地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2013・4月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「うたって学ぼ!南アフリカ。」


● 2013年4月20日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス研究室棟地下第二会議室
● 話題提供:海野るみ先生(首都大学東京国際センター准教授/文化人類学・民族音楽学)
● YouTube映像 (講演の全内容をご覧いただけます)

<前編> https://www.youtube.com/watch?v=ITkKrwISbFk



<後編> https://www.youtube.com/watch?v=68whkqHHfHE






講演要旨

はじめに


 最初に南アフリカの人に出会ったのはアメリカに留学していた17歳のときです。同じように留学していた南アフリカの高校生と交流する機会がありました。当時南アフリカはアパルトヘイト政策下でした。その後、南アフリカに最初に足を踏み入れたのもアパルトヘイトの時代でした。
 本日は南アフリカの良く知られた歌を通して、南アフリカに触れていただこうと思います。皆さんにもぜひ、聞くだけではなく歌っていただきたいと思います。

 皆さんは南アフリカの国歌をご存知でしょうか。聞いたことはおありでしょうか。1990年以降、アパルトヘイトが終わってから、さまざまなスポーツイベント(ラグビー、サッカーのワールドカップなど)に南アの選手が参加しているので、ラグビーやサッカー好きの方は南アの国歌を聞かれたことのある方が多いようです。
 (スライドで)現在の国歌の歌詞を四つの色に分けたのですが、何によって違うか想像できますでしょうか。この歌詞は四種類の言語で書かれています。黄色と赤の部分はアフリカ人のバントゥ系の言葉です。英語の部分はお分かりになるかと思います。最後の言語は、ドイツ語をご存知の方は似ていると感じられるかもしれません。アフリカーンス語という、オランダ語をベースにして様々な言語が混ざり合ってできた南アフリカ独自の言語です。最も近いのはフレマン語だとも言われています。国歌は以上の四つの言語で歌われます。実は南アフリカの国歌は二つの歌を合わせた曲になっています。なぜこうなっているのかを紐解いていくと南アフリカの歴史が少しずつ見えてくる、という仕掛けになっています。


南アフリカ国家


Nkosi sikelel' iAfrika(アフリカに神の恵みのあらんことを)

 ジョゼフ・パリーという、ウェールズ出身でアメリカに渡り、ウェールズに戻ってウェールズ大学で音楽の教授になった人が作った聖歌「Aberystwyth」が基になっています。彼は多くの聖歌を書き、大学には彼の名前を冠した建物もあるそうです。音源が無かったため、ここでは私が歌うしかないのですが、彼は歌詞をつけなかったので「ラララ」で歌います。(先生、歌う)...という感じの歌です。
 エノク・ソントンガはジョセフ・パリーの歌を基にして、『Nkosi sikelel' iAfrika』という曲とコサ語の歌詞を書いたと考えられています。彼は東ケープ州のUitenhage(現在では工業都市になっている)生まれのコサ民族の一人です。彼はエリートだったことが分かっており、ミッションスクールで教師をしていたようです。この歌は1800年代後半に現在あるような形に出来上がり、1900年代に入ってからいろいろな集会で歌われるようになりました。その後、1910年に南アフリカ連邦が成立し、イギリスによる差別政策が強まってきます。アフリカ民族会議の成立と同時に、この歌は総会などの終了時に全員でうたう歌として採用されました。南アフリカではどんな会議でも最初にお祈りをして―市議会などでも必ず最初に会の成功のためお祈りをしますが―会の終わりにも多くのところで賛美歌を歌ってお祈りをします。「公的な場所に宗教が入ってきた」ということではなく、南アフリカの宗教には多様性がありますが、それぞれ自分の神に祈れば良いというスタンスで聖歌が歌われることは良くあります。アフリカ民族会議に関わっている多くの人はクリスチャンなのでこの歌は問題なく採用されたのだと考えられます。
 この慣習はずっと続けられており、様々な集会でも見受けられます。私が初めにケープタウン大学に留学していた当時は、集会を開くことが禁止されていましたが、警察監視の下、アパルトヘイトに反対する集会がよく開かれました。そういったところでも「ンコシシケレリ」が歌われていました。歌唱の際はみんなが拳を突き上げ、歌の最後に「Amandla(力を)」と声を合わせて叫んでいました。アパルトヘイトの時代は、この歌自体がアパルトヘイトの解放闘争の歌という位置付けでした。私が南アフリカにいたのは80年代後半でアパルトヘイト末期でしたが、当時アパルトヘイトがすぐに終わるとは誰も思っていませんでした。これを未来の国歌にしなければならないとよく語り合っていました。


