地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2013・1月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「現代を生きる狩猟民 アラスカ先住民グィッチンの言語と文化」


● 2013年1月12日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス研究室棟第三会議室
● 話題提供:井上敏昭先生(城西国際大学准教授)


井上敏昭先生


講演概容

(数字のない画像は当日掲示されたものです)

 今日お話しするグィッチンの人たちはアラスカとカナダの国境にまたがって住んでいます。私のメインのフィールドがアラスカなので、アラスカ側に住むグィッチンの人々を中心に、その言語と文化についてお話させていただきます。まず文化的社会的特徴、特に狩猟採集をすることとか、獲ったものを分け合うという文化を概観し、次にグィッチン社会が直面している開発問題について検討することで現代のグィッチンの人々をより深く理解することを試みたいと思います。最後に、「ことばのサロン」ですから、そこまでお話したことを踏まえてグィッチンの言語の現状とその社会的重要性についてお話したいと思います。


0.はじめに

 みなさんご存じのことだとは思いますが、先住民という概念について確認をしておきたいと思います。先住民とはー

  • その土地に古い時代から(後発の移民が移住してくる前から)住み続けている人々あるいはその子孫。
  • にもかかわらず、後から成立した国家などの中でマイノリティ化し、不当に剥奪された権利・権限も回復されていない人々。マイノリティというと小中学校では「少数民族」というふうに「数の概念」として教えられていますが、私は「数の概念」ではなく、「権利の概念」であると理解しています。すなわちマジョリティの人々あるいはその社会が当然のこととして有し、享受している権利・権限を、不当に剥奪されている集団がマイノリティです。特に後にマジョリティとなる移民が到来する以前から持っていた、土地や資源に関する権利を、歴史の中で不当に無視されたり制限されたりしてきた集団、例えば狩猟をしていた土地に後からの移民が都市を作ってしまったり、別の資源開発をすることで狩猟などができなくなってしまった人々のように、自分たちの生活スタイルを継承したり、伝統を維持することを不当に制限されている状態が続いている集団が先住民ということになります。
  • そういう環境の中で、主流社会とは異なる社会的文化的伝統(言語・宗教・土地との結びつき・・・)を維持し、それに基づくアイデンティティを有する集団やそれに属する人々。このように固有の社会的文化的伝統をもち、それに基づくアイデンティティを有しているということが非常に重要なポイントになります(ここでいう「固有」の伝統とは、その担い手である現在を生きる先住民自身が規定するものであって、「過去」の在り方を全く変えずに行っていることを条件としているわけではありません)。


1.グィッチン(Gwich’in)

 (写真を見せて)これがグィッチンのおじいちゃんです。現代のグィッチンの人々は、普段はこちらのおじいちゃんのように普通のシャツなどを来て、丸太小屋などに住んでいます(注:故人であり写真掲載の承諾を得ることが困難なため本誌には掲載できませんでした)。電気製品も使っています。このおじいちゃんはかなり尊敬されている人で、一回目の調査のときに私を救ってくれた人なのです。

 さて「グィッチン」という呼称ですが、かれらに発音してもらうと、ほとんど「グッチン」に聞こえます。よく聞いてみると、小さく「ィ」を言っているのですね。私は日本語表記では小さな「ィ」を入れることにしました。現地に行っていない人の日本語訳では、アルファベット表記のWに引っ張られて「グウィッチン」と「ウ」を入れていることが非常に多いのですが、現地では全く受け入れられない発音です。アサバスカン系言語のアルファベット表記には、英語のネイティブスピーカーが何も知らずに読むと全く違った発音になって染むような綴りになっているものが多く存在しています。例えば、カナダに同じアサバスカン系の先住民でTUTCHONEという人々がいるのですが、この綴りを英語の感覚で読むと「タッチョン」と発音してしまいます。私は彼らについて辞典項目を執筆することになったときに、あぶなさそうだなと思って現地政府に電話して「あなた方の集団名を発音してくれ」と頼んだところ、「トゥショーニだ」という答えでした。その後、他の研究者仲間を通じて北方先住民言語研究の宮岡伯人先生に確認をしたところ、「アサバスカン系言語で最後が『ション』で終わるのはあり得ない、お前の方が正しい」というお墨付きをいただきました(笑)。このように英語圏の国家の先住民について英語で書いている書物でも、発音に気をつけなくてはならない、ということがままあります。

 さて話を戻すと、グィッチンは北アメリカ先住民のグループであり、系統で言うと北方アサバスカンといわれるまとまりに属しています。北方アサバスカンというのは言語の系統ですね。では「アサバスカン」のなかには「北方」のほかに何があるかと言うと、ナヴァホの人たちとか、アパッチといわれるグループのいくつかの言語がアサバスカン系の言語に分類されています。彼らは現在アリゾナやニューメキシコなど合衆国でも南の方に住んでいて、地図でみるとアラスカやカナダ北部から何千キロも離れているのですが、実はカナダのかなり北の方がナヴァホの人々のもともとの居住地だったのです。そこから、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に到来するよりも前に、火山の噴火などの影響で他の先住民の間をすりぬけて、南下したのだろうと考古学で言われています。グィッチンは北に残った人たちなのですね。

 グィッチンは狩猟・漁撈・採集民です。現在はアメリカ合衆国市民あるいはカナダの国民になりますが、日常的に狩猟、漁撈、採集活動をして生活することを続けています。つまり、自分たちの生活地から直接、食料や生活に必要な素材を自ら獲得するライフスタイルを伝統的に有し、それに基づいた文化を現在でも維持しているのです。現在はアメリカ合衆国アラスカ州からカナダユーコン準州、北西準州にまたがる内陸部の、北方針葉樹林や低灌木地を伝統的生活圏としている人たちです。私が「アラスカの先住民社会の研究をしている」というと、「イヌイットの研究者ですか」と言われるのですが、グィッチンはイヌイット(イヌピアット)の人々とは違う集団です(さらに言えば、アラスカでは「イヌイット」という呼称は用いられておらず、それに相当する人々は「イヌピアット」と呼ばなければいけない)。イヌピアットは北極海沿岸にいる海の民ですが、私の研究している北方アサバスカンの人々は森の民なのです。彼らのことばでいうと、「ブッシュ」の民です。この「ブッシュ」という語は、単なるブッシュ(英語のもともとの意味である「低灌木」という意味)ではなく、背の高い木々で構成される森(針葉樹林)とか湿原とか含んだ概念です。グィッチンの人々は、「我々はブッシュで生きているんだ」という説明をします。


地図1

 (地図1)彼らの伝統的な生活圏は、ユーコン川の中流域に広がるユーコン平原からブルックス山脈という大きな山脈がありますがそのふもとあたり、それからカナダにも住んでいて、カナダ側の生活圏は、ユーコンの上流域に加えて、マッケンジー川という別の大きな川の流域も含まれます。


