地球ことば村
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ことば村・ことばのサロン

2019・3月のことばのサロン
▼ことばのサロン

 

「台湾・ことばのびっくり箱」


● 2019年3月23日(土)午後2時-4時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス南校舎423教室
● 話題提供:平野久美子先生(ノンフィクション作家)
● 司会:西村牧子ことば村理事


司会 平野久美子さんは私の中学からの同級生です。彼女の頭には各国についてのたくさんの引き出しがあり、日本航空の機内誌にもさまざまの記事を載せていらっしゃいます。特に台湾については深い思い入れがあり、今日もその一端を現地のことばを切り口にお話くださるので、大変楽しみにしております。


講演要旨

私と台湾

 平野久美子と申します。この中で台湾にいらした方どのくらいいらっしゃいますか?(参加者挙手)あらぁ、ほとんど全員!では、中国や台湾の方はいらっしゃいますか?台湾の台北ご出身のかたがおひとり、それから中国の瀋陽のかたも・・・。
 私は言語学者ではないので、台湾の言語について学問的に言う立場ではありませんが、1992年から台湾にはまって、取材を続けております。テーマは日本統治時代、そしてポスト植民地から現代の台湾の変化、それから台湾で生まれた日本語世代の90歳前後の方々の日本語、それがどう変化したか、そんなことも含めて本を書いております。今日は台湾の北京語や台湾語などから日本語のなごりまでご紹介して、次回皆さんが台湾にいらっしゃるときに、お役に立つような話をしたいと思います。
 今は史上空前の日台交流ブームで、2018年には互いの人的交流が約680万人、友好都市は80を超えています。外交のない国、ですよ、台湾は。国交がないのに、現実にはこれだけ密な関係が醸成されています。非常に特別な関係といっていいと思います。2020年には人的交流を800万人まで拡大しようと両政府が努力をしているところです。



どんな人々がいるのか

 ご存じのように、ことばはその国の文化、歴史そのものですから、その背景を知らないと、なぜ台湾ではこれほどことばがチャンプルーしているのかわかりにくい。そこで、まず、どんな人々が暮らしているのかを見てみましょう。

 台湾はどのくらいの人口かご存じですか。(参加者:2430万。)そう、2400万を少し超えました。2430万人まで人口が増えている、その内訳をごらんください。これはことばに大変関わっているところです。まず16部族に分かれる原住民の方々。アミ族が最多、次がパイワン族ですが、パイワン族は日本の近現代史、特に近代史に登場する民族です。東南部に多く住んでいますね。でも、原住民は総人口のたった2%です。

 75%は閩南びんなん人、いわゆる台湾人と言われる方々ですね。華南地方から約400年前に入植をした中国の方々です。台湾人の本体を成す方々と考えていいと思います。この方たちは中国の南方のことば、閩南語を話します。
 閩南人から遅れること約200年、現在11%を占める客家の人たちが移民してきました。清朝時代は海外に出ることは禁止されていましたが、戦乱などがあると農民たちは海外に新天地を求めることになります。明時代の末にオランダが来て台湾を統治しました。そのときには開拓民を奨励したので、大陸から多くの人が渡ってきました。

 この閩南人と客家人は漢民族、もうひとつの中国グループが11%の外省人と呼ばれる方々で、1949年に毛沢東が中華人民共和国を立ち上げると、蒋介石が率いる中華民国の人々が軍隊とともに逃げ込んできたのです。この方々は主に兵隊さんですから、中国大陸のあらゆる地方からやってきた人たちです。共通語は普通語ですが、四川のことばを話す人もいれば、上海のことばを話す人もいるわけです。

 今増えているのがこの1%の新移民と呼ばれる人たちです。ベトナムやマレーシア、インドネシアなど東南アジアから来た労働者が台湾に定住し、ひとつのグループとしてすでにもともとの原住民の人口の半分くらいまで増えているのです。


