地球ことば村
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【地球ことば村・世界言語博物館】

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ことば村・言語学ゼミナール

言 語学ゼミナール(17)
▼ 言語学ゼミナール

 

● 2010年5月15日(土)12時30分-13時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス第1校舎108教室
● 座長:金子亨(千葉大学名誉教授・言語学)
● MULTILINGUALISM-3:扼殺された善意2

 ソ連(1917-1991)の初期、1930年代前半まで、その地域内部の少数民族が大きく高揚した時期があった。この時期のソ連共産党はレーニンの民 族政策を実現しようとして、 各地の少数民族のエリートをレニングラード(旧・現サンクト・ペテルブルグ)に集めて、熱心に教育しようとした。その目的はそれぞれの地域における「ソビ エト的」秩序の建設にあったが、第一課題は文盲の一掃、医療・教育を含む生活的必要事の建設であった。集められたエリート自身が文字を学ぶことが急務で あった。
 この役目を担ったのがレニングラード大学のボゴラス・タン教授(1865-1936チュクチ語研究の第一人者)だった。彼は北方委員会の決議に基づいて 1924年末にレニングラード国立大学現存言語研究所に労働学部(Labfakと愛称)を創設して、寝食を共にして地域から集まった少数民族のエリートた ちを教育した。
 このボゴラス・タンが、北方少数民族の師弟の養育に様子について、見事な報告を書いている。以下それを雑誌『北方アジア Severnaya Azia』1927年第2号から一部引用する:
 「この学部は1926年10月11日に授業を開始したが、10月の1日には各地からボロをまとった学生たちがレニングラードに着いた。ギリヤークのモグ チは一家四人でやってきた。上の子供は四歳だった。学生の知識はばらばらで、多くは全くの文盲であって、大部分の学生は猟師の掘建て小屋やツンドラのユル タから直接出てきたばかりなので、都会生活は全くダメで、ロシア語も分かるものもほとんどいなかった...
 中にはヤクートからやってきた年かさの青年のように、算数はできる代数も分かるというわけで、すぐに大学の一般の学生となじみになる者もいた。アレウト 人ハバロフは最年長で、バルチック艦隊に勤務したこともあって、日本にもいったことがあるという。最少年者はなんと六歳であった...
 チュクチ人テブリャントは孤児であった。猟師の家に生まれたが、父親は女を見つけて出奔。母と喧嘩して、アナドウル河畔に住むお祖父さんの元に走るが、 お祖父さんはシャーマン、まもなく近所の者たちによって殺害され、独りぽっちになる。利発な子供だったので、地域ソヴィエトが労働学部に推薦して、いくつ かの問題があったが、幸運にも合格。しかしロシア語がまったくできないので、レニングラードまで行くのは到底無理と判断された。再び幸運にもハバロフスク からロシア語の分かるユカギール人学生パルファンチェフ君が同行したので、痩せこけておんぼろの姿だったが、何とかレニングラードはモスクワ駅に到着し た...
 ある時、黒板に k o s h k a と書いて、彼にその意味を尋ねた。しかし分からない。そこへネコが一匹。教室にネコがいたのだ。<あれだよ。あれはチュクチ語でなんて言うの?> <あれ?リス・キツネかな?>
 それから数ヶ月後「タイガとツンドラ」と称する壁新聞が出はじめた。その文章のいくつかは原住民語で書かれていた。ツングースの一人はそれをラテン文字 で書いた。アレウトのハバロフにとっても初めての文字であった。いまだかって誰一人としてアレウト語で文章や詩を書いたアレウト人はいなかった...
 絵描きもいた。ゴリドの娘オニンカが壁新聞にアムールの岸で働く漁師を描いた...
 またいつだったか、人類史の授業をしたときのことである。教室は奇妙な雰囲気につつまれた。誰かがいった。<北方は一万年遅れているぞ。俺たちはその遅 れを一年で取り返すぞ。> その意気込みと熱気はすごいものだった。」

