地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2018・10月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「ブータン人のことばと暮らし―ゾンカ語の普及と言語多様性の視点から―」


● 2018年10月13日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス南校舎452教室
● 話題提供:西田文信先生(東北大学高度教養教育・学生支援機構准教授)


講演要旨

 震災のあった2011年にブータンの現国王ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチェク夫妻が新婚旅行で日本を訪問され、その際、慶應義塾大学の名誉博士号を取得されました。
 今日は言語から見たブータン王国についていろいろな角度からお話をしたいと思います。


ブータンと私

 私は15回以上ブータン王国でフィールドワークを行い、現地の言語の記述言語学的研究、それから言語資料の収集保存、民話などの記録、辞書の作成のための基礎的研究などをしております。今日はブータンの言語の最新状況をお話しすると共に危機言語の記録・保存・再活性化についての現地の意識にも触れたいと思います。
 私はシナ・チベット語族(最近はトランス・ヒマラヤン語族と呼ぶ人が増えています)の歴史的な研究―言語がどのように変化してきたか、それと現在どのような姿形で存在しているか、地域的にどのような差異(方言・言語差)があるかを、他の研究者と分担しながら研究しております。中でもフォールドワークに基づいた現地調査、それから言語類型論、歴史言語学の観点から研究しております。


東ユーラシア地域の六つの語族

 東ユーラシアは元来分子生物学が用いていた地域概念ですが、今は他分野でも使われています。この地域に分布している言語は大きく六つに分けることができます。シナ・チベット語族が地域も話者人口も最大です。話者人口はインド・ヨーロッパ語族よりずっと多く世界最大の言語です。中国、台湾、ベトナム、タイ、カンボジア、ラオス、ミャンマー、バングラディッシュ、ネパール、インド・パキスタンのこのあたり、おそらく同一の親の言語にたどり着けると考えられています。それとミャオ・ヤオ語族というのがあります。それからタイ・カダイ語族があります。タイ語とその仲間の言語たちと言えます。オーストロアジア語族は二つに分かれベト・ムオン語派とムンダ語派ですが、元々は同じ言語が歴史的に変化したものと考えられています。それから、オーストロネシア語族、これは分布地域からいえば世界で一番広く面積を有しています。北は台湾、東はイースター島、南はニュージーランド、西はマダガスカル島ですね。これらの起源は台湾の原住民語だろうと言われています。ブータンと台湾はほぼ同じ面積で、言語分布のパターンも似ています。それからドラヴィダ語族があります。昔、大野晋先生が日本語の起源はドラヴィダ語族のタミル語だとおっしゃいましたが、そのドラヴィダ語族は、もともとは東北インドまで分布していたのが、ヒンディー語などを話すアーリア系の人々に南へ追われこういう分布になっています。
 私のやっているシナ・チベット語族のうち、どの言語同士が近いか、これが最新のデータとされていますが、まだなかなか分かっていません。ただ、話し手がいなくなってしまう言語もあり、急いで調査をする必要があります。

【James Matissoff教授によるシナ=チベット語族の系統分類】

 これは学術雑誌「サイエンス」に載った図で、インド・ヨーロッパ語族の系統をDNA検査と同じような手法で調べたものですが、これを見るとインド・ヨーロッパ語族は比較的きれいに系統が分かります。

【Boukaert, et. al. 2012. Mapping the Origins and Expansion of the Indo-European Language Family. Science 337(6097)】

 私はこれに倣って、少なくともブータンの20の言語がどういう関係にあるのかを研究したいと思っております。

【ブータンの言語分布】

 私はEast Bodish諸語と呼ばれるブータンの一つの言語群を調べていて、音韻対応を見ていただくと(図1)似ていますよね。ですからこれらの言語は同じ源に由来すると考えられ、音韻変化に基づいて各言語の親疎関係を調べております。

【図1:East Bodish諸語の数詞】

【図2:East Bodish 諸語分類の基準】

 ただ、ひとつの言語からきれいに分かれていくという考え方も、少しリアリティーが無いような気もします。方法論の問題ですが、今後考えていかなければいけないことだと思っております。


