地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2017・4月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「阿部年晴先生をしのぶ─阿部先生の仕事と人」


● 2017年4月22日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス南校舎452教室
● 話題提供:小田亮先生(首都大学東京教授/社会人類学)


Ⅰ 阿部先生と私

 阿部年晴先生は1938年和歌山県に生まれました。東京大学教養学部から東京大学大学院人類学専攻課程に進まれて1963年に修士課程修了、その時の修士論文「アフリカの創世神話」は二年後の1965年に紀伊国屋新書として出版されました。
 1965年にオランダのライデン大学に留学、1967年にガーナ共和国のカッセーナ民族のフィールドワークに行かれました。これが阿部先生の初めてのフィールドワークです。1969年に調査を終え、1970年に東京大学人類学専攻課程博士課程単位取得退学され、国立九州工科大学工学部に助手として赴任、71年同大学助教授を経て1973年埼玉大学教養学部助教授に就任されました。
 私が初めて阿部先生のお名前を知ったのは山口真男さんの『未開と文明』の巻末、文献リストに「アフリカの創世神話」が記載されていた時です。この文献リストに載っている本は全部読んでやろうと思いました。そして1973年か74年に、朝日カルチャーセンターで阿部先生の連続講義があることを知り、『アフリカの創世神話』の著者の講義が聞けると受講を申し込んだわけです。
 印象的だったのは、阿部先生の人類学が非常に具体的な事柄、神話や年齢組織などの制度などを使いながら非常に抽象的な思考を論じる、具体性を抽象的論理に結びつける学問だということで、それを新鮮に感じたことが私自身、人類学へ進むきっかけとなりました。カルチャーセンターの講義のあと、毎週新宿の喫茶店で先生につきあっていただいて、先生の話の続きを聞きました。
 そうして大学で文化人類学を学びたいと思うようになり、1975年、私は阿部先生が教鞭をとられている埼玉大学に入学し、二年生で文化人類学コースに入りました。そのころ、阿部先生は文部省の科学研究助成事業としてケニアのルオ民族のフィールドワークを開始されて、数か月ケニアに滞在されていましたから、その間、授業はありません。しかし阿部先生が日本にいる間も、ほとんど授業はありませんでした(笑)。なぜ授業がなかったのか。私が文化人類学コースにいた三年間は、今や日本の人類学界での伝説である「阿部先生とお酒」というフォークロアの初期かつ絶頂期であったからです。

小田亮先生
小田亮先生

阿部先生とお酒

 先生は最後の十年ほどはお酒をやめていました。そして阿部先生はよく「なにせ、俺には空白の三十年があるから」とおっしゃっていました。埼玉大学に赴任した当時、大学に行く前に北浦和駅前の飲み屋へ行っていました。それから2006年頃まで、ご病気での中断はありますが、ほぼ飲み続けでした。ルオの調査が始まってすぐに先生はマラリヤになって、北浦和の病院に入院されたのですが、抜け出して飲み屋に行く。ですからお見舞いは飲み屋ででした(笑)。
 埼玉大学時代、阿部先生は月曜日の夕方ぐらいに研究室に来て、それから北浦和の飲み屋へ行く。最初は先生のいきつけの店です。先生の財布が空になるころ、酒飲みがそろっていた同級生のうちの何人かは北浦和に下宿していたので、次はその下宿に行って飲む。そうやって二日目、三日目も学生の下宿先にいました。神戸から来ていた同級生は実家に帰る時も使っていいと言ってくれていたので、彼が帰ってきたときには阿部先生はじめ飲みながら彼を迎えたということもありました(笑)。教室で学生が待っていても行かない。それで僕に向かって「小田、代わりに授業してこい!」(笑)。僕の初めての授業です、四年生の時でした(笑)。その後、僕が就職して大学の教員になったとき、文化人類学概論の授業をしなくてはならないのですが、大学・大学院を通じて、文化人類学の講義を聞いたことがなかった(笑)。博士課程は東京都立大学の大学院に進んだのですが、ここも授業が無いのです(笑)。昔の大学では教員は授業をしなくてもよかった。今ならクビですね。しかし、阿部先生は埼玉大学でも特殊でした。単位を出すという書類を出していないのですね。阿部先生の飲み友達だった教務の事務の人が、単位が足りない学生がいたら、二年前三年前の阿部先生の単位を出せるというのですね。国立大学ですよ(笑)。今はコンピュータ化されているから駄目ですが、その当時は阿部先生がサインさえすれば単位が取れると。それで卒業できた学生が何人もいたようです。
 僕が四年生のころ、埼玉大学の学部長選挙があり、阿部先生が同数最高得票を取って、決選投票となったことがありました。その投票が行なわれる教授会にべろべろになってやってきたので、同僚たちもこれは任せられないと(笑)。おかげで学部長にならずにすんだという話もあります。しかし、その後は学部長をされたし、最後は学長代理も務められました。ほかの教員や職員の話をじっくり聞く、評判の学長代理だったと聞いています。じっくり聞いて話を引き出すというのは阿部先生の特質・特技、人柄だと思います。後輩に聞くと、学生の話もじっくり聞いてくれたといいます。のちに東京大学で教えたときの教え子には九州大学の浜本満さんや東京外語大学の真嶋一郎さんもいて、多くの人類学者を育てた教育者としてもすぐれた方でした。


