敬語と待遇表現 湖南農業大学講演2005.11

湖南農業大学での講演は、中国人の学生が主な参加者だったので、解説を付けるなどの特別な配慮をしました。その後、この問題についてサイト「地球ことば村・世界言語博物館」の「ことばの世界」欄に書く機会を得ましたので、この講演の内容を二つのエッセーに分けて載せました。以下では、それをオリジナルの湖南農大の講演の改訂版をして
載せます。

(1) 敬語と待遇表現

敬語のない不便
 かねてからことばの天才として敬愛していた親友とゆったりとお喋りをしていた昼下がりのことでした。彼が突然こんなことを言い出しました。

「君たち日本人は気楽だよ。敬語ってものがあるのだから。僕等の苦労は分からないだろうな。」と言うのです。「どうして?敬語なんか唯の厄介者なんじゃないの。」と答えると、「まぁ、考えてみてくれよ。例えば、」と言ってこんな例をあげました。「「お手紙ありがとう」と書こうとすると、ドイツ語ではどうしてもIch danke Ihnen..(私は感謝するあなたに).となってしまう。1人称が先で2人称が後。これは面白くない。第一失礼だろう。それで2人称を先に書くいい方を探すと、Haben Sie meinen herzlichen Dank.(あなたは私の心からの感謝を持ちなさい).となる。しかしこれは命令文だ。「ありがとう」というのに命令文はないだろう。そこで語順を変えてSie haben..(お持ちを).と直す。それでは唯の平叙文なる。それに「どうぞ」という意味の単語を加えてSie haben bitte meinen herzlichen Dank...とする。これで二人称が先、命令でない平叙文、「どうぞ」もちゃんと入っている。これで何とかなる。どうだい、敬語をもたないことばで丁寧な言い方を作るってのはそれなりに結構苦労が要るだろう」と言うのです。ことばでこころを伝えようとまじめに考えている人たち、ことばのよい使い手たちはそれぞれ一生懸命に考えて一番よくこころを伝える方法を苦労し考え出している。このことに改めて気づかせられたものでした。

 一方、敬語をもっているわれわれは、それが在ることが空気のように当たり前に感じるばかりで、それにすっかり安住して、敬語がどうしてあるのかということについて思いを巡らすことさえ滅多にありません。敬語のない不便について考えたことなどは到底ない、敬語抜きで日本語をどう使ったらいいかなど想像できないありさまです。日常の人間関係を敬語なしで円滑に進めようとする、唇寒しということになりかねません。それほどに敬語は日本語の不可欠の要素になっています。しかしちょっと開き直ってみて、日本語って敬語があっていいですね!と本当に言えるのでしょうか、それともわれわれはともすると敬語に寄りかかって、自分なりの表現を使ってそのときどきの対人関係をつくるという心を忘れがちなのではないでしょうか。もしそうならば、あたら敬語があるせいで、日頃こころをことばにする仕事を怠っているのかもしれません。もしそうなら、ことばによって人間関係を構築するうえで、敬語は日本語を使う人々のこころの働き阻害しているのかもしれません。ひとつ改めて敬語ってそもそも何だろうかと反省してみましょう。

敬語とは
 敬語は、日本語を学ぶうえで難しいけれど不可欠な要素であると言われています。確かに、現代の日本語について近代的な研究が始められた1920年代以来多くの人が「敬語」について語り、さまざまな研究が行われてきました。敬語が日本語にとって不可欠の要素だということに異議をとなえた人はひとりもいません。しかしやっと最近になって「敬語」という文法形式をはじめから見直して、人と人とのコミュニケーションを円滑にする「丁寧さ」の表現という見方から、新しい表現の仕方を考え直してみようというアプローチがすすめられるようになって(特に滝浦真人『日本人の敬語論』2005など)、この問題を整理して改めて考え直す条件が整ってきています。