言語の分類と系統

 「分類」は分けることですが、分け方は分ける人の恣意的、主観的な基準で分ける。一方、「系統」というのは、元からどういう風に分かれていったか、ということです。私が過去五年間読んだ本のベスト5に入るくらいに面白かった本は「醤油鯛」です。醤油鯛というのはお弁当に入っている魚型の使い捨て醤油入れですね。昆虫学の専門家が醤油鯛を何千と集め、ナントカ目とかに分類している本です。こちらは「系統」です。これはおわかりですか?(図3)これは食パンのクリップ、パン袋クリップ、英語でclosureと言われているものですが、どれが最初の形で、そこから現在の形になっているか、を真面目に研究しているアメリカの「秘密集団」があって、毎週これをインターネット上で更新しています。

【図3】

 言語の分類は系統の分類を指しますが、醤油鯛やパン袋クリップもちゃんと学問の方法に則ってやっているのが面白いところです。
 シナ・チベット語族も祖先がどこにいてその民族がどこに移動したか、考古学的な証拠や最近ですと遺伝学のDNAに基づいて調べると分かるのですが、純粋に言語の面だけでもいろいろなことが分かります。
 最新の研究ですとこのあたりがシナ・チベット語族の大本のことばを話す人たちが住んでいたと言われています。

【シナ=チベット語族の故地(推定)】


多田等観 ブータン経由チベットへ

 公式的には中尾佐助が最初にブータンに行った日本人だとされています。大阪府立大学の先生でいらっしゃいました。昭和58年に半年間ブータンに滞在され、帰国後すぐに書かれた『秘境ブータン』で毎日新聞社賞、日本エッセイストクラブ賞などを受賞しています。ただ私は、初めてブータンに行ったのは中尾佐助ではなく、多田等観だと思います。
 多田等観は1942年、昭和17年に岩波新書『チベット』を出版し、かなりのベストセラーになりました。冒頭に「大正2年の7月私はブータン国を通り、猛暑と戦い・・・・35日かけてラサに到着した」と記述があります。等観没後に白水社から『多田等観 全文集』という本が編纂されて出ていますが、これにもこの記述が採用されています。
 ブータンを含むチベット圏は、現在のチベット自治区を中心として四川省、青海省、甘粛省、東北インドからパキスタンにかけて、を指し、百数十年前の清末のアジア情勢を考える上で重要な地域です。で、多田等観はおそらく日本人として初めてチベットで修行をした人ですが、私は初めてブータンに行った人として捉えたいのです。彼はチベットで10年にわたって修行し、チベット人でも30年かかるという仏教の奥義を修得、博士号を取って日本に帰国しました。
 このチベットと清と英領インド帝国の間にあって、一種の緩衝国の役割を果たしていたのがブータンです。多田等観の修業時代は辛亥革命で清が倒れて中華民国ができ、第一次世界大戦が起きるなど新たな秩序を求めて世界が揺れていた時でした。等観は秋田の高等小学校を出て、西本願寺で修行をしていたのですが、当時のダライ・ラマ13世が3人の僧侶を西本願寺に派遣、そのチベット留学生の日本語指導を1年間受け持ちました。すると、1年後にはその三人の留学生がきれいな秋田弁を操るようになり、当時の官長・大谷光瑞が多田等観を解任して、チベットに送り、修行させたのです。帰国後は東大の嘱託などをしながら、ダライ・ラマ13世自らから贈られたチベット仏教で一番権威のある『デルゲ版大蔵経』の整理をしました。この原本は今東北大学に収蔵されています。1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)まで慶應外語学校でチベット語の授業を担当しました。


ブータン王国の地勢や民族

 ブータンへは、以前は週1便とかで行きにくかったのですが、今は大変便利になりました。例えば今から羽田に行き、今晩の便でバンコクへ向かい、明日の早朝に着いて朝便でブータンに行けば、もう昼頃にはもうブータンに着いています。経由地もバンコク、シンガポール、デリー、カトマンズなどいろいろあります。インド人観光客が一番多いですが、中国人観光客が増えています。日本人観光客は減ってきています。
 空港はパロにあります。これは空港にある初代国王から第五代目の現国王までの写真です。1907年に即位した初代国王ウゲン・ウォンチュックの時代はまだ戦争の時代でした。ブータン北部は標高7500メートルにもなるヒマラヤ地域ですが、南は海抜100メートルもないような熱帯雨林で、野生の象や虎、サイなどのいる地域です。人が住んでいるのは大抵標高1700メートルから2000数百メートルのあたり、限られた平地に集中して住んでいるため無人地域が非常に多く、平地は高い山や谷に囲まれているのでそれが言語分布に影響を与えています。
 ブータンの遊牧民族は、夏は涼しい高地に住み冬は暖かい平地に移動するトランスヒューマンズと呼ばれる習慣がありましたが、最近は政府の定住政策によって昔ながらの移動生活を送る人々は少なくなっています。よく高山病が心配されますが、それほど心配することはありません。それから、今建設中ではありますが、トンネルの無い国です。また、信号が無い国です。直線道路は一切ありません。
 ブータンは台湾、九州、スイスなどと同じくらいの面積、38000km2ですが、この色分けした図(図4)のように、大体五つの民族、五つの言語群に分けられます。私が調査しているのはこの黄色の地域です。人口は70万人ほど。首都はティンプーです。民族は大きく、チベット系とネパール系に分かれ、南部の薄紫の部分はネパール系の人々が住む地域です。昔、プランテーションのために労働者として雇われたネパール人がそのまま定住し国籍を得たのですね。