台湾の豊かなことば

 台湾は中国語、というイメージはまず払拭してください。公用語は普通語(北京語)ですが、家庭では、閩南語、客家語、各地の中国語、原住民の言葉が使われ、50年の日本統治時代の影響も残っているので、日本語も混ざっている状況なのです。逆に、台湾は日本語が通じる、という人がいますが、それは間違い。私たちと同じに日本語が話せるのは敗戦当時国民学校の高学年だった方たち、今は若くても84歳以上。その方々は日本語を保っておられます。その子どもの世代はすでに中国語。台湾人だからと言って日本語ができるとは限らないのです。



月琴を持つ客家人


パイワン族(向かって左)とアイヌ族の交流


台湾人としてのアイデンティティー

 台湾にはこのようにいろいろなエスニシティーがそろっています。しかし、今の台湾の人々にあなたは何人ですかと尋ねると、2015年時点で、「私は台湾人です」と答えた人がすでに60%以上で、現在はもっと上がっています。「私は中国人です」と答えた人は10%を割っています。若い世代になればなるほど、この傾向は強まります。「私は台湾人でもあり、中国人でもある」という方は、だんだん減ってきています。何故かというと戦後大陸から来られた外省人はやはり、ふるさとはどこかと聞かれれば大陸だと答える。しかし外省人二世、三世になると、「自分は台湾人だ」という方が増えているからです。台湾は台湾なのですね。こういうことも頭に入れておかれるといいと思います。

 オランダも40年間くらい統治しましたが、あまり統治に本気で臨まなかった。ですからことばが残っていない。オランダが残したもので台湾の風景に溶け込んでいるのは、おそらく水牛でしょうね。台湾は寄せては返す波のように、外来政権が押し寄せては引き揚げ、また別の外来政権が来て、ということを繰り返したわけです。


日本であった時代

 注目して頂きたいのが1895年から1945年まで50年間統治した日本です。

 万華ばんかは台北市の西側、昔の台北が残っているところです。1897年に日本が統治を始めたころまだ残っていた清代の城壁を日本人はすべて壊して、1930年には近代都市となりました。西洋列強に負けない植民地経営をしようと、大変な投資と人材をつぎ込んだのです。万華には今でも当時の町並みが残っていて保存運動も盛んです。台湾の方たちは清の時代も含めて古いモノを大切にしています。新しい台北は市の東側。101ビルという高層ビルが建つ方角です。


台北市万華の町並み


 統治時代、日本はまず官営移民を主にアミ族のいる花蓮県や、台東県などへたくさん送り込みました。日本は西洋諸国とちがって、資源を収奪する植民地経営ではなく、もちろんその面もありましたが、むしろ内地を延長して新しい領土としようという政策でした。研究者の中にその見方をとるかたが多くおられます。


豊かなことばの国である理由

 台湾のことばが豊かなのは、お話ししたようにまず多民族国家であること、2番目に日本統治時代の教育がすみずみまで行き渡ったこと、3番目には1949年以降中国大陸からのことばがなだれのように入ってきたということですね。当時600万ほどの人口に対し約200万人の外省人が新しい文化を持ち込み、為政者として君臨したのですから、どれほどのカルチャーショックだったか想像できますね。役所も学校も全部ことばが変わりました。学校では日本語をしゃべったら罰の札を首からかけて立たされました。かれらは同じ中国語圏のことばとはいえ、文法も発音も違う普通語(北京語)を習わなくてはならない。日本語で育った当時30代40代のひとが、仕事場に行ったら書類はみな北京語という状況、大変なご苦労だったと思います。


「多桑」世代

 以上のように台湾では世代によって得意なことばが変わる状況があったわけです。例えば80代の夫婦がいたとします。台湾語と日本語が得意です。その息子の世代は台湾語よりも北京語が得意、その子どもの世代は北京語と英語ですね。おじいちゃんたちは子どもや孫に聞かせたくない話をするときは日本語を使う。この状況が小説や映画や川柳を生んだりしています。