最後のフィールドワーク

 1988年、最後となるアフリカのフィールドワーク、5度目のルオの調査に行かれました。実はこの調査は埼玉大学を退官されるときに作った年譜から落ちているのです。先生がわざと落としたのかどうかわかりません。
 この調査は当時の文部省の科研費の事業で、阿部先生はチームの代表者でした。私も都立大学大学院博士課程単位取得退学し、民族振興会の研究員という身分で阿部隊の一員として参加、自分としては初めてのフィールドワークと阿部先生の最後のフィールドワークがこの調査だったのです。私はルオの隣のクリア民族の調査でしたが、私のいた村に阿部先生が来てくださっていろいろ助言をもらったりしました。これが阿部先生の最後のフィールドワークになってしまったのは、実はお酒がからんでいるのです。しかし、阿部先生もこれについては大変反省していらして、しかしその反省の仕方が、二度とアフリカには行かないというわけのわからないことで(笑)。なにをやらかしたのか、これだけの反省をなさっているのでここでは暴露しないでおきますが(笑)。
 もうひとつご紹介したいのが、ご長男の阿部利洋さん、現在は大谷大学で社会学を教えていて、つまり、研究者になっておられます。その利洋さんがまだ小学生の時、僕の結婚に際して阿部先生のもとへ仲人をお願いにお訪ねした。じつは阿部先生はご自宅では一切お酒を飲まないのですが、奥様が料理やビールを出してくださった。ちょうどビールを飲んでいるときに、利洋さんが学校から帰ってきて、開口一番、「お父さん、家では飲まないと言ったじゃないか!」と(笑)。お酒の話はこれくらいにして、後半は阿部先生のご研究の話をしようと思います。

会場の様子


II 阿部先生の研究

 阿部先生の刊行物は年譜に挙げましたが、このほか一般誌などにも多く論文やエッセイを発表されています。それらの業績は主にふたつの傾向に分けることができると思います。
 ひとつはアフリカ・ルオ社会の調査に基づく民族誌と言っていいもの。そのほかアフリカの思想、アフリカ哲学、アフリカ人類学ともいえる研究です。もうひとつはアフリカ民族誌、アフリカ人類学をもとにはしていますが、もう少し一般的な文明論的考察があります。もちろん前者と後者はつながっているのですが。
 1982年に出された単著『アフリカ人の生活と伝統』(人間の世界歴史15 三省堂)ではほかのアフリカ民族資料も引きながら、ご自身の調査したカッセーナ社会、ルオ社会の民族誌も多く取り入れられています。そういう民族誌的研究に基づきながら、二度とアフリカへ行かないという決意をしたあとで文明論的論文を書き始めることになったと思うのですが、その最初のものが1985年の「“未開と文明”再考」(比較文明・創刊号)だと思います。比較文明学会という学会が出来て機関紙は『比較文明』でしたが、その創刊号に、阿部先生は「空白の三十年」のど真ん中にもかかわらず書いているのです。
 それを皮切りに、亡くなる直前まで続いていた「後背地論」に発展していく文明論的考察が始まります。民族誌的研究と文明論的考察が結びついている、その最初と最後をご紹介して、阿部先生の思想の一端をご案内できればと思います。


