきます。でも実際の現場では、なんでもいいから小さなレッテルがついていれば働かない。一番下っ端しか働かない。そうするとバランスが取れないじゃないですか。北朝鮮の本物の農民と本物の労働者は、自分の背中の上に何人の人間を養っているか、そう思っていました。経済はどんどん落ち込んであたりまえのシステム、私は飢餓の時代になった時、本当に悔しかったです。私が北朝鮮に行って、北朝鮮について勉強して知識を持ってみると、世界中で北朝鮮ほど地下資源の豊富な国はありません。本来ならば、世界で最高の暮らしができる国土を持っているのが北朝鮮です。無い鉱物はありません。今北朝鮮が核兵器を持っているかどうかといつも騒いでいます。ウランが出るからやっていることなんです。輸入してやらなければならないなら、北朝鮮はできません。ソ連の核開発の最初は北朝鮮のウランでやった。そう言われるほど北朝鮮にはウランがあります。


社会主義システムへの疑問

 社会主義と言うシステム自体に私は疑問を持ちました。北朝鮮で現実を見た時、他の社会主義国家はどうなんだろうと考えました。その頃はまだ、ほかの社会主義国家の映画も見せていましたし本も外国のものがたくさんありました。そういうものを見ていると、レーニンのときにすでに、社会主義計画経済のひずみがソ連の出版物や映画にも出ています。それから長い時間を経てソ連が崩壊する前くらいのソ連の出版物を見ると賄賂作戦、上役に賄賂を使わないとダメな、現象も出ています。ソ連だけではなく、中国の本を見ても社会主義というシステム自体がそうならざるを得ない、そういうものじゃなかったのか。ヨーロッパの社会主義国家がざーっと崩壊した時に、あぁ、なるべくしてなった結果なんだと思っていました。でも、北朝鮮ほどひどかったかどうかは分からないのですけど。


配給だけに頼る階層は死んでいった

 飢餓の時代を考えてみたら、私は今でもその時代がフラッシュバックすると夜中でも本当に跳び起きます。さっきも言ったように、配給というシステムで成り立っていた社会で配給が遮断された時、大量餓死が起こったわけです。本当にすごいありさまでした。300万人、数字で300万、戦争でない、平和な時代に300万というのは恐ろしい数字です。朝出勤するために外へ出ると、冬なんかは雪が降って一晩たつとアイスバーンになります。その道のあちこちに人が倒れています。近寄ってのぞいて見て、目が動いている人はまだ生きている。目がじっと固定している人はもう死んでいる。大人は倒れても何も言いません。でも子どもは母ちゃん、腹減ったよ―、1日中怒鳴ります。自分の親に向かって怒鳴っているのじゃないです、道行く人が自分の声を聞いてだれか振り向いて、誰かがパンのひとかけでも握らしてくれないか、そういう期待のもとで怒鳴るわけです。私が考えるに、お前もっと腹減るのに、どうして叫ぶんだよ、と思うのですが。その叫び声が止まった時が、その子の死ぬ時なんです。考えられないでしょう、日本ではお医者様は食いっぱぐれしない職業だと言われます。一番先に、大量に死んだのがお医者様、教員、科学者、知識人。その人たちは配給にだけ頼って生きていましたから。それに社会主義国家ではインテリ層は基本階級じゃないと宣伝されています。普通は御主人が会社で働くと奥さんは専業主婦になって内職をします。その内職の方がお金になります。おかしいでしょう、正規の会社員として働いているご主人より、手内職をしている奥さんのほうがお金を稼げる。でも北朝鮮はそういう状況なんです。