(画像1)上空から見たユーコン川
(画像1)上空から見たユーコン川

 (画像1)高低差がないので川が蛇行して、そのたびに湖が残って行く。非常に豊かな土地です。(画像)夏の風景です。最高気温が20度くらいで、夜の10時半くらいまで暗くなりません。これで蚊さえいなければ(笑)いいのですが。アラスカはモスキートステイト(蚊の州)という別名があるくらい、ジーパンの上から吸ってくるというおそろしい蚊がいます。それさえいなければ夏は過ごしやすいところです。(画像)これは私の調査地のFort Yukonの近くのユーコン川です。サケが遡上します。(画像)ほぼ同じ場所の冬の風景です。冬になると平均-20度から30度、私の経験した最も寒かった気温は-57度でした。みな、屋外に設置する巨大な冷凍庫を持っているのですが、わたしが調査から帰ってきて、家に入る前に、家の中にいる人から「ちょっと冷凍庫からサケを取ってきて」なんて頼まれて、冷凍庫に顔を突っ込んだら、冷凍庫の中の方があったかったということがありました。ただ、冬は川が凍ることでかえって移動性が高まります。昔は犬ゾリ、現在はスノーモービルで、凍った川をハイウェイ代わりにして、わーっと行けるのですね。また、川以外の場所も、雪がない時期は道がついているところしか行けませんが、冬になっていろんな地形が雪をかぶることで踏破可能になりますので、我々の感覚とは逆に、冬は社会的な行き来が活発化する時期なのです。(画像2)これは針葉樹林からもう少し北に行った低灌木地帯です。森林限界に近付いて、木の高さも低くなります。

(画像2)低灌木地帯
(画像2)低灌木地帯


グィッチンの近現代史

 グィッチンは18世紀にはじめてヨーロッパ人と接触しました。当初は探検家などとの単発的な接触に留まります。ヨーロッパ人と恒常的に接触するようになったのは19世紀半ばにイギリスの交易会社「ハドソン湾会社」がグィッチンの生活圏に交易所を設け、毛皮交易を開始してからです。グィッチンの人々はこの交易に対応するため、資源のありかにそって移動生活を行っていたそれまでの生活から、毛皮の状態の良い時期にこの交易所の周辺に留まってそこを拠点に毛皮獣の捕獲に専念するような半定住生活に入っていきます。また、この交易によって、毛皮と交換にヨーロッパの工業製品が彼らの生活に入ってきます。例えば銃、鉄などの金属容器、刃物、それから、ビーズ、紅茶・珈琲や煙草、砂糖などが入ってくるようになりました。

 20世紀に入ると彼らの生活も国家行政による管理を受けるようになってきます。まず、1936年にIndian Reorganization Act(インディアン再組織法)がアラスカ地域にも適用されることになります。この法律によって、先住民はひとりひとり集落に登録され、登録された先住民は集落ごとに選挙によって評議会を作るよう指示されます。同時に学校教育が浸透し、グィッチン社会においても、一年を通して集落に定住する生活に移行します。定住化が完了したのは第二次世界大戦の前後です。

 ということは、定住化以前のことを覚えている人たちがまだ生きている、ということです。私の狩猟の師匠もその一人で、10歳の時、学校へ行かなくてはならないということになり、親に連れられてブッシュからフォート・ユーコンへ出て来て、初めて砂糖をなめたら頭がバクハツしたような感じがした、と言うわけで(笑:純度の高い糖分を初めて摂ったときの感想)、このようにまだその頃の話がインタビューで採れるのです。 その後、1971年にAlaska Native Claims Settlement Act:ANCSA(アラスカ先住民権益処理法)が成立します。この法律は、アラスカに住む先住民の土地などに関する権利を規定する法律ですが、有名なトランスアラスカ・パイプライン、これは北極海沿岸の油田から石油を太平洋岸の不凍港に移送するためのアラスカを縦断するパイプラインですが、それの敷設のときに、誰の土地か分からない(土地の所有権が確定していない)と敷設できない、ということでつくられた法律です。つまりアラスカの土地の所有権を確定させるために、国が、「もともと先住民がアラスカの土地についての権利を持っていたのだ」と認めたうえで、約11%の土地は先住民が手元に残し、残りは放棄してもらう代わりに国が賠償金を支払うということをこの法律で定めて決着を付けたわけです。この法律で、先住民の定義が明確化され、彼らの土地所有権の確認とその放棄・補償が行われたのです。

 この法律の結果、アラスカでは先住民であっても、西欧的な法体系に組み込まれることになります。土地の所有権、使用権あるいは資源の獲得活動権などが西欧の法律の文脈で規定されるということです。先住民が自分たちの考えに基づいてやっていたとところから、西洋のルールに基づいて生活しなくてはいけないということが固まったということです。


現代の生活

 グィッチンの人々は、第二次世界大戦前後に集落に完全定住するようになりましたが、現代でも狩猟・漁撈・採集活動は日常的に行っており、獲得した動植物も日常食として利用しています。ただし、狩猟活動を含め、生活には工業製品を多用しています。そのため現金収入が不可欠です。集落の先住民政府や学校で、フルタイムで働く人も多くいますが狩猟・漁撈・採集活動と両立させるために季節労働を好む選ぶ人も多くいるようです。例えば、夏にアラスカ州内やワシントン州などで山火事が頻発すると、消防士を臨時で雇うのですが、それに先住民でチームを組んでわーっと入って行く。1ヶ月間働くといい収入になるという話です。しかも自分たちが狩猟などで培った経験がそこで活用できる。「山の中、森の中はまかせておけ」というわけです。同じような理由で、ハンティングガイドであるとか、アラスカには軍事基地が非常に多いので寒冷地におけるサバイバル技術の軍のインストラクターを仕事に選ぶ人もいます。


(画像3)スーパーマーケット
(画像3)スーパーマーケット

 (画像3)これは私の調査地フォート・ユーコンにあるスーパーマーケットの写真です。このスーパーの前身は毛皮交易所だったそうです。ここでは、日本のスーパーとほぼ同じものが売られています。(生産地から見て)遠隔地ですから肉とか野菜とか高いのですが、とりあえず一通りのものは手に入ります。クレジットカードも小切手も使えます。ですから、「アメリカの田舎」なんですね。先住民が人口の80%を占めているところを除けば、他のアメリカの田舎町と変わりません。


