荘司賢太郎プロフィール
日本文化研究家。
1930年 東京本所の生まれ
学生のころから邦楽、特に古典に興味を持ち
荻江節を荻江寿々師、河東節を山彦やな子氏について習う。
サラリーマン生活の後、コンサルタント業の傍ら
芝居、邦楽、遊びなどについて健筆をふるう。
★荘司さんの随筆が読めるサイト
http://www.kyosendo.co.jp/rensai_frame.html
★ 著作
「せんすのある話」創英社・三省堂書店 2003年
「江戸落穂拾」創英社・三省堂書店 2006年

しみじみ味わう 江戸のことば
(その十六)「れんじ窓」
近頃の流行歌の歌詞を聞いたり見たりすると、言葉が少し多過ぎる気がしてならない。
メロディーが先に出来て、それに合う言葉を考えることの方が多いからかもしれない。
江戸の文化人は皆、俳諧の素養があったので、少ない言葉を効果的に使って表現する技術を心得ていたようだ。
―ねながらに 煙管で開けるれんじ窓
アレ、 見やしゃんせ この雪に 鳥もねぐらを 離りゃせぬ―
これは江戸時代の小唄である。「れんじ」というのは格子のことで、当時の家の窓は皆れんじ窓で、内側に明かりとりの障子がはめてある。(ガラスは高価で、まだ普及していない)内容は次のようなことである。
「朝(多分、少し遅い朝)、四畳半の部屋の一つ夜着の中で目覚めた男女。女は色里の女、男は馴染みの客。物音一つしない静けさ、襟元に感じるゾッとする寒さ、れんじ窓の障子がボウッと明かるい。もしや、と思って、女は枕もとの煙管を取って、ふとんの中から腕を伸ばして窓の障子を煙管の先で少し開けてみると、案の定、外は霏霏と降る雪。」
「ごらんなさいな」と女はいう「こんなに雪が降っていては鳥だってねぐらに入った切りで、出てきやしない。お前さんも今日はこのまま居続けになさいな」
ねながら煙管で窓の障子が開けられるのは四畳半でしかない。
江戸時代の小唄は歌詞は残っていても、節の失われてしまったものが多い。
この「ねながらに」の歌は今も唄われているが、明治になって、残っていた江戸の詞章に新たに節付けしたものといわれている。

しみじみ味わう 江戸のことば
(その十五)「長つと」
あとはいらへも長つとの
油かをりてなまめかし
(清元「夕立」)
この清元は「白浪五人女」の芝居で、須走りお熊という女が色仕掛けで男をたらし込む場に使われた曲で、作詞は河竹黙阿弥である。
「つと」とは、日本髪の後ろへ張り出した髱(たぼ)のことで、「いらへ」は返事である。
この歌詞をわかり易く書き直すと、
「(何かいった男に対して)女は(返事もしないで)黙っている。その長つとの髪油の匂いが薫ってなまめかしい」
となるが、原文をよく味わって読み返すと、なかなか含蓄のある文章とわかってくる。
「長つと」とは、「つと」を長く結うことだが、長くしたら着物の後ろの襟に触れてしまう。しかし、粋筋の女性は襟を抜いて着物を着るので、その心配はない。つまり、長つとの女といえば、色里の女ということになる。女の沈黙の間が長いのと、長つとを掛けていっているようだ。
襟を大きく抜いて見せる襟足は色町の女のコケットリーである。その白い襟足に長つとの黒髪が懸かる風情は艶冶(えんや)で、男心をかき乱されずにはおかない。「長つと云々」の文句から、女が男に背を向けているのがわかる。多分、男に背をもたせかけて坐っているのだろう。それは、長つとの髪油がなまめかしく薫って男心を蕩然とさせつ、間近な距離なのである。
こんな短文の中に、これだけ含みのある内容を盛り込めるのは、黙阿弥の筆の力だろう。
やはり黙阿弥は只者ではない。

しみじみ味わう 江戸のことば
(その十四)「聞き句」
上野池の端の著名なソバ店、蓮玉庵に行くと、壁に西山宗因の「やがてみよ 棒くらはせん そばの花」という句を書いた大きな額が懸かっている。
