地球ことば村
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【地球ことば村・世界言語博物館】

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荘司賢太郎 「しみじみ味わう 江戸のことば」


荘司賢太郎プロフィール

日本文化研究家。
1930年 東京本所の生まれ
学生のころから邦楽、特に古典に興味を持ち
荻江節を荻江寿々師、河東節を山彦やな子氏について習う。
サラリーマン生活の後、コンサルタント業の傍ら
芝居、邦楽、遊びなどについて健筆をふるう。

★荘司さんの随筆が読めるサイト
http://www.kyosendo.co.jp/rensai_frame.html

★著作
「せんすのある話」創英社・三省堂書店 2003年
「江戸落穂拾」創英社・三省堂書店 2006年

★荘司賢太郎さんの新刊のお知らせ
         「江戸の吹き寄せ」創栄社・三省堂書店
2009年5月刊行。
       江戸に関する随筆集。一部明治についても触れられています。

目次
(その壱) 「いふし」
(その弐) 「御見(ごげん)」
(その参) 「岡場所」
(その四) 「ひやかし」
(その五) 「口も八丁 手も八丁」「通い馴れたる土手八丁」(長唄『吉原雀』)
(その六) 「浅黄裏(あさぎうら)」
(その七) 「花色木綿」
(その八) 「灰汁(あく)」
(その九) 「懐石料理」
(その十) 「会席料理」
(その十一)「裕庵焼」
(その十二)「一期一会」
(その十三)「闇夜、月夜」
(その十四)「聞き句」
(その十五)「長つと」
(その十六)「れんじ窓」
(その十七)「花柳界・花街」
(その一八)「いも顔」
(その一九)「袋持」
(その二十)「一斗二升五合」
(その二十一)「テンで話が違う」
(その二十二)「おっこち」
(その二十三)「もさ引き」
(その二十四)「烏亭焉馬(うていえんば)」
(その二十五)「衆」
(その二十六)「こいこく」
(その二十七)「長命寺の桜餅」
(その二十八)「見立番付(みたてばんづけ)」
(その二十九)「助炭(じょたん)」
(その三十)「握り鮓」
(その三十一)「鮪(まぐろ)」
(その三十二)「ソバ屋の庵号」
(その三十三)「薬喰い」
(その三十四)「薬喰い・続」
(その三十五)「下らない」
(その三十六)「月待」
(その三十七)「松花堂」

しみじみ味わう 江戸のことば
(その三十七)「松花堂」


 日本料理店のお昼のメニューに、よく松花堂弁当とあるのを見かける。
 仕切りのある平たい漆のお重に、おかずと御飯が入っていて、それに汁椀がつく。
 松花堂というのは松花堂昭乘(しょうかどう しょうじょう 15841639)のことで、昭乘は江戸前期の僧で近衛信尹(このえ のぶただ)、本阿弥光悦と共に寛永の三筆といわれた書家であり又、画家でもあった。
 私は見たことがないのだが、松花堂の遺品の中に、仕切りのある「忘れな盆」のような物があるそうである。
 「忘れな盆」というのは仕切りのある盆で、外出時の携帯品を、例えば、矢立は矢立、印籠は印籠といった風に、それぞれの決った仕切りの中に入れて置くもので、そうして置けば一目でチェック出来、忘れ物をする心配がない。
 帰宅した時には又、元の場所に戻して置くのである。
 しかし、それは「忘れな盆」ではなく、絵を描く時の絵具皿、即ちパレットとして使ったものではないか、という説もあるようだ。
 要するに、用途不明の盆状の器らしいのだが、その仕切りからヒントを得て料理に取り入れたのが松花堂弁当ということである。

 最初の考案者は、有名な吉兆ともいうが又、たん熊という説もある。
 たん熊には古くから祥華堂弁当というものがあり、それが松花堂弁当の草分けというのである。
 名称からして、確かに松花堂を意識してつけたもののように思える。

しみじみ味わう 江戸のことば
(その三十六)「月待(つきまち)」


人類が月に行けるようになってから、月は即物的な存在になってしまったが、月に対する信仰は古くからあった。

 戦国時代の武将、山中鹿之介は三日月に、「われに七難八苦を与え給え」と祈ったという。

 何で自ら艱難を求めるのか、若い頃は不思議でならなかったが、そのアグレッシヴで積極的な姿勢には究極の男らしさがある。

 「この上に なお憂きことの つもれかし

       限りある身の 力試さん」

 という和歌は、山中鹿之介が詠んだといわれている。

 山中鹿之助は毛利氏に滅ぼされた尼子の臣で、最後は捕らえられて暗殺されてしまうのだが、生前から感ずるところがあったとみえて、子供を武士にはしなかった。

 鹿之介の嫡男の新六は摂津国伊丹在の鴻池村で名も新右衛門と改め、酒造りを始め、有名な鴻池家の祖となった。

 新右衛門の子、善右衛門(初代)は海運業に、その子孫は両替商にと多方面に進出し、次第に巨万の富を築き上方屈指の財閥となって行くのである。

 江戸時代、寝ずに月の出を待って、月を拝することを月待といった。江戸人が現代人よりもはるかに月に対して関心が深かったことは前に書いた。

 江戸時代は太陰暦だったから、江戸人の多くは月の形を見ただけで今日が何日だか、わかったといわれている。

 十七日の夜の月、つまり十七夜の月は立待月(たちまちづき)、十八夜の月は居待月(いまちづき)、十九夜の月は寝待月(ねまちづき)という異称があった。

 江戸時代、飛脚のことを十七屋といったが、これは十七夜で、立待月(忽ち着)という洒落である。    

しみじみ味わう 江戸のことば
(その三十五)「下らない」


 客に提供する酒に拘りを持っている料理屋や居酒屋などには、樽酒を置いている店も少なくない。
 酒樽の材質は杉で、杉は一番酒と相性がよいそうで、その中でも吉野杉が最高だという。

 樽に仕込まれた酒には、杉の香りやエキスなどが溶け出し、ビン詰めの酒とは違った独特の風味がある。

 江戸時代の酒について、喜田川季荘の『守貞漫稿』(別名『近世風俗志』)に次のようにある。

 「昔は摂津の国伊丹を酒の最上とし今も酒造家多しと雖ども近年は灘目の酒を最上とす灘目と云は大坂(現在の大阪)西方の近き海湾を云池田も昔は伊丹に次げり今は甚だ衰えたり然れども伊丹池田灘等を専とし尾参(尾張と三河)等を中国物と云次之其他の国製を下品とす」

 当時の最大の酒消費地は江戸で、上方から江戸へ送られる、所謂「下り酒」は毎年七十万樽、二十四万五千石あったという。

 江戸の初期には、それらを馬の背につけて陸路何日もかかって江戸まで運んだのだが、樽の中の酒は馬の背で揺られて、いわば長時間シェイクされたようなもので、風味が一そう増したと思われる。

 このような酒を富士見酒といって、江戸人は珍重したようだ。

 その頃の文化の中心は京、大坂で、酒に限らず、江戸で高級品といえば、上方からの下り物だった。

 そんなことから、低俗な事や品を指す、「下らない」という言葉が生まれたといわれていいる。

しみじみ味わう 江戸のことば
(その三十四)「薬喰い・続」


江戸時代、彦根の井伊家では、牛の味噌漬を作っていて、それを毎年、将軍家、御三家に献上していた。
 書いたものによると、それは赤斑牛の鞍下の肉を毛付きのまま味噌に漬けたもので、井伊家では返本丸(へんぽんがん)と称していたという。

