地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2015・7月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「日本人として 応用聖書言語学をアジアで説く」


● 2015年7月11日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス南校舎445教室
● 話題提供:村岡崇光先生(聖書言語学・ライデン大学名誉教授)
● 司会:小林昭美(地球ことば村理事)
● 講演全容はyoutubeでご覧になれます。


https://www.youtube.com/watch?v=9aqtr6V9tCk


司会:村岡先生とは大学で同級でしたが、その時からすでに、英語はもとよりヘブライ語、ラテン語、ギリシア語、フランス語、ドイツ語ができて、言語の天才はいるものだなぁと思った記憶があります。しかしどうどうと鹿児島弁で話されるものですから、英語で話した方が分かりやすかったです(笑)。卒業後イスラエル・ヘブライ大学で本格的にヘブライ語を学んで博士号を取得され、マンチェスター大学やメルボルン大学でヘブライ語や中東学を教えられました。最後にシーボルトの出身校でもあるライデン大学でヘブライ語の教授として教えられ、現在は同大学の名誉教授でいらっしゃいます。オランダから年に1、2回帰国されるので、ぜひことば村でお話を、とお願いし今日それが実現しました。よろしくお願いします。


講演要旨

再会を喜ぶ讃美歌を歌いましょう

 インドネシア神学校での講義の終了時には(表示してある楽譜を指し)この讃美歌を歌いました。これは詩編133の第一節が歌詞になっている大変ポピュラーな歌です。今のイスラエルにあたる場所に住んでいた人々が、神に背いたためにバビロンに連れて行かれ、70年の後に許されて故郷にもどった。その時に、残っていた同胞との再会の喜びを表した詩です。「見よ、兄弟が一緒に揃って座っているのはなんと良く、また楽しいことか」という内容です。
 ユダヤ人は国を失い1800年間世界中に離散して、1948年にイスラエル建国とともに戻ってきて、残っていた同胞と再会しましたから、今でもこの歌がよく歌われているのです。でも、我々は皆神の家族の一員ですから、民族を超えて、インドネシアでもこの歌が適用できるわけです。
 またこの詩の中の「座る」というヘブライ語は「学ぶ」も意味しています。それをインドネシア神学校でやってきた。しかも暗い過去を共有する我々です。それが出会えた。それは何と素晴らしいことだろう、歌いました。今日もこの歌を歌いましょう。(歌唱)
 “Hinneh ma tov u ma na'im shevet achim gam yachad”

楽譜
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君の名は?-名前に込められたアイデンティティ

 何年か前に旧約聖書の中から題材を取って「君の名は?」と題して説教をしました。アブラハムの孫、ヤコブが兄のエソウにひどいことをした結果、身の危険を感じ、20年間外国に身を避けていた。郷里へ帰るべきと考え帰途についたとき、家族を一足先に返し、自分ひとりあるところに残っていた。その夜、天使が現れ取っ組み合いになり決着がつかない。空が白み始めたころ、天使が離せと言ったところ、ヤコブは私を祝福してくださるまで離しません、と答える。するとその天使は「君の名は?」と尋ねる。ヤコブ、と答えるとすぐに天使はヤコブを祝福しました。
 ヤコブという名の意味は「他人を蹴落とす」。まさにそれを兄エソウにしたために20年間冷や飯をくわされた。自分の名前の意味を知ることで、自分が何者か、これから再会する兄とはどういう関係にあるのか、を自覚した。その自覚を天使がわかったために、祝福して送り出してくれた。名前はその人のアイデンティティがこもっているのです。
 2008年、私は南京で講義をしました。南京大学の若い先生が私を「村岡崇光先生です」と紹介してくれました。それを聞きながら、南京に来ているこの私は何者か、と考えました。私の父は軍人の道を歩み、昭和20年8月15日には陸軍中佐航空参謀として南京にいました。その父の長男として、私はここに立っている。前日までいた上海には日本人が沢山いて、日本企業の看板もあっちこっちにある。南京に来たらひとつもありません。ホスト役の先生は昼食後、「村岡先生のことは、給仕さんにABCと言っておきました」と言いました。アメリカ生まれのチャイニーズ、ということです。日本人と知ったら、厚いワンタンスープを頭からかけられたかもしれません。村岡という苗字は中国にはありません。村岡であるということに、私のアイデンティティが込められているのです。