2.グィッチンの狩猟採集文化
グィッチン社会の狩猟・漁撈・採集活動

 その一方で、彼らはこの土地で何百年も前から大型哺乳類のカリブー(北米にいる野生トナカイ)やヘラジカを狩ってきました。ヘラジカは、大きな雄になると、身長170ちょっとの私の背の高さがちょうど肩のあたりになり、その上に大きな頭が乗っかって、さらにヘラのように平たい大きな角が生えているという巨大な鹿です。また、小型哺乳類としてはウサギ、ビーバー、マスクラットなど、これらは大体罠を仕掛けて獲ります。
(画像4)フィッシュホィール
それから、ユーコン川にアクセスできる所に住んでいる人たちは、サケ、とくにキングサーモンという呼び名で一般には知られているマスノスケを捕ります。(画像4:左)これはフィッシュホィールというサケを獲る仕掛けです。インディアン水車と北海道で呼んでいるものと同じようなものです。これを仕掛けて置くと一晩で、多い時は15匹くらい捕れる。大体6月頃がマスノスケの遡上期になります。それが終わると7月8月には我々日本人が普段食べているがギンザケやシロザケなどが上がってくるのでそれも獲ります。それ以外の淡水魚、ホワイトフィッシュ、カワカマスなども川や湖で捕れます。同じホワイトフィッシュでも湖ごとにプランクトンなどのエサが違うので味が違うといいます。

 また、渡り鳥も渡ってくるのでそれを捕りますし、それから野生植物、とくにクランベリーのようなベリー類、草根など採集します。ですから、非常に豊かな所なのです。しかもグィッチンの人々は、このような動植物をむやみやたらと採ってしまうのではなく、「旬」の時期を選んで獲得するという文化も持っています。

 加えて交易のための毛皮をとるためにキツネ、テン、ヤマネコなどを罠で捕ります。今はヨーロッパの国々が「非人道的なワナを使っているからアメリカからは毛皮を輸入しない」としているので、一度カナダに持って行ってから売ってもらうなどしているようです。


 彼らにとって例えばカリブーを捕るというのがどういうことなのか。殺す、とか、奪う、ということではなく、「カリブーのひと」が皮や肉というおみやげを持って自分たちの世界へ遊びにきてくれるので、それを受け取って、魂はちゃんとカリブーの国へ帰す。すると、カリブーはこんなふうにもてなしてくれたから来年もまた行こう、と友達をさそって来てくれる、ということになる。彼らにとっては、人間もカリブーもヘラジカも魂こそが本質で、それがそれぞれの肉と皮をいわば「着ている」という認識らしい。狩った後に魂を返すにもきちんとした作法があるらしく、アイヌのクマ送りの概念と非常に近いものがあると思われます。


(画像5)ヘラジカの足跡
(画像5)ヘラジカの足跡

 (画像5)これはヘラジカの足跡です。このような足跡を見て、どのくらい前に通ったか、どのくらいの大きさのヘラジカだったのか、若い人でも分かります。


(画像6)ウサギ罠
(画像6)ウサギ罠

 (画像6)これはウサギの罠ですね、今は針金を使っていますが、昔は動物の筋から繊維をとって作っていたそうです。私も習って、ようやくわかるようになったのですが、ウサギの通り道があるのでそこに罠を仕掛けます。ウサギは簡単に捕れて簡単に解体できるので、なかなか捕れない大型動物の間を埋める食糧として機能していたのです。

 (画像)これは毛皮獣ですね、ホッキョクギツネやヤマネコの毛皮です。


(画像7)クランベリーの採集
(画像7)クランベリーの採集

 (画像7)これはクランベリーの採集。私のような素人でもあっという間にザル一杯とれます。貴重なビタミン源ですね。

〈参加者〉ビーバーは捕らないんですか?
 捕ります。ダムの近くの通り道にワナを仕掛けるとよくかかります。ビーバーはおいしい、特に尻尾に脂が乗っていておいしいといいます。
〈参加者〉交易品として、ビーバーは結構・・・
 そうですね。一時期もてはやされたことがあります。ただ、彼らが使うのなら使うだけ捕ればいいのですが、毛皮交易の場合は相手が何を欲しがるかによって捕るものが変わってくる。19世紀はかなり高値で取引されていたのですが、最近はヨーロッパではあまりビーバーを使わなくなったので。毛皮のコートでも今ではテンとか、キツネとかのほうが人気(需要)があるようです。


日常生活文化としての狩猟・漁撈・採集

 狩猟・漁撈・採集活動は、それぞれ旬の時期に日常的に行っています。英語ではprime timeという言い方をしますが。その獲物が一番良いときに、必要な分だけを獲得するという作法を大筋で守っています。「大筋で」というのは、狩猟や漁撈のような活動を行うには、刻々と変化する環境状態や資源状態をちゃんとモニターして、臨機応変に対応することが求められるので、昔の民族誌のように「○○民族は○○のルールを必ず守ります」、と書くのは正確ではないのです。ただ、可能な限り、旬を大事にしています。ユーコン川には毎年サケがガンガン遡上するのですが、必要な量を確保してしまうとまだ遡上が続いていても途中でフィッシュホィールを止めてしまいます。

 獲得した動植物は日常食として利用します。頻繁に食卓に上ります。1994年の最初の調査から私はほぼ毎年1週間から2週間くらいグィッチンの人たちが住む集落に滞在しているのですが、私が現地でグィッチンの人たちと一緒に食事をした記録を調べてみると、特別なお祭り(で儀礼食が出される)の機会を除いて、日常的にグィッチンの人と食事を共にした場合に限っても、つまり、私が訪問するということが相手に事前にはわからない状態で、調査に行ってそこで食事を出されたり、そういう場合ですね、その記録を全部カウントしてみたら回数にして70%強くらいの食事で、こういう自分たちが狩猟や漁撈などの活動を行って捕って来た食料が含まれていました。ですから、かなりの割合で、こういうものを日常的に食べていると言えます。

サケ漁
サケ漁


アラスカにおける狩猟活動権

 アラスカでは、自然資源は、先住民のサブシステンス(subsistence)利用、つまり食料などとして個人で消費する目的の利用が、商業利用や娯楽目的の利用に優先するという原則が存在しています。サケに関しても、先住民の人々が捕る分は確保しなくてはならないというのが建前です。「大企業が缶詰にするのにサケが大量に必要だから先住民さんは捕ってはいけない」ということはやってはいけません、ということになっています。連邦の法律が適用される土地と州法が適用される土地とは少しだけ考え方が違います。国立野生生物保護区など国有地は連邦法が適用され、サブシステンス利用は当該地域の伝統的利用者、つまり先住民に優先権があり、州有地私有地(先住民選択地を含む)は州法が適用されて全てのアラスカ在住者平等に優先権(人種差別の禁止)があります。どちらにしても、原則としては、先住民の人たちが動植物を利用する権利は、商業目的でない限りは法律的には守られているということです(実際には行政府によってこの権利がないがしろにされている事例も存在しています)。この話をするとアイヌ民族のひとたちは非常にうらやましがります。アイヌの人たちはお祭りのためにサケ一匹捕ろうとしても、下手をすると漁業法違反で逮捕されてしまう。世界的にみても先住民としての権利が確保されていない状況です。ですから、アイヌ民族の方にこの話をしたときには「それ(アラスカの状況)はすごいですね」という反応でした。