御三家の一つ、水戸の徳川斉昭は結核だったともいうが、十人の妻妾に三十七人の子供を儲けた漁色家でもあり、体力回復のためか、精力増強のためか、どちらかは知らないが、井伊家から贈られてくる牛の味噌漬を好んで食していた。

因みに、十腹に三十七子というのは、十一代将軍、徳川家斉の二十一腹に五十五子には及ばないものの、それに次ぐ記録といっていいだろう。

井伊家では井伊直弼の代になって、殺生は止めることにしたので、以後牛肉の味噌漬は作らないといってきた。

実はこれは直弼の方便で、将軍の後継や開国などの問題で、斉昭と確執があったから、といわれている。牛肉の旨さが忘れられない斉昭は他国の牛でいろいろ試してみたが、近江牛には遠く及ばなかった。

そこで、斉昭は江戸城中で直弼に直接掛け合ったが、「四つ足にそれ程ご執心とは! いや、はや」と満座の中で嘲笑されたという。

主君に恥を掻かせた直弼に対する復讐が、水戸浪士による桜田門外の変になった、という噂も当時はあったらしい。

「安政七庚申(同年三月十八日に万延と改元)三月三日江都 桜田門外牛騒動之図」という瓦版が残っている。

画面は桜田門外の乱闘で、中央に牛の首。左下の方に「モウ御免と桜田門」、「食べ物の恨み恐ろし雪の朝」、「大老が牛の代わりに首切られ」とある。


しみじみ味わう 江戸のことば
(その三十三)「薬喰い」

江戸時代には、魚、鳥以外の獣の肉は、四足(よつあし)といって、敬遠してあまり食べなかったようだが、江戸人は獣肉が栄養豊富で体によいことは知っていて、病人など体力回復のため薬喰いと称して食べていた。
 寺門静軒(てらかど・せいけん)の『江戸繁昌記』(天保三年刊・1832)に、
 「前日、江都中、薬喰舗と称するもの、纔(わずか)に一所、麹街の某店のみ、計るに二十年来、此薬の行わるヽや、此店今や復算数すべからず。(以下略)」

 とあって、江戸末期の十九世紀に入って、獣肉店が急増したことがわかる。

 序文に弘化四年(1847)とある、斎藤彦麿の『神代余波』(かみよのなごり)には、「明和、安永(17641780)の頃は、猪鹿の肉喰ふ人稀也。下ざまのいやしき人も、ひそかに喰ひて、人にはいはず、かたみに恥あへりき。天明、寛政(17811800)の頃より、やヽよろしき人もかつかつ喰ふ事となりて、今は自慢してほこれり」

 と出ている。

 落とし咄を一つ。

 ――獣肉が大好きだという男に、炬燵(こたつ)を出して、

 「これをご馳走するから、どうぞ」

 「そいつァ、食べられない」

 「どうして? これも立派な四足だが-」

 「いや、そういうアタルモノは喰わねえことにしている」

 おあとが、よろしいようで――

しみじみ味わう 江戸のことば
(その三十二)「ソバ屋の庵号」

 道光庵というのは江戸時代、浅草芝崎町あった稱往院(しょうおういん)という寺の塔頭(たっちゅう:寺院の敷地内にある子院)のひとつである。
 明暦の頃(1655〜1657)の道光庵の庵主は信州の人で、ソバを好み、ソバ打ちが大変上手だったという。
 最初は檀家などに馳走していたものが、次第に評判が高くなり、ソバ目当ての客が大勢押しかけてくるようになった。
 斎藤月芩(さいとうげっしん)の『武江年表』の天明元年(1781)のところに、
「ちかき頃より、浅草稱往院寺中道光庵にて、蕎麦を製し始めけるが、都下に賞して日々群集し、さながら貨食舗(たべものみせ)のごとし。よって本寺より停 められけり」
とある。
 明暦から天明まで百二、三十年の間がある。同じ庵主ではあり得ないから、ソバ製法のノウ・ハウは代々の庵主が継承してきたのだろう。
 現代のソバ屋の店名には、××庵という庵のつくものが結構あるが、これは道光庵に倣ってつけたのが始まりとい う。
 道光庵は寺なので精進料理のため、動物性の鰹節などは使えないので、昆布、若布等の海草や椎茸などの木茸から取ったダシでタレを作ったようで、味は辛く 又、ソバ粉は白く美味だった、と記録にある。

 道光庵を詠んだ川柳も多いが、二、三例を挙げると
一、浅草の名高き庵へよばれ客
(宝暦九年、1759)
二、手打ちそば和尚はほっすで差図をし
(明和四年、1767)
三、道光庵寺号があらば深大寺
(安永八年、1779)

 深大寺のソバは、この頃から既に有名だったようだ。
 道光庵にある稱往院は大正十二年の関東大震災の後、浅草から世田谷区に移転し、今は烏山寺町に在る。

しみじみ味わう 江戸のことば
(その三十一)「鮪(まぐろ)」

 

 江戸時代、魚河岸は日本橋川の日本橋と江戸橋の間の北側に あった。
 江戸の人口の増加に伴って次第に手狭になり、延宝二年(1674) 日本橋川と京橋川を結ぶ楓川(もみじがわ)の西岸に、幕府の許可が出て新場が出来た。新場とは新肴場の意味である。楓川は今は埋め立てられて、高速道路に なっている。

 冷蔵や冷凍技術がない時代、魚河岸に運ばれてくる魚は、東京湾内か、或いは、せいぜいその入口近くの三浦半島か、房総半島の辺りで捕れたものに限られて いたようである。

 今でこそ、寿司や刺身に欠かせない鮪は、本来遠洋で獲れる魚であり、江戸人にはあまり馴染みの少ない魚であったと思われる。その上、江戸では鯛や鮃(ひ らめ)のような白身の魚は珍重したが、赤身の魚は下等なものとして貧乏人しか口にしなかった。しかし、文化七、八年(18101811) の冬に、どういう訳か、江戸の近海で鮪が大量に水揚げされ、多くは肥料にしたというが、何しろ安いので一部食用にも廻されたようだ。

 文化七年の序文がある『飛鳥川』という随筆に
 「昔は、まぐろを食たるを人に物語するにも、耳に寄てひそ かに咄たるに、今は歴々の料理に出るもおかし」
 とある。
 天保三年(1832) の二、三月にも、また更に安政年間(18541859)にも鮪は大漁で、目先の利く鮓屋が大漁に安く仕入れ、所謂、醤油 に漬けた「ヅケ」にして、安い握り鮓のネタにして出したのが当たり、急速に普及して行ったという。
 前回触れた、握り鮓の元祖といわれる両国の与兵衛鮓は、大 正十二年の関東大震災で廃業、江戸時代からの長い歴史の幕を閉じたが、その間、店の暖簾に傷がつくといって、鮪の鮓だけは握らなかったという。

しみじみ味わう 江戸のことば
(その三十)「握り鮓」

 