 Labfakの学生たちは自主的に雑誌を公刊した。『タイガとツンドラ』である。この雑誌は1928年に創刊。発行者(第一巻):全ロシア共産党中央委 員会幹部会付北方委員会レニングラード支部発行、エニキゼ記念レニングラード東方大学北方学部北方サークル刊、編集主幹:ボゴラス、副編集長:コーシキ ン、編集局員:モル、ハバロフ君他二名、発行部数:1000部であった。
 この雑誌の歴史について、次のように書かれている。
 「10月革命のおかげで、北方は完全な自由と保護権を受け取った。そしてここでは1925/26学年度にレニングラード国立大学労働学部北方科が結成さ れた。ここで北方諸民族の学生26人が学んだ。」...この年の末「コーシキンの指導のもとで東方大学北方学部に北方サークルが結成された。」 「1926/27学年度には北方サークルが現存言語研究所北方部労働学部に編入され、ジェツコエ・セロ(現プーシキン市夏宮殿)に移った。学生数は70人 であった。」...「1927/28学年度には学生数は130人に増え、ツングース・マンヂュウ班、古アジア班、フィン・ウゴル・サモディ班の三班が作ら れた。」(エヴェンキの学生ヂオードロフ)

○ 第2号1929の記事から:
 学校教育関係:「ロパール(サーミ)からは、1929年に学校が開かれ、生徒は男子10,女子29人、この地域でこれまで完全に文盲であった者は男子8 人であったこと、さらに昨今子供たちがロシア語を習いはじめたことが報告されている。オスチャークからの報告では、1924年にインテルナートが開かれ た。しかし最初は生徒集めに苦労したが、今では40人の生徒がいる。教育はロシア語でロシア語の教材を使っている。「しかしラテン式のアルファベートが導 入されてそれで原住民語が教育されるようになっても事態は変わらないだろう。」なによりも生きた教材を使って漁・猟を教えること、その中で共産主義の心を 教育することが肝心だという。またネネツ地区からは、ツンドラで学校を作るのは大変だ。しかし、やっとステップにもいくつかの学校ができた。学齢期の子供 がよい働き手であるという事情が実はむづかしいところで、生活の場から学校までの運搬手段をどうするかも問題だ。しかし「活動の成否は人々の言語知識にか かっている」ので、なによりもまず文化教育活動を強化しなければならない。」
 既に、インテルナート制度の導入がソビエト建設の軸であったことが示されている。

第3号1931:
 このころ、ボゴラスの指導による労働学部、北方学部ではすでにラテン式書記法が出来あがっていて、当然のことのように日常的に使われていた。『タイガと ツンドラ』年報3号(1931)の冒頭には「万国の労働者よ団緒せよ」が15言語でラテン文字表記されている。
 言語名を付けないままで掲げてみよう。

1.Hawamnil upkattuk dunnelduk umunupcekllu!
2.Agunas tannam usudin illagnin terin atakasehtyri!
3.Sehke madest robetnexk 1ated!
4.Zoqboi sinadu davuse jacududi!
5.Cebetsen we1denlleen gustige ingusin!
6.Koside hemu teresi be havben!
7.Kovhsall-heit kamah 1uni nunnalkavnoh sema!
8.Zoboyise1 eme derae buga dukkou amahun!
9.Tit iox mu1ovat e1ttax tysat!
10.Sovonimi xibiri mallids!
11.Embgenutekin ocin remkin numekerkin!
12.Witatsin varat uptpo nnanno gamallin!
13.Colanigevn sik kurmuh vopure!
14.Vetatkkalar vseh ksen utmellos!
15.Hellil aydutuvduk repkapti1v!

『タイガとツンドラ』1933年号 №3冊:
 この号は1933年10月に刊行予定だった。しかしついに発行されなかった。
 その後1935年には北方委員会そのものが解散させられ、ボゴラス教授は1936年に亡くなった。次いで1937〜1938年の「大粛清」が始まった。 ついで第二次世界大戦が始まる。
 そしてあの北方学部に集まった学生たち、それを卒業して地域で活動した学生たちは誰一人としてこの時代を生き延びなかった。

(金子 亨)