【図4(髙橋洋氏提供)】

 ブータンは150年ほど前にイギリスと戦争しています。ドアール戦争といいます。その戦争以前は、今の面積の倍くらいの国土を持っていました。豊かなプランテーションがあったのですが、そこをイギリスが取って英領インドに組み込んだのですが、その代わりに毎年今のお金で言うと数億円の保障金を永久に払い続けると約束し、今もその約束は履行されていて、インド独立後はインド政府がブータンに支払っています。
 言語はゾンカ語を初めとする20数言語です。宗教は、チベット系の人はチベット仏教、ネパール系の人はヒンドゥー教で、国教は仏教です。が、ネパール系の人たちに配慮してヒンドゥー教の新年もちゃんと祭日になっており、二宗教とも国の宗教として認められています。正直に言いますと、ブータンはネパール系の人口の方が多いのです。これはブータンにとっては不都合な事実ですが。これはブータンを考える上で、また言語を考える上で無視できない問題です。後ほどお話しする、ゾンカ語がなかなか普及しないということともリンクしています。


ブータン人の暮らし

 市場でたくさん見かける唐辛子は、調味料というより野菜として売られています。かなり高いところでも、パイナップルなどを売っています。昔、西岡京治氏がブータンで28年間農業開発をなさって、そのおかげで多くの野菜がブータンに定着していきました。もともとチベットにはあまりおいしい料理がなくて、中国側のチベットでも麦焦がしのようなツァンパとバター茶、ヤクの乳くらいしかないのですが、今ブータンではいろいろなものが食べられていいなぁと思います。
 人々の生活の至るところに仏教が根付いています。ヒンドゥー教の自由も保障されていますが、キリスト教はほとんど見られません。就業人口の約6割が窯業に従事し、公用語はゾンカ語、歴史や国語を除くほとんどの普通教育は英語で行われますので英語が良く通じます。山奥の家や経済的に豊かとは言えない家でも、びっくりするくらい豪華なチベット仏教の仏壇があります。大金を借金をしてでもこうした宗教的なしつらえをして、毎朝日の出前、日没後にお経を唱えるのです。また名士や豊かな人が地域住民に食事を振る舞う習慣があります。


ブータンの言語概況

  これはスイス大学のGeorge van Driemという先生と私が作ったブータンの言語地図(1991年)で、行政区画で分けたものです。(図5)

【図5】

 19から20くらい言語数があると思います。色分けしてありますが先ほど申し上げたように、人が住んでいない地域も含まれています。おわかりのように、公用語ゾンカ語は西半分に分布し、東半分はいろいろな言語が残っており、南はネパール語が話されているということです。ネパールはインドアーリア系の人たちとチベット・ビルマ系の人たちがいて、グルン族、タマン族、シェルパ族など細かく分かれますが、ブータンでは「ネパール語」と、ひとつに分類しています。これも問題と言えば問題で、仏教を信仰している人たちの言語は細かく分け、ヒンドゥー教を信仰している人たちのことばはざっくりとひとつ、としています。しかし、ネパール系は無視できません。