 いずれにせよここでひとつ敬語を日常の日本語の使い方とか、小学校の教科「国語」や外国人のための日本語教育でどう教えるかという実用的な論議から少し離れて、ちょっと哲学的に、「敬語」というものが、少なくともその一部は、日本語にとってもともと邪魔者ではないのか、「敬語」という考え方自身がまちがっているのではないか、それを日本語の文法の一つのサブシステムと考えて教えることもおかしいのではないかと反省してみましょう。ひょっとすると、日本語教育の中から「敬語」という項目を捨ててしまえということにさえなりかねませんが、一度は考えみてもよいことだと思います。

「敬語」と待遇表現
『言語学大辞典』(三省堂)第2巻世界言語編(中)に「日本語」という項目があります。この項目はたくさんの人たちが分担して書いたのですが、このなかの一人、杉戸清樹さんが敬語に関わる小項目を書いています。杉戸さんはそこで「待遇表現」というタームを使って、それを次のように定義しています(第2巻1741頁から引用):

1.「話し手,聞き手という言語行動の主体が,その言語行動にまつわる人物同士のいろいろ人間関係、言語行動の行われる場所柄や状況,そこで話題になることがらなどを配慮して,言語形式,言語表現,言語行動の諸側面にわたる表現形式群から,その配慮にもっとも適当な表現形式をえらぶ表現行為、および,それによってえらばれる表現形式をいう.」

そのような待遇表現の例として彼は<分かった.すぐ行く>という意味を表すのに例えば次のような種類の表現があると言っています(同上):

2a.「ん.分かった.いま行くよ.」(男性社員が、同じ年配の年下、後輩、部下の男性社員に向かって)
2b.「はい.分かりました.すぐ行きます.」(男性管理職が部下の女性社員に、やや丁寧に)
2c.「承知しました.ただいま参ります.」(上司から呼ばれて部下が)
2d.「はっ.かしこまりました.ただちに参上いたします.」(社外の顧客からクレームをつけられて)
こうした待遇表現に用いられる言語形式を杉戸さんは次のように分類しています(括弧内のお例は金子による):

3a. 狭義の敬語
 (i) 尊敬表現(「お召し上がりあそばせられますか?」)
 
(ii) 謙譲表現(「参ります.必ず出席いたします.」)
 (iii) 丁寧表現(「東京です.やっと着きました.」)
 (iv) 美化表現(「こちらのお菓子,おいしい?」)
3b. 狭義の敬語に隣接する位置にある表現形式群(「張さん,ねぇ,ちょっといらっしゃいよ」)
3c. 言語事象の諸側面に指摘できる待遇表現(「周先生,どうぞ,お座りください」)
3d. 言語行動に付随,隣接する事象の中の待遇表現行動(表情、マナーなど)

 こうしてみると、「敬語」と待遇表現との関係について杉戸さんがどう考えているかがよく分かります。ここで言う待遇表現とは、つまり、あるコミュニケーションの状況で話し手がコミュニケーションに関わる人々を大切に思って、これこそこの場に相応しいとして選び出した表現形式の群だと考えていいようです。一方、「敬語」と言われてきたものは、杉戸さんの分類では、上の3a「狭義の敬語」に当たります。それは3(i)-(iv)に四分類されます。ところが、この分類に杉戸さんの例2の文を当ててみようとすると、戸惑います。2cと2dの例は謙譲表現なのでしょう。その類の対話では、「上司・部下」とか「怒っている顧客」などというマイナスの人間関係が背景にありますから、謙譲表現に見えます。これからみると、謙譲語の背景には、決して友好的ではない社会的な上下関係間が支配していること、少なくとも、そのようなコミュニケーションの状況で優勢な発話環境があるのではないでしょうか。

 では尊敬語の類ではどうでしょうか。杉戸さんの例2にはこの例が見あたりません。それで尊敬語の例3a(i)の例を見ますと、この例は、悪意の作例のようで、聞き苦しい媚びの表現にさえ聞こえます。尊敬語は、実際に不平等な人間関係を基礎にして作られたという歴史的背景をうかがわせます。それと同時に尊敬語を発達させたのが爛熟期の江戸文化で、そこには固定した身分関係とそれへの揶揄、さらに幇間的な自己卑下という文化的基盤が存在したことが想像されます。尊敬語を使うコミュニケーションの環境には身分制度、それへの順応としての揶揄と卑下とが基礎になっている、その残滓がこの言語形式ではないでしょうか。このように見ると、尊敬語や謙譲語という表現形式はまっとうなコミュニケーションにとってただの夾雑物にすぎない、多くの場合に真心から出た敬意や慎みではなく、ためにする意地の悪い根性が利用する言語形式に過ぎないように思われます。百歩譲って言っても、社会的上下関係を形式化した言語的手段のように見えます。