 私が一番初めに日本に入って来た時、まだ在留資格も得られない時、働けないので内職をしたことがあります。西陣織のネクタイを作る内職をしました。1本1万円で売るネクタイ、あれはみんな手で縫うのですが、1本つくりあげて60円です。手内職というのはそれくらい安いのです、日本では。いくらしたって、自分の食べる分にはならないじゃないですか。ところが北朝鮮ではそうじゃない。私が行った頃には、イグサに似た草で編んだカバンとか、帽子とか、そういうものを輸出していたんですけど、みんな女性の手内職なんです。すごく器用で。その内職の収入がご主人の収入の何倍にもなる。私が大学を卒業して勤めた時、初任給60円くれました。額面は60円なんですが、冠婚葬祭があるとか、職場で今度の土日はどこかの橋の現場で道路工事をしないとダメだとか、それに使う道具とか材料とか、みんなその会社でしないとダメなんです。それを従業員が負担するのです。月給からピンハネしてしまうんですよね。最後残るのは配給を取るお金が残るならいい月で、残らない月はマイナスになってしまうんですよ。生活は維持できない。でもお医者様とか科学者、技術者、学校の先生とか、みな大学卒のインテリですよね、そういう人たちは資本主義的な方法で金を儲けちゃいけない、内職も正規の労働じゃないので資本主義的とみなされるんです。だからやっちゃダメ、御主人の給料で配給をもらう、それ以外は考えられない。そういう状態で生きていた。工場地帯はご夫婦ともども会社勤めをしていて、配給で暮らしていた。そういう所で配給がパタリと止まったら方法がないわけです。だからバタバタ死んだ。おびただしい数の人たちが死にました。


人災としての飢餓

 うちの嫁は優しいので、私が朝出勤する時に嫁に言うのです、誰かが家に物乞いに来たら絶対何もやるんじゃない、外で、道端やヤミ市などで子どもでも手を出して、あなたが食べ物や10円札でも持っていたら、あげてもいい。でも家に訪ねて来た人間には絶対何もやるんじゃない。そうしたら、ある日、家へ帰ってきたら近所の、まっ黒けの男の子がいるんですよね、どうしたのと聞いたら、どうしたらいいんでしょう、お腹が空いたと言ってきたから、ごはんにキムチをのせて、スプーンを付けて、外に行って食べなさいと言ったら、家の中で食べてそれから出て行かないんです、と。十日くらい居たんですかね。追い出そうと思ってもガッチリ家のモノをにぎって出ないんですね。必死になって。家に帰ったらお腹が空くから。近所の子ですがその親に言ってもしょうがないんです。親は自分が食わせられないから知らん顔なんです。嫁がなんとか連れ出してほしいと言いにいったのですが、食わせられないからしょうがないと。最後に私の娘婿が来て、出しました。お母さん、そんな方法じゃダメ、ビニール袋にご飯を一杯と、おかずを入れて下さい、と言うんですね。その子のところへその袋を持って行って、これをやるから俺についてこい、と。その子は食べ物を見て、出て行く方がいいか、居座っていた方がいいか、見比べて考えて、やっぱりやめたと思ったらしい、そうしたら婿が最後に一発なぐりました。恐怖心を持たせて、それで連れ出しました。

 ものすごい数の人が死にました。1994年、5年、6年、7年、最高に死にましたよね。どのくらい死んだか。私は2番目の娘婿を連れてその実家の田舎に行ったら、道でその娘婿は友達に会ったんですね。お母さん、ちょっとあの子と話してくるから、と。戻ってきたら手に紙束を持っているんですよ。A4の紙を四つ切にした紙を5センチ厚さくらい持っているんです。お母さんこれ見て下さい、と。見たら名前 ○ ○○、性別 男、年齢 ○○、その他 5名と 書いてある紙です。この紙きれ一枚が5人分なんです。死体を5人処理したってことだったんです。一番最初、餓死者が出始めた頃、ひとりひとりを埋めました。大量になるとそうできない、集めて処理します。行政機関に専門の部署がありました。その部署が、ひとり死体を処理したら朝鮮のお金で300円くれたのです。ところが政府がその金を出しきれなかった。だから、こんなに溜まったんです。行政機関の上から、金が付いたから取りに来いって言われて、取りに行くための死体処理の紙がこれくらいあったんです。四つ切の紙がこれくらいあったら何人になります?それくらい沢山の人が死にました。

