地球ことば村
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【地球ことば村・世界言語博物館】

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インターネット(仮想空間)に漂うことば

「今朝未明、車内で集団自殺をしたと見られる男女7人の遺体が発見されました」
「12歳の少女が、教室内で同級生の女の子を刃物で殺害するという事件が起きました」

この2つのニュースを知った時に感じたなんとも不気味な、言い表しようのない戦慄を覚えたのは私だけではないはずです。これらの衝撃的 な事件は、一見なんの関連性もない、不連続な2つの事象のように感じられます。しかし、後の詳細なニュースで、これら2つの事件の隠れた関連性が表層化し ました。

「この男女7人は、インターネットの自殺サイトで知り合った見ず知らずの者同士であった」
「加害者の少女は殺害された女子生徒のインターネット上での中傷発言に対し逆上し、犯行に至った」

ここで気づかれた方も多いと思いますが、この2つの事件を結びつけるキーワードはインターネット、そしてその“仮想空間(インターネッ ト空間)に漂うことば”です。つまり、この2つの事件は、インターネットという現代社会において不可欠な、新しいコミュニケーション媒体が引き起こした事 件、ということができるでしょう。もし、被害者の少女がインターネット上ではなく、現実世界で同じ中傷発言を加害者の少女にしたと仮定したら、又同じよう に、集団自殺をした男女7人が現実世界でなんらかの形で知り合い、そして集団自殺を計画したと仮定したら、果たしてこの2つの事件は、同じ悲劇的な結末を 迎えたでしょうか?この2つのニュースの後には、多くの“なぜ・・”という漠然とした疑問が残ったのではないかと思われます。ここでは、地球ことば村世界 言語博物館の場を借り、インターネットが創り出す仮想空間と、その空間に漂う“ことば”に焦点を当て、現代社会に潜むインターネットの弊害について考えて みましょう。

 

インターネットと脱個人化現象
現在インターネット上で行われる全ての行為や活動は、基本的にはわれわれ人間社会の利便性とコミュニケーションの簡易化を 追求し創り出されたものです。検索エンジンを使った情報収集や、インターネットショッピングなど、インターネットには様々なメリットがあることに疑いの余 地はありません。しかし、インターネット上で行われるコミュニケーションは、果たして現実社会で行われる、いわゆる“生”のコミュニケーションと同質であ るといえるでしょうか?
インターネット上で行われるコミュニケーションの代表的なものとして、Eメールやチャット、個人サイトや一般サイト掲示板への書き込みといったものなどが 挙げられます。しかし、友人や家族間でのEメールやチャットを除けば、インターネット上で行われるあらゆるコミュニケーションには、概して高い匿名性を保 持することが可能である、という特徴があります。即ち、チャットや書き込みなどで、見えない相手と行うコミュニケーションにおいて、個人は個人である必要 性は全くない、といいかえることができるでしょう。例を挙げると、私達がインターネット上でチャットなどを行う際、自分の正確な情報(年齢、性別、学歴、 趣味、外見等)を不特定多数の他人に与える必要はなく、そういった情報を公開する者は極めて稀なのです。そういった匿名性という盾に守られた個人は、イン ターネットの仮想空間世界において極めて粗野化、狂暴化するといった傾向が見られます。普段は静かな人、大人しい性格の人、と評される人間でさえ、ネット 上の書き込み欄やチャットでは粗暴な発言を繰り返す、といったような例は多数あるようです。では一体、何が個人をインターネット上で粗野化、狂暴化させ、 中傷的な発言をさせるに至るのでしょうか?