必須の敬語
 しかしごく普通の日常生活のなかで使わないではいられないような敬語表現があります。

a.「えぇ、喜んで、いただきます」
  b.「もちろん、どうぞ、さしあげます」
  c.「もうちょっとめしあがります?(食べる)」
  d.「おられます?」「えぇ ちょうど(いますよ)」
 e.「明日も おいでになる(来る)?」

a, b.「やりもらい動詞」の「いただきます(もらう)、さしあげます(あげる)」には代替表現が多分無いでしょう。「いただきます」はもともと、膝を屈して両手を差し出す拝領の姿を、一方「さしあげます」は同じ姿で献上の行為を表します。しかし今では平等な人間関係の中でやさしいやりもらいの表現です。上でも括弧に入れて示しましたが、代替表現と言われている「もらう、あげる」はそっくりそのまま取り替えて使うと、下卑て乱暴なやりもらいになってしまいます。実際上この数世紀でこれだけ使い方が代わってきたので、代替表現ではなくなってしまいました。この意味で「いただきます、さしあげます」はもはや謙譲語ではありません。あえて言えば、丁寧表現に言語変化を遂げたのです。
 4c,d.も今では丁寧な日常表現です。身分の上下は感じられません。むしろ相手の社会的なステータスが話し手と平等であることを積極的に表しています。これを括弧内の代替表現に変えるとむしろ近親度を変化させて、丁寧表現から近親表現へ移ります。「めしあがる、おられる」は丁寧表現であって、仲間内の表現ではないということになります。これも数世紀にわたる言語変化の結果です。
 最後の4e.の「おいでになる」は「来る、行く、再び居る」の全てをカバーする便利なことばです。「出る」の尊敬語が言語変化して、より一般的な意味を持った丁寧語動詞が一つ誕生したと判断するのが言語史的に正しいと思います。

 こうして、今日ごく当たり前に見える待遇表現が実はもうとうの昔に尊敬語や謙譲語ではなくなってしまっていたと考えるのが事実に沿った見方だと思います。尊敬語・謙譲語が丁寧語へと変化した。しかし一方では、杉戸さんが書いているように、社会的身分関係が意識される状況では、現実に古い型の謙譲語がいまだ幅を効かせています。謙譲語を要求する社会的状況が実際に存在します。しかし謙譲語も尊敬語も社会的な適応が不十分だと3の例文のように揶揄的に響く。敬語という伝来の言語手段は、こうした歴史的変遷のなか機能が二重・三重に分化して使われていることが分かります。

優しい丁寧な対話を求めて
 「敬語」がコミュニケーションを円滑にする表現形式だとうのは額面通りには受け取れません。とりわけ「狭義の敬語」の中の謙譲語は、決して控えめで美しいこころを表すのではなく、場合によっては卑屈で幇間的なこころをマゾヒスティックに表わします(下の「させていただきます」を参照ください。尊敬語にしても、へつらいとおもねりの表現を作るのに大いに役立ちます。この種の言語表現は案外要らないのではないでしょうか。本語の待遇表現は謙譲語と尊敬語がなくても十分かもしれません。むしろそんなものがない方が丁寧で優しいコミュニケーションを作り上げることができるのではないでしょうか。
(2)「させていただきます」

日本語は卑しいことばでしょうか?