ブータンの多言語状況

 ブータンの言語はまず、中央ボディッシュ諸語。ボはチベットの意味で、ボディッシュというのは、チベット語から派生した、という意味です。中央ボディッシュ諸語にはゾンカ語、チョチャガチャカ語、ラカ語、ブロックパ語、チベット語など。チベット語は、1959年に中国がチベットを併合して自治区にした時に、難民がブータンに来て定住した、その言語をひとくくりにして認定したものです。
 私が調査しているのは東ボディッシュ諸語で、これにはオレカ、マンデビ、ブムタン、ケン、クルテップ、チャリ、ザラ、ダックパなどの言語が含まれます。
 例えばチョチャガチャカ語を説明しましょう。チョはあなた、ンガが私、あなたと私しか知らないことば、という意味ですね。ザラ語のザラは猿という意味です。現在ラサなどで話されているチベット語より広い概念のチベット語はボディッシュではなく、ボディックと呼ばれます。そのボディック諸語と呼ばれる言語に、ツァンラ語とロプ語があり、ツァンラ語はブータン東部の有力な言語です。また、分類未確定の言語にゴンドゥク語、レプチャ語があります。
 世界の言語7000弱について話者数や分布、系統などを掲載しているエスノローグ誌によると、ブータンには23の言語が話されているとされています。私が今挙げた以外に、アビ語、アッサミ語、バンタワ語、サンタル語などが移民の言語として掲載されています。ブータンにはかなりインドの様々な地域からの移民が入ってきていて、合わせると何十という言語数になるかと思いますが、エスノローグでは移民の言語も含め、23言語としています。
 ブータン諸語の話者数を政府が出しています。(図6)

【図6】

 その言語を第一言語として話している人数ですね。これも1991年からほとんど数字が変わっていません。1991年以降、何回か国勢調査などの一斉調査があり、どの言語の話者かという回答欄もあったのですが、未だにこのリストを政府が公式に出しているのです。これによれば、公用語ゾンカ語を第一言語とするひとは人口70万人の内の16万人、次に多いのが東の一大勢力のシャンガ語で13万8千人、リスト最後のネパール語は15万6千人ですね。しかし私の感覚では、シャンガ語もネパール語もそれぞれ10万人くらいずつ多いのではないかと感じます。また、ここで千人程度の話し手がいるとされている諸言語は3割から4割程度に減少しているのではないか、私が調査したブロカット語はここでは300人とありますが、私自身がブロカット語が話されている集落の全戸調査をしたところ、話し手は80人もいませんでした。


ブータンの諸言語の特徴

 ネパール語も含め、ブータンの諸言語の語順はS+O+Vで日本語と同じです。ただ、形容詞と名詞が日本語とは逆になります。数詞が付くと「人・きれい・ひとり」となります。ブータンの母音は八つ、日本語は五つ、名詞句を除くと日本語と近く、テニヲハもありますので、日本人には習得しやすい。


ゾンカ語について

 2008年に制定されたブータンの新憲法の第8条第1節に、「ゾンカ語はའབྲུག་ཡུལ(ブータン)の国家の言語である」と書いてあります。国名のའབྲུག་ཡུལは「雲龍の国」という意味です。龍が降りてきて、祖先が生まれたという伝説のある国なのですね。「ブータン」は他称で、おそらく当時のほかのネパール系の民族が今のブータンの地域のことをそう呼んだのではと思います。語源はまだはっきりしてはいませんが、ブーはチベットの意味、タンはサンスクリットで「尻尾」「すみ」という意味ですが、ブータンにはタンの付く地域があり、タンは「平原」の意味です。
 ブータン文字はチベット文字と同じです。これ(図7)はツイといって、いわゆる楷書体で、チベットで用いられている字体と全く同じなので、ブータン人のアイデンティティーを保持するために、草書体(図8)、手書きのかたちのジョイとかホイとか、と呼ばれる文字があり、これはブータンでしか用いられません。

【図7:ツイ】

【図8:ジョイ】

 チベット地域の東にカムという地域があり、今の四川省や雲南省のシャングリラのあたりですが、そこでかつてこの書体が使われていた記録はありますが。ただ、子供の教科書はじめ、チベット文字と同じ書体で書かれている本の方が多いので、実際にはなかなか普及してはいない。先生が黒板に書くときはこの草書体で書きますし、ほとんどのブータン人も書けますが、公的な文書や看板、パソコンやスマートホンの表記にはチベットと同じ書体が使われます。草書体を普及させる気があるなら、もっと本気で取り組んだらいいのではと思いますが。

 ゾンカ語は、17世紀以来ブータン西部のガロン方言をもとに形成されたブータン王国の公用語です。政府は使用奨励言語と言っていて強制しているわけではありません。しかし実際問題として、ゾンカ語ができないと公務員や教師にはなれないので一定の層以上のひとは皆きれいなゾンカ語を話します。けれども、ゾンカ語は未だにいろいろ問題をはらんでいますがこの点については後ほどお話します。
 ちなみに、ゾンは「城塞」、今ブータンでゾンというと県庁所在地や僧侶の養成院を指します。カは「口」で、イコール「言語」を表します。ヨーロッパの言語ですと「舌」で言語を表すことが多いですね。アジアの言語は「口」で言語を表すことが多いです。