食糧の文化的意味―「リアル フード」

 グィッチンの人々は、自分たちが伝統的な生業活動によって、自分たちの伝統的な生活圏から直接獲得した食糧のことを「リアル フード(real food)」と言います。別の言い方ではtraditional food, Indian food, bush foodと言いますが、「このような食べ物こそがリアルなのだ」ということを強調します。先ほど申しました通り、現在でも高い利用率を示しているのですが、注目すべきなのは、お店で購入する食糧、ハンバーガーとか野菜とか、と対比して「リアル フード」に高い評価を与えているということです。彼ら曰く、「リアル フード」は「食べるべきもの」で「心身に良い」これを食べていれば健康である、あるいは「これを食べないと空腹がおさまらない」と言います。あるとき、街にずーっと住んでいたおばあちゃんが集落に帰ってきて、言ったのが、「ここに来たら急に体が楽になった、それはサケを食べたからだ、ヘラジカを食べたからだ」ということでした。一方、お店で買うのはあくまで「代用食」で習慣性があって「心身に悪い」、あるいはもっと直接的に、「これはポイズンだ」のような言い方をします。


「リアル フード」のシェアリング

 グィッチンの人々にとって、「リアル フード」は分配すべきものであり、金銭で売買するものではありません。現在は狩猟するにもサケを獲るにも銃や弾、ボートやスノーモービルの燃料などお金で買わなければいけないものが必要ですが、いったん獲物が手に入ったら、一切金銭で売買することをせずに、必ずタダで分配します。さらにその分配を受け取った人は、持っていない人を見つけたらやはりタダで二次分配を行う、さらに三次分配も行われる。結果として、集落に持ち込まれた「リアル フード」はその集落に行き渡って行くのを現在でも観察できます。特にキングサーモンの場合、フィッシュホィールの所有者、網の所有者が漁獲の50%から60%を分配に回してしまうことも珍しくありません。分配の対象は、身体的に獲得活動ができない高齢者や障害者にも及びます。私がインタビューしたあるおじいちゃんの場合、高齢者特有の病気でふるえがある人でしたが、家の片付けの手伝いをしていて、冷凍庫を開けたら巨大なキングサーモンが7匹入っている。「おじいちゃん、これ、どうしたの!」と聞くと、笑って、「若い連中が俺を甘やかすんだよ」と言うわけです(笑)。訊いてみると、全くばらばらに何人もの人が、「おじいちゃんはサケを捕れないだろうから」と、ひとりひとり一匹づつ持ってきた。そういうことが日常的に行われているのです。ですから、分配する相手から何らかの直接的見返りを求めているとは考えにくいわけです。逆に、サケを捕ったら、持っていない人にあげよう、ヘラジカを捕ったら、持っていない人にあげよう、さきほどのおじいちゃんなら、サケやヘラジカは捕れないけど、若いものの相談にのろうか、というような、お互いができることで補い合い貢献し合う社会になっています。600人程度の小さなコミュニティーなので、そういうことも可能なのかなと思いますが。分配の範囲は血縁などの繋がりによって集落の外にも及びます。定住するようになった今は、集落ごとに名産のイメージが共有されています。例えば、北の方に、カリブー猟のメッカであるアークティック・ビレッジという集落がありますが、その集落はカリブーが捕れない集落にもカリブーの肉を分配することが期待されています。南のユーコン川沿いに住んでいる人たちは、カリブーが捕れない代わりにサケがいっぱい捕れるので、サケを供給しよう、という具合です。で、もらう側もあまり物おじしません。私がフォート・ユーコンというサケが捕れる所に滞在していたとき、フェアバンクスという都市に住んでいるグィッチンからその家の人に電話がかかってきて、「サケ送るって言ったけど、いつ送ってくれるんだよ!」と(伝言しておけと)言われたりしました。そのようにもらったりあげたり、はあたりまえのこととして行われているのです。


 この分配に関しては、極めて例外的な場合を除けば、即時的に金銭のやりとりが行われることはありません。支払行為は今後お前とはつきあわない、という意思表示に受け取られかねません。お金を払うということは、あげたりもらったり、助けたり助けられたり、という曖昧な相互依存の状態を清算してしまうことなのです。ですから、他人の分配に対してお金を払おうとする人間は物笑いの対象になります。別の言い方をすると「リアル フード」はグィッチンの人たちが人間関係を維持したり、更新したりするために不可欠な存在だと言えます。お店で買う食料ではなく、自分たちで獲得した「リアル フード」がこういう意味を持つことを、私は注目していいと考えています。

 もうひとつ言えるのは、グィッチン社会がこのように現在も「狩猟・漁撈・採集活動をし、獲得した食糧を分配する社会」だということは、非先住民社会や特に都市部に住む他の先住民社会と対比して、自分たちのアイデンティティを強化する働きがあるのだろうと考えられます。彼らの社会には「ハイウェイインディアン」というスラングがありまして、これは、「ハイウェイシステムにアクセスするようになって白人と同じようになんでもお金で解決するようになったインディアン」を揶揄することばなのですが、グィッチンの人々は、「ハイウェイインディアンと俺たちは違うのだ」、と言うわけです。「リアル フード」の獲得活動とシェアリングという社会慣行を続けているということは、グィッチンの人々がアメリカやカナダという大変広い社会の中で、自分たちのアイデンティティをどのように規定していくかを端的に表しているのではないかと思います。


哲学・世界観の伝承の場としての狩猟・漁撈活動

 次に、狩猟・漁撈活動そのものの意味をみていきたいと思います。「狩猟や漁撈、獲物の処理の場で伝承されるのは技術だけではない。そこでは世界観や神話、哲学やディシプリンが伝承・養成される」こういうことをハンターは異口同音に口にします。例えば、先ほど触れたように、狩猟とは動物の魂からお土産を受け取ることだという世界観、それは獲物を捕ったり、解体して行く中でしか学べないというわけです。このなかでも特に私が注目しているのは、英語で「ディシプリン」ということばを使っているのですが、彼らの使う「ディシプリン」には「忍耐を伴う自己制御」というニュアンスが強いように思いれます。ブッシュでの狩猟活動では、寒い中を何日間も野営したり等と、強い忍耐と自制心が要求されます。それなしには命にもかかわります。獲物の処理にも同様に根気が必要です。このように伝統的な活動を行うには、ディシプリンの涵養が不可欠なのですが、ここが大事なのですが、彼らによると、今の社会では、人々がこのディシプリンを失ってしまったから、色々な問題が起きているのだ、と認識している人が多いのです。定住化以降、彼らの社会ではアルコールや薬物の乱用の問題、それに伴う子どもの養育放棄、虐待などがかなり大きな問題として出て来ています。それは若い世代がディシプリンを受け継げなかったことが原因なのではないかと彼らは考えるのです。だからそれを鍛えなくてはいけない、と。しかも、そのようなことを高齢者だけが言うのではなく、20代の若者も結構そのようなことを口にするようになっています。グィッチンの人々にとっての狩猟・漁撈にまつわる文化というのは、単純に「昔からそうしてきたこと」というだけではなくて、「そうすべき」ことであり、それが現代の問題の解決に役立つと考えていると指摘できます。