II-1 双極論―二元論に対比して

 はじめに取り上げるのは、最初のご著書で、27歳で出された『アフリカの創世神話』です。この中で阿部先生は「双極論」というキーワードを使われます。この言葉はその後あまり使われなくなるのですが。双極論とは、存在するものはすべて相異なる面を備えているという認識を表現したもので、多様なアフリカの神話の多くに共通してみられると先生は書かれています。例えばアフリカギニア湾のダホメ王国の神話では、創造神マウリサは両性具有の神で、自ら身ごもってほかの神々を産んでいく。マウが女性の側面、リサが男性の側面とも語られる。阿部先生の解釈ですが、マウは神秘的で無秩序、自然の豊穣力を表している。リサは、火と鉄をもたらして世の中に秩序を与え、知性を表す。しかし片方では世界は創れない。このように相異なる力を併せ持つ創造神によって創られたとする。ダホメ王国では、この創造神のあらわす双極はあらゆる事象の持つ双極でもある。阿部先生は、すべての事象は必ず相反する双極を持つという存在の双極性の思想を表しているのが、このマウリサの神話なのだと述べられています。阿部先生は、両極の間を行き来することで存在は完全なものになるのだという思想を双極論と呼び、二元論と異なるものとして対比されています。ただ、この新書版の小さな本の中では、二元論についてはほとんど説明されてはいないのですが。阿部先生の中では、二元論と双極論は対比的に考えられています。二元論は西欧近代の思想とされ、相反するふたつを切り離し差別する思想だと言います。近代・現代文明の二元論とは、例えば「未開」と「文明」というヨーロッパ近代に作られた二元論ですが、ほかにも「男」と「女」、「成人」と「子ども」、「白人」と「非白人」などなど。西欧文明では、文明の主体は「白人」「成年」「男性」でそのアイデンティティは理性的で感情を抑えられ、能動的に行動でき、自立する存在だとされます。その文明人としてのアイデンティティを壊さないために、彼は自分の中にある認めたくないものすべてを「未開人」や「女」、「子ども」に投げてしまいます。そうして、未開人や女性や子どもは理性を持たず、感情や暴力性を抑制できず、依存する存在だとされるのです。この未開のイメージは同様に、西欧から見た東洋にも向けられています。これは、アイデンティティを守ると同時に、未開人、女や子どもへの支配を正当化する論理にもなっています。つまり、未開人や女や子どもは理性的にふるまえず依存的だから、保護し、正しい道へ導くために支配すべき対象だとされたのです。これは同様にアジア、アフリカを植民地にする論理にも使われます。この考え方は、第二次大戦後のアメリカによる日本占領の際にも使われました。アメリカは、理性的でなく依存的な日本人に任せておくと民主的な国はできないとして日本を占領して民主主義を押し付けたわけです。つい最近のイラク戦争でも、この論理は使われました。アメリカ軍がイラクに侵攻するのは民主化のためだといいますが、それは植民地支配と全く同じ論理です。


II-2 異質なものを取り込むことで完全な存在に

 つまり、西欧近代文明では、白人男性は自分の中にもある「異質とされる側面」を自分の外に吐き出して他者に押し付けることによって、自分たちのアイデンティティや主体性、権力を作り出してきました。それに対して、アフリカの神話やアフリカ哲学に見られる双極論では、たとえ自分が男性であっても、異なる女性の側面を取り入れることによって完全な存在になっていくのだと考えるのです。男女という同じ二項対立を使っていても、アフリカの双極論は相手を取り込むことで完全な存在に近づいていくとみるのだと、そのように阿部先生は述べられています。私は、この考え方は二十世紀の偉大な人類学者レヴィ=ストロースの考え方に非常に似ていると思います。阿部先生がこのご本を書かれたときにはまだ、レヴィ=ストロースの翻訳は出ていませんでしたが。
 レヴィ=ストロースは人類に普遍的な思考を「野生の思考」、文明における思考を「栽培された思考」と呼んでいます。文明における思考は、用途に合わせて純粋化していく思考であると。そういう思考によって、西欧近代は理性的・自制的というアイデンティティを得たのだと言うのです。19世紀のヨーロッパの思想においてブームになったものがふたつある。ひとつは精神分析学におけるヒステリーの発見で、もうひとつは宗教学におけるトーテミズムの発見です。レヴィ=ストロースは、このふたつは非常によく似た概念だとみています。前者は、当時の成人男性が自らの中に認めるとアイデンティティが揺らぐようなものを女性に投影したもの、後者は、自分たちの文明に中にあってはならないものを未開人に投影したものです。阿部先生が語るアフリカにおける双極論はまさに野生の思考であり、二元論は栽培された思考に相当していると言えるのです。このように、阿部先生のご研究では、この双極論と二元論の対比がずっと維持されているように思います。双極論という言葉は使わなくなりますが、晩年の後背地論につながっていくのです。