村岡崇光先生


日本人として 日本の姿を見る

 名前には出て来ませんが、私はクリスチャンです。もうひとつ、51年海外におり、オランダだけで24年になります。私が希望すればオランダ国籍をもらうことができました。ですが、私は日本国籍を捨てることはしたくなかった。私がまだ日本に愛着を感じている点がいくらもあります。日本語の美しさ、繊細精緻さ、文法構造。日本文化。友人がいる。両親は他界しましたが、生きている間は日本国籍を捨てないと思っていました。それに加えて、外国へ出てはじめてわかった自分の日本人としての姿、あるいは祖国の歴史や文化があります。その中には素晴らしい楽しい認識もあったが、悲しい、恥ずかしくなるようなこともあった。
 マンチェスター大学に10年おりましたが、毎年11月の第二日曜日、Remembrance Sundayは二つの大戦で戦死した兵隊たちを英連邦全体で追悼する日です。 その日の夕方にはBBCの第二チャンネルで、毎年、「戦場にかける橋」という映画を放映します。戦争中に日本軍が6万人近くの連合軍捕虜を徴用して、ビルマからタイにかけて険しい密林の中415kmに鉄道を一年以内に敷設させた。ひどい箇所は枕木一本に一人の犠牲者と言われています。最終的には日本軍番兵の暴力、病気、餓死、懲罰死などにより、12000人以上の死者が出ました。6万人の捕虜だけでは足りず、占領していた東南アジア各地から強制徴用しました。正確には分かりませんが、20万人以上だったことは確実です。そのうち6万人くらいが死んだといわれています。


生きのびた人たち

 生き残った現地人のことを読んだことがあります。インドネシアから連れてこられ、地獄を生きのびたものの、帰国しようにも金が無い。やむなく現地の女性と結婚し孫までできた。50年たった時、日本人の永瀬隆さん、工事現場で日本兵として英語通訳をしていた人ですが、自分たちのやったことを悔いて、毎年タイの人を助ける事業をしていたひとですが、たまたまそのインドネシア人の住む村へ来てその話を聞き、一時帰国のための現金をあげた。彼はそこで、50年ぶりにスマトラの村に帰ったけれど、彼も村人も互いに誰が誰やらわからない。ある晩村の集まりで、タイでの体験談を話した。その終わりにおばあちゃんが前に出て来て、「あなた、私を覚えている?」と聞いた。かれはまじまじと見たが思い出せない。すると「私ね、あなたのいいなづけだったのよ。今でもそうなの」と言ったのです。彼はそれを聞いて、人目もはばからずそこで泣き崩れたそうです。


The world remembers but when will Japan?

 そういう悲劇は、私はこれひとつではなかったろうと思います。そういった話を、私はイギリスでもオランダでもオーストラリアでも聞きました。
 タイのチェンマイに住んでいる私の長男と会って、タイの友人から戦争中日本軍のしたことをたまには聞かされることがあるか、と尋ねたら、たまになんてものじゃない、しょっちゅう聞かされると言いました。公の場では先生や学生たちもそんなことはおくびにも出しません。表面的にはタイもミャンマーもフィリピン、インドネシア、台湾も対日感情はいい、中国韓国とは違うと聞かされますが、一皮はぐと下にはそういうものがあることを知らされました。
 2005年にシンガポールで5週間教えさせてもらった時、講演の原稿を、お父さんが日本軍の犠牲になった中国人に見せましたが、彼がこれはもっと広く知られた方がいい、と一番読まれている新聞社に送り、私がシンガポールを離れる日にほとんど全文が掲載されました。新聞社が勝手につけた題名はThe world remembers but when will Japan?というものでした。世界中のひとが覚えている、しかし日本はいつになったら思い出すのだろう、というものですね。親日的と思われる国でも、表面の下にはそうしたどす黒いものが渦巻いているのです。

 アジアで、あるいは海外で、聖書言語を研究しているもの、という観点からお話したい。それをふたつに分けると日本人として、あるいは東洋人としてギリシア語やアラム語を教えることに何か特別なことがあるかどうか。
 もうひとつは、日本人村岡という日本人クリスチャンとして、アジアでそういうことに関心のあるひととどう付き合うのか。その二つの面でお話したい。