宗因の代表作の一つだが、ソバの縁語で洒落ただけの句で、別に深い意味はなさそうだ。
芭蕉以前の俳諧は、こういう諧謔的なものだったという。
前回とりあげた其角の「闇の夜は」の俳句は、古句の「闇の夜は 松原ばかり 月夜かな」を踏まえて作ったともいわれている。
この句は、初句で切ってしまうと意味が通じない。「闇の夜は 松原ばかり」で月夜の句なのである。つまり、明るい月夜であるが、松原の中ばかりは生い茂った枝が月光を遮るので闇夜だ、というのである。
こういう句を「聞き句」と云い、それについて向井去来は『去来抄』の中で次のようにいっている。
「むかし、聞句といふ物あり。それは、句の切様、或はてにはのあやを以って聞ゆる句也」
其角の「闇の夜は」の句も聞き句ということである。
次に、聞き句をいくつか挙げる。各自考えるのも一興と思い、解釈は省略*した。
涼風は 川端ばかり 暑さかな
五月雨は 山路ばかりや 水びたし
嗅いでみよ 何の香もなし 梅の花
白鷺の 巣立ちの後は からすかな
二人行き ひとりは濡れぬ 時雨かな
* わからなくて気になる方は事務局info@chikyukotobamura.orgへお尋ねください。

しみじみ味わう 江戸のことば
(その十三)「闇夜、月夜」
新春の歌舞伎座の夜の部は、團十郎の助六だった。
助六の芝居で、恋人の揚巻が花道から出てくるとき、BGM担当の下座の連中が
「闇の夜に、吉原ばかり、月夜かな」
と唄う。この唄の文句は宝井其角の俳句で、『五元集』という彼の句集に載っている。
闇夜なのに、吉原だけは煌々と灯火をつけて、あたかも月夜のように明るい。
という意味にとれる。しかし、その解釈に異を唱えたのは幸田露伴で、其角がそんなありふれた句を詠むわけがない、というのである。
実は、『五元集』に出ている其角の句は、初句が「闇の夜は」であって、「闇の夜に」ではないのである。「闇の夜に」といってしまうと、この句は闇夜の句になって、解釈も前に挙げたようなものになるが、「闇の夜は」とすると、そこで切れば闇夜の句になり、句の意味は変わらないが、「闇の夜は、吉原ばかり」と第二句で切ることも可能になるのである。つまり、闇の夜は吉原ばかりで、世間一般は月夜だという、月夜の句にもなり得るのである。
これでは意味が通じないと思う人もいるかもしれないので、江戸の事情をちょっと説明。
江戸時代、燈油やローソクは非常に高価だったので、夜明けと共に起き、日暮れと共に床につく、というのが一般庶民の日常だったようだ。
従って、句の解釈はこうなる。
灯火をつける必要がない程、明るい月夜なのに、吉原だけは、あたかも闇夜のように明々と灯をともしている。
しかし、「に」と「は」を替えただけで、こんなに意味が逆転してしまうようなデリケートな実例に出会うと、文章を書く時、どうしても神経質になってしまう。本当に「てにをは」の使い方は難しい。

しみじみ味わう 江戸のことば
(その十二)「一期一会」
前回、裕庵焼という料理について書いたが、会席料理には千利休の名のついた料理もある。
裕庵焼と同様、利休自身とは特に関係はないようだが、利久煮、利久揚、利久和えなど、ごまを使用した料理で、面白いことに料理の方では利休ではなく、利久という文字になっている。これは千利休という偉大な人物の名をそのまま使うのを憚って、休を久に変えたのだという。
他に利休の名がついたものといえば、色の名称がある。
利休白茶(シトロン グレイ)利休茶(ダスティ オリーブ)利休ねずみ(セラドン グレイ)等々。
これらは利休が好んだ色ともいうが、いま一つ、はっきりしたことはわからない。
北原白秋の「城ヶ島の雨」に出てくる利休ねずみは、明治になって出来た名称だという。
よく耳にする「一期一会」という言葉は千利休がいったということになっているが、実はそうでないのである。
利休は、「一期に一度」といったが、「一期一会」とはいわなかった。