 台湾に残る日本語で代表的なものが「多桑」(トウサン)です。意味は「統治時代に日本語教育を受けた台湾人で、日本に特別の愛憎の情を持っている人々」を指しますが、もともとは「父さん」の当て字、「父さん」を万葉仮名のように台湾の発音に当てはめたものですね。「多桑」がどのように象徴的な意味を持つようになったのかというと、映画「非情城市」('89年)の脚本家・呉念真が90年代はじめに「多桑」という映画を監督しました。これは彼自身のお父さんを描いた映画で、そのお父さんがまさに「日本語教育を受け、日本に愛憎の情を持っている」人だったのです。戦後の中華民国になじめない年配者の哀しみを描いたこの映画は大ヒットしました。それ以来、「多桑」はそのような人を象徴する言葉になりました。


 これは戦前帝国大学に留学していた台湾エリートたちです。日本人と区別がつきませんね。台湾の国民学校では教育勅語もみんな暗記させられました。日本兵としてお国のために戦いました、と今でも誇りに思っているお年寄り、多桑さんたちは多くおられます。その代表的な方が故蔡焜燦さいこんさんです。司馬遼太郎が「街道を行く―台湾紀行」で案内役として老台北と呼んだ、台北のことなら何でも知っているというひとです。蔡焜燦さんは「台湾と日本精神」という著書で、日本人よ、誇りを取り戻せ、台湾人は今でも日本精神を大切にしている、と日本人を鼓舞し続けた代表的「多桑」でした。

 忘れてはならないのは、1947年の228事件です。
 国民党の先遣隊(台湾接収臨時政府)による汚職や略奪に怒り反抗した台湾の人たちに対して、蒋介石は大陸からの軍隊を高雄と基隆から上陸させて一斉に弾圧を加えた。まず根こそぎエリートたちを抹殺する、それで「多桑」と呼ばれる旧帝大を出たような方たちが銃殺されたり、監獄に何十年も繋がれたりし、ほとんど壊滅状態になりました。亡くなった方は2万人、不明者を入れれば5万人とも言われます。1995年になって、李登輝さんが初めて国民党の総統として全犠牲者に謝罪をしました。以後は外省人、本省人というわだかまりを取り去って、皆台湾人として国作りをすすめようと呼びかけました。


 これは台北市立228事件記念館です。台北だけでなく全国に記念館がありますので、台湾にいらっしゃったらぜひ見ていただきたいと思っております。


日常語に混ざる日本語由来・原住民語由来・中国語由来のことば

 リストの「多桑」の下が「卡桑」(カーサン)、「欧吉桑」(オジサン)、「欧巴桑」(オバサン)。では、これは読めますか。全部日本語から来たものです。「沙卡里巴」は(サカリバ)ちょっとしたスナックとお酒が飲めるところのことです。「阿里何多」(アリガトー)、「阿達馬空固力」は(アタマコンクリー)頭の固いことを表しています。若い人はあまり使いませんが。「一級棒」は(イチバン)褒め言葉ですね。「紅豆泥」(ホントネ)相づちです。「烏龍」(ウロン)うどんですね。「阿給」(アゲ)油揚げを使った淡水の名物です。日本統治時代に定着した豆腐屋の油揚げの中に詰め物をいれて巾着にしてスープで煮てソースをかけたものです。「黒輪」(台湾語読みでオリェン)黒はオ、輪はリェンですが、台湾語ではダジズデドの発音はあまりないので、これでオデンを指します。高雄の名物です。私は初めて台湾のオデンを食べたとき感動したのです。だって、沖縄のオデンにそっくりだったから。スープの味、具材も昔沖縄の牧志の市場で食べたものといっしょだ!と思いました。
 次のQQは私の知っている唯一の原住民由来のことばです。(キューキュー)です。口触りの表現で、歯ごたえのある感じですね。
 「満面全豆花」(Moa bin choan tan hoe)は北京語の「面紅耳紅」のデフォルメです。恥ずかしくて顔が紅くなるという意味です。しかし台湾の人は顔が白くなる、しかも豆花のように白くなるというのです。
 みんなが使うことばというわけではありませんが。「桜桜美代子」(Eng eng bou tai tai)は台湾語(福建語)「没代誌」にひっかけた暇でやることがない、という意味。桜はinとも読む。暇を台湾語でinという。美代子は没代誌と発音が似ている、桜と結びつけて女性の名前にしてしまった。ひまでやることがなくてさぁ、みたいな時に飛び出してくる。専門家の本にも出てきます。音から漢字にするときに引き出しが一杯あるので、遊び心もあって、こんなことばを作ってしまう。