Die Stem van Suid-Africa

 さて、「Die Stem van Suid-Africa(南アフリカの声)」から始まる部分は、アフリカーンス語で書かれています。アパルトヘイトの政府が始まるのは1940年代後半で、イギリスから「独立」し南アフリカ共和国が成立したのが1961年です。南アフリカ連邦(1910~1960年)時代は「God Save the Queen (King)」が国歌でしたが、1957年の段階でアフリカーナーの勢力が強まるにつれて、「Die sStem van Suid-Africa」が南アフリカの正式な国歌になります。この時すでにアパルトヘイトの時代で、有色人種のことは考慮されていません。
 1918年に「Die Stem van Suid-Africa」の歌詞が書かれました。1990年にはアパルトヘイトは終わりますが、94年までは前の法律が引き継がれていました。94年から97年の間は国歌に関する法律は暫定的なものでしかなかったので、96年に新憲法発布されるまでは、このDie Stemも国歌の一つとして温存されました。アパルトヘイト撤廃後、バルセロナオリンピックの際は正式な国歌は「Die Stem van Suid-Africa」でしたが、この歌を流すことは国際的な反発も大きいということで、ベートーベンを代わりに流すなどしていました。
 アフリカーンス語の歌と言うのはアパルトヘイトを引き摺っているというような感覚で捉えられがちですが、実は童謡や民謡、ポップスやクラシックの歌曲まで、いろいろなジャンルのものがあり、南アフリカの風景や自然を美しく描写したものがたくさんあります。個人的にはアフリカーンス語の歌がもっと知れ渡り、南アフリカの風景や自然を捉えられるようになっていったら良いと思います。
 こうして、いろいろな背景をもちながら、二つの曲が合わさって、南アフリカの国歌ができあがっていきました。


海野るみ先生


南アフリカの公用語

 今見てきた通り、南アフリカには言語がたくさん存在することがお分かりいただけたかと思います。では、南アフリカには公用語がいくつ存在するかご存知でしょうか。
 実は11の公用語があります。1994年以前新しい憲法ができる前までは、英語とアフリカーンス語が公用語でした。1983年まではオランダ語も公用語でした。1996年に新しい憲法ができた時点で、それが11言語に増えました。英語とアフリカーンス語はそのまま公用語に採用されたのですが、それ以外にコサ、ズル、ンデベレ、スワティ、ツワナ、ソト、ペディ、ベンダ、ツォンガが加わりました。私は言語学者ではないので詳しいことは言えないのですが、どこからどこまでをスワティと言うか、ペディと言うのか、言語そのものの区分けをどうするかという議論はされ続けています。
 この新たに加わった九つの言語というのはバントゥ諸語と呼ばれるものです。「バントゥ」とは、アフリカ全体の多くの部分をしめる諸民族の総称でもあり、言語間の共通性も高いものです。つまり、ツワナ、ソト、ペディはソト=ツワナ系の言葉、ベンダとツォンガはそれぞれ北の方、モザンビークやジンバブエの近くで話されている言葉です。コサとズルはングニ系の言語で、お互いに通じるような似通った言葉です。


「公用語というのはどういうことですか?」

 新憲法の下、公共の場で11言語を誰もが使える環境にしなくてはならないということになったんです。例えば、憲法はすべての公用語、つまり11の言語で書かれた版が存在し、それらはすべて正式な憲法ということになります。
 しかし、公用語が11あるということは、一方で問題も起こってきました。一番最初に問題になったのは、真実和解委員会の公聴会です。最も問題となったのは通訳者の確保、さらに全ての申し立てを全ての言語に通訳するのか、また全部の言語で書き起こすのか、といったことでした。常に11の言語全てに対応するということは、かなりの財源も必要になります。全部を使いなさいという雰囲気は徐々になくなっていきました。最初は四つの言語グループの中からそれぞれ一つの言語を選んで使おうというルールができました。最近では憲法上は二つの言語を使うことになっています。英語とアフリカーンス語でも可能なので以前の状況に戻ってしまう可能性もあります。
 言語使用に関して、汎南アフリカ言語委員会(PANSALB)を作り、さまざまな規定を作ったり環境を整備したりしています。政府からそこに丸投げの状態です。しかし2008年以降ホームページが更新されていません。一方、ケープ州では、人口比率で英語話者、コサ話者、アフリカーンス話者が多いので、この三つを公用語にし、看板などは三言語で書かれています。州レベルや地方自治体レベルで運用を柔軟に行っているというのが実態かと思います。通貨は「ラント」*といいますが、どこの造幣局で作られたかによって貨幣に書かれている言語が異なります。