いっていることは同じであるが、「一期一会」という言葉を使ったのは、安政七年(1860)三月三日(三月十八日に万延と改元)、桜田門外で水戸浪士達の凶刃に倒れた大老、井伊直弼である。
直弼は、片桐貞昌を祖とする石州流の茶道を学び、宗観と号した。茶道に造詣が深く、茶の湯に関する著書もある。
その中の『茶湯一会集』に、「茶の湯の交会は一期一会」と出てくる。
言葉の意味は同じだから、どちらでもいいことかもしれない。

しみじみ味わう 江戸のことば
(その十一)「裕庵焼」
日本料理のメニューに裕庵焼という料理がある。
魚を裕庵汁につけ込んで置いて、これを串に刺して焼いたもので、裕庵汁とは料理本によれば、醤油五、ミリン三、酒二の割合を基本にして合わせたもの、とある。
この裕庵とは北村裕庵のことであるが、並外れた味覚の持ち主、北村裕庵にあやかって付けた名称らしく、裕庵本人とは特に何の関係もなさそうだ。
北村裕庵は、近江八景の一つ、堅田の豪農で茶人、造園家でもあったという。
名を政従、号を裕庵、幽安、道遂などといった。
裕庵焼をよく、幽庵焼とか、裕安焼などと書いた料理屋の「おしながき」を見かけるが、これは裕庵と幽安という二つの号を混同した間違いである。
裕庵の味覚がいかに秀れていたかを示すエピソードがいくつか伝わっている。
茶人の裕庵は茶を立てる時、いつも琵琶湖の決まった場所の水を下僕に汲みに行かせていたが、その場所が遠方だったのだろう、同じ琵琶湖の水なら何処も一緒で分かるまいと近くの水を汲んで帰ると、これは何処其処の水であろう、と汲んできた場所まで云い当てること神の如くだったという。
又、ある人に豆腐の田楽をご馳走になった時、この田楽の串の竹はこの近辺の竹ではなく、遠方の竹だろうと裕庵がいうので、そのことについて何も聞いていなかった主人が台所に問い合わせてみると、浪花から荷物を担いできた竹を削って作った串とわかった。
裕庵は伴蒿蹊の『近世畸人伝』に、「享保(1716〜1735)の中比(なかごろ)まで有りし人にや」とある。裕庵の茶道の師は、千宗旦の弟子の反古庵藤村庸軒という。

しみじみ味わう 江戸のことば
(その十)「会席料理」
懐石料理とは別な会席料理というものがある。
十八世紀の半ば以降、江戸には多数の料理屋や貸席が出現して、其処で俳諧や川柳、狂歌などの会が頻繁に催されるようになる。
その席で供される料理を、懐石と会席が同じ発音であることから会席料理と呼ぶようになったといわれている。
いわゆる洒落である。
大料亭の濫觴(らんしょう=起源)は州崎に出来た升屋祝阿弥で、明和八年(1771)のことという。
江戸随一と称された八百善の開店は、その三十数年後の享和(1801〜1803)年間のことである。
升屋は別名を「望汰欄」(ぼうだら)と云ったが、それは松江藩主松平宗衍(まつだいら むねのぶ)の命名という。「ぼうだら」とは江戸語で、酔っぱらいのことである。
宗衍は茶人大名として有名な松平不昧公の父で、浄瑠璃の富本節の後援者でもあった。
こうした言葉遊びの文化が盛んになったのは宝暦頃からである。
江戸長唄の短い独吟物を「めりやす」というが、この名称が初めて登場するのは宝暦三年(1753年)の中村座で、まだ長唄が単に歌舞伎の伴奏音楽でしかなかった時代である。
長唄が邦楽の一ジャンルとして確立したのは宝暦十年頃のことである。
今では、この「めりやす」という名称はメリヤスのシャツなどという、あのメリヤスから来ているという説が有力となっている。
メリヤスは延宝(1673〜1680)頃の落陽集という本に、「唐人の古里寒しめりやすの足袋」とあるそうで、かなり古くからポルトガルかオランダから伝わっていたようである、
歌舞伎の舞台で役者の所作に合わせて、速くも遅くも演奏出来ることから、メリヤスの生地が伸び縮みすることにかけて「めりやす」と呼んだというのである。