 「すし」は、鮨、鮓、寿司などと書くが、寿司というのは当 て字で、使われるようになったのは幕末頃からという。

 秋田佐竹藩の江戸留守居役で、手柄岡持という狂歌名を持 ち、朋誠堂喜三二という黄表紙作家でもあった平沢常富の寛保・宝暦頃(17411763)の見聞録『後はむかし物語』に「鮓売りといふは、丸き桶 の薄きに古き傘の紙を蓋にして、いくつも重ねて、コハダの鮓、鯛の鮓とて売りありきしは、数日漬けたる古鮓也」とある。
 安永二年(1773) 刊の『柳樽』第八篇に、
       —あじのすふ こはだのすふと
                        にぎやか さ—
 とあるのは、鮓売りの売り声は、「すし」といわずに「す う」と大声で威勢よく叫んでいたものらしい。
 江戸で握り鮓が出てきたのは文政(18181829) の初め頃といわれ、それまで鮓の料理といえば、上方風の押し鮓が主だったようだ。
 文政九年(1826) の『柳樽』第百八篇の句に、
       「鮓のめし 妖術といふ 身でにぎり」
 同じく『柳樽』第百十三篇、天保二年(1831)頃の句に、
       「握られて 出来て喰い付く 鮓の飯」
 前の句は、忍術使いなどが両手の指で印を結ぶ手つきと鮓を 握る手つきが似ているというのである。
 天保七年(1836) 刊の『江戸名物詩』という漢詩集に、松鮓、与兵衛鮓という二軒の鮓屋が出ている。『嬉遊笑覧』という江戸の百科事典のような書に、「松鮓出来て世上すし風 一変し」とあることから、本所安宅(あたけ)お船蔵前にあった松鮓が握り鮓の元祖とする説があるが、両国東小路の与兵衛鮓とする説もあるようだ。しかし、 この二店の鮓は非常に高価だったので、ファースト・フード的な安価な鮓が巷にあったともいわれている。握り鮓が川柳に登場してきたのは、「妖術という身で 握り」の句が最初のようだから、多数の料亭が出現し、食が一挙に多様化した十九世紀に入ってから握り鮓が一般化したものか。

しみじみ味わう 江戸のことば
(その二十九)「助炭(じょたん)」

 若い頃はそばなど腹の足しにもならないと見向きもしなかったものだが、歳をとったせいか、この頃はそば屋に行くことが多くなった。
 私は下戸なので、そば屋で一杯やることはないが、呑める相手が一緒だと、交通の便がよい上野池の端の藪そばに比較的よく顔を出す。
 不忍(しのばず)の池に添った一帯は江戸時代からの繁華街で、昭和の頃まで花柳界がある華やぐ町だったが、料亭貸席は姿を消し、今は大分様変わりしてし まった。
 しかし、不忍の池に面した通りには伊豆栄(鰻屋)、十三屋(櫛屋、櫛、即ち九四で加えると十三になる洒落)、また、その一本裏の仲町通りには、蓮玉庵 (そば屋)、宝丹(薬屋)、道明(帯締め、組紐)など老舗がまだまだ頑張っている。
 伊豆栄の鰻は昭和天皇がお好きで、よく召し上がっていたことで有名。
 池の端の藪そばは、道明の斜め前あたりにある。
 初めて連れて行った呑兵衛の客には酒のつまみとして、板わさなどと一緒に焼海苔を注文することにしている。
 すると、小さな木の箱が出てくるので、大抵びっくりする。
 木箱のふたをとると、和紙を貼った浅い木枠がはめ込んであって、その上に焼海苔が載っている。
 枠を除けると、箱の底には小さな炭火が置いてある。(今は化学燃料だが−)
 昔の人は、焼海苔は温かい方が香ばしくて旨い、ということを知っていたに違いない。
 この箱は助炭という。
 池の端の藪そばに限らず、伝統的な古いそば屋で焼海苔を頼むと、助炭が出て来る。
 ご存知なかった方は一度注文してみるとよい。
 なかなか風情があるものだ。

 


しみじみ味わう 江戸のことば
(その二十八)「見立番付(みたてばんづけ)」

 見立番付というのは何かを相撲の番付に見立ててランク付けしたもので、見方は相撲の番付と同じである。
 江戸時代、力士の最高位は大関だったから、東の大関が第一位、西の大関が二位、次いで東西の関脇、小結、前頭と続く。
 ただ、相撲には勝負というはっきりした尺度があるが、他のものにはそれがないので、どうしても番付の編者の価値観や好みに左右されてしまう。
 例えば、江戸の料理屋の番付が何枚かあるが、皆夫々違っている。
 幕末には様々な見立番付が刊行されているが、その中に「為御菜」(おさいのため)という番付がある。欄外に、「日々徳用倹約料理角力取組」とある。
 御菜とは御飯のおかずのことで、江戸庶民の日常の安くて旨いおかずの見立番付である。
 番付は東西ではなく、精進方と魚類方に分かれ、上下は五段、最上段の役力士の載る欄は四季に関係ないおかず、二段目は春、三段目は夏、四段目は秋、五段 目は冬と夫々、季節のおかずが並んでいる。
 もっともポピュラーだったと思われる役力士が出ている最上段を次に挙げる。
 「精進方」、八杯豆腐(大関)、昆布油あげ(関脇)、きんぴらごぼう(小結)、以下前頭として、煮豆、焼豆腐のすまし汁、ひじきの白あえ、切干(きりぼ し)煮付、芋がら油あげ、油あげのつけ焼き、小松菜おひたし。
 「魚類方」、めざしいわし(大関)、むきみ切干(関脇)芝ゑびから煎り(小結)、以下前頭として、まぐろ味噌汁、こはだ大根、たたみいわし、いわし塩 焼、まぐろのき身(刺身か?)、鰹塩漬、鰊塩漬。
 江戸人の食生活が垣間見えて面白い。
 精進方大関の八杯豆腐というのは、オタマで水六杯、酒一杯、醤油一杯の割合で豆腐を煮たものだという。
 試しにやってみたが、結構美味しくて、ちょっと感激した。
 この番付では、野菜と魚の料理を同列に評価するのは難しいので「精進方」と「魚類方」に分け、双方の取組というコンセプトで作ったものと思われ、それが 欄外の傍題「日々徳用倹約料理角力取組」になっているのだろう。

 


しみじみ味わう 江戸のことば
(その二十七)「長命寺の桜餅」

   女房の 焼きながら喰う 桜餅

 この川柳は、山谷(さんや)の葬式を詠んだもの、という。
 桜餅とは向島長命寺の桜餅で、江戸時代から有名だった。
 長命寺の桜餅屋は山本屋と云い、今でも墨田区側の隅田公園の北のはずれ近くにあって、昔ながらの味を伝えている。
 桜餅は今でこそ冷蔵庫に冷凍しておけば、食べたい時に解凍して、柔らかいものを食することができるが、一晩経つと堅くなってしまうので、昔はその日の内 に食べたもので、残って堅くなった桜餅は焼いて食べた。
 そこで、句の意味だが、山谷の葬式では葬式饅頭として、川向こうの向島長命寺の桜餅を出したという。
 葬儀に出た者は、知人や朋輩などの死を目の当たりにして、虚無感に襲われることもあっただろうが、山谷といえば何といっても場所がよくない。吉原が近い のである。
 そこで家に帰らず、吉原で一夜を過ごしてしまうことになる。
 翌日、女房は亭主が持って帰ってきた、堅くなった桜餅を焼いて食べる、というのである。
 桜餅を焼くのと、嫉妬(やきもち)を焼くのとを掛けていっている。
 こうしていわれてみると、川柳もなかなか奥深いものだ。