日本人・東洋人として聖書言語を教える

 聖書言語学に限らず人文学と言われる学問は、明治以来取り入れてきた欧米発祥の学問です。ですから言語の分析の仕方にしても、欧米人の観点からの分析だと思われるところが少なくない。インドネシアで2004年に聖書のヘブライ語を教えていた時に、1923年にフランス人が出版した文法書に、1991年、私が新知見を加味し、原著より三分の一ほどページ数が増えたものを英訳して出版したものを使いました。インドネシアでの授業でヘブライ語の子音について教えているとき、「ある子音はわれわれの諸言語には存在しない」という記述がありました。その「われわれの諸言語」はフランス語で複数でしたので英語でも単純に複数に訳したものでした。で、われわれの諸言語とは何か。それはフランス語や英語、ドイツ語せいぜいギリシア語、ラテン語くらいであって、中国語や日本語、インドネシア語は考えていなかっただろう。これを読んだとき私は、これはいかん、これは欧米中心の見方だと思ったのです。この文法書を2006年に改訂する機会に、いたるところにある「われわれの諸言語」を「some languages」「European languages」などに全部書き直しました。
 今回帰国前に400ページほどのギリシア語の統辞論(syntax)を書き上げて出版社に送ってきました。その中で扱った問題のひとつですが、AはBである、という場合-現代欧米語ではAとBの間をつなぐ単語が必ずある。copula(繋辞)といいます。ギリシア語のcopula を扱うためにフランス語のギリシア語文法書を参照したところ、「いくつかの原始的な言語ではこのcopulaがしばしば省かれている」とあった。私はコチンと来たのですね、われわれ日本人、中国人は原始的民族なのか。これは文化的な帝国主義Cultural imperialismだ、と注を書きました。
 それからヘブライ語でもギリシア語でも同じなのですが、ローマ字で書きますと-
  Yerushalayim harim saviv lah
  エルサレム  山々 周囲 その(to it / for it)
  日本語訳:エルサレムは周りに山々がある。(旧約聖書の一節)
lahはYerushalayimにかかる接尾辞なのですが、こういう例に対して欧米のヘブライ語文法家はとまどう。この例にはcopulaがありませんし、Yerushalayimとlahが分かれている。(これはほぼおなじ意味で分けずに書くこともできます。sviv Yerushalayim harim しかしこれにもcopulaはありません。)
 そこでこういう例に対してはanacolouthといいます。意味は「あとが続かない」。否定を含んだ専門用語を貼りつけるということからして、この文章構造に対する否定的な見方がうかがわれます。他のいい方ですとcasus pendens「宙に浮かんだ格」、地に足がついていない格ということです。
 しかし、こういう言い方は中国人、日本人にとっては何でもない。「春は曙」(枕草子の出だし)「どちらに行きますか?―私は広島です」こういう言い方は現代言語学ではtopic-commentといいますね。まずトピック:Yerushalayimを提示して、それについて何かコメント(周りに山がある)する。中国語でも「洛陽女児好顔色」、ここにcopulaはありません。まず洛陽の女児、とトピックを出し、顔がきれいだとコメントしています。まったく正常な分構造です。
 我々が英語学習で悩まされたひとつがvoice(受動態・能動態)です。「この本は村岡によって書かれた」。こういう言い方は明治以前にはなかったのではないか。日本語の「れる・られる」は印欧語の受動態とは必ずしも一致しないのではないか。「ひどいことを新聞に書かれた」「夜中過ぎに友人に来られちゃった」のように、「れる・られる」は被害を表すのがふつうではないか。そういう見方で理解できるギリシア語文法もある、と私は最近書いているのですが。


「私」としてアジアで教える

 先に申したように、海外に出て初めて見えてきた日本の姿があります。泰緬鉄道のことも日本にいる時教わった経験がありません。1980年オーストラリアに転勤になった時、同僚に、10年まえだったら名門メルボルン大学の教授に日本人がなるなんて考えられなかった、と言われました。日本人に厳しい見方があると知りました。昭和天皇がおかくれになった時に、誰が代表として葬儀に出席するか、ひと揉めしました。誰も行きたくなかったのです。91年に私がオランダに着いたその前の週に、時の海部首相がオランダを公式訪問して、インドネシアで日本軍のひどい扱いのために死んだオランダ人の記念碑に花束を献呈した。その花束がその日の夕方に、近くの池に浮かんでいた、という。私はその時に初めて、オランダと日本の暗い過去を知り、いろいろ考え、行動してきました。その「日本人として新しい目覚め」を経験したものとして、2003年に定年退職を迎えた時、研究生活を送るだけではだめなのじゃないか、と思ったのです。