 日本語にも嫌なことばがけっこうあります。若い人たちが最近よく口にする「うぜぇー」や「きもーぃ」などもその例で、言われた人の存在自身が言う人の嫌悪の対象であると表現しているのですから、はなはだしい侮辱です。この結果がただではすまないことが最近のモラルハラスメントに関する論義でも言われ始めました。
 普段よく使われている表現のなかにもこれは何かおかしいと思うものがあります。「させていただきます」というのもそのような言い方の一つではないでしょうか。

例えば次のような表現があったとしましょう。
(1)「新しい商品をご紹介させていたたきたく存じますが。」

この文を言った人は商社マンでしょう。相手はお客さんです。言いたいことは「私があなたに商品を紹介したい」と言っているだけなのですが、それを大変まわりくどく表しています。なぜこんなにまわりくどい言い方をするのかを解剖するために、この文の仕組みを少しずつ解いていってみましょう

まず「紹介させていただく」について

この「紹介する」と言う事柄は、誰かが誰かに何かを紹介するという事柄(コト1と呼びましょう)のですから、この三つの要素(「項」といいます仕手・相手・対象)がつきまといます。文(1)の項の実際はそれぞれが商社マン・お客・商品です。

 次に使役の「させ」がついた「紹介させ」という第二のコト(コト2)では、事態は複雑になります。誰が誰に紹介させるのでしょうか。させる人は売り手ではなく客の方です。実際にはさせていないのですが、商社マンが仕掛けたフィクションとして、客が売り手に商品を紹介させると主張されています。「紹介する」の仕手は売り手ですが、「紹介させる」では「させる」の仕手は代わって、客になります。

 これに「いただく」のついた「紹介させていただく」では、「紹介させる」(コト2)という行為を「いただく」のは誰でしょうか。この仕手はもとにもどって売り手になります。売り手が客の「紹介させる」行為をありがたく「いただく」わけです。それを見易くするために、仕手・相手とその実際の職業を一覧表にしてみましょう。

(2)項の関係

事態

    表現

    項

 仕手の人物

相手の人物

コト1

紹介する

仕手が相手に対象を

仕手=売り手

相手=買い手

こと2

紹介させる

相手が仕手に対象を

仕手=買い手

相手=売り手

こと3

紹介させていただく

仕手が相手から対象を

仕手=売り手

相手=買い手

このように「紹介させる」のところで主客が一度逆転しています。売り手は買い手に紹介させられるとなっています。

 ここでコト1・コト2・コト3はコト1がコト2に入れ子型になってコト3を構成していることが分かります。これを図にすると次のようです。

(3)コトの入れ子構造                                                                                                                                            コト3:売り手がコト2をいただく
                     ↑
            コト2:買い手が売り子にコト1をさせる
                     ↑            

            コト1:売り手が買い手に対象を紹介する

入れ子の全体を並べると:

[売り手が買い手に対象を紹介する]こと(コト1)を買い手が売り手にさせること(コト2)を売り手が買い手からいただく(コト3)

になります。

 結局「紹介させていただく」というのは「売り手が買い手にものを紹介する」という元の単純な主体的行為を、買い手から売り手への使役行為にすりかえて、その行為を売り手がおし頂くという受動的行為に仕立てあげます。この言い方は、仕手の意志的行為を相手の意志的行為にすり替えてみせることに特徴があります。そのために「紹介する」という行為の責任の主体も逆転して、相手側に転化されます。つまり、客は、問われもしないのに、売り手に商売をしむける羽目になります。それに「いただく」を付け加えると、本来フィクションである客からの命令をおしいただくということなります。こうして上のコト3の表現のような慇懃無礼な言い回しができあがります。

「いただきたく存じます」について

(2)のコト3で商社マンは自分の売り込み行為を客からの指示(使役)と言いくるめて、それを押しいただくという表現上のトリックを作り上げました。今度は、それに「存じます」をつけます。この語は「思います」の謙譲語で、聞き手を上位に話し手を下位に置くというへりくだりの表現です。その前の「いただく」も「もらう」の謙譲表現ですから、買い手は二重にへりくだっています。

「存じますが」について

「存じますが」の「が」は接続助詞でしょう。その後に何かことばが付け加わるはずのところを省略してあります。多分「よろしいでしょうか」などの表現が言外にあるのでしょう。主文の省略です。主文の内容は聞き手の許可を求めているのですが、それが発言されない。これは一種の宴曲叙法ですが、肝心なことは言わぬが華、それが美徳だとでも思っているのでしょうか。むしろ失礼の極みなのではないでしょうか。