(*【報告者注】rand:日本語での通常の表記は「ランド」となっているが、アフリカーンス語ではdは濁音にならず「ラント」と発音するのでこの表記とした。)

「国会や国の広報の言語は?」

 国の広報は基本的にあらゆる言語でしなければなりませんが、財政的に難しいので、英語だけは必ず書いてあります。英語の次に話者が多いのはズル語ですが、第二言語としての話者が多いのは英語とアフリカーンス語です。また、まんべんなく公用語が使われているわけではなく、みんなが英語にシフトしている傾向があります。私がフィールドワークに行っている村でも、15年くらい前に初めて調査に入った際には、こちらが英語で話しかけても返してくれず、アフリカーンス語で何か言うと反応してくれるような状況でした。しかし最近では、アフリカーンス語で「おはよう」と言っても、英語で返してくるように変わってきています。国が海外に開いたということは、言語面でも国際的な動きを取り入れる流れができたということなのかと思っています。

「教育現場では英語が力をつけているとのことでしたが、それは小中学校レベルを含めてですか?」

 都市部ではそうだと思います。アパルトヘイトの時代は、居住、教育、婚姻、職域などを「人種」や「民族」によるカテゴリー別に行うという、法的規制があったので、学校も「人種・民族」ごと、言語ごとに運営されていました。今はどこの学校にでも通えるので、親たちはいわゆる「いい学校」に通わせたがります。都市部の学校の方が教育レベルが高いと判断され、親たちは幼稚園から都市部の教育機関へ通わせます。そこではみんなが通じる言語は英語になるので、教育言語は英語になり、家に帰っても英語を喋る、というようなことになります。30%の人が都市部に集中している状況なので、「弱い言語」は第2第3言語化してしまいます。

「教科書は小中高レベルでは二言語で書いてあるのですか?」

 教科書はそれぞれ一言語です。一方で、試験の際など、学生がもし自分の母語で回答したければ回答をしてもかまいません。ただそれを先生が読めないので、誰かが翻訳をしなければなりません。その権利は大学が保障しなければなりません。教科書は英語でも先生は言語を混合で喋るかもしれません。


 毎日放送している『7de Laan』(7番街)というある通りに住む人たちの日常生活を描いたお昼の人気ドラマがあるのですが、なぜ人気かというと、あるときはアフリカーンス語で話し、それに英語で答え、次の人はペディで話してまたアフリカーンス語で答え...という言語の行き来が自由に行われるからです。ドラマでは全部の会話に英語の字幕が付きます。現実にはこういった生活状況に誰もが置かれており、とてもなじみやすいのだと思います。
 南アフリカには公用語以外の言語も使用されていますが、コイサン諸語という先住民族の言語や手話言語など、公用語に入っていない言語がたくさんあります。ドイツ語、ポルトガル語などの小さな言語コミュニティをどう保っていくのか、宗教用語というくくりで憲法的には指定されているようなアラビア語やヘブライ語、インド亜大陸の諸宗教の教徒も多いので、それらのバランスをどうとっていくかというようなことも考えられなければなりません。南アフリカには中華系の人々も多いのですが、彼らの言語(客家語、福建語など)の法律上の記載はありません。
 こうした多言語状況がなぜ起こったのかは先ほど断片的にお話しましたが、少し整理すると、元々はコイサンと呼ばれる人たちが住んでいたと考えられています。そこに、多様な人々が流入してくるところから南アの歴史が始まりました。西アフリカの方から二つのルートで南部アフリカにバントゥ系の人々が移動してきました。その後、オランダ東インド会社によって植民地活動が始まり、さらにイギリスが差別政策による植民活動を展開します。

 『ガンジー』という映画を見られた方がいらっしゃるかと思います。ガンジーは若い頃に南アフリカで法律事務所を持つのですが、自分が法律家であるにもかかわらず、差別を受けたことに衝撃を受けます。その当時、同じイギリス植民地からきたガンジーですらも驚くほど、南アの差別政策は厳しかったのだと思われます。
 差別政策をしていく一方で、イギリスの植民活動が活発化してゆく中で、奴隷や使用人という形で被差別対象となる人々が南アに流入してきます。それが1930年代後半になり、アパルトヘイトの時代になります。
 最近ではアパルトヘイトも植民地主義の一部として語られることが多いのですが、それをしてしまうと一つ問題があると考えています。つまり、いつ植民地主義が終わるのか、という問題です。
 アパルトヘイトの時代というのは文化ごとの分離・発展という大義を持ちます。これは法的に考えると差別をしろとは言っていません。それ以前に差別政策があったので、観念として差別は続いていきます。人口分類の基準は外見、社会的認知、評価、祖先です。これによって法的に登録され、居住地、婚姻の相手、教育される場所、立身出世、移動の手段や範囲が決まります。このように空間的にもかなり規制を受けたことになります。アパルトヘイトの法的な枠組みはしっかりと決まっているように見えますが、実際には、それ(完璧な法的枠組みとその行使)は不可能な社会構造になっていました。白人居住区は法的カテゴリーとしての黒人**やカラードの労働力に頼っていたので、相互関係なしには成立しない社会になっていたのです。