「湾生」の人々

 先ほど紹介した「多桑」、いわばその対局にあるのが「湾生」です。湾生とは日本統治時代に台湾で生まれ育った日本人、台湾が心のふるさとだと今でも思っている方々のことです。自身を「日系台湾人」などともおっしゃいます。帰国した後、今でも集まると台湾語を交えてなつかしい話をなさっている。終戦時台湾からの民間引き揚げ者は32万2156人です。兵隊さんは入っていません。骨を埋めるつもりの台湾で、祖父の代から仕事をなさっていたような方たちです。1945年から47年にかけて引き揚げるときの、地元紙の「民報」主幹の林茂生の有名なことばです。「日僑いまや天地回りて国に去る。天を恨まず。地に嘆かず。黙々として整整と去る・・・。日本人恐るべし」
 こうした方々は映画の素材としても取り上げられました。「湾生回家」は戦後60年経って湾生のかたがたが故郷にもどっていく映画です。ビデオにもなっていますからご覧になると、戦前どのように日本と台湾の絆が結ばれ、今もこの人々によって保たれて、現在空前の日台交流ブームになっているのか、よくお分かりになると思います。


台湾の独特性・魅力

 何度も申し上げますが、台湾は漢民族だけの国ではありません、中国語だけではないし、日本語が分かれば大丈夫でもありません。2%とはいえ、原住民の方々が特有の文化を持っている国であります。あえて、国、というのは、パスポートがあって、自国の憲法、軍隊を持っているからです。それを国家と認めない国が隣にいて他国に影響を及ぼしている。国交のある国も年々少なくなっているので、台湾は世界の孤児だという、そうした状況を含め、李登輝さんは「台湾の悲哀」と呼びましたが、最近は台湾のアイデンティティーを前面に出して世界に存在感を訴える政策を蔡英文総統もとっています。

 台湾の魅力は世界中が認めています。その中でも人々を魅了しているのが、やはり食べ物ですね。魯肉飯(ルウロウハン)豚のバラ肉のそぼろをご飯にかけたものは本当に庶民の味、ソーセージの中に餅米が入った料理など、個性的な食べ物が多いところです。春節の時に食べる生春巻きもさっぱりとしておいしい。日本人にとっては、ご飯がジャポニカ米で抵抗がないことも大きいです。日本統治時代に持ちこまれ品種改良されて、それまでのインディカ米に代わる主流の米になりました。台東県の池上は新潟県魚沼のようにブランド生産地で、そのお米は毎年天皇皇后に献上されています。


使ってみよう、台湾語

 台湾を訪れた時に、ぜひ使ってみたい台湾語をご紹介しましょう。

你好 リーホー こんにちは
好呷 ホーチャー おいしい
歹勢 パイセー すみません
感謝 カムシャー ありがとう

 混んでいる地下鉄の中にはいるときに、パイセー、パイセーが役に立ちます。台湾語を使ってみて下さい。笑顔が返ってきます。
 以上で私の話は終わりに致しますが、台湾について新しい発見がひとつでもあれば嬉しく存じます。ありがとうございました。(拍手)


(文責:事務局)