ことばでこころを壊してはいけない!

 近頃また日本語に関心が集まっている。いろいろなところで日本語の使い方がさまざまに論じられていて、日常の生活に役立つことも多い。そのような論議のなかにちょっと目をひく新聞記事(朝日新聞
2005.2.11)があった。「方言を話そう」という特集記事のなかで、日本の地域語についての詳しい解説に並んで「若者方言」についてわずかながら言及されていた。最近「ださい」「うざい」「きもい」などという言葉が全国的に若者の間に流行ってきているというのである。
 たしかに、小さな子たちがすれ違いざまに、ウゼェ−、ダッセェ−と聞こえよがしに歪めた口で呟いて通り過ぎる姿がよく見受けられる。言われる側の人は青年からお年寄りまで、「失礼ね、この子」と反発できれば健全な方である。おとなしい人だと言葉がこころに突き刺さったままになり、その子を憎むようになりかねない。電車のなかでも、白い厚手のソックスを履いた女子中学生たちが前の席に座っているお年寄りをちらっと見て、キモ−ィ、アリエナァ−イと甲高い声で罵る。いわれた当人は幸いにして気づかないか、そもそも何をいわれているのか分からないこともある。しかしそれも繰り返されると自分のことだと気が付いて、もう決してその時間帯の電車には乗らないようになる。大学でさえ似たようなことが起こる。天真爛漫な一群の新入女子学生たちが向こうの席に格別人目を引くでもない真面目そうな学生を見つける。「あいつジョ−に似てない?ダッセェ−」と叫ぶ。女の子達は図に乗ってことごとにその学生を囃し立て揶揄しつづけた。「あいつ今日もいた。ウゼェ−」。その学生は大学へ行くのがすっかり嫌になり、遂にこころを病んで本式のひきこもりになってしまった。
 最近流行のこれらの言葉はこのように聞こえよがしに人を揶揄する目的で使われているらしい。この言葉を使う口調も独特で、嫌らしげに吐き捨てるように言いなすので、悪口に気づいた人はそれだけでも傷く。しかも振り返ると悪態をついた相手はもうそっぽを見ているので、詰問したところで、「あんたのことじゃネェよ」が嘯くのがオチである。余計に腹立たしい。このような揶揄や悪態も、小集団によって繰り返し行われると、正真正銘のいじめになる。いじめの体験はこころに澱のように残る。子供の頃のいじめを根に持って何年も経って復讐をした青年もいるのだから、ことばがこころに刻む傷は深い。北海道で「ゾク、ウゼェ−」という言葉があると聞いたことがある。「ゾク」とは暴走族のことではなく、民族の「ゾク」でアイヌ民族に対する差別発言だという話だった。もはや社会的な犯罪である。ウゼェ−と聞こえただけで縮こまってしまう子がいるに違いない。差別を胸に溜め込んでこころを歪める子がいるに違いない。知里真志保先生が東京の街角に立つ「アイス」という看板がことごとく「アイヌ」に見えて耐えられなかったと書いておられる。こころの痛みが凝り固まって幻覚の状態に到ったのであろう。ロンドン時代の漱石も下宿のおばさんが絶えず黄色い猿の悪口ばかりを言っているという幻覚に悩まされたという。
 ウゼェ−、ダッセェ−などは人の有様を悪し様に言いなすことばであるから、いわゆる評価語の一種である。しかしそれはデブとかハゲとかという悪態よりももっと質が悪い。外見の一特徴を捉えて人格を否定する類の評価であるから、陰湿で主観的で自己中心的な悪態である。この言葉はひとのこころに棘を立てる。繰り返されると、こころは膿をもつ。こころが病む。こころが壊れることもある。人を殺すに包丁は要らぬ。言葉ひとつで沢山だと言った人がいた。「あんたみたいな嫌な子は生まれてこなければよかったのよ」と言われて、少女が命を絶つこともあるのだ。「うざい」「ださい」などの流行語を若者言葉だとか若者方言だとかと名付けるのは、それはそれでよいだろう。しかしこれらの言葉がもっぱら人をなじり傷つけるために使われて、ひとのこころに傷を負わせている事実にこそ目を向けたい。ことばはこころを慈しむために使われるはずのもので、ことばでこころを壊すようなことは決してあってはいけない。