確かに、時代的にはありそうな話である。
![]()
しみじみ味わう 江戸のことば
(その九)「懐石料理」
懐石とは茶道の料理のことだが、元は懐に温石を入れた程度にちょっとおなかに何かを入れる、夜食、点心の意味の禅家の言葉から来ている。
千利休は「南方録」の中で、
「小座敷ノ料理ハ汁一ツサイ二ツ三ツカ、酒モカロクスベシ。ワビ座敷ノ料理ダテ不相応ナリ」
と云っているように、元来、禅林風の簡素な料理だったが、時代と共にだんだん立派な料理になって行った。
洋の東西を問わず、昔の王侯貴族の料理といえば、権威と富を誇示するため、贅沢な料理を目の前に一ぱい並べる空間型のスタイルであるが、今日の懐石料理では、料理が一品ずつ出てくる時間型スタイルになっている。
一汁三菜程度なら、狭い茶室内でも一度に料理を並べて出せるが、料理の種類が多くなったら身動きがとれない。
茶道には、料理の提供の仕方について書かれた文献はないようだが、懐石料理が時間型になった最大の要因は、やはり茶室の物理的な狭さだろう。
利休以後、茶道を嗜む大名が増え、懐石料理が次第に豪華になるにつれて、空間型から時間型に移行して行ったものと思われる。それは多分、十六世紀から十七世紀の初頭にかけてのことだろう。
西洋料理のレストランでコース料理を注文すると、やはり一品ずつ料理が出てくるが、こうした時間型スタイルはロシヤ式サービスといって、それがヨーロッパに広まったのは十九世紀のことである。
フランス革命後もフランスでは従来の空間型スタイルが続いていたが、ロシヤの貴族、オルロフ公の専属料理人としてロシヤへ行っていた著名なシェフ、ユルバン・デュボワが帰国して自分の料理にロシヤ式サービスをとり入れたのは一九六〇年代のことである。
それからロシヤ式サービスがヨーロッパ中に浸透して行ったという。
ロシヤ式サービスの起源についてはよくわからないが、ロシヤは寒冷地であることから、温かい料理を冷めない内に出すやり方が自然に定着していったものと思われる。
![]()
しみじみ味わう 江戸のことば
(その八)「灰汁(あく)」
日本の染色技術は、都のあった京都を中心に発達した。
室町時代の初めには、種々の座というものが出来て、京染は分業化、専門化して行った。
灰をアルカリ剤として染色に利用することは、かなり昔から行われていたようである。
灰を水で溶いて濾したものを灰汁(あく)といった。
原料の灰の吟味、灰汁の作り方、灰汁の使用法など、経験と熟練を要し、京染には灰汁漬屋(あくづけや)という専門職があった。
京染が優れていたのは、偏に灰汁漬屋の存在に負うところが大きいといわれている。
江戸の初期、島原遊郭が出来る前、京都の遊郭は六条三筋町にあった。
その三筋町で全盛と謳われた遊女、吉野太夫を落籍して妻にしたのは佐野紹益である。
寛永八年(1631年)のことという。
時に、吉野二六才、三つ年下の紹益は二三才だった。
この吉野は、徳子といった二代目の吉野太夫である。
佐野家は紺灰を商って産を成した豪家で、紹益は俗に灰屋紹益と称した。
紺灰とは、藍染に用いる灰のことである。
伝えられるエピソードによると、徳子は美しいばかりでなく、謙虚で優しく奥床しい女性だったようだ。
相思相愛で結ばれた二人の幸せな生活は十二年続いたが、徳子は病に罹り不帰の人となった。享年、三十八才。
紹益の悲嘆は極みに達し、徳子への愛着の思い絶ち難く、その荼毘(だび)の骨を全て食べ尽くしたという。
![]()
しみじみ味わう 江戸のことば
(その七)「花色木綿」
前回(その六)、万葉の時代、黄色は青系統の色だったと書いたが、すべての黄色がそうであった訳ではなく、オレンジ系の黄色などは赤系に入っていたようである。
古代の日本には、独立した黄色の概念がなかったので、赤か青の二つの系統に分けるとなると、赤系に入る黄色もあり、青系の黄色もあったのである。