II-3 晩年における後背地論に向けて

 文明論的な考察が時初めて現れたのは、先ほども触れた1985年の「『未開と文明』再考」ですが、これは西欧近代を相対化するというモチーフを持った論文です。西欧近代が捨て去ったもの、生きることや生活に含まれている全体性のようなもの、それを現代文明において回復させるために未開の思考を使うといった図式なのです。
 しかし、記憶を交えていえば、発表されてしばらくすると、阿部先生はこの論文に不満を持つようになり、「『未開と文明』再考」の再考を書きたいとおっしゃっていました。どこを変えたかったのか。それはその後書かれたことからの推測ですが、双極論と二元論を対比させて現代文明を相対化するだけでなく、文明にみられる二元論や栽培された思考は、もともとは野生の思考にふくまれていたものであるということなのではないでしょうか。野生の思考にも、文明への欲望や志向が含まれていたわけです。ただ異なるものとして対比させるだけではなく、矛盾するような文明への志向をアフリカ哲学の中でどのように意味づけるか。そして、未開社会には、野生の思考のうちの欲望や衝動を統御する力が備わることを指摘する必要があると阿部先生は考えたのではないかと思います。そしてその「『未開と文明』再々考」の第一歩が、五年後の「比較文明」5号に書かれた「都市と妖術」だったのだろうと思います。
 「『未開と文明』再考」も「都市と妖術」も空白の三十年のただなかで書かれています。ですからちっとも空白ではなかったと思いますが、阿部先生にしてみればあんなに酒を飲まなければもっと研究できたのにという思いがおありだったのでしょう(笑)。
 「都市と妖術」の最後に、「後背地」という語が出てきます。精査してはいませんが、阿部先生が後背地という語を使ったのはこの論文が最初だと思います。この論文で面白い提案がされています。人類学者が都市をフィールドワークする上で重要なのは、「非都市的世界に住む非都市的人間」と都市について対話することだと言うのです。具体的にはルオ社会の農村に居る人たちのような非都市的人間が都市について語ることに耳を傾けることが重要なのだと。ルオ社会はケニアでも大きな社会で、その地域にはケニア第三の都市であるキスムがあります。そういう地域における農村の人々が都市をどうとらえているか。彼らは、都市は妖術を使う人が蔓延している世界で、自分の欲望の実現のために神秘的な力を使うと語る。しかしその妖術のイメージも、ルオの農村で作られた観念であり、やりかたであって、しかもルオ人は誰でも妖術使いの側面を持っている。つまり、都市で発揮される欲望や衝動は誰もが持っているというわけです。
 しかし都市は、人工的環境や市場経済、国民国家、社会の専門分化などによって、抽象化され分割化された小宇宙になっている。そういう小宇宙では、欲望や衝動が統御されにくくなっていて、だからルオの農村の人々は、都市こそが妖術使いが蔓延している世界だと考えるのではないか。論文の最後で阿部先生は、都市はコミュニティーの外に存在している閉ざされた小宇宙で、生活物資や労働力を後背地に依存していると述べる。この「後背地」はごく一般的な使い方です。ここから、阿部先生は、それと同じように、都市での生活文化ももともと後背地にあった基層的文化を継承している。後背地では妖術的なものをそこで生み出すと同時に、それを統御する方法も有していた。したがって都市でも、統御する方法を含めた基層的文化を継承していたはずだ。しかし現在の国民国家や市場経済と一体化した都市では、後背地から継承した基層的文化とともに妖術に対する統御力も失いつつあるのではないか。それによって、都市は変質し、妖術師の跋扈する小宇宙となった。それがルオ社会の非都市的人間の都市論であるということを述べています。
 この論文には2005年以降に発展する阿部先生による後背地論の萌芽、基本的な発想が見られます。つまり近代文明によって、都市と後背地の関係が変質したという観点です。2005年に「宗教と社会」11号に発表された「『後背地』から:アフリカの妖術」、これがタイトルに後背地がついた最初の論文です。この論文を発展させ書き直したものが、2007年、阿部先生も編集にかかわっていただいた『呪術化するモダニティー』に収められた「後背地から」です。同じ2007年に中央大学広報誌『アリーナ』4号でも「アフリカを語るための覚え書」と題して、後背地の話を書いています。また、同じころ関根康正さんの研究会にも参加され、2009年に刊行された『ストリートの人類学』下巻に「覚え書・後背地論からみたストリート」を書かれています。覚え書とかエッセイとかをタイトルの頭につけることを主張なさって、論文ではない形で発表する意志がおありだったようです。本当に書きたいのはルオ民族誌なのだとずっとおっしゃっていました。そこで後背地論を展開させて、一冊にまとめたい、と。だから覚え書になったのかなぁと今になって推測しています。


