遙かなるアルカディア

         クラウス・バウムゲルトナとヨーロッパの生成文法研究

「言語学を独語学の内部に一つの研究分野としてまともに構築しようという企み、60年代始めにはまだ論議の俎上に上っていなかったのだが、それはまさに君の献身と配慮と熱意によって君の命と身体の一部を犠牲にしてはじめて成功したものだった。君独特の真面目と洒脱が芸術的に混合した人柄が友達と同僚と学生とをその企図に引きつけた結果であった。」これはマンフレット・ビアヴィッシュが昨年1022日クラウス・バウムゲルトナーの墓前で読んだ弔辞の一部である。二人はかつてライプツィヒ大学の同級生であった。1953年のベルリン暴動以来、政治的自由は厳しく制限され、すでに学問研究の自由を期待できる状況にはなかった。1954のある日彼らは「言語学なら思想統制からなんとか逃れられそうだ。しかも普遍量にアプローチする科学発展の可能性もありそうだという二つの理由でこの研究分野を選ぼうと約束して」(同上)、共にベルリンに出てドイツ民主共和国科学アカデミーで働くことにした。クラウスはブレヒト・アルヒーフの仕事に、マンフレットは言語理論グループの仕事にそれぞれ勤しんだ。しかし1961年ベルリンに壁が作られる直前の夏の或る夜、クラウスはフィアンセを伴って西ベルリンへ越境した。
 西ドイツで言語学(リングイスティーク)という名を冠した講座ができたのは、その後数年を経た1967年のことであった。それはちょうど国語学とか博言学ではなくて言語学という講座を新設したような画期的な学問体系の変革であった。当時旧勢力の国語学からの風当たりはひどかった。1969年春のある日、ドイツ語研究所の会議で旧勢力の領袖であったレオ・ヴァイスゲルバーが「君たちは口を開けば、科学的言語研究などと言う。大切なのは民族のことばだ」と叫びながら、われわれ「シュツットガルト学派」を睨んだ目つきは未だ鮮明に記憶に残っている。
 バウムゲルトナーを中心とする西ヨーロッパの若い研究者達は一九六七年の秋に初めて一堂に会して「言語学コロキウム」という共通の広場を作った。バウムゲルトナーの他にディータ・ヴンダリッヒやクリスチアン・ローラなど生成文法の第一世代が勢揃いして、三日続きの研究会で記念すべき論文が多く読まれた。この会は今も続いていて、昨年で36回を数える。またその参加者達も既に孫弟子の世代になる。この新しい言語理論を機軸にした清新な研究集団は、古くからある「ヨ−ロッパ言語学会」と並んで、始めから全ヨ−ロッパ的で、参加者も国境を越えていた。ハンガリ−やポ−ランドの研究者も相当の無理をしてまで参加していたものである。
 東ドイツの研究者達は完全に孤立していた。しかし東ベルリン科学アカデミ−の言語学研究所には1961年に「構造文法研究班」という研究集団が作られ、研究叢書「ステュディア・グラマティカ」を刊行し始めた。このグル−プは多いときで8人の若い研究者から成っていて、その指導者がビアヴィッシュであった。叢書は第一巻からヨ−ロッパの全域の新言語学研究をリ−ドしていた。第二巻はビアヴィッシュ自身のドイツ語動詞下位区分論であって、今日でもその基本的意義を失わない。この叢書もドイツ民主共和国が消滅した後も未だに刊行され続けている。それはドイツで出版される文法理論研究叢書の中では最も重要なものであることの証拠であろう。
 1060年代末から年代1960半ばにかけてドイツ東西の学術交流は冬の時代であった。西の言語学コロキウムに拠る若い研究者達と東のアカデミ−の研究者達は共にペ−パ−の交換を熱望していながら、直接にはその望みを果たせない政治状況が続いた。ある時私は日本の公用旅券を盾に「甲虫」のトランク一杯に西のペ−パ−を詰め込んで、シュトットガルトを出発して東ベルリンのアカデミ−を訪れたことがあった。ライプツィヒの辺りで交通取締まりに引っかかった時には心臓も止まる思いであったが、何とか東の仲間にペ−パ−を手渡して、帰りにまた山のようなペ−パ−を積んで帰ってきた。それをシュトットガルト大学でコピ−して西の仲間に配ったものであった。
 この頃、西の仲間達は生成文法の教科書を作ろうと計画した。標準理論を土台に生成意味論に少し触れた程度の易しい本にして、大学の初級ゼミで使おうと考えたのである。あちこちの町で何度も会合を重ねて1970年には何とかフエバ−社が出版を引き受けてくれた。更にフランス語版と日本語版とを計画したが、フランス語版は出版を引き受ける出版社がないままに、ソルボンヌでコピ−のまま使われた。日本語版は白水社が出してくれた。時あたかも生成意味論の最盛期であったから、原田信一さんが「あんたが標準理論の教科書を出すとはね」と笑っていたが、これは正当な批評であった。1970年代後半の研究動向の変化、つまり「生成的企図」の分裂が既に世界的に始まっていたからである。西ドイツの研究者も大きく二つに割れた。一方は、形式意味論への傾斜を強め、他方は語用論へ傾いてそれぞれに独自の道を歩み始めた。シュトットガルトが前者の、ヴンダリッヒ達は後者のセンタ−になっていったのである。
 一方で東のアカデミ−の仲間は安定して「生成意味論敗北」後も世界的な研究動向に直接に関与しつづけた。この頃になると、まだ解放されていなかった東欧の言語研究者達が東ベルリンを一つの研究センタ−として認識するようになっていた。その結果アカデミ−も研究の視野と分野を拡げたのであった。研究の安定は、この研究集団が文法記述に徹してきただけではなく、ビアヴィッシュがチョムスキ−と親しく、アメリカにも時に出張できたことと深い関係がある。一九七九年春ピサの「統率・束縛」研究会に彼だけが東から出席したこともその現れであった。             
 1970年代末には西の言語研究は四分五裂さまざまな傾向に分かれてしまった。私のように一時は対照研究とか動詞価理論とかいう言語学の「誤れる道」に迷い込んでしまった者も少なくない。さらにバウムゲルトナ−もこの頃心臓の病に苦しみ、研究の第一線を退き、シュトットガルト大学のポストも後進に譲った。西ヨ−ロッパにおける言語研究の中心も全体として次世代の研究者に委ねられて、イタリアやオランダに新しい研究のセンタ−ができていった。
 その後十年を経て、ライプツィヒ大学前のデモに始まった無血革命によってドイツ民主共和国と称する国家が倒壊した。それに伴って東の科学アカデミ−も改組され、多くの仲間もあちこちに転属し、ビアヴィッシュ自身はフンボルト大学の言語学科を指導することになる。そして再びその十年後、世紀の変わった今、彼も古い仲間と研究会を続けながら、「フ−ガの技法」を聞きつつゆっくりと本を書ける状態にいる。こうした時にバウムゲルトナ−が「柔らかな安らぎ」へ旅立った。一つの時代の終わりを告げたのである。彼らがライプツィヒで見た夢は、1960/1970年代に若い言語学をヨ−ロッパに根付かせたし、三世代にわたって広く言語研究の裾野を作り上げるに大きく役立った。それは「人生に意義があるというすばらしく且つばかばかしい考え」(同上)を共有し理解し合う人々が真面目に洒脱に仕上げたひとつの仕事であった。 

「遙かなるアルカディア」『言語』2004-4所収