 


しみじみ味わう 江戸のことば
(その二十六)「こいこく」

 ある時、蜀山人は友人から次のような手紙を受け取った。

  二つもじ 牛の角もじ 二つもじ
    ゆがみもじにて 呑むべかりける

 「こいこく」で一杯やりましょう、という内容である。
 この謎の狂歌のルーツは『徒然草』の第六十二段に出ている延政門院(後嵯峨天皇の皇女、悦子内親王)の歌である。

  ふたつもじ 牛の角もじ すぐなもじ
    ゆがみもじとぞ 君はおぼゆる

 ふたつもじ(こ)、牛の角もじ(い)、すぐなもじ(し)、ゆがみもじ(く)で、「こいしく」となる。
 つまり、あなたを「こいしく」思っています、というのである。
 江戸時代、『徒然草』は知識階級層の人々に広く読まれていたと思われる。
 こうした言葉遊びは、何も江戸時代に限った訳ではなく、昔から日本人は好きだったようだ。
 「こいこく」とは、輪切りにした鯉を入れた味噌汁のことで、漢字では「鯉濃汁」と書く。
 鯉が養殖の普及によって一般化したのは十九世紀に入ってからで、文化・文政(1804〜1829)の頃には、鯉料理の名店が数多く出現した。

 


しみじみ味わう 江戸のことば
(その二十五)「衆」

 江戸時代から戦前まで使われていたのに、今は死語になってしまった言葉に「衆」がある。
 若い衆、芸者衆、役者衆、出居衆などという。
 出居衆(でいしゅう)というのは抱え主を持っていない自前で稼ぐ娼妓、芸者、按摩などや又、居候(いそうろう)を指した語で、若い衆というのは、若い者 という意味の他に、商家の小僧のような若い雇い人もそう呼んだ。
 衆は最初は「しゅう」と発音したと思われるが、やがて「しゅ」と縮めていうようになった。
 「わかいしゅ」「げいしゃしゅ」といった風にである。又、言語学的なことはよく知らないが、衆の前に母音がくる「若い衆」、「出居衆」などは、更に縮 まって「しゅ」が「し」になって、「わかいし」、「でいし」ともいったようだ。(文化、文政頃の書に、「出居仕」とあるのは明らかに「出居衆」のことで、 「でいし」と呼んだ証拠といえるだろう)
 衆は本来複数であるが、単数でも普通に使われた。
 同じような短縮語で「お師匠さん」という言葉も近頃はあまり耳にしなくなった。「おししょうさん」ではなく、「おしょさん」である。
 昔は芸事の先生は師匠といったものだが、今は何でも皆、先生になってしまった。
 時代劇のドラマで、町娘が常磐津や長唄の師匠のことを「おししょうさん」などと呼んでいるのを聞くと、「町娘なら、おしょさんだろう」とつい苦々しく 思ってしまう。

 


しみじみ味わう 江戸のことば
(その二十四)「烏亭焉馬(うていえんば)」

 落語を今寄席でやっているように人前で語るようになったのは、烏亭焉馬からといわれてい る。
 天明四年(1784)四月二十五日に柳橋の河内屋で、狂歌師連や戯作者達が戯れに宝物に擬した物を持ち寄って「宝合わせ」という品評会を開いた。その席 上、焉馬は「花のお江戸太平楽」という自作の巻物を披露した後で、短い落語を二つ、三つやって来客の腹をよじらせたという。
 烏亭焉馬は本姓中村、俗名和泉屋和助、本所相生町の竪川の近くに住んでいたので立川焉馬ともいった。立川を名乗る落語家が今でもいるが、その立川の元祖 である。俳諧、狂歌、戯文に秀れ、本職が大工だったので、狂名を鑿釿言墨曲尺(のみちょうなごんすみかね)といった。五代目團十郎を贔屓にして、義兄弟と なり談洲楼と号した。
 柳橋での成功で味をしめたのか、一年置いた天明六年四月に、焉馬は次のようなチラシを知人に配った。

  「このたび、向島の武蔵屋に、昔はなしの会が権三りやす」

 この文章は蜀山人が書いたものともいう。向島の武蔵屋権三郎とは秋葉権現門前の著名な料理茶屋で「権三りやす」とは勿論、「ござりやす」と洒落ているの である。
 しかし、このチラシには日付が書いていない。が、そこは流石、狂歌師や戯作者達である、これは洒落文で何処かに日付がある筈と、「昔」という字に目をつ けた。「昔」を分解すると、「廿一日」となる。
 四月二十一日の会は大変な盛会だったという。
 墨田区側の隅田公園内の牛島神社に、焉馬の有名な碑がある。

    いそがずば 濡れまし物と 夕立の
    あとよりはるる 堪忍の虹
           談洲楼烏亭焉馬

「夕立」の「夕」と「云う」、また、「虹」と「二字」が掛け言葉になっている。よく「そこは堪忍の二字」などと使う。我慢が肝心という意味である。
 この狂歌は、太田道灌の次の和歌をもじったものだ。

  「いそがずば 濡れざらましを 旅人の
        あとよりはるる 野路の村雨」

 


しみじみ味わう 江戸のことば
(その二十三)「もさ引き」

 元禄以後、十八世紀の初めには江戸の人口は百万人を越えていたという。
 交通網も整備されて上方や地方との交流も盛んになり、多くの人々が江戸にやってくるようになった。
 十九世紀に入った頃、なにがしかの礼金を貰って江戸見物の案内をする者が出てきた。
 それを「もさ引き」といった。「もさ」とは田舎者のことで、田舎者を引き廻すことから「もさ引き」と呼ばれた。

もさひきも 五百のあすは 四十七
もさ引きも 頗るしゃべる 御両山

 初句の「五百」とは現在の江東区大島三丁目辺にあった五百羅漢寺のことで、「さざえ堂」という堂内に百観音を収めた三階建ての建物が有名で、右回りのラ セン状の階段を三回廻って登って行くと最上階に出るが、下りは登ってくる者と出会うことなく下りられたという。その様子が栄螺の内部と似ているというので 「さざえ堂」の名が付いたといわれている。規模は違うが、ローマのバチカン美術館の入口出口も同じような造りである。「四十七」とは、いわずと知れた赤穂 の四十七士のことで、「さざえ堂」を見た翌日は四十七士の墓がある高輪の泉岳寺に案内する予定だというのである。
 次句の「御両山」とは、徳川将軍家の廟所がある、上野東叡山寛永寺と芝三縁山増上寺のことである。(東叡山と三縁山)
 因みに、徳川十五代将軍の内、初代家康と三代家光の墓は日光東照宮にあり、最後の十五代慶喜のみ一人神道で谷中の墓地に、残りの十二人は夫々六人ずつ寛 永寺と増上寺に埋葬されている。二句目は江戸第一の名所の御両山では、もさ引きも大得意で説明をする、というもの。
 それにしても当時の江戸の名所がすべて寺というのも何か時代を感じさせる。

 