 朝鮮労働党の党会議、党員の何%か参加しないとできない会議を構成できないくらい、死にました。私はそれは絶対に天災じゃないと思っております。どこまでも人災です。私は政治がどれほど恐ろしいものであるか、本当に骨身にしみて思い知らされました。子どもたち家族を死なせないために、その時初めて、日本に居る親に向かってまとまった金が必要ですと連絡しました。それまで私は親にまとまって何かしてもらったことは無かったのです。送ってくれたお金が日本円で25万でした。それでは足りなくて親しいお友達が足してくれて、食堂を経営しました。経済が金正日の手に負えなくなったから、個人経営をしてもいいという、そういう時期があったのです。そこで家族が食べて、利益金として残ったものは中国製のトウモロコシを買って、飢え死にしそうな人をあつめておかゆでも食べさせるそういう機関があったのですが、そこへ持って行きました。国際的に北朝鮮が手を挙げて、食糧援助が必要ですと言って初めて食料が入ってくるようになったじゃないですか、そのあと、一定期間、餓死は止まったのですけど、このごろまた、それに近い様相を呈しているようです。


食糧支援の必要性を訴える

 私は日本に居た小さい時、第二次大戦のドイツのことを、どうしてそこまで行くんだろう、ドイツにも科学者や良心的な人はいたのにどうしてそういうナチスのユダヤ人虐殺や世界的な戦争を出来たんだろう、と思っていました。でも自分がそのシステムの中に入ってみたら、どうにもならないということが分かりました。いったん権力を握ったら、その権力を手放さないためにはどんなことでもやる。北朝鮮の強制収容所に私の知っている人もいっぱい行きました。今もそうじゃないですか。金正雲体制も受け継いでいますからね。でも私は二度とあんなにひどい飢餓の時代は訪れてほしくないと思っています。ほかの人たちは私に言います。北朝鮮なんか食糧支援したところで、みんな軍隊とか上の奴らが分捕ってしまうんだから、送る必要は無い。そうじゃないと私は訴えます。確かに上の奴らは分捕ります。でも少数の人間がその食料を食べる訳じゃないんです。それは金と替えるために横取りする訳なんです。それでその食料をヤミ市に流します。末端の人たちは金を出さないと食べられません。でも品物があれば、買うために必死になって何かをやって、手に入れる。でももともと品物が無かったらどうにもならない。大量餓死が出た時は、国際支援が無かったから、食糧自体が無かった。食べるものが無かった。どういう宣伝をしたと思います?牛やウサギが食べるものは人間も食べられる。冬に木の葉っぱも集めろ。ピョンヤンは別だと言いましたが、そんなところでもトウモロコシの根っこを掘って職場へ持ってきて納めろ、そうしないと配給券をやらない。そういう時代がありました。地方の人達は草の葉っぱでも木の葉っぱでもいいから集めろ、そして、各家庭ごとにどんなものをくれたか。酵素だと思うんです。ベイキングパウダーに似たような粉を分けてくれたんです。それを木の葉っぱとか、水分といっしょに混ぜて寝かせると食べられるようになる、というんです。私もやってみました。すると、ちょっと発酵するんじゃないでしょうか、ドロドロした感じになります。口に入れましたが、とてものどを通るような代物ではなかった。

 ものが無いとどうにもならないんです。だから支援物資を入れる必要は無い、というのには私は反対です。入ってほしい。そうしたら餓死者は出ない。正直、支援物資はたくさん入って、もらいましたけど、ただでもらったことはありません。ヤミ市に行ったら、最初はアメリカや韓国から来たことを隠すために袋をばらして他の容器に入れていましたが、沢山入ってくるから追いつかない。後になったら、アメリカ、韓国などの袋ごとヤミ市で売っていました。買って食べる食糧でも無いとダメだ。入れるなと言う意見には賛成していただきたくないんです。

司会:まだまだ伝えたいことはいっぱいおありでしょうが、残念ですが会場の都合でここで終わりにさせていただきます。長時間ありがとうございました。
(拍手)


以上

(文責:事務局)