ブータンにおける英語

 教育言語は、ゾンカ語以外はほとんど英語ですので、小学生でも流ちょうな英語を話します。英語が普及しすぎることによって自国の文化が廃れるのを恐れて、政府は積極的なゾンカ語普及政策を取っています。ゾンカ語を母語とするひとたちはおそらく総人口の二割から多く見積もっても三割だと私は思います。1971年にゾンカ語と英語を公用語としたいうのが政府の見解です。ブータン国は1961年に鎖国を解き、まずインドと外交関係を結び、61年にはじめて自動車がブータンに入りました。以来、五カ年計画を現在まで継続して、道路整備など近代化を推し進め、資源の無い小国として国際舞台で生き残るために教育言語として英語を取り入れたわけです。
 1959年、チベットが中華人民共和国の一部になったり、また、60年代中頃からシッキム王国が体制を保持するのが困難になって、その後国民投票でインドの一部となることを選んだりしましたが、ブータンはそれらの国の二の舞にならないよう、英語を選ぶ機運が高まったのが60年代なのですね。ブータン人の教員がいなくて、ほとんどがインド人の教員だったこともあります。


ゾンカ語の普及政策

 17世紀ごろ成立したゾンカ語はもともと無文字言語でした。20数語あるブータンの言語は、現在のゾンカ語を除いて、全て無文字言語です。ブータンにも文字はありましたが、全て古典のチベット語でした。
 ゾンカ語が文字で表記されるようになったのは1971年からです。1971年にゾンカ発展委員会/ゾンカ普及委員会(Dzongkha Development Comission)が設けられました。日本の国立国語研究所にあたる機関です。ここでゾンカ語が国の公用語として認められ、「ゾンカ」と名付けられました。先ほど申し上げた草書体が、ゾンカ語表記用の文字に決められました。
 その後教育言語としてゾンカ語が用いられるようになり、1996年の調査で識字率が54%に達するまでになりました。ただ、今でもブータン人の識字率は七割から八割、特に女性の識字率は10年前の調査によると五割です。ブータン人の言語状況を語るときに大きいのは1999年のテレビとラジオの放送の本格的な開始、インドの衛星放送の受信開始、インターネットの解禁で、携帯電話もこの頃から使われるようになりました。一気に外国の文化が知られるようになったのです。20年前のことですが。ただ、その20年間で少数の話者しかいなかった言語はさらに急速に話者を減らしました。メディアの発達とパラレルに起こったことです。
 2008年に憲法が発効するにあたって、2005年の段階で、ゾンカ語版が英語版に優位すると発表しましたが、改訂版が半年後に出て、ゾンカ語版と英語版が同等の効力を有するとなり、これに決まりました。しかし未だにゾンカ語版と英語版で解釈が違うところがあって、問題になることがあります。まず英語版を作ってそれを訳してゾンカ語版を作った経緯があり、未だに公的な文書はまず英語で書いてからゾンカ語に訳しているのが実情です。複雑な概念を表す語彙がゾンカ語に無いからですね。ちょうど幕末から明治初期に、外国語の概念を日本語に翻訳していったのと同じことを今やっているのです。
 2008年から伝統文化を保持する政策が取られましたが、ここ10年くらいで、民族服のゴーとかキラを着ている率が非常に下がりました。
 教育制度は今から100年ほど前にできました。修業年限ですが、preprimary(幼稚園年長)が1年、小学校6年、中学校2年、高等学校2年、大学予科2年、大学3年で、義務教育はpreprimary1年と小学校6年ですが、最近は中学2年間まで行きますね。大学以外に、職業専門学校もあります。小学校6年まではゾンカ語と算数、英語、環境保全教育が必修。学校によって、美術や体育などが入ります。ゾンカ語以外は全部英語での授業です。中学でゾンカ語、地理、歴史など。ゾンカ語で歴史の授業をしなさいとなっているのですが、実際には英語での授業です。そのほうが楽だから、と先生も生徒も言いますね。高校では自由選択教科も入りますが、それも全て英語です。1足す1をゾンカ語でぱっと言えないひともたくさんいます。