ある社会心理学の実験に次のようなものがあります。実験者は数人の学生を集め、学生達を二つのグループに分割します。グループ1の学生 達には、白いマスクと全身を覆うローブのようなものを着用させます。グループ2の学生達は、特になにも要求されることはなく、自分達の普段着を着用してい ます。そして実験者は、ある内戦中に撮影された民族虐殺のビデオを二つのグループに対し上映します。ビデオ上映後、各グループの学生達は、ビデオに対して の感想、特に虐殺についての意見をアンケート用紙に記入します。
この実験の結果、グループ1(学生全員が同じマスクとローブを着用)の学生達はグループ2の学生達に比べて、虐殺をやや肯定的にとらえている、といった傾 向が分かりました。一体なぜでしょうか?グループ1の学生達が民族虐殺という残虐な行為を肯定的にとらえてしまった背景には、“脱個人化”と呼ばれる現象 があります。グループ1の学生達は、全員が全く同じマスクとローブを着用することにより、いわゆる個人や個性、あるいは個人の責任といったものが希薄に なっているグループである、と解釈することができます。こういった個人や個性が希薄化する、あるいは失われるプロセスを“脱個人化”と呼び、脱個人化され た人間の特徴として、自己責任の放棄や残虐化、狂暴化といったものが挙げられます。こういった脱個人化現象は、戦時中に見られる非人道性や、集団で行う殺 人等に見られます。また、学校での陰湿なイジメもこれにあてはまるのかもしれません。つまり、個人や個性が失われる、あるいは匿名性などによりそういった ものがなんらかの形で守られると、脱個人化現象が起こると考えられています。前文で触れたインターネット上での個人の粗暴化や狂暴化には、この脱個人現象 が関わっているのではないでしょうか。前述した通り、仮想空間上では、個人を特定することは極めて困難とされ、高い匿名性が確保されています。その匿名性 により、個人はネット上で自己を捨て、別のアイデンティティーを確立し、中傷的な発言を繰り返す、といったようなことも想像に容易であると思われます。

インターネット上に漂う“ことば”には、一部目をつむりたくなるような残虐的、中傷的なものが多数あります。しかし、これらの仮想空間 を漂う“ことば”は、前述した脱個人化現象により、別のアイデンティティーを装っているいわゆる非現実的な個人の非現実的な発言である、と考えることがで きます。しかし、こういった仮想空間に漂うことばをごく現実的なものとして受け止める人間がいたとしても、なんら不思議はありません。まして、精神的な面 で発達途上である中学生や高校生が、ネット上の自分に対する中傷発言を過度に敏感に受け止めてしまい、極端な行動に走ってしまうということも十分にありう ることでしょう。また、いわゆる“自殺サイト”と呼ばれるサイトにおける自殺教唆や集団自殺への呼びかけなどは、現実世界ではタブーとされ意識されない潜 在的な“死”という観念を、極めて明示的、顕在的に扱っている傾向があります。こういったサイトで交わされる一般的なコミュニケーションや自殺論等には、 果たしてどれほどの現実性があるのでしょうか?自殺サイトなどで繰り広げられるコミュニケーションは、脱個人化現象に付随して起こる粗野化などがよりマイ ナスの方向に向かった結果である、と私は推測します。つまり、仮想空間で構築された、仮想上での“死”という概念を、脱個人化された極めて非現実的な集団 が共有し、教唆しあっているという状態です。現実世界で意識される“死”と、ネット上で意識される“死”には、大きな相違がある、ということは、自殺を考 える程差し迫った状況に置かれている人間にはわかりにくいものなのかもしれません。しかし、自殺サイト上などに漂う“死”や“自殺”といった“ことば”は 著しく現実性を欠いている、といったようなことを心に留めておく必要があるのではないでしょうか。

導入部で述べた疑問的な二つの仮定、即ち「インターネット世界ではなく、現実世界での中傷発言に対し、加害者の女生徒は同じ凶行に及ん だであろうか」、及び「見知らぬ男女7人が、現実世界で集団自殺を綿密に計画し、実行することができるであろうか」、に対する答えは恐らく“ノー”でしょ う。現実世界で起こる人対人の論争や衝突などには、言葉のニュアンスや語調の変化、あるいは表情やしぐさなどいわゆる“メタリングイスティクス”という要 素が加わるため、中傷発言や罵倒などにも臨機応変な対応を、衝突している当人同士で探っていくことができるのです。しかし、インターネット上に漂う中傷や 侮蔑の“ことば”には、そういったメタリングイスティクス的な要素は全くといってありません。存在するのはコンピュータースクリーンに映し出される無機質 なデジタル文字のみです。同じように、現実世界で見知らぬ男女7人が集まり、論議され計画される集団自殺と、仮想空間で行われるそれとは、全く異質なもの であると考えることができるでしょう。なぜなら、インターネット上の世界は、現実的な死に対する恐怖、といったような要素を伝達する術を持たない極めてド ライな世界だからです。

前述した二つの事件は、我々インターネット社会に生きる世代に、情報社会に潜む危険を改めて認識させたのではないでしょうか。インター ネット世界とその空間に漂う“ことば”は規制されることなく、これからますます発展してゆくことでしょう。これらの事件は、非現実世界であるインターネッ ト空間が現実世界との境界線を越えてしまった極めて稀な事件、と楽観視できる時代はもう終わってしまったのかもしれません。                                           《伊藤 潤、社会言語学》