しみじみ味わう 江戸のことば
(その二十二)「おっこち」

 いろのことをおっこちといふ、是は今にいふ也。其のころ、御厩河岸(おんまやがし)のわた し船沈みて、溺れたる者あり、其節の狂句に
「おっこちが 出来てわたしが いやになり」

 これは幕末の『わすれのこり』という本の一節である。「いろ」とは彼氏、彼女といった情人のことで、御厩河岸とは今の厩橋の辺りの川岸を指し、江戸の初 期、幕府の厩があったことからその名があるという。
 江戸時代、隅田川には四橋しかなかったが、橋と橋の間には数多くの渡しがあった。
 御厩河岸の渡しは、「御厩の渡し」の他に、「文珠院の渡し」とか、「三途の渡し(さんずのわたし)」といわれていたようだが、「三途の渡し」などという 縁起でもない呼称は、前に挙げた『わすれのこり』に出ている渡し船の事故から付いたと思われる。
 その事故は天保九年(1838)十一月十六日の朝、折からの強い南風に煽られて船が傾き、乗客は川の中へ投げ出されて、四人の死者が出た。
 その日は対岸の本所側の秋葉(火伏せの神様)の祭礼で、船には大勢の人が乗っていたという。
 狂句の意味は説明するまでもないと思うが、「船から落ちて死人がでるような事故が起きてから渡し船がいやになった」というのと、「(彼氏に)ほかに彼女 が出来て私がいやになった」とを掛けていっているのである。「落っこちる」と「おっこち(情人)」、「渡し」と「私」が掛け言葉になっている。
 「御厩の渡し」は江戸訛りで「おんまいのわたし」と土地の者はいっていたらしい。渡し場があったのは今の厩橋よりもう少し下流の場所だったという。

 


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(その二十一)「テンで話が違う」

 江戸時代、文禄三年(1594)に建造されたといわれる千住大橋より下流の隅田川には、次 の四橋しかなかった。
 架けられた年代順に挙げると
 (一)両国橋(万治二年、1659)
 (二)新大橋(元禄六年、1693)
 (三)永代橋(元禄九年、1696)
 (四)大川橋(安永三年、1774)今の吾妻橋
 隅田川にはこの四橋しかなかったが、これには江戸の防衛上の戦略的な意図があったと思われる。
 一方、水路が入り組んだ江戸市中には無数の橋があったが、江戸には三つの橋しかない、といわれた。
 勿論、言葉遊びのジョークだが、それは、日本橋(ニホンバシ)、永代橋(エイタイバシ)などのように殆どの橋は「×& amp; amp; amp; amp; amp; times;バシ」であって「ハシ」ではないのである。
 三つの橋(ハシ)の中のひとつは新大橋(シンオオハシ)だが、あとの二つは忘れてしまった。あまり馴染みのない名だった気がする。
 江戸時代の文書は濁点を省略して書くのが普通なので、紛らわしいことが往々ある。濁点を打つと全く別物になったり、別の意味になったりするので始末が悪 いが、その落差の大きいのを探すのも一興で、昔から落語などの種になっている。
 例えば、「釜の上の蓋」(カマノウエノフタ)は「蝦蟇の上の豚」(ガマノウエノブタ)になる。
 落語に出てくる狂歌に次のようなものがある。
 「世の中は澄むと濁るで大違い
    刷毛(ハケ)に毛があり 禿(ハゲ)に毛がなし」
 「世の中は澄むと濁るで大違い
    墓(ハカ)は静かで 馬鹿(バカ)はうるさい」
最後の「墓は静かで 馬鹿はうるさい」という文句が笑わせる。

 


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(その二十)「一斗二升五合」

 江戸の言葉遊びの文化は十八世紀の後半、川柳に続いて蜀山人らの狂歌のブームが興ってピー クに達した。
 いま流行っている言葉遊びのルーツは殆どその頃にあったといってよい。
 例えば、「六本木」を「ギロッポン」、「うまい」を「まいう」などと言葉をひっくり返していう、所謂業界用語も、当時は、「くち」を「ちく」、「しりま せぬ」を「りしませぬ」等々、「とぐり言葉」といって結構使われていた。『浮世床』や『浮世風呂』の作者、式亭三馬は流行語に敏感で、作中によく取り上げ ている。
 先日、テレビのクイズ番組を見ていたら、
ある商店の表に、「春夏冬中」と書いた札が出ていたが、何と読むか?—
 という問題があった。
 答えは「商い(秋無い)中」である。
 近頃はあまり見かけなくなったが、地方の居酒屋などに行くと、今でも、開店祝いに贈られた「春夏冬二升五合」と書いた縁起物の額の油や煤で黒くなったの が掛かっていることがある。「二升五合」は「益々繁盛」と読む。「升々(益々)」で「二升」、「五合」は一升の半分で「半升(繁盛)」である。
 大分昔のことになるが、東北の小さな町の呑み屋に、次のような額があった。
        一斗二升五合
 さて、何と読む?
 ヒントは、二升五合と同じような考え方といって置こう。
 前の「春夏冬二升五合」より、この方が単位も一緒で、すっきりしている。
 答えがどうしてもわからない方は当事務局 info@chikyukotobamura.org にお問い合わせの程。

 


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(その十九)「袋持」

 疱瘡(天然痘)が猛威を振っていた江戸時代には、疱瘡に関する迷信、呪い(まじない)、治 療法など様々あり、それに関連した言葉も多数あったが、種痘の普及により疱瘡が世上から姿を消すとそれらの言葉も死語となり、意味が分からなくなるものも 出てきた。
 その一つが「袋持」(ふくろもち)である。
 明治以後、その意味の解明に研究者は随分苦慮したようだ。
 昔は疱瘡に罹らない者のほうが珍しく、感染しない者を江戸の中期頃、「袋持」といった。
 語源は、袋を持った供の者は後から来るので、後になることを「袋持」といったことから、まだ疱瘡に罹らない者を同様に「袋持」と呼んだらしい。

                またぐらの 御無心にあふ 袋持
                美しい筈 大黒は 袋持

 二句共、『柳多留』の句である。「袋持」は羨望の的で誰でも出来ればあやかりたいと思うの が人情である。
 当時、「袋持」の股をくぐると疱瘡に罹っても軽く済む、という俗信があったようで、それが此の前の句である。
 後の句にある「大黒」とは寺の住持の女房のことで、大黒天が大きな袋を持っていることと、女房が「袋持」であることを掛けていっている。
 この「袋持」という言葉は、疱瘡に効くという迷信から世間に通用していたと思われるのだが、どうもその呪いも効果がないと分かって、やがて使われなくな り、十八世紀末には死語になってしまったようだ。             

 