3.石油開発とグィッチン

 次にグィッチンの社会が直面している開発の問題に入って行きたいと思います。

地図2

 (地図2)これが開発を予定されている土地なのですが、ANWR:Arctic National Wildlife Refuge(北極圏国立野生生物保護区)の中で開発をやろうという非常に乱暴な議論が行われていて、グィッチンの人々がそれに反対をしているという話です。

 ANWRは、1980年に成立したアラスカ国有地保護法(Alaska National Interest Land Coservation Act)によってアラスカ北東部の北極海沿岸地域に設立されました。地図2の真ん中あたりに、ANWRと書いてある、カナダとの国境線に沿った所です。ANWRの下の端に食い込むような形でグィッチンの北端の集落であるアークティック・ビレッジがあります。ですからこの集落はANWRに接しているのですね。この保護区は、野生生物とその生息域の保護、生物多様性の維持など、国際条約上の合衆国政府の義務を遂行するために設置される、と保護法に書かれています。さらに、これに反しない限り、地域住民のサブシステンス利用の機会確保も目的に含まれると書かれています。ところが、「野生生物保護区」となっていても、全部が全部開発禁止にはなっておりません。


1002地区

 北の1002地区というところ、そこは上下両院の連邦議会を得て大統領も認めた場合には開発行為ができると定められています。なぜそうなったのかというと、この1002地区の西側の北極海沿岸地帯は大油田地帯なのです。最初に開発されたのは、もともとは海軍が石油確保のために持っていた軍事リザーブ、現在のアラスカ国立石油リザーブです。次はその東隣、プルドゥー湾を中心とした大油田地帯で、ここは、トランスアラスカ・パイプライン建設のきっかけとなったところです。ここは1960年代に開発されました。そう見てくると、北極海岸の石油が産出する地帯で、開発されずに残っているのは1002地区だけなのです。そこで、ここを開発禁止にすることを経済界がうんと言わず、法律をつくる際に妥協が図られて、開発可能性が残されたわけです。

 しかしこの地域は同時に、北米でも最大級のカリブー群であるポーキュパインカリブー群(Porcupine Caribou Herd:生息地を流れるポーキュパイン川から命名された)の繁殖地であります。植生も弱く寒い地域でなぜ子どもを産んで育てるのかというと、外敵が少なく、虫もわかないので抵抗力のない子どもを育てるに適しているのだと言われます。ここで子どもを育てた後、餌の多い南へ移動して行くことを毎年繰り返しているのですね。


1002地区の開発計画

 1980年にアラスカ国有地保護法ができて、10年経たないうちに1002地区の開発計画が浮上します。上下両院の議決、大統領の認可ほか何段階かの議決が必要なのですが、1988年に開発計画が出されてから現在まで開発は行われていません。上院と下院のどちらかが、拒否をしてきたわけです。アメリカの場合、環境保護派の人もかなり票を持っていますので、政治家もそこに配慮する。どちらかというと、民主党のほうが開発反対、共和党は開発賛成に回ることが多いのですが、共和党員でも開発反対に回る人もいます。計画発表の直後、覚えていらっしゃる方も多いと思いますが、1989年には南のアラスカ湾で石油流出事故が起きて、そのため連邦議会の承認が得られなかったりしています。その後、上下両院が開発を前提とした収入を計上した予算案を通してしまって危ない時もあったのですが、そのときはクリントン大統領が拒否権を行使しました。そのあとのブッシュ政権は石油企業が強力な支持基盤だったため、開発を強く推進しようとしましたが、連邦議会での政治的な駆け引きの中で、いつも最後の最後に計画承認の前提となる予算案を通しませんでした。オバマ大統領は開発反対論者で、現在では共和党側もあまり積極的に開発賛成にはまわっていないのですが、経済状態や国際情勢によっては解禁の可能性も残されてはいます。ただ、米国内のエネルギー開発、エネルギー戦略の議論は、シェールガスの方に話題の中心が移ってきたので、私は、おそらくそちらにシフトするのではないかとは考えています。


グィッチンとANWRの開発計画~グィッチン社会におけるカリブーの重要性

 では、グィッチンとANWR開発計画との関係ですが、先ほど申し上げました通り、ANWRはグィッチンの生活圏の北に隣接しています。それだけではなく、ポーキュパイン・カリブー群は毎年1002地区の繁殖地からグィッチンの生活圏に移動してきて、それによってグィッチンに狩猟機会を提供しているわけです。

 お話したように、カリブーはグィッチンの人々、社会にとって、「リアル フード」として非常に重要なものです。このカリブーこそがグィッチンの社会環境やアイデンティティを維持させ、伝統文化の継承を可能にしてきたものであるとさえ言えます。

(画像8)チーフジャケット背面側 もうひとつ、彼らの伝統的衣装はカリブーやヘラジカの皮を使ったものですが、(画像8:左)このチーフジャケットの黄色の部分は、カリブーやヘラジカの皮をなめした後に、スモークをかけるとこういう色になるのです。現在でも狩猟・採集を行っている先住民なのであるということを、ことばを使わなくてもアピールできる衣装になっています。ですからこの点でも、カリブーというのは彼らのアイデンティティにとって、非常に重要だと言えます。

 それだけでなく、彼らはカリブーと神話的な結びつきを有していると主張しています。カリブーはグィッチンにとって他の動物とは違います。彼らは、自らを「カリブーの民」と称するくらい重要視しているのです。かれらの社会には、以下のような神話が伝えられています。「昔はグィッチンとカリブーは同じ民だった。それぞれが違った道に別れた後でも、お互いがお互いの心を持ち合っているのだ。」さらに1002地区は、グィッチンのことばで「全てのいのちが始まる聖地」という表現になっているそうです。ですから、1002地区で開発が行われるということは、グィッチンの人々にとっては宗教的冒涜であり、社会的生存にかかわる非常に重大な危機であると言えるのです。