紫も、紫草の紫は赤系だったが、紫は赤と青の中間色であるから、青の強い紫は青系だったと思われる。
因みに、藍染の紺は見かけは正に青だが、実は藍の単一染ではなく、赤味を含んだ濃い青で、英語名はパープル・ネイビーである。
補足をもう一つ。「浅黄裏」とは、地方出身の武士達を馬鹿にした言葉であるが、「浅黄」という色そのものをけなした訳ではないのである。
「浅黄裏」の地方武士に対して、いきな江戸人はどうだったかというと、着物の裏地は「花色木綿」だった。
花色という字からは、ぱっと華やかな色を想像してしまうが、実は花色とは縹色(はなだいろ)のことで、藍の単一染の青で、英名はセルリアン・ブルーである。
花色という名称は、鴨頭草(つきぐさ)といった露草の青い花汁を用いて摺染したことに由来するが、後に藍染の青を呼ぶようになったという。
では、藍色とはどんな色かというと、藍の単一染(これは花色)ではなく、藍染の青に黄色を加えた、やや緑がかった暗い青色のことで、英名はマリン・ブルーである。
江戸時代の人々の多くは藍染の着物を身につけていた。染物屋といえば、紺屋と呼ばれた藍染屋のことで、紺屋は「こんや」とも「こうや」ともいった。
紺屋に関する諺
「紺屋の明後日(あさって)」
−期日がアテにならないこと−
「紺屋の白袴」
−他人の世話ばかりやいて自分のことにかまわないこと。「医者の不養生」などと同じ−
これらは今でも時に耳にすることがある。
又、ごく薄い藍染の青で、「瓶覗」(かめのぞき)という色がある。
英語ではホリゾン・ブルーに当たる。
しかし、「瓶覗」とは何とも云い得て妙、江戸の洒落ッ気を感じさせる名称である。
![]()
しみじみ味わう 江戸のことば
(その六)「浅黄裏(あさぎうら)」
万葉の時代、色の名称は赤青白黒の四つしかなかったという。
紫、紅などというのは、夫々、紫草、紅花といった具体的なものにたとえた表現なので、純粋な色の名称とはいえない。
四つの色の名称の内、いわゆる色は赤と青しかないので、全ての色はこの二つの色の系統に入っていた。
例えば、紫は赤系統、緑は青系統だった。
現代の我々もあまり抵抗なく「木々の葉が青々と繁る」などと使っている。
緑というのは、元は「草木の新芽」をいった言葉で、今でも「嬰児(みどりご)」、「みどりの黒髪」などといった語に名残をとどめている。「嬰児」とは「(新芽のような)生まれたての子」のことで、「みどりの黒髪」とは、「(新芽のように)生き生きした黒髪」ということで、「みどり」を色と思ったら「みどりの黒髪」など、何のことやら、訳がわからない。
面白いのは黄色で、黄は青の系統に入っていた。ちょっと不思議な気がするが、明治以降でも、日本各地で黄色を青と表現する地方が結構あったそうである。
江戸時代、参勤交代の主君に従って、大勢の家臣達が江戸に出てきたが、彼等は殆ど単身赴任で、金も無く、言葉はお国訛りで、江戸の風俗習慣も知らず、何かにつけて江戸人の嘲笑の標的になった。
彼等の多くは着物の裏に浅黄木綿の裏地をつけていたことから、浅黄裏と呼ばれた。
浅黄色とは浅い緑青色のことで、英語でいえば、ブルー・ターコイズである。
浅黄は元は浅葱と書いたが、平安中期以後、浅黄とも書くようになった。
浅黄は間違いで、浅葱と直すべき、と学者は主張するが、もしかしたら、黄色を青系統の色とした、古くからの慣習がそのまま引き継がれて、そうなったのかもしれない。
浅黄裏以外にも、武左衛門、新五左衛門、略して武左、新五左など、いずれも地方出身の武士達を「田舎侍」と揶揄した軽蔑語である。
![]()
しみじみ味わう 江戸のことば
(その五)「口も八丁 手も八丁」
「通い馴れたる土手八丁」(長唄『吉原雀』)
よし原雀というのは葦切り(よしきり)の異名で、その「よし原」という名称と、かまびすしい鳴き声を付会して、吉原へやってくる嫖客のことを指していった言葉である。