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(その十八)「いも顔」

               子葉は少しいくびにて いも顔也
                  ばせを翁はうすいもあり

 これは二代目市川團十郎(1688〜1758)の日記『老いのたのしみ抄』の一節である。
 抄というのは、完本は失われて山東京伝が抄出したものだけが伝わっているからである。
 子(し)葉(よう)というのは赤穂四十七士の一人、大高源吾の俳名で、ばせを翁とは松尾芭蕉である。
 「いも」というのは疱瘡(ほうそう)に罹って出来たブツブツのことで、「あばた」といったほうがわかり易い。
 大高源吾は猪首であばた面だった、芭蕉は薄いあばたが顔に残っていた、というのである。
 疱瘡(天然痘)は種痘法が普及した今日ではすっかり忘れ去られているが、江戸時代、子供の死亡率のトップは疱瘡によるものだったといわれている。江戸に 種痘所が出来たのは安政五年(1858)のことである。
 十八世紀の初頭、「いも」といえば里芋のことで、青木昆陽がサツマ芋の栽培を始めたのは享保十九年(1734)、じゃが芋が一般に出廻るのは十八世紀の 後半以後である。
 あばたを「いも顔」と称したのは、里芋のゴツゴツした見かけに例えていったものと思われる。
 二代目市川團十郎は俳号を栢莚(はくえん)と云い、俳諧を通じて宝井其角などの芭蕉十哲や大高源吾ら、赤穂浪士とも親交があった。
 大高源吾と其角の次のエピソードは講談でよくしられている。
 笹売りに扮して吉良邸の様子を探っていた源吾は、討ち入り前日の元禄十五年(1702)十二月十三日、両国橋の上で其角とばったり出会った。其角が、 「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と詠むと、子葉の源吾がその後に、「明日(あした)待たるる その宝船」と付けたというのである。
 「明日待たるる」で、翌日の討ち入りを暗示し、胸中をそれとなく伝えたものという。

 

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(その十七)「花柳界・花街」

 色里に通い詰めて身を持ち崩すことを「花柳に迷う」などという。
 「花柳」という言葉は、花柳の巷、花柳界のように今でも使われているが、語源は中国で、唐の詩人李白の詩から来ているといわれている。
 李白は西暦758年に反逆罪に連座して夜郎という僻地に流されることになったが、その時、辛判官という者に贈った詩の冒頭に、

                      昔在長安酔花柳
                  (昔、長安に在りて、花柳に酔う)

 とある。この「花柳」が語源とされている。日本では、花といえば桜だが、中国では桃の花ら しく「花柳」の花とは桃の花を指している。
 服部良一の名曲、「蘇州夜曲」の作詞は西条八十だが、その一節に

                    髪に飾ろか 口づけしよか
                    君が手折りし 桃の花

とあって、やはり桃の花が出てきている。
 花柳の巷、花柳界は「花街」という別な云い方もある。
 江戸時代の洒落本には、「花街」を「サト」とか、「クルワ」と読ませるものもあるが、これは吉原のことをいっているようだ。「花街」は昔、少なくとも戦 後間もなくの頃まで、「カガイ」と音でいっていたが、「花街の母」などという歌謡曲が流行った時分からだろうか、今では「ハナマチ」と訓でいう方が普通に なってしまった。

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(その十六)「れんじ窓」

近頃の流行歌の歌詞を聞いたり見たりすると、言葉が少し多過ぎる気がしてならない。
 メロディーが先に出来て、それに合う言葉を考えることの方が多いからかもしれない。
 江戸の文化人は皆、俳諧の素養があったので、少ない言葉を効果的に使って表現する技術を心得ていたようだ。
 —ねながらに 煙管で開けるれんじ窓
  アレ、 見やしゃんせ この雪に 鳥もねぐらを 離りゃせぬ—
 これは江戸時代の小唄である。「れんじ」というのは格子のことで、当時の家の窓は皆れんじ窓で、内側に明かりとりの障子がはめてある。(ガラスは高価 で、まだ普及していない)内容は次のようなことである。
 「朝(多分、少し遅い朝)、四畳半の部屋の一つ夜着の中で目覚めた男女。女は色里の女、男は馴染みの客。物音一つしない静けさ、襟元に感じるゾッとする 寒さ、れんじ窓の障子がボウッと明かるい。もしや、と思って、女は枕もとの煙管を取って、ふとんの中から腕を伸ばして窓の障子を煙管の先で少し開けてみる と、案の定、外は霏霏と降る雪。」
 「ごらんなさいな」と女はいう「こんなに雪が降っていては鳥だってねぐらに入った切りで、出てきやしない。お前さんも今日はこのまま居続けになさいな」
 ねながら煙管で窓の障子が開けられるのは四畳半でしかない。
 江戸時代の小唄は歌詞は残っていても、節の失われてしまったものが多い。
 この「ねながらに」の歌は今も唄われているが、明治になって、残っていた江戸の詞章に新たに節付けしたものといわれている。


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(その十五)「長つと」


あとはいらへも長つとの
  油かをりてなまめかし
    (清元「夕立」)

 この清元は「白浪五人女」の芝居で、須走りお熊という女が色仕掛けで男をたらし込む場に使われた曲で、作詞は河竹黙阿弥である。
 「つと」とは、日本髪の後ろへ張り出した髱(たぼ)のことで、「いらへ」は返事である。
 この歌詞をわかり易く書き直すと、
 「(何かいった男に対して)女は(返事もしないで)黙っている。その長つとの髪油の匂いが薫ってなまめかしい」
 となるが、原文をよく味わって読み返すと、なかなか含蓄のある文章とわかってくる。
 「長つと」とは、「つと」を長く結うことだが、長くしたら着物の後ろの襟に触れてしまう。しかし、粋筋の女性は襟を抜いて着物を着るので、その心配はな い。つまり、長つとの女といえば、色里の女ということになる。女の沈黙の間が長いのと、長つとを掛けていっているようだ。
 襟を大きく抜いて見せる襟足は色町の女のコケットリーである。その白い襟足に長つとの黒髪が懸かる風情は艶冶(えんや)で、男心をかき乱されずにはおか ない。「長つと云々」の文句から、女が男に背を向けているのがわかる。多分、男に背をもたせかけて坐っているのだろう。それは、長つとの髪油がなまめかし く薫って男心を蕩然とさせつ、間近な距離なのである。
 こんな短文の中に、これだけ含みのある内容を盛り込めるのは、黙阿弥の筆の力だろう。
 やはり黙阿弥は只者ではない。



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(その十四)「聞き句」

 上野池の端の著名なソバ店、蓮玉庵に行くと、壁に西山宗因の「やがてみよ 棒くらはせん そばの花」という句を書いた大きな額が懸 かっている。
 宗因の代表作の一つだが、ソバの縁語で洒落ただけの句で、別に深い意味はなさそうだ。
 芭蕉以前の俳諧は、こういう諧謔的なものだったという。
 前回とりあげた其角の「闇の夜は」の俳句は、古句の「闇の夜は 松原ばかり 月夜かな」を踏まえて作ったともいわれている。
 この句は、初句で切ってしまうと意味が通じない。「闇の夜は 松原ばかり」で月夜の句なのである。つまり、明るい月夜であるが、松原の中ばかりは生い 茂った枝が月光を遮るので闇夜だ、というのである。
 こういう句を「聞き句」と云い、それについて向井去来は『去来抄』の中で次のようにいっている。
「むかし、聞句といふ物あり。それは、句の切様、或はてにはのあやを以って聞ゆる句也」
 其角の「闇の夜は」の句も聞き句ということである。
 次に、聞き句をいくつか挙げる。各自考えるのも一興と思い、解釈は省略*した。