II-4 後背地論の可能性

 阿部先生による「後背地」の定義は、持続的で対面的関係が優勢な家族的集団や近隣集団を核とする共住集団ないし小地域社会を指すというものです。人類形成史をふりかえると文化的動物としての人間は、後背地での生活を通して人間となり、そこでの生活によって人間であり続けるもので、これが後背地論の基本的視点だと書かれています。人間が人間として生きるために本当に必要なことを実現するために、当事者が当事者として当事者のために、共同で努力する営みが後背地における人間の営みの中心を成している。それが人間を人間たらしめている。人類史において、そのような共住集団にひとつの変化をもたらしたのが古代都市国家の出現であり、つまりは都市文明が興った。そこで都市的中枢が形成される。その中枢は、自給自足できる周辺の小地域社会を、食料や労働力を供給する後背地として取り込むようになる。後背地論は、都市的中枢とその周囲の後背地を経済的観点から見るのではなく、文化の面から見ようとするものである。都市中枢を拠点とする専門家、知的リーダーの営みは人間の知恵の可能性を大きく切り開くが、それ自体では文化的動物としての人間、人間を人間たらしめるように人間を再生産することはできず、その意味では後背地がはたしている役割を全面的に代替することはできない。都市はそれを後背地に依存せざるを得ない、と。それは古代文明以来、文明の中枢を担う知的エリートや官僚たちも認識していて、持続する文明は後背地とそこに生まれた思想的文化をむやみに破壊せず、維持するような相互関係を築いてきた。その関係に大きな変化をもたらしたのが、国民国家とテクノロジーを核とする近代文明、あるいは近代システムなのだと阿部先生は述べています。
 近代文明はあらゆるところに自己の論理を貫徹し、例外やダブルスタンダードは認めない。そのような近代文明に取り込まれた後背地も変質を被り、小地域社会は自律性を失う。近代文明は、後背地が養ってきたものを食いつぶしている。近代文明は他者性・異質なものを抑圧し排除する傾向を持っている特殊な文明であると指摘します。この阿部先生の考え方は27歳で執筆された『アフリカの創世神話』の双極性と同じで、異なるものを取り込むということが重要なのだとみるのですが、しかし近代文明は違う。人間が人間であることを支えてきたのが後背地であるとするならば、近代文明は、人間が人間であることを食いつぶす文明だということになる。
 しかし阿部先生は、この素描について、間違ってはいないが偏っているとおっしゃっています。より注意深く、民族誌的にアプローチすれば、世界の各地で後背地あるいは後背地的なものが、なお強い生命力を持って人間の共同生活を支え、近代システムとせめぎ合ったり融合したりしている状況が見えてくるだろうと述べています。それが新たな文明を形成する過程なのかどうか、その可能性を解明するのが後背地論の課題となるだろうというのが、阿部先生の後背地論の概要となります。
 その後2014年に出版された単著『地域社会を創る:ある出版人の挑戦』では、現代日本において地域社会がどんな生命力を有することができるのか、さきたま出版会の社長の半生を例にして分析しており、いわば後背地論の応用ともいえるものです。
 最後になりますが、阿部先生は出版を前提とした原稿を残されています。現在はご長男の利洋さんが手を入れておられるのですが、それに協力してくれと言われています。そのテーマはアフリカの神話なのです。まさに最初にもどってということになります。いくつかの事情から時間はかかるかもしれませんが、最後のご著書が出るだろうというお知らせで、今日の話を終えたいと思います。

(文責:事務局)