ゾンカ語の問題点

1. まず、定義が曖昧であるという問題があります。少なくとも以下の三つの定義があります。
① 知識人が公的な場で用いる文章語(書かれることば)
② 洗練された話ことば
③ 西部のローカルな言語
 ネイティブが話すローカルな言語と②は多少の差異があります。①はまたちょっと違います。書くときは古典チベット語由来の語彙が多くなります。ゾンカ語と言うとこの三つの全てを表し得るという曖昧さがあるのです。

2. それからゾンカ語はテレビ、新聞等で用いられます。法的文書や契約文書は古典チベット語で書かれるのが一般的です。ゾンカ語が文字で書かれるようになったのは1971年で、それ以前の学校教育で習う書きことばはチベット語だったのです。日本人が漢文を習っていたようなものです。これもひとつの問題です。

3. ゾンカ語の母語話者は全人口の30%くらいしかいません。東部のツァンラ語、南部のネパール語、英語、この四つのリンガフランカが話されています。1989年以前は、南部の小学校では、ネパール語を使って、理科とか算数、社会などを教えていた時期がありました。南部では家庭ではネパール語を使っているので、ゾンカ語の授業はなかなか、子どもたちにとって大変でしたから、政府もネパール語の授業を認めていたのです。しかし1988年にした調査で、かなりの人々がゾンカ語を話さないこと、伝統衣装を着る人が少ないことが分かり、ネパール語授業の許可を1989年に撤廃して「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を掲げてすぐに発布・施行しました。この時から、学校教育や公的な場では伝統衣装を着なくてはいけない、ゾンカ語は必ず学ばなくてはいけない、ということになりました。

4. 古典チベット語は5母音体系です。それを踏襲してゾンカ語の表記も5母音です。しかしゾンカ語は8母音体系なのです。発音と音声表記にギャップがあり、なかなか書いてあるとおりに読んでも読めません。

5. 英語がかなりの程度操れないと、就職が困難です。ゾンカ語にたけていても教師やお坊さんになるくらいしか道はないと言います。ましてやローカルな、地元の少数言語などやらない、親の世代も、そんなのをやるくらいなら英語をやってくれ、と言う人が多いのです。

6. 多民族国家を国民国家に統合するためのゾンカ語政策がうまく機能しているとは言いがたいです。四代国王の時代からこのゾンカ語政策が始まったのですが、現国王はある意味で言語の復古主義を唱えています。綴り字に関しては古典チベット語の綴り字に戻ろう、という動きがあります。これは非常におもしろいことです。四代国王は古典チベット語の綴りで、現在は発音しない部分は書かないことにしよう、と。これはかなり革新的なことです。現国王は古い綴りを残さないと、と言い出してまた戻りました。このように、ごく基本的な語彙のスペリングも一定していないのです。

 以上の問題があるために普及が難しいのではないかと思います。普及委員会で綴りのスペリングの統一化や識字の奨励、辞書の作成(2006年)などやっていますが。主にマンパワー不足、資金不足から満足な成果が得られていません。数年前にブータン政府は、同じくらいの面積のスイスでは4言語が話されている、ブータンも古典チベット語、ゾンカ語、英語、それからローカルな言語、この四言語を使いこなせる人材を育てよう、と言い出したのですが、これは言っただけです。子どもにとっても負担ですし、ローカルな言語は文字もありません。こういうアドバルーンを揚げましたが上手く機能していないというのが現状です。


ゾンカ語の表記

 もう一つ、問題があります。ゾンカ語のローマ字によるふりがな表記が一定していません。例えば人名のニードゥップ(དངོས་གྲུབ་ )ですが、Ngödrup・Ngoedrub・Ngedrup・Ngidrup・Nidrup・Nidrub・Nguldrupなど、IDカード等公的証明書などではこれらは皆存在しているローマ字表記です。ローマ字表記は自己申告制なのですね。私の名前「文信」は、大学の卒業証明書にはFuですが高校の証明書はHuで書かれていますので、アメリカに留学する際、高校の証明書も必要だったのでアメリカ大使館に持参したら別人ではないか、と言われました。ヘボン式と訓令式と二種の書き方があることを理解してもらって事なきを得ましたが。ブータンの場合はもっと大変で、小学校、中学校、高校、大学の証明書が全部違う人もあります。その時々の気分で書いた、というわけです。これも大きな問題点だと思います。


