地球ことば村
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【地球ことば村・世界言語博物館】

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『電車男』のことば
井上逸兵先生

市民フォーラム「日本語は多言語? ~ ことばのもう一つのちから~」では、時間の関係から「地域方言」にくらべて「社会方言」について、もう少し聞きたい、というところで 終わってしまいました。最近、私が関心を持っているのは「ネットことば」、これも社会方言と言っていいと思います。ネット上のことばのやりとりから自殺や 殺人にいたるような事件が起こっていますね。その関連で話題の『電車男』を読みました。とびきり面白かった。近年これほど面白い本には出合えなかったで す。その面白さは2点あります。
ひとつは、これは読んだひと皆が言う事ですが、ネットの掲示板という媒体や記載方法の目新しさの底に、「純愛ドラマ」が繰り広げられているということ。で もこれは年配者の安心ということかもしれない。例えば旧聞ですが、尾崎豊の葬儀で、ファンが自主的に掃除までして立ち去ったという時に感じる、「あー、若 者にもわれわれと同じ感性があるんだ!」という安心感と同じかもしれないですね。
もうひとつの面白さ、そしてこの方が私の言いたいことなのですが、「文字言語の変貌」ということです。
ネット上の会話では、話者が誰か、性別も年齢も、どういうバックグラウンドを持っているのかもわかりません。ネット以外の会話では、相対しての会話ではも ちろん、手紙のやりとりでも、声や言い方、あるいは筆跡、用箋、消印などでだいたいどういう人か分かるものです。そういうサブの表現チャンネルをはぎとら れて、文字だけになっているネットの会話では、逆に「文字言語」がモノスゴク表現ゆたかになっていると感じました。
たとえば、『電車男』では「お前ら」というところを「おまいら」「藻前ら」と書いています。たぶん最初、だれかがキーを打ちそこなったり、変換しそこなっ たままアップし、それが読む人の気分に合っていたために皆が使うようになったのだろうと思います。「おまいら」「藻前ら」には「お前ら」のキツい調子が無 くなり、気を許した親しみだけが残って、さらに、字を間違える駄目な自分というおどけた感じが付け加わっています。若者の会話によくある「・・・だけど」 とか「だったりして」と語尾をあいまいにする気遣いと似ているような気がします。
繰り返しも頻発しています。「がんばれがんばれがんばれがんばれ」とか「カップのお礼に食事に誘えカップのお礼に食事に誘えカップのお礼に食事に誘え」と か。繰り返すことで語調の強さのような、息せき切って説得するような気分が伝わります。一見、意味不明に見える文章もあります。「わ k らるうううううううかあああああ」など。たぶんこれは「分かるか?」の意味ですが「分かるか?」というそっけなさとはまったく違う「叫び声」が聞こえてき ます。
また、ワープロならではのテクニックとして、伝えたい文章では文字の大きさを極端に大きくしたり、字間を広げたり、さらに絵文字が話者の感情を表すものと して多用されています。
結論として、私は『電車男』の、つまりネット上の文字言語は劇画などからの流れを汲みながら、さらに変貌をとげていると感じました。先に書いたように、生 身の話者から発する表現を剥ぎ取られることで、かえって文字自体が触覚的あるいは魔術的ともいえる生々しさを獲得して、読む人の気持ちを揺さぶるように なっていっているのです。
ひとりが打ち間違えたことばが、数分後には皆が使うように、ある気分をあらわすことばや文字の技術を獲得し、使いこなせば、自分とは違う自分を演出するこ とは簡単にできます。ことばを先に歩かせることで、自己暗示によって、新しい自分を生み出すことすらできそうな気がします。
先生が「人がどのようにそれ(言語や方言)を使って『生きている』のかに目を留めることも重要だと思う」とお書きになっているのを読み、これまでにない 「私と人」「私と私」の関係が、ネットという特殊な時空で生きられている、と感じました。この関係が、さまざまな事件を引き起こすのでしょうか。先生はど うお考えになりますか。                                           《O. Y.、会員》