ドイツの戦後処理

 今年亡くなったドイツの政治家、フォン・ヴァイツゼッカーという人がいます。1985年5月8日ドイツ国会で、ナチス敗北40周年を記念して「荒野の40年」という演説をしました。その中で彼はこのように述べています。「今のドイツ国民のかなりの数が1945年にはまだ生まれてもいなかっただろう。あるいはちいさい子どもだったろう。そういう人たちには、ナチスのした行為の責任は一切ない。しかし戦争世代であろうと、戦後世代であろうと、これから生まれる世代であろうと、ドイツ人を名乗る以上はドイツ民族の歴史に関係ないとは言えない。そういう過去を持ったものとして、新しいドイツ、これからのドイツをどう形作っていくか、それについて責任がある。」
 現にドイツは日本とは違って、戦後補償の問題に死に物狂いで取り組んできました。今でも取り組んでいます。例えばナチスの犠牲者、ユダヤ人だけでなく、彼らに年金を払い続けています。その出所はナチス協力者だった企業からではなく、国家予算から、すなわち納税義務者である国民が払っている税金から払っている。戦後生まれであろうと関係なく国民すべてが責任の一端を担い続けているのです。
 日本の、特に右翼などは、戦後すぐの極東軍事裁判ですべてかたがついている、といいます。それにあれは勝者によるさばきだから見直そう、という声まであります。ドイツでも勝者によるさばきはニュルンベルクで行われ、ナチスの戦争犯罪者は処刑されました。しかしドイツは今でも、戦争犯罪者を追跡しています。つい先日も90幾歳の男がミュンヘンで法廷に引き出され刑を言い渡されました。これは外国がやっているのではありません、ドイツ人自らがやっているのです。ドイツ国会は何年も前に、ホロコーストなどの戦争犯罪には時効はないと言う特別の法律を通しています。しかし日本は、自身で戦争犯罪者を裁判所でさばいたことは一度もありません。これはマッカーサーの致命的なあやまりだと思うのですが、極東軍事裁判で天皇を放免・免責した。私は、これが戦後処理のガンになっていると思います。