(**【報告者注】黒人Black:ここでは敢えて「黒人」の用語をアパルトヘイトのカテゴリーとして使用した。)

 アパルトヘイトも50年ほどで崩壊しました。その後、多文化主義へと転換するために、憲法に「何人も法の下に平等である」ということが明文化されます。その際、法の下にセクシャリティも平等であることが世界ではじめて書かれた法律になりました。アパルトヘイト時代にはアパルトヘイトを法的に支えた根幹法と呼ばれたものの一つとして「背徳法」があり、異人種間の性交渉だけでなく同性愛者の性交渉も禁じていました。アパルトヘイトそのものは1990年に撤廃されましたが、「背徳法」はその後1996年まで撤廃されませんでした。現在では同性愛者同士の結婚も許されています。アパルトヘイト撤廃以降、同性婚などに反対する勢力は小さく、一つの文化として認めようという雰囲気があります。
 社会には、アパルトヘイトに絶対に戻ってはいけないという意識が強いです。アパルトヘイトが撤廃されたのは1990年ですが、どうやってアパルトヘイトをなくしていくかについては、1970年代から知識人の間でも語られていました。私が留学していたケープタウン大学の教授たちにも同性愛の人たちもたくさんいて、それを公然と言っていたので、下地はずっとあったと言えると思います。ただアパルトヘイトから多文化主義に移行する頃から、多文化主義の文化の根拠を何に求めるのか、それがアパルトヘイトから引き継がれてきたのと同じような文化に戻っていくのではないか、ただ平等になればいいのか、というような歴史的背景とどのように折り合いをつけていくのかということについての議論があり、いまも議論は続いています。


Shosholoza

 みなさんに歌っていただく時間がようやく来ました。
 今日覚えて帰って頂きたいと思っているのは、みなさんお聞きになったことがあるのではないかと思うのですが... Shosholozaという歌です。
 南アフリカでのラグビー・ワールドカップの時に歌われ、クリント・イーストウッドの『インビクタス』でもこの歌がフィーチャーされ、南アフリカを一つにした歌として位置付けられています。元々は南ローデシア(現在のジンバブエ)から炭鉱労働者としてきた人々が、彼の地から汽車が来るとローデシアの故郷を思い出しながら歌った歌とされています。


Shosholoza


質疑応答

「Shosholozaは何語なんですか?」
 これはンデベレ語です。「サウスアフリカ」の部分も言い換えられています。

「(歌の中の南アフリカの)国名の部分は正式に英語なんですか?」
 サウスアフリカがもっとも言いやすいからこうなっているのだと思います。

「ジンバブエの労働者の歌がなぜ南アフリカを一つにする歌になったのですか?」
 1995年のラグビー・ワールドカップの際、国全体にチームをサポートするという機運が高まり、ラジオのDJがスタジアムの前夜祭でこの歌を歌い、5日間の競技の間にこの曲が応援歌になり、他の競技でもこの歌が歌われるようになりました。この歌は比較的簡単で白人の人々も知っていたからだと思われます。

「アパルトヘイトの思想的基盤は何だったのですか?」
 南アフリカのオランダ改革派教会だと言われています。オランダ改革派教会はカルヴァン派の流れを引き、勤勉さや厳格さを倫理観の中心にしていると考えられます。アパルトヘイトの思想への流れでは、そこに優生思想が入り込んだのではないかといわれています。具体的には、アパルトヘイト政策を推し進めようとしていたヘルツォークという首相は生物学者でもあり、ヨーロッパの優生思想が南アフリカに入ってきて影響したのではないかと言われています。もちろん一つにイギリスの差別政策も下地としてあったと考えられます。