言語多様性の観点から

 1992年、アメリカの言語学会誌Languageにアラスカ大学のマイケル・クラウスが、「世界の危機に瀕した言語」という論文を発表しました。クラウスによれば、世界の言語は三つに分かれます。①瀕死の状態にある言語=子供たちがすでに学ばなくなった言語。ブータンの言語はほとんどこの状態です。②危機に瀕した言語=21世紀中に子供たちが学ばなくなる可能性の高い言語。③安泰な言語。
 危機言語ということばが日本の言語学会で初めて使われたのは1995年です。「危機に瀕した言語の研究者の課題」というタイトルでした。1994年から2004年は国際先住民年でした。この10年間で危機に瀕した言語の研究、言語文化の保持をしようという機運が高まりました。2001年のユネスコ総会で「文化の多様性を尊重する宣言」を採択、国連環境計画が「人間を取り巻く環境や文化と密接に関わる言語を失うことは自然の教科書を失うことだ」として、こういった少数言語をきちんと保存、記録、再活性化しようと決めました。


ブータンのことばから見る言語多様性

 言語多様性の例をブータンのことばから引いてみます。チベット系言語に共通するのですが、日本語の「です」に当たるようなコピュラ(繋辞)は、「今気づいた、あぁ、そうだったのだ」の時は「インメ」を使い、「前から知っていた」の時は「イン」を使う。チベット系の言語には最低二つのコピュラがあります。ブータンの東側、タシガン県、モンカル県で話されているツァンラ語、これは中国チベット自治区やインド東北部の言語と系統関係があるのですが、中国チベット自治区は一切調査ができません。またインド北東部は国境未画定地域で調査しづらいのです。そうした地域で話されているツァンラ語には「です」に当たる繋辞が六つあります。

彼は私の友達です
この背の高い先生はいい人です
今思うけど、お前は良くない奴

 これらのコピュラはそれぞれ異なることばを使い、それが六つあるのです。しかし観察していると、次第に単純化されて来ています。このようにして言語は変わるのかなぁと思いますが。ブータンの言語調査はほとんど外国人がしていますが、ネイティブのブータン人の言語学者がどんどん生まれてほしいし、そのお手伝いもしていきたいです。私のやっているマンデビ語も前から知っていることと今気づいたこと、主観的に述べる時と客観的に述べる時で「です」が変わった形式を取る。日本語の「○○なのだ」と同じようなものもありますので、日本語と対照させて調べると面白いと思います。
 ゴンドゥック語はブータンの言語の中でも特殊で、主語の形で動詞の形が変わります。それから、後ろに来る目的語が、一人称か二人称か、三人称か、複数なのか単数なのかによって動詞の形が変わります。ですから動詞の形を見ると主語と目的語がわかるので落としてもいい。こういう言語は、インドの少数言語には多少ありますが、ブータンの言語にはなかなか無い。おそらく基層言語が違っているのではないかと思います。
 ホツァムカ語はネパール語のことです。ホは南ですね。ネパールで話されているネパール語ではhunu とchanuという区別があります。○○=○○という同定を表すhunuと形容動詞などの述語を使う時のchanuで、be動詞の形が変わる。ブータン国内で話されているネパール語ではこの区別が曖昧になっています。
 それから、ブータンの言語から急速に消えつつあることとして身体部位を使った尺度の表現があります。マンデビ語では「拳○個分」は「lagathepchu」で、木を切ったりする時にも使いますし、「親指から人差し指」は「tho」、「肘から指」は「choebri」、「両手を広げた長さ」は「dyhi」、「肩から中指の先」は「labri」、「胸から中指の先」は「dzampci」、「鼻から中指の先」は「sem」。これらは棟梁とか村長さんとかの体を計って決めるので、勝手にやってはいけないのですが。しかし今の若い子はみんなcmとかmmを使いますね。
 ブータンの80歳以上の人たちはそれぞれの言語で「猫」と「舌」の単語をくっつけて、ちょうど日本の猫舌と同じ意味で使います。これも若い人に聞いても知りません。


まとめ:言語の保存、再活性化のために

 ブータンでは国語のゾンカ語ですら、普及していません。少数言語の記録はどうぞやってくださいと言われますが、再活性化というと、ウーン、としぶい顔をされます。ゾンカ語の普及政策はうまく行っていますか、と私がゾンカ語で尋ねると、So far so good、と英語で答える。大僧正に会うことになり、私が緊張して特別な挨拶の文言を何度も練習していったところThank you for coming.と言われました。そういう時代なのですね。
 記述言語学の仕事ですが、文法を書いて語彙を集め、テキストのサンプルセットを作って刊行して、というのが大事です。私もできる限り早く、調査している言語について書いて、世に問いたいと思っております。マンデビ語は文字が無いのですが、ゾンカ語の文字表記を使ってマンデビ語の正書法を考え、目下それを使ってもらっているのですが、研究を現地に還元できればと考えております。
 日本の方言も含めて、少数言語は昔は評価が低かったのですが、今は少数言語の文化、民族の伝統文化を保持しようというふうになっていますが、今後どうなっていくのか。ブータン五カ年計画も政権が交代するとどうなるのか。全くわかりません。