痛切な反省とは

 2008年平成天皇がシンガポールを訪問され、晩餐会の席でおっしゃったことが現地の新聞に出ていました。「私はシンガポールのみなさんが今度の戦争中どんなに苦しまれたかと思うと胸が痛みます」と。この内容なら、例えばノルウェー王が訪問して言ったことだとしてもおかしくない。人道的観点からするお悔やみ・同情心ではないか。「私の父の兵隊のおかげで、どれほど苦しい思いをされたかと思うと」とおっしゃることができたのではないか。あるいは、そうおっしゃるべきだったのではないか。私の個人的な感触ですが、今の平成天皇は、これをおっしゃることのできる方なのではないかと思います。それを言わせないものが背後にあるのではないかとも思いました。
 もし、私が思ったようなことをおっしゃって、それがシンガポールの新聞に出たら、ものすごい反響があったのではないかと思います。今の天皇が、日本国民の象徴として、模範を示していただきたいと願うのです。
 戦後29年、敗戦を知らずにフィリピンのジャングルを逃げ回っていた小野田少尉は帰国して、友人に皇居の庭に行ったら天皇陛下とばったり会えるかもしれないと言われた、すると彼は、そんなことになったら、陛下は何とおっしゃっていいか戸惑われるだろうから、僕はしたくない、と。でも私は、もしそれが実現して、天皇陛下が、小野田君、悪かった、すまない、とおっしゃっていたら、今の日本のアジアにおける立場は全く変わっていたでしょう。今でも日本はアジアの孤児なのです。
 毎年8月15日戦没者慰霊の日に、天皇陛下、総理大臣の挨拶があります。今の天皇が戦後50年の折に次のようにおっしゃったと朝日新聞にありました。「先の大戦で尊い命を失った人や家族を想い、深い悲しみを新たにいたします。終戦後50年国民のたゆみない努力によって、今日の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時を想い、感慨はまことにつきるところがありません。ここに歴史を顧み戦争の惨禍を再び繰り返さぬことを切に願い、全国民と共に、戦塵に散り戦禍に倒れた人に対し心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の発展を祈ります」
 これまでのお言葉を全部読んだわけではありませんが、おそらく、天皇陛下だけでなく、首相も毎年同じようなことをおっしゃっていたのではないかと思います。祖国のために倒れた人の追悼のため。しかし、倒れる必要はなかった、戦争に行く必要はなかった、そういう認識はあるのだろうか、と思うのです。7月9日の新聞に安倍首相の言葉として「我が国は先の大戦への痛切な反省の上に立ち、一貫して平和国家として歩んできた」と。痛切な反省というならば、何を反省しているのか。それをはっきりさせなくては、空虚な、その場をつくろうだけの発言に終わってしまいます。
 4月にアメリカ議会で行った安倍首相演説を見てみました。議会を訪れる前に、第二次大戦の記念碑を訪れたというくだりがあります。「真珠湾、バターン・コレヒドール、珊瑚海・・・メモリアルに刻まれた戦場の名が心をよぎり、私はアメリカの若者の失われた夢、未来を思いました」と。問題はバターン・コレヒドール、これはフィリピンの地名です、英文の方は間にコンマもなにもありませんから、一つの地名のように読めますが、これはバターンとコレヒドール、別々の地名です。バターンではコレヒドールの戦闘に比するような戦闘は無かった。バターンは「バターン・死の行進」として世界中に知られているのです。コレヒドールで日本軍と米軍の激しい戦いに決着がついて、マッカーサーはI shall returnと言ってオーストラリアへ退避した。コレヒドールやその近辺で日本軍は捕虜になった米兵やフィリピン兵を300キロ離れたバターンの捕虜収容所まで歩かせた。傷病兵を含む捕虜たちを、食べ物も水もろくに与えず歩かせたのです。バターンは「バターン・死の行進」という悪名高い場所なのです。それが安倍首相のアメリカ議会演説ではあたかも一か所の地名のように書いてある。ですから、痛切な反省と言ったところで、本当に何があったのか分かっているのか、何を反省しているのか、こういうことをアメリカ議会で堂々と言えたことにあきれる思いです。
 今日の新幹線内のニュースでは、今年8月14日に安倍首相が発表する談話について、痛切な反省は明記する、お詫びの表明は見送る方針である、とありました。アメリカ議会演説に「私は深い悔悟を胸に、しばしその場に立ち黙とうをささげました。先の戦争で倒れた米国の人たちの魂に深い一礼をささげます。とこしえの哀悼をささげます」とあります。ここにはおわびの一言もありません。


慰安婦だった女性たちの声を聞く

折られた花 2年前に「折られた花」という本を新教出版社に出版してもらいました。この本の副題は「日本軍『慰安婦』とされたオランダ人女性たちの声」で、著者はオランダ人女性です。1942年に日本軍占領下のインドネシアで生まれ、抑留されました。抑留施設から、少なく見積もって70人、ひょっとすると100人近くの女性が慰安所へ連行され、日本兵の性欲を満足させるために酷使されたのです。著者はその女性たちの内の8人の体験を、匿名を条件に公表することをゆるされました。2007年、突然その著者から、連絡があり、この問題についてハーグで講演をするための準備中だが、日本の政治家の発言の中に「謝罪」と「おわび」がまざって使われている、このふたつのことばは同じかどうか、と尋ねられました。「謝罪」は罪という漢字が使われていることからしても重みが違います、迷惑をかけておわびする、というのとは違います、と私は答えました。しかし、安倍首相はおわびすらする気がないのです。
 1993年、時の日本政府は慰安婦問題について公式の調査をして、8月3日当時の河野官房長官が報告をしました。河野談話ですね。その中には、日本軍が関与して非常な苦しみを与えたことを心からおわびします、とあります。ところが、その同じ日に、日本外務省のホームページにその問題について「慰安婦の募集については、軍当局の要請を受けた経営者の依頼により斡旋業者がこれにあたることが多かった。その場合も戦線・戦争の拡大とともに人員の拡大の要請が高まり、あるいは業者が甘言を弄しあるいは畏怖させるなど、本人の意向に反して集めるケースも数多く、官憲も直接これに加担することが見られた」。同じ日に、これでは慰安婦制度を正当化しているのではないか。被害者への侮辱ではないか。戦争の拡大とともに、とあるが、誰が始めた戦争なのか。この内容を英訳でも掲載していたのです。
 2009年にハーグ市市役所で「慰安婦問題―未解決の問題」という展示が3週間にわたってありました。私と家内は、最終日の前日に行きましたが、受付で「おふたりは日本人としてはじめての来館者です」と言われました。知人が最終日に行ったら、あなたは3番目の日本人だと言われた、と。ハーグには日本大使館があります。「痛切なおわび」を言うなら、政府の公式の代表である日本大使、公使、館員はなぜ行かなかったのか。
 終戦記念日に耳にタコができるくらい聞く語句があります。「焼け野原から、幾多の困難を乗り越え今日の平和と繁栄を築いてまいりました。」日本もドイツも焼け野原から、戦勝国の寛大な援助をもらって復興した。しかし戦後処理に関しては、日本とドイツは天と地ほどの差があります。数週間前メルケル首相は「われわれは過去の歴史に終止符を打つことは許されない」と言った。私たちの政治家からは、過去は水に流して、未来志向で参りましょう、というようなことを聞かされます。