「ナチスと同じような所があったのでしょうか?」
 映画でよく表現されるものに、アフリカーナーの学校でドイツが敵国であったにもかかわらずひそやかにナチス的思想を温存していた場面があるので、関係が全くないとは言えません。ただ多くのエリート達が留学していくのはイギリスなので、イギリスの統治政策の影響が強かったのではないかと考えています。

「先生はなぜ南アフリカを研究しようと思われたのですか?」
 アメリカで南アフリカの人たちと会ったことが発端です。
 ただ、私が一番最初にショックだったのは、フィリピンの留学生と会った時の私自身の心理状況でした。とても仲良くしてくれるのに、私は自分が「この人は東南アジア人」と思っていることに気づいてしまいました。それまでは自分は偏見や差別のない人間だと思っていたのに、これが差別なのではないかと思い、この感覚を自分が持っていることにショックを受けました。
 それと同時に親切な南アフリカの白人の留学生たちと会いました。ある機会にアフリカ系アメリカ人の高校生が南アフリカの留学生に「あなた達は自分の国に帰ってアパルトヘイトを一掃する努力をしたら」と言ったら、南アフリカの留学生たちが「アパルトヘイトは良い政策なんだ」と言ったんです。そのとき何重にもショックを受けました。
 当初は「何かをしてあげよう」「変えよう」という使命感を持って南アフリカに行きましたが、私が教えるより彼らから学ぶことの方が多いことに気づきました。アパルトヘイトの中にいて、みんな悲壮ではなくあっけらかんと生きていました。とても自由というか、彼らが生きていることを実感したのが南アフリカの最初の体験でした。
 毎回南アフリカへ行く度に思うのは、南アフリカが全く安全な土地だとは言えませんが、気持ちの上では日本に居るよりはかなり自由だと感じるということです。様々な考え方があることをみんなが知っている。それが当然だと思っているので、何かを言ったときに「君はそう思うんだ、でも僕はこう思う」と言ってくれる。「ああそうなんだ...」で済まさない。確実に「この人と知り合おう」と思って接してくる。こちらもそういう風に出来る。だから楽なのだろうなと思います。

「アパルトヘイト時代、日本人はどういう扱いだったのですか?」
 「名誉白人」という言葉を誰も知らなくて、みんな私のことを地元のチャイニーズだと思っていました。一つショックだったのは、大学のコンピュータ処理の登録簿で人種を書く欄があったので、「その他」のところに「ジャパニーズ」と書いたところ、「白人」のところにチェックされて戻ってきました。最近、中華系の人々は「ブラック」と認定されました。アパルトヘイト時代に何らかの損益を受けた人を「ブラック」と呼んでいます。

「現在フィールドワークをしているグリクワのグループへ行くようになったのはいつ頃ですか?」
 きっかけはたまたま会ったからです。一番最初に行ったのは大学でアフリカン・スタディーズ(アフリカ研究)を勉強していたときです。最初はマレー系(オランダ領マレーから移住したとされる人々の子孫)のコミュニティでフィールドワークをするつもりでした。その人たちにコンタクトをとって返事を待っている間に、グリクワの人たちと出会いました。グリクワの人たちと旅行する機会があり、その間彼らはずっと賛美歌を歌い継いでいました。その歌い方が、人が集まると必ず歌い始めるという私の九州の実家の様子と大変よく似ていました。それで「あなた達の村で調査したい」と言ったら、グリクワのチーフまで話が通り、フィールドワークを始めることになりました。村の人は「お前は偶然ここにいるんじゃない、神様がここに連れてきたのだ」と言います。

「アフリカーンス語に反発している人が多いと聞いたのですが、先生のお話を伺って、普通に普及しているのかなという印象を受けました」
 アフリカーンス語が反発を受けるようになったのは1970年のソウェト蜂起のときからだと思います。南アフリカ政府が学校教育をアフリカーンス語で行おうとしたことによります。アフリカーンス語はアパルトヘイトと親和性のある言語とみなされており、ソウェト蜂起のようなことが起こりました。アパルトヘイト終了後に「アフリカーンス語はほとんど話されていない」とマンデラが言ったことがあるのですが、その後「アフリカーンス語は第二言語を含めると80%以上の人が話せる」ということが分かり、マンデラは謝罪しました。
 アフリカーンス語は単純なヨーロッパ語ではありません。オランダ語の文法的な側面をベースにして、南アフリカの先住民族の言語や移民たちの言語が加わりながら、長い歴史のなかで作り上げられてきた言語です。アパルトヘイト政府との関係を外から見れば、アフリカーンス語は「親アパルトヘイト」という見方をされますが、今そういう見方をされる論調はほとんど無いと思います。

(文責:事務局)