グィッチンの開発反対運動

 1988年に開発計画を受けて、グィッチンの人々はさまざまな集落の代表を集め、ANWRに隣接するアークティック・ビレッジで集会を開きます。この集会にはカナダ側の代表も招かれました。1002地区で繁殖したカリブーは国境を越えてカナダにも移動します。カナダ側のグィッチンもこのカリブーに依存してきた。ですからカナダ側グィッチンにとっても人ごとではないのです。集会にカナダ側の人々を招いたということは、その点をアピールしたわけです。この集会で、Gwich’in Niintsyaaと呼ばれる開発反対宣言が出されます。


開発反対宣言(Gwich’in Niintsyaa)

 この宣言では、

  • グィッチンは何千年も前から現在まで、ポーキュパイン・カリブー群を主たる食糧供給源や文化的精神的に不可欠なものとして依存し生活してきた。
  • 現在でもグィッチンは、カリブーに生活を依存する伝統的生活方法を維持する権利を有しているし、その権利は国際的に認められている筈だ。
  • 石油開発はポーキュパイン・カリブー群の生態を危機に陥れる。またポーキュパイン・カリブー群そのものを消滅させなくても、移動ルートを変える可能性があり、そのことはグィッチンの利用可能性を危機に陥れる。
  • 1002地区を開発が認められない地区に認定することを要求する。
ということが謳われています。

 この集会を契機に、反対運動体であるGwich’in Steering Committeeが結成され、この組織を中心に現在でも反対運動は継続されています。かれらは、議員へのロビー活動を積極的に行い、あるいは新聞や講演会など様々なメディアを使って先住民でない人々へ自分たちの主張を発信し、それから、広範囲の先住民社会をつなぐ先住民組織(北米インディアン協会、先住民法的資源センターなど)との連帯しながら自分たちの法的な正当性を発信していくといったことを行っています。また、彼らの集落持ち回りで、隔年で開発反対集会「グィッチンギャザリング」を開催しています。私の参加した2003年のグィッチンギャザリングでは、討議を行う前に地元の若者が伝統的なカリブーの衣装を着て、土地の精霊に会議の成功を祈るダンスを行っていました。


 ここで目を引くのは、非先住民組織(環境NGO/大学)との連携において、インターネットが活用されていることです。具体的には、自分たちのホームページを作って、そこから他の団体のページにリンクを張ります。それによって、例えば「動物に興味があるが先住民の権利にはあまり興味がない」という人々も、グィッチンのホームページから野生動物の写真がたくさんある環境NGOのページにたどりついて、「あぁ、動物たちが不利益を被るからやはり開発をしてはいけないんだ」と思わせるシステムを作っているのです。法的根拠など理屈を知りたい人は大学の法学部などのページに行けばいいし、動物の写真を見たい人はそのページにいけばいい。このようにインターネットのリンクの機能を上手く使って、先住民に関心の無い人たちも開発反対運動に取り込んでいく努力がなされています。


問題の国際化

 彼らの開発反対運動にはもうひとつ面白いやり方があります。2005年に、ワシントンの在米カナダ大使館から米国政府へ、二国間合意に基づいたカナダとの協議をせずに1002地区の石油開発を行うことがないよう求める、非常に強い声明が出されます。これはカナダという国(国家)がアメリカという国に、「条約違反だから開発をやめろ」といっているに等しいのですから、国内の人口の小さな先住民団体が言うのと規模が違う訳です。この声明の背景を説明すると、ポーキュパイン・カリブー群はカナダ側にも移動の範囲合が及びますので、カリブー群に重大な影響を及ぼすことが予想される行為を行う際には、事前に二国間で協議をしなくてはならないということを取り決めた条約がありまして、カナダの主張は1002地区の開発行為がそれに該当する、カナダとの協議なしに行うのは条約に違反するということなのです。このような声明をカナダ政府が出した背景には、カナダ側のグィッチンの人々がカナダの先住民の権利が侵害されていると政府に訴えていることがあります。カナダ政府は、その訴えを受けて、「開発はカナダの先住民の権利を侵害する可能性大である」と判断したからこそ、このような声明を出したわけです。

 これは、アメリカとカナダにまたがって住む先住民であるグィッチンが取り得る、非常に強いアクションだったのです。すなわちこの活動を起こす前までは、1002地区の石油開発は米国内のアラスカという州における経済開発問題だったわけですが、カナダという国家との調停が必要な問題、米加二国間の環境資源問題へ、グィッチン側がすり替えることに成功したのです。そうなると仮にアメリカの連邦議会が石油開発でまとまっても、さらにカナダ側を説得しなくてはならないという大きなハードルが残ることになります。実はアメリカとカナダは太平洋のサケ資源に関して何十年も泥仕合を繰り返してきた歴史があり、もうああいうことはやりたくない、と両国政府は思っているので、大きな抑止力になるわけで、グィッチンはそのポイントをついてこのような布石を打ってきたと言えます。


グィッチンが直面する問題の所在

 ただし、これでもかれらの開発反対運動が前途洋洋というわけではありません。

 開発予定地は、グィッチンの生活圏の外にあります。法律の文脈でいうと、グィッチンの土地ではありませんのでかれらに法的権利権限はありません。

 一方、石油掘削は、グィッチンの現在の生活に深刻な影響を及ぼすことも事実です。

 つまり、今の法律は「動かない」資源を前提に作られている。資源といえば、石油のように土地の中に眠っているか、表面にあっても無生物で動かない、そういう資源のことしか想定していなくて、そんな資源については、その資源の在りかである土地を持っている人に権利がある、というわけです。その一方、グィッチンの人々のように狩猟文化を受け継いできた社会が想定している資源は、カリブーやサケのように移動する生物資源なのです。そのような「動く資源」に依存する伝統的生活スタイルと、「動かない資源」を前提にした現在の法システムに基づく土地所有・使用権、それによる資源開発権の間に齟齬が起きている。グィッチンの側からすれば、彼らの社会的ニーズに対応できる法律になっていない、そこが、現代のアメリカ社会においてグィッチンの人々が自らの主張を完全には通せない原因になっていると言えます。


 ただし、先住民社会が全て、石油開発の全部がダメだと言っている訳ではなさそうです。

 実際、ユーコン川近くで計画された別の開発に関してはある集落のグィッチンは賛成したということがありました(大部分のグィッチンはこれに反対し、のちに賛成していた集落もその意見を取り下げました)。また、1002地区の開発に対しても、開発予定地に一番近い集落カクトビクに住むイヌピアット社会は経済的見返りが大きいことから賛成を表明しています。しかし、このように開発に賛成する先住民も、「開発に関する重大な決定に関与する権限」を必ず条件として要求しています。1002地区に関してイヌピアットもそう主張しますし、別の開発で賛成したグィッチンの集落の人々もそう主張しています。つまり、「伝統的生活(way of living)のなかでも最重要点‐グィッチンのひとたちであればカリブーやヘラジカ、イヌピアットの人たちであればクジラ‐を脅かす開発には反対」であることは共通しています。