土手というのは日本堤の土手で、元は暫々氾濫する荒川の防水堤として元和六年(1620)に築かれたもので、土手の北側に山谷堀があった。
土手八丁の八丁とは江戸八百八町などと同類の表現で、実際の距離は十三丁だったという。吉原の大門は土手の中程にあった。
口も達者で、何をやらせても上手にこなす人をよく「口も八丁 手も八丁」というが、これは「大門口まで八丁 土手八丁」の洒落である。
同じ「吉原雀」に又、次のようにある。
「見ぬようで見るようで
客は扇の垣根より
初心かわゆく前渡り」
張見世については前回(その四)に述べたが、六ツ時(酉の刻)になると、鈴を鳴らし、それを合図に三味線番の新造が菅掻(すががき)という賑やかな曲節を弾き始めると、遊女たちは道に面した格子の間に行って並んで坐った。
新造ちは姉女郎付きの若い遊女のことで、菅掻とは清掻とも書き、唄のない三味線だけの演奏を意味した。
男たちは格子越しに女性たちの品定めをしながら道を往来する。
その中で、若いウブな男は恥ずかしくて、遊女達の顔をまともに見ることが出来ず、扇で自分の顔を隠しながら、扇の紙の張っていない、要(かなめ)近くの骨の間から覗き見しながら、格子先を歩いて行くといった風景であるが、「扇の垣根より」という表現が何とも心憎い。
![]()
しみじみ味わう 江戸のことば
(その四)「ひやかし」
「千早ぶる
かみすき橋を夕越えて
八百善にてや 月 待乳山(まっちやま)」
これは太田蜀山人の狂歌である。かみすき橋とは山谷堀に架かっていた橋で、八百善とは云うまでもなく江戸随一の料亭で、かみすき橋の更に下流の吉野橋(昔は山谷橋といった)のたもとにあった。
有名な「夕暮れ」という端唄に、「月に風情を待乳山」と詠われている月の名所待乳山は八百善のすぐ目の前だった。(山谷堀は今、埋め立てられて山谷堀公園になっている)
かみすき橋は紙漉き橋で、その辺りに紙漉き場があったことから、その名がついた。其処で漉かれる紙は浅草紙といわれる、紙としてはあまり上等なものではなかった。
紙漉きには材料を冷やして置く工程があり、その間、紙漉きの職人達は何もすることがないので、近くの吉原へ出かけて行って軒を並べた妓楼の前をぶらついて時間つぶしをした。
吉原の遊女屋は道に面した所が格子造りになっていて、その中に店の遊女達が並んで坐って客待ちをしている。それを張見世(はりみせ)といった。
男達は格子の外から女達を眺めて、気に入った女性がいれば、客として登楼するが、いなければ、他の店を覗いて廻って相手捜しをする。
しかし、紙漉き職人達は時間かせぎに来ただけで、客になる気は初めからないのである。
今では一般の商店などで、品物を買う気もなく、ただ見て廻るだけの客を「ひやかし」というが、これは山谷堀の紙漉き職人の暇つぶしから出来た言葉だといわれている。
素見(すけん)という言葉もあるが、これは文字通り、ただ見るだけの意である。
![]()
しみじみ味わう 江戸のことば
(その参)「岡場所」
吉原は幕府公認の遊廓だった。従って、吉原の遊女は公娼である。
吉原は初め、今の人形町、堀留の辺りにあったが、明暦二年(1656)浅草寺裏の山谷近くの地に移された。移転後の吉原を新吉原、旧吉原を元吉原といって区別している。
幕府は治安上、風紀上の理由から、公娼制度をとり、一定の場所、江戸では吉原遊郭だが、その吉原以外の場所での売春を禁じたが、江戸市中には私娼も大勢いた。
私娼の取り締まりは町奉行所の役割で、暫々(しばしば)私娼狩りを行って、検挙した女達は罰として吉原に収容して遊女とした。
この私娼の手入れを警動(けいどう)といった。
度々警動を実施しても、結局はいたちごっこで、私娼を根絶することはできなかった。