 これをまとめますと上の表現(1)には次のような特徴があります:

(3)a. 「させ」で仕手の主体的行為を相手から仕向けられた行為に摺り替え、行為の責任を相手に    転化する、
      b. 「いただく」で相手の使役行為をありがたく頂戴する
      c. 「いただきたく存ずる」で二重にへりくだる、
      d. 「ますが」で本来の依頼の表現を省略した婉曲話法を使う。

 売り手は自分の意図した行為を客から仕向けられた行為に摺り替えて、行為の責任を相手に転化して、その偽装行為をおしいただくと称して何度もへりくだる。しかも本来のお願いをことばに出さないまま文を尻切れにする。結果としては商品を紹介するという自分の本来の意図を相手のせいにして、厚顔に仕遂げるのですから、「紹介させていただきたく存じます」という表現は一見丁寧に見えて、実は非常に慇懃無礼であると言わざるを得ません。

 江戸時代、花柳界を中心として幇間(たいこもち)という職業が流行しました。その物言いは、客からされるがままに振る舞い、自分の意図を客の意図にすり替えて、あくまでも客におもねり、卑屈に奉仕するかのように振る舞う。実はその後で背を向けて舌を出すのもその習い性です。卑屈と不実が人の形をとったようなものです。この文化と伝統はいまでも脈々と受け継がれているのではないでしょうか。その一つの表れが「させていただく」ではないかと思います。こう考えると「させていただく」は日本文化に深く根ざした幇間文化の現れであり、日本語の卑しい表現の一つであるといえないでしょうか。

 表題で「日本語は卑しいか」という問いをたててみました。「させていただく」などの表現を見る限り、答えは然りです。それは卑しい文化を背負って卑しい表現をたくさん持っています。日本語は卑しくて嫌みな言語なのかもしれません。

 しかし言語が卑しいなどということがあるのでしょうか。それは無いと思います。では何が卑しいのでしょうか。卑しい表現、よこしまな言い方というものが実際に在るのは、上で見たとおりです。ではそれはどうして卑しかったり邪だったりするのでしょうか。これもまた上に見たとおりです。自分の行為を相手のせいにして、相手に責任を転嫁したり、へりくだったり、言うべきことを言わなかったりという行為、それを作る出すこころがことばに表されています。このこころとそ表現とはおそらく伝統的な幇間文化に根ざしているのではないでしょうか。この日本の伝統文化の一部が私たちの心に巣くっているから、このようなことばが出てしまうのでしょう。
 もちろん誰でも心のどこかに卑しい邪な部分をもっています。大切なのはそれを見つけて卑しい邪だと判断する感性です。その判断によって卑しい邪な心の部分を抑圧したり修正したりすることができるからです。この判断力が例えば「させていただきます」という物言いを日本の伝統文化の幇間的な部分と判断すれば、日本語の卑しさがひとつ消滅するはずです。しかしこれも日本語で生きてきた習い性から出た贔屓目のせいかもしれません。非日本語話者として日本語を突きなはしてみれば、日本語は全体としても卑しいことばにみえるかもしれません。
 さらにもうひとつ注目したいことがあります。ここで問題にした文では謙譲語が二重に使われていました。慇懃無礼な責任転嫁を意図した言い方ですから余計に謙譲語を使ったのかもしれません。しかし一般に謙譲を余計に使うとそれだけで卑屈な表現になります。これに尊敬表現を余計に混ぜると、とても聞き苦しい言い方になることは日頃あちこちで経験するところです。日本語の長所と誉めあげられている敬語というもの、とりわけその中の謙譲語と尊敬語や、それに類する表現には、それを生んだ日本の伝統文化の中の否定的部分と深く関わっているかもしれません。だからと言って、謙譲語と尊敬語を止めよう、敬語はせいぜい丁寧語にとどめようでという運動は時期尚早かもしれません。しかしこれらの表現の背景に社会と文化の否定的側面が横たわっていると判断されたら、少なくともその部分からその言語的な反映を切り捨てることを考えなければならないでしょう

HPトップへ