  涼風は 川端ばかり 暑さかな

  五月雨は 山路ばかりや 水びたし

  嗅いでみよ 何の香もなし 梅の花

  白鷺の 巣立ちの後は からすかな

  二人行き ひとりは濡れぬ 時雨かな

* わからなくて気になる方は事務局info@chikyukotobamura.orgへお尋ねください。


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(その十三)「闇夜、月夜」

 新春の歌舞伎座の夜の部は、團十郎の助六だった。
 助六の芝居で、恋人の揚巻が花道から出てくるとき、BGM担当の下座の連中が
「闇の夜に、吉原ばかり、月夜かな」
 と唄う。この唄の文句は宝井其角の俳句で、『五元集』という彼の句集に載っている。
 闇夜なのに、吉原だけは煌々と灯火をつけて、あたかも月夜のように明るい。
 という意味にとれる。しかし、その解釈に異を唱えたのは幸田露伴で、其角がそんなありふれた句を詠むわけがない、というのである。
 実は、『五元集』に出ている其角の句は、初句が「闇の夜は」であって、「闇の夜に」ではないのである。「闇の夜に」といってしまうと、この句は闇夜の句 になって、解釈も前に挙げたようなものになるが、「闇の夜は」とすると、そこで切れば闇夜の句になり、句の意味は変わらないが、「闇の夜は、吉原ばかり」 と第二句で切ることも可能になるのである。つまり、闇の夜は吉原ばかりで、世間一般は月夜だという、月夜の句にもなり得るのである。
 これでは意味が通じないと思う人もいるかもしれないので、江戸の事情をちょっと説明。
 江戸時代、燈油やローソクは非常に高価だったので、夜明けと共に起き、日暮れと共に床につく、というのが一般庶民の日常だったようだ。
 従って、句の解釈はこうなる。
 灯火をつける必要がない程、明るい月夜なのに、吉原だけは、あたかも闇夜のように明々と灯をともしている。
 しかし、「に」と「は」を替えただけで、こんなに意味が逆転してしまうようなデリケートな実例に出会うと、文章を書く時、どうしても神経質になってしま う。本当に「てにをは」の使い方は難しい。


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(その十二)「一期一会」

前回、裕庵焼という料理について書いたが、会席料理には千利休の名のついた料理もある。
 裕庵焼と同様、利休自身とは特に関係はないようだが、利久煮、利久揚、利久和えなど、ごまを使用した料理で、面白いことに料理の方では利休ではなく、利 久という文字になっている。これは千利休という偉大な人物の名をそのまま使うのを憚って、休を久に変えたのだという。
 他に利休の名がついたものといえば、色の名称がある。
 利休白茶(シトロン グレイ)利休茶(ダスティ オリーブ)利休ねずみ(セラドン グレイ)等々。
 これらは利休が好んだ色ともいうが、いま一つ、はっきりしたことはわからない。
 北原白秋の「城ヶ島の雨」に出てくる利休ねずみは、明治になって出来た名称だという。
 よく耳にする「一期一会」という言葉は千利休がいったということになっているが、実はそうでないのである。
 利休は、「一期に一度」といったが、「一期一会」とはいわなかった。
 いっていることは同じであるが、「一期一会」という言葉を使ったのは、安政七年(1860)三月三日(三月十八日に万延と改元)、桜田門外で水戸浪士達 の凶刃に倒れた大老、井伊直弼である。
 直弼は、片桐貞昌を祖とする石州流の茶道を学び、宗観と号した。茶道に造詣が深く、茶の湯に関する著書もある。
 その中の『茶湯一会集』に、「茶の湯の交会は一期一会」と出てくる。
 言葉の意味は同じだから、どちらでもいいことかもしれない。


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(その十一)「裕庵焼」

日本料理のメニューに裕庵焼という料理がある。
 魚を裕庵汁につけ込んで置いて、これを串に刺して焼いたもので、裕庵汁とは料理本によれば、醤油五、ミリン三、酒二の割合を基本にして合わせたもの、と ある。
 この裕庵とは北村裕庵のことであるが、並外れた味覚の持ち主、北村裕庵にあやかって付けた名称らしく、裕庵本人とは特に何の関係もなさそうだ。
 北村裕庵は、近江八景の一つ、堅田の豪農で茶人、造園家でもあったという。
 名を政従、号を裕庵、幽安、道遂などといった。
 裕庵焼をよく、幽庵焼とか、裕安焼などと書いた料理屋の「おしながき」を見かけるが、これは裕庵と幽安という二つの号を混同した間違いである。
 裕庵の味覚がいかに秀れていたかを示すエピソードがいくつか伝わっている。
 茶人の裕庵は茶を立てる時、いつも琵琶湖の決まった場所の水を下僕に汲みに行かせていたが、その場所が遠方だったのだろう、同じ琵琶湖の水なら何処も一 緒で分かるまいと近くの水を汲んで帰ると、これは何処其処の水であろう、と汲んできた場所まで云い当てること神の如くだったという。
 又、ある人に豆腐の田楽をご馳走になった時、この田楽の串の竹はこの近辺の竹ではなく、遠方の竹だろうと裕庵がいうので、そのことについて何も聞いてい なかった主人が台所に問い合わせてみると、浪花から荷物を担いできた竹を削って作った串とわかった。
 裕庵は伴蒿蹊の『近世畸人伝』に、「享保(1716〜1735)の中比(なかごろ)まで有りし人にや」とある。裕庵の茶道の師は、千宗旦の弟子の反古庵 藤村庸軒という。


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(その十)「会席料理」

懐石料理とは別な会席料理というものがある。
十八世紀の半ば以降、江戸には多数の料理屋や貸席が出現して、其処で俳諧や川柳、狂歌などの会が頻繁に催されるようになる。
その席で供される料理を、懐石と会席が同じ発音であることから会席料理と呼ぶようになったといわれている。
いわゆる洒落である。
大料亭の濫觴(らんしょう=起源)は州崎に出来た升屋祝阿弥で、明和八年(1771)のことという。
江戸随一と称された八百善の開店は、その三十数年後の享和(1801〜1803)年間のことである。
升屋は別名を「望汰欄」(ぼうだら)と云ったが、それは松江藩主松平宗衍(まつだいら むねのぶ)の命名という。「ぼうだら」とは江戸語で、酔っぱらいの ことである。
宗衍は茶人大名として有名な松平不昧公の父で、浄瑠璃の富本節の後援者でもあった。
こうした言葉遊びの文化が盛んになったのは宝暦頃からである。
江戸長唄の短い独吟物を「めりやす」というが、この名称が初めて登場するのは宝暦三年(1753年)の中村座で、まだ長唄が単に歌舞伎の伴奏音楽でしかな かった時代である。
長唄が邦楽の一ジャンルとして確立したのは宝暦十年頃のことである。
今では、この「めりやす」という名称はメリヤスのシャツなどという、あのメリヤスから来ているという説が有力となっている。
メリヤスは延宝(1673〜1680)頃の落陽集という本に、「唐人の古里寒しめりやすの足袋」とあるそうで、かなり古くからポルトガルかオランダから伝 わっていたようである、
歌舞伎の舞台で役者の所作に合わせて、速くも遅くも演奏出来ることから、メリヤスの生地が伸び縮みすることにかけて「めりやす」と呼んだというのである。
確かに、時代的にはありそうな話である。