公許の吉原を除いた、私娼達の巣くう場所を岡場所といった。「岡」とは正規でないという意味で、今でも岡惚れ、岡目八目といった言葉に残っている。
岡っ引き、というのも、彼等が正規の役人ではなかったからの称で、町奉行所の町廻り同心などが手先として使った一種の雇い人で、その費用は奉行所の廻り方の経費から出ていたという。
家来の家来を又者という。同心は直参だが、岡っ引きは又者である。スケールは違うが、大名の家来の所謂陪臣も又者である。直参の幕臣達は陪臣を軽く見ていたようだが、陪臣の中には大名に匹敵する高禄の者もいた。大名というのは禄高一万石以上の者で、幕末にはに二百六十七家あった。萩藩毛利家の家老、吉川家は岩国六万石で、六万石以上の大名は八十一家(三割弱)しかなかった。吉川家の江戸出府の時の行列は、二本槍を先頭に立てての由緒ある大名並みの格式だったという。
![]()
しみじみ味わう 江戸のことば
(その弐)「御見(ごげん)」
「またの御見をたのしみに
帰したあとでふうわりと鳥が啼く
君は今 駒形(コマカタ)あたりなんとなく
昔も今も変わらじと
人のなさけと恋のみち」
これは、小唄「またの御見」の歌詞である。「御見」とは逢うことで、唄い出しは、「また逢う日を楽しみに男と別れた後で鳥が鳴いた」というのである。この文句からだけでは、帰した君が男なのか、女なのか、分からないが、続いて前回(その壱)に挙げた「君は今 駒形あたり ほととぎす」という高尾の句が出てくるので、この唄は吉原の女性の気持ちを詠ったもので君というのが客の男性と想像がつく。
好いた同士なら少しでも長く一緒にいたいと思うだろうから、別れるのが辛い筈だが、この唄の女性は割りとさっぱりしているようだ。廓の女だからだろうか。
男女が逢って別れる時、男と女とどちらが未練がましいだろうか。やはり女性だろう。
別れるのが辛いといってメソメソされたら、それを振り切って行くこともできず、男は当惑してしまう。そんな時、キザな男はこういうそうである。
「別れなきゃ、また逢えないじゃないか」
正に、逢ってうれしいのは別れていたからに外ならない。
キザは気障(きざ)と書く。気障は初め、気懸かりという意味だったが、気障(ざわ)りという意味に変わってしまった。
気障と似たような言葉に、けうといという語がある。語源は、気疎い からきているというが、けうといと書いて、きょうとい と読む。興醒めとか、不愉快の意である。
気障という言葉は今でもたまに耳にするが、けうといは死語になってしまった。
![]()
しみじみ味わう 江戸のことば 荘司賢太郎
(その壱)「いふし」
屋形の首尾は如何おはしまし候や
忘れねばこそ思いださず候
かしく
君は今駒形(コマカタ)あたりほととぎす
これは吉原三浦屋の遊女、高尾が仙台侯伊達綱宗に送った、有名な手紙である。
「いふし」(発音はyu-shi)のしは接尾語で「昨夜(ゆうべ)」のことである。主として遊里の女性たちが使ったことばで、「今日(きょう)」は「けふし」(kyo-shi)、「先刻(せんこく)」を「せんし」などと使った。
いつも貴方のことを思っていて忘れたことなどないので思い出しはしません、という殺し文句である。
日本人はこのロジックが好きだとみえて、室町末期の『閑吟集』に「思い出すとは 忘るるか 思い出さずや 忘れねば」とあり、また江戸時代末のドドイツには「思い出すよ(やう)じゃ 惚れよ(やう)がうすい 思い出さずに忘れずに」と出ている。
伊達綱宗の吉原通いは17世紀後半のことであるが、綱宗の相手は高尾ではなく、高島屋の薫という遊女だったという。
それが史実だとすると、高尾の手紙はありえない。
有名な高尾の手紙は後人の誰かの偽作ということである。
最後に手紙の文句の「波の上の御かいらせ」についてだが、当時仙台藩の屋敷は今の新橋駅付近にあったので、船で吉原通いをしたとみて「波の上の御帰らせ」といったのである。