「生活の主体」として

 これらの主張を見ると、彼らは、「自分たちはこの土地に先祖代々暮らし、これからもその何世代にもわたって暮らし続けていく『生活の主体』であり、自分たちの生活環境について『主体的』な意思決定を行う権限を有している」という、考えてみれば当たり前のことを主張をしている。だから、開発がいいか、悪いかを決めるのは、外から来た企業や政府ではなく、自分たちなのだということを強く主張しているのです。

 最初に「先住民」の定義の確認をしましたが、これまで「先住民」というと常にマイノリティであり、つまり「客体」として扱われ、社会の枠組みやルールの策定の場から除外されてきた。自然管理に関しても勝手に作られたルールを押し付けられてきた歴史があります。ルール策定に参与できても、オブザーバーとしてであって、議決権がないことすらある。そのような状況に対して、「自分たちこそ、この土地における『生活の主体』なのだ」と主張している。そこには、「復権の志向」が見てとれるのではないかと考えます。


4.グィッチン語の現状

 それでは、グィッチンの言語についてお話しましょう。

 グィッチン語はアサバスカ語族北方アサバスカ語派に属する言語です。アラスカでいうとエスキモー・アリュート語族系言語、イヌピアック語とか、セントラル・ユピック語、とかですね、これが海岸部に分布し、北方アサバスカ語族系言語が内陸に分布していることがお分かりになると思います。

 アラスカ大学アラスカ先住民言語センター(Alaska Native Language Center)という言語の研究所でこの付近の言語を長年研究したクラウス(Michael E. Krauss)という言語学者が2007年に発表したところによると、アラスカ側ではグィッチンの人口が1000のうちグィッチン語の話者は150人、カナダ側では人口1900のうち400人くらいの話者がいるだろう、ということです。アラスカ先住民言語センターがその後、2012年に調査したところではアラスカ側で人口1100のうち300人くらいの話者がいると言われています。おそらく、短時間に急激に話者が増えたのではなく、どこまで話せれば話者と認定するか、その基準の差なのではないかなと思いますが。私がフィールドで経験した限りでいえば、2012年のデータのほうが印象として近い感じがします。割に、しゃべれる人が残っているな、と言う感じですね。


グィッチンの民族呼称

 グィッチン(Gwich’in)は、昔はクッチン(Kutchin)カナダ側ではルーシュー(Loucheux)と呼ばれていました。他の先住民の民族呼称と違って、グィッチンは彼らの言葉で「人」そのものを指す言葉ではありません。「~に住む人」という接尾語だったのです。例えばグィッチャグィッチン(Gwicjyaa gwich’in)というと、「グィッチャ」は「flat=平たい(土地)」という意味でフォートユーコンがあるユーコン平原を指すことばなので、「平原にすむ人々」を意味します。「ネッツァイ=アークティク・ビレッジやその近くの土地」を指す言葉をつけると「ネッツァイグィッチン(Neetsaii Gwich’in)」となります。このように、もともとは接尾語なのですが、現在は公式に自らの民族集団を指す呼称として用いています。綴りはアラスカ側とカナダ側で多少違っています。’が入らなかったり、iとcの間にtが入ったりとか(Gwitchin)ですね。

 その他「人」を指すことばとして「ディンジ=人、男性」があり、これにいろいろな言葉がつくと、様々な「人」を指す言葉になります。なかでも「ディンジジュ」(Dinjii zhuu)(Dinjii shuh)というのは、“Native people”とか “Indian”といった意味で、グィッチンの人々が自ら先住民であることに誇りを持って強調する文脈で用いられているようです。


グィッチン語の近現代史①

 1875年グィッチン語による聖書が刊行されました。グィッチン語に訳された聖書です。フォート・ユーコンの教会に赴任したある宣教師が出版したものと言われています。これが現在のグィッチン語のアルファベット表記の基礎になります。

 20世紀の早い段階で、文化人類学者や言語学者によるグィッチン語話者の聞き取り調査が開始されました。

 言語学の分野では1923年に有名な言語学者サピア(Edward Sapir)がフォート・ユーコン(の周辺地域)に長く住んでいたジョン・フレッドソン(John Fredson)という人から聞き取り調査をして、1940年代にそれをまとめています。1980年代にそれがアラスカ大学アラスカ先住民言語センターから出版され、見開きの右側のページが英語表記、左側のページがグィッチン語表記になっています。サピアはこのフレッドソンという話者を得た時に興奮して、有名なアメリカの人類学者、フランツ・ボアズ(Franz Boas)に手紙を書いています。

 1970年代末になるとアラスカ先住民言語センターなどがテープなどで持っていたインタビュー、特にライフヒストリーや神話などの出版を始めます。その中で早い段階で左には現地の言語を表記し、右側には英語訳の表記という出版が主流になっていきます。

 これらの調査には早い頃から先住民が関与していたのですが、1990年代になると先住民自身がより主体的に自分たちの集団の言語の調査に深くかかわってそれを出版する、それを大学なり、言語センターなりがバックアップする、という方法が主流になってきます。それまではヨーロッパ系の人が先住民の所に一方的に調査に行っていた。つまり先住民は調査される側(客体)、ヨーロッパ系などの非先住民が調査する側という図式が明確であったのが、先住民自身が「主体」として自分たちの文化を伝える活動を行う、そのひとつとして若い人たちが自分たちのおじいちゃんおばあちゃんに話しを聞きに行って、それを出版する、ということが出てきたわけです。

 このような人たちの中で有名なのが、かなり初期から調査活動を行っていたキャサリン・ビーター(Katherine Peter)というひとです。また、ヴェルマ・ウォーリス(Velma Wallis)というひとは、グィッチンに伝わる民話をもとにした小説を出版しまして(‘Two old Women ?An Alaska Legend of Batrayal, Courage and Survival’)、日本でも『二人の老女』というタイトルで訳本が出版されています。これは、アメリカで大ベストセラーになった本で、言語としては英語を使っていますが、グィッチンの民話が多用されていて、アメリカではいくつかの出版賞を獲っています。

 また、アラスカ大学フェアバンクス校においては、グィッチン語講座が定期的に開講されています。もちろん講師はグィッチンの人です。このようにグィッチン語の研究に関しては割に明るい話題が多いのですが、その一方で生活の舞台である地域集落では明るい話だけではありません。