人間ひとりひとりを大切にすること

 私はこの2015年が、日本の本当の戦後処理の最後のチャンスではないかと思えてなりません。しかし3.11で原子力発電の危険性が分かったはずなのに、1年のうちに再稼働と言いだし、その政治家が国民の多数の支持を得て政府に座っている。人間の生命より企業の利益を優先する。また、安倍首相は、日本は民主国家だとアメリカ議会演説でも言いましたが、民主主義の根幹は個人の尊重、人権を守りとおすということであり、それがなければきわめて脆弱な民主主義だと言えないでしょうか。
 私は今回、故郷に帰って、昔トンネルで起こった列車事故の現場に行ってきました。トンネルのそばにささやかな石碑が立っていました。昭和20年8月22日殉難者56名埋葬、と書いてある。56名だけで名前も書いてない。これではまるで人は数で、人間ではない。最初に私は「君の名は?」と、話し始めました。56名その人々の名は?私は聞きたかった。遺族も、訪ねる人も、それについて、何も感じないのですね。
 ミャンマーで第55師団という四国で編成された師団の犠牲者の碑を見に行きました。お寺の一角にささやかな石の碑がありました。第五十五師団一万三千六百何柱と書いてありました。師団長の名前は書いてありましたが、兵隊の名前は、小さな碑ですから書く余裕すらない。ところが、クワイ川にかかる橋のたもとに連合軍の犠牲者12000幾人かの名前がずらーっと出ています。第55師団の戦死者の碑から数キロ離れたところにクワイ川の捕虜とは別に第二次大戦の英軍の墓地がありました。1360何人かの犠牲者の、1360いくつかの墓石が名前、年齢、出身地、位も書かれて建っているのです。なんという違いかと思いました。その墓地は英国政府によって出資され、管理されています。ところが、日本軍第55師団の碑は生き残った戦友たちが作ったのです。赤紙ひとつで召集され天皇の赤子として死んだ人たちですよ。このような、責任を問わない体質、思考習慣が私たちの中に根付いているような気がしてなりません。
私のヴィア・ドロローサ そういうことを思って、私は過去11年間アジアを回って、「私のヴィア・ドロローサ-『大東亜戦争』の爪痕をアジアに訪ねて」に記録をとどめました。終戦時、私は尋常小学校2年生でしたから、私にはこの戦争の直接の責任はありません。しかし私は日本人として、これは私の歴史の一部だ、あなたがたが受けた不当な扱いを恥じる、あってはならなかったことだとあなたがたにお伝えしたい、と。戦後の日本の政治家はまったく逆のことを考えているけれど、そうではない日本人も少しはいることを分かっていただきたい、と。戦争中日本はみなさんからあらゆるものを奪った、私は自分の持っているもので、多少でもみなさんの役に立つものがあったらただで差し上げます、と。そういって、アジアに出ています。本田勝一は著書「中国の旅」で、「私は終戦時6年生なので、直接の戦争責任はありません。ですから芝居がかった謝罪などはできません。そのかわり私はジャーナリストとして、私が目で見たこと、この耳で聞いたことをできるだけ正確に、同胞に伝えます。それが私の謝罪です」と。私もその気持ちでアジアへ行っています。ですからこれは私の自己満足ではありません。現に現地のひとの理解と協力がなければできませんでした。(だいぶ長くなりました。終わりにいたします。)


以上

(文責:事務局)

★ 村岡先生は、英国学士院が聖書学の分野で著しい貢献をした学者に贈るバーキット賞の2017年度受賞者に選ばれました。詳しくはこちらをご覧ください。