 少し写真をお見せしましょう。

(写真:調査協力者の家庭風景)
 三世代でマンデビ語、ゾンカ語、英語と第一言語が変化しています。

(写真:村の小学生)
 この子たちはこの頃マンデビ語がかなり話せたのですが、その後町の中学校に行き、ティンプーに出て行ったあとではすっかり話せなくなりました。

 ブロカット語はブータン中央部の山奥ドゥル村で話されている言語です。
(写真:ドゥル村の風景)

 政府の数字では300人の話者がいるというのですが、今は80人ほどしか話し手はいません。唯一の小学校へ行きました。

(写真:小学校六年生教室風景)
 この子たちもほとんどブロカット語は話せません。

 遊牧民であるこの人たちの3700メートルの冬の野営地に行きました。

(写真:野営地)

(写真:ドルジ君)
 この子はドルジ君といい、当時5歳、両親は出稼ぎに出ていて祖父母と暮らしています。

 この子はブロカット語しか話せなかったのです。ところがひとたび幼稚園に通い出すやいなやブロカット語は忘れて英語になりました。この子はこの言語の最後の話者かと期待していたのですが、こうして言語は失われていくのかなぁ、と思いました。

 ブータンの南部、インドとの国境のあたりに行き、本来は入れないサムチという地域を中心に話されているホップ語を調査しました。この言語もほとんど話されていません。村で話されていると聞いていったのですが、何十軒廻った内のこの一軒だけでした。大分消滅のスピードが速いなと思いました。

 これからもいろんな言語の調査に廻りますが、早くしないと消滅してしまうのではと思い、我々言語学者は記録を急いだほうがいいと思います。
 これはブータン初めてのろう者の学校、手話の学校です。

 やはり英語の手話を使っています。ブータン独自の手話を作りたいと言っていましたが、国語も普及していないところですからなかなか難しいとは思いますが。でもこれまで教育の機会のなかった子どもたちが目を輝かせて勉強しているのを見て、私もなにかできないかなぁと思ったことです。


最後に

 アイヌ語研究で高名な田村すず子先生が、2000年代初めにあった大型の危機言語のプロジェクトの一環で、2002年12月2日に京都での講演会でお話しされました。「言語の多様性は良いと認めます。しかしだからといって私たちがアイヌの人々に、あなたたちはアイヌ語を守りなさいと強制することはできません。守りたくない人もいる、そういう民族の多様性も認めなくてはなりません。」と。私たち言語をやっている人間は、あなたたちの言語は大事です、守ってくださいと言いたくなってしまう。でもそれを決めるのは当事者の方たちです。これに尽きると思います。
 私はブータンの諸言語を研究していますが、生業としては中国語を教えています。古代の中国語とブータン諸言語は系統が同じだと考えています。それについて何か面白いことが言えたらと思っております。また、言語調査の副産物なのですが、幼児のことばから成人のことばへの変化についても考えがあります。そんな副産物もいろいろありますが、これからブータンの現地の人たちと教科書や辞書の編纂、民話収集など協同研究ができたら、自分の研究を現地に還元できればと思っています。
 フィールドワークは一人ではできません。ブータンは先行研究が少ないので最初は楽だなと思ったのですが、実は先行研究のない言語の研究ってとっても難しいのです。周辺の大言語を押さえなくてはならないので勉強することはそれこそたくさんあります。
 言語研究は仮説を立てて検証し、反例があればまた仮説を立て再検証するという極めて科学的な研究だと思います。道は自分で切り開くという幸福感に浸ることもできます。未知の言語を研究することで言語多様性を知り、自らの価値認識が相対化される体験ができることは大変ありがたいことだと思います。紙と鉛筆だけでなく現地に行って自分の目で見る言語学をこれからもやっていこうと思っております。
 最後に、せっかくの機会ですからゾンカ語をいくつか覚えてお帰りください。
「こんにちは」は「グズザンポーラ」
「ありがとう」は「カディンチェラ」
「では、また」は「ログジェゲ」さようならはありません。

ご静聴ありがとうございました!


(文責:事務局)