グィッチン語の近現代史②

 地域集落では、1970年代より話者が急激に減少します。それは、グィッチン社会が1970年代から外部社会からの影響を急激に受けるようになり色々な社会変化が起きたことと関係しています。トランスアラスカ・パイプラインが出来たのが1970年代の前半で、それに伴って、それまで非先住民があまり入ってこなかった土地までヨーロッパ系の労働者がわっと入ってくるようになります。そういう人たちが、先住民の女性と結びついて集落から連れて行ってしまう。また、冷戦時代でしたからアラスカにはソ連に対峙するための軍事基地があり、軍人が入ってくる、ということもありました。労働者や軍人はみな男性なので、先住民の女性を連れて行って子どもを設ける。その子どもは先住民社会から離れて育つ場合がほとんどですから、先住民文化の伝統的な教育は受けない可能性が高った。

 一方、先住民男性はどうだったかというと、かれらもベトナム戦争で徴兵されて先住民社会の外へ連れて行かれたりする。帰ってくるとかなりPTSDを病んでいたり、アルコール・薬物依存によって生活が荒廃していたりすることが出てくる。そのため伝統的な生活にアクセスしない人が増える。ドラッグやアルコールで生活が荒れている人たちは絶対に狩りに出て行ったりしないのです。

 このようにして、グィッチンの子どもたちが親の世代から言語を含めて伝統的なことを学ぶ機会が急激に失われていきます。


グィッチン語の現状

 ただ、私が調査をはじめた1990年代には、地域集落に住む50歳代以上の世代は、流暢にグィッチン語を扱っていました。10歳くらいまではグィッチン語を第一言語として話していた人たちなので、しゃべれるのですね。現状では、その世代はもう60歳代70歳代になっているのですが、その人たちは今でもグィッチン語を扱います。このことは、特に狩猟・漁撈活動に従事している(していた)人に顕著で、狩猟・漁撈や伝統的生活については英語よりもグィッチン語の方が表現しやすいのです。もうひとつは、これは私もよくやられるのですが(笑)、外部者に内緒の話はグィッチン語に切り替えます。

 一方、今学校に通っているような若年層は、単語は知っていても文章(会話)はしゃべれない人が多くなっています。この世代は、グィッチン語を第二言語としてとらえているのかなという感じがします(第一言語は英語ということです)。グィッチン語でしゃべること、グィッチン語で考えることはあまり出来ていないように見えます。


伝承すべき伝統文化としての言語

 こういう現状について、グィッチンの人々は危機感を持っていて、非常に面白い試みをいくつかやっています。

 ひとつは教育フィッシュキャンプにおけるストーリーテリング(神話、伝説の語り聞かせ)です。定住化する以前、サケが遡上してくる6月に、移動生活をしていた人たちがユーコン川のほとりに集まって、そこで2,3家族くらいでパートナーを決めてグループを作り、網をしかけたりフィッシュホィールを設置したりした場所のそばにキャンプを張って、一カ月か二カ月、サケを捕り、スモークサーモンに加工する、そういうことをしていたのです。これを英語でフィッシュキャンプと称するのですが、定住化によってこのフィッシュキャンプは行われなくなっていた。これを教育の機会として最近復活させたのです。これを私は便宜的にフィッシュキャンプと呼んでいます。もちろんフィッシュキャンプですから、サケの捕り方とか解体の仕方を昼間はメインにやるのですが、夜はおじいちゃんおばあちゃんのストーリーテリング、神話や伝説をグィッチン語を交えて語る。しかもただの語りきかせではないんです。一時間くらいかかる長い神話を子どもたちは真剣に聞いている。なぜ真剣に、かというと、語りがすむとおじいちゃんから「はい、じゃあ最初から話してごらん」と言われてしまうことがあるというわけらしいです(笑)。実は狩猟・採集生活、野外生活の鍵というのは、絶え間ない観察なんですね。猟行の間、きちんと周囲の状況に気を配って、ポイントはどこかと意識しながら覚えて、それに対応していく、ということなのですね。それと通底する訓練の仕方のように思われます。

 それから、グィッチンの人々が中心になってユーコン川の上流から下流にかけて先住民政府がトリンギットやユピックの人たちを含めて、ユーコン川の環境整備のための協議会を作っていて、そこで環境/資源管理活動として、伝統的な資源知識のデータベース作成が始まっているのですが、その際、必ず先住民のことばで記述します。

 そして象徴的なことだと思いますが、先住民政府の名前や集落名をグィッチン語に直す動きが最近広まってきています。例えば私の調査地、フォート・ユーコン(Fort Yukon)これは英語ですね、そこの集落の先住民政府も、以前はネイティブ・ビレッジ・オブ・フォート・ユーコン(Native Village of Fort Yukon)と呼ばれていました。これが、2003年くらいに、グィッチャ・ジー・グィッチン・トライバル・ガバメント(Gwichyaa Zhee Gwich'in Tribal Government)に名前を「戻し」ました(「グィッチャ・ジー」というのはグィッチン語で「house on the flats=平地の上の家」という意味で、フォート・ユーコンのことを指します)。カナダ側でもアークティック・レッドリバーという村落名を、グィッチン語のTsiigehtchicに直しています。


若者たちによる言語復興

 このような動きは、先住民集落のチーフのようなのリーダーや年配者だけではありません。若い人たちも、グィッチン語を自分たちの大事な伝統文化としてとらえ、それを受け継ぐことについて意識が高まっているということに注目したいと思います。開発のところで触れたグィッチンギャザリングでおこったことをお話します。この集会では、石油開発反対のリーダーたち、50代60代くらいのリーダーたちによる会議が連日組まれていた。しかし、その式次第にはもともとは含まれていなかったにもかかわらず、若者たちがこの集落を超えて集まれる機会をとらえて自主的にミーティングを開き、自分たちの将来について討議をしたのです。それをまとめたということを聞いたリーダーたちは、ギャザリング最終日に当初は行っていなかったスケジュールを付け加えて、若者のアピールを発表させたのです。そのアピールの中にこんな文章がありました。

 「我々の言語は大学で学ぶものではなく、伝統的な生活の中から学ぶべきものだ。
    なぜ親たちは日々の生活のなかで子供たちにグィッチン語で語りかけないのか」

 このアピールに、親の世代はさすがに小さくなっていたようですが、その上の50代60代の世代は非常に感銘を受けました。言語の重要性が社会全体に改めて確認されたきっかけだったわけですが、そのきっかけを若者たちが作ったという点に私は注目していいと考えます。

 このアピールをした若者はいまどきの人なので、グィッチンの民話を電子絵本にして、グィッチン語の音声を付けてをユーチューブなどで公開するなどの試みを始めています。なぜ紙媒体ではなく電子媒体を活用したのか訊いたところ、「こうすれば都市に住む子供たちも学べるようになるから」という答えが返ってきました。このように、新しいアイディアを排除せずに、ほかにも例えばSNS、フェイスブックなどで自分たちの文化のネットワークを作って、若者らしい形で言語を含めた伝統文化をどう伝えたらいいかを模索し始めています。今後も若者たちのこの動きを注目したいと思っています。


以上

(文責:事務局)