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(その九)「懐石料理」

懐石とは茶道の料理のことだが、元は懐に温石を入れた程度にちょっとおなかに何かを入れる、夜食、点心の意味の禅家の言葉から来てい る。
 千利休は「南方録」の中で、
「小座敷ノ料理ハ汁一ツサイ二ツ三ツカ、酒モカロクスベシ。ワビ座敷ノ料理ダテ不相応ナリ」
 と云っているように、元来、禅林風の簡素な料理だったが、時代と共にだんだん立派な料理になって行った。
 洋の東西を問わず、昔の王侯貴族の料理といえば、権威と富を誇示するため、贅沢な料理を目の前に一ぱい並べる空間型のスタイルであるが、今日の懐石料理 では、料理が一品ずつ出てくる時間型スタイルになっている。
 一汁三菜程度なら、狭い茶室内でも一度に料理を並べて出せるが、料理の種類が多くなったら身動きがとれない。
 茶道には、料理の提供の仕方について書かれた文献はないようだが、懐石料理が時間型になった最大の要因は、やはり茶室の物理的な狭さだろう。
 利休以後、茶道を嗜む大名が増え、懐石料理が次第に豪華になるにつれて、空間型から時間型に移行して行ったものと思われる。それは多分、十六世紀から十 七世紀の初頭にかけてのことだろう。
 西洋料理のレストランでコース料理を注文すると、やはり一品ずつ料理が出てくるが、こうした時間型スタイルはロシヤ式サービスといって、それがヨーロッ パに広まったのは十九世紀のことである。
 フランス革命後もフランスでは従来の空間型スタイルが続いていたが、ロシヤの貴族、オルロフ公の専属料理人としてロシヤへ行っていた著名なシェフ、ユル バン・デュボワが帰国して自分の料理にロシヤ式サービスをとり入れたのは一九六〇年代のことである。
 それからロシヤ式サービスがヨーロッパ中に浸透して行ったという。
 ロシヤ式サービスの起源についてはよくわからないが、ロシヤは寒冷地であることから、温かい料理を冷めない内に出すやり方が自然に定着していったものと 思われる。

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(その八)「灰汁(あく)」

日本の染色技術は、都のあった京都を中心に発達した。
 室町時代の初めには、種々の座というものが出来て、京染は分業化、専門化して行った。
 灰をアルカリ剤として染色に利用することは、かなり昔から行われていたようである。
 灰を水で溶いて濾したものを灰汁(あく)といった。
 原料の灰の吟味、灰汁の作り方、灰汁の使用法など、経験と熟練を要し、京染には灰汁漬屋(あくづけや)という専門職があった。
 京染が優れていたのは、偏に灰汁漬屋の存在に負うところが大きいといわれている。
 江戸の初期、島原遊郭が出来る前、京都の遊郭は六条三筋町にあった。
 その三筋町で全盛と謳われた遊女、吉野太夫を落籍して妻にしたのは佐野紹益である。
 寛永八年(1631年)のことという。
 時に、吉野二六才、三つ年下の紹益は二三才だった。
 この吉野は、徳子といった二代目の吉野太夫である。
 佐野家は紺灰を商って産を成した豪家で、紹益は俗に灰屋紹益と称した。
 紺灰とは、藍染に用いる灰のことである。
 伝えられるエピソードによると、徳子は美しいばかりでなく、謙虚で優しく奥床しい女性だったようだ。
 相思相愛で結ばれた二人の幸せな生活は十二年続いたが、徳子は病に罹り不帰の人となった。享年、三十八才。
 紹益の悲嘆は極みに達し、徳子への愛着の思い絶ち難く、その荼毘(だび)の骨を全て食べ尽くしたという。

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(その七)「花色木綿」

 前回(その六)、万葉の時代、黄色は青系統の色だったと書いたが、すべての黄色がそうであった訳ではなく、オレンジ系の黄色などは赤 系に入っていたようである。
 古代の日本には、独立した黄色の概念がなかったので、赤か青の二つの系統に分けるとなると、赤系に入る黄色もあり、青系の黄色もあったのである。
 紫も、紫草の紫は赤系だったが、紫は赤と青の中間色であるから、青の強い紫は青系だったと思われる。
 因みに、藍染の紺は見かけは正に青だが、実は藍の単一染ではなく、赤味を含んだ濃い青で、英語名はパープル・ネイビーである。
 補足をもう一つ。「浅黄裏」とは、地方出身の武士達を馬鹿にした言葉であるが、「浅黄」という色そのものをけなした訳ではないのである。
 「浅黄裏」の地方武士に対して、いきな江戸人はどうだったかというと、着物の裏地は「花色木綿」だった。
 花色という字からは、ぱっと華やかな色を想像してしまうが、実は花色とは縹色(はなだいろ)のことで、藍の単一染の青で、英名はセルリアン・ブルーであ る。
 花色という名称は、鴨頭草(つきぐさ)といった露草の青い花汁を用いて摺染したことに由来するが、後に藍染の青を呼ぶようになったという。
 では、藍色とはどんな色かというと、藍の単一染(これは花色)ではなく、藍染の青に黄色を加えた、やや緑がかった暗い青色のことで、英名はマリン・ブ ルーである。
 江戸時代の人々の多くは藍染の着物を身につけていた。染物屋といえば、紺屋と呼ばれた藍染屋のことで、紺屋は「こんや」とも「こうや」ともいった。
 紺屋に関する諺
     「紺屋の明後日(あさって)」
      −期日がアテにならないこと−
     「紺屋の白袴」
      −他人の世話ばかりやいて自分のことにかまわないこと。「医者の不養生」などと同じ−
 これらは今でも時に耳にすることがある。
 又、ごく薄い藍染の青で、「瓶覗」(かめのぞき)という色がある。
 英語ではホリゾン・ブルーに当たる。
 しかし、「瓶覗」とは何とも云い得て妙、江戸の洒落ッ気を感じさせる名称である。

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(その六)「浅黄裏(あさぎうら)」

万葉の時代、色の名称は赤青白黒の四つしかなかったという。
 紫、紅などというのは、夫々、紫草、紅花といった具体的なものにたとえた表現なので、純粋な色の名称とはいえない。
 四つの色の名称の内、いわゆる色は赤と青しかないので、全ての色はこの二つの色の系統に入っていた。
 例えば、紫は赤系統、緑は青系統だった。
 現代の我々もあまり抵抗なく「木々の葉が青々と繁る」などと使っている。
 緑というのは、元は「草木の新芽」をいった言葉で、今でも「嬰児(みどりご)」、「みどりの黒髪」などといった語に名残をとどめている。「嬰児」とは 「(新芽のような)生まれたての子」のことで、「みどりの黒髪」とは、「(新芽のように)生き生きした黒髪」ということで、「みどり」を色と思ったら「み どりの黒髪」など、何のことやら、訳がわからない。
 面白いのは黄色で、黄は青の系統に入っていた。ちょっと不思議な気がするが、明治以降でも、日本各地で黄色を青と表現する地方が結構あったそうである。
 江戸時代、参勤交代の主君に従って、大勢の家臣達が江戸に出てきたが、彼等は殆ど単身赴任で、金も無く、言葉はお国訛りで、江戸の風俗習慣も知らず、何 かにつけて江戸人の嘲笑の標的になった。
 彼等の多くは着物の裏に浅黄木綿の裏地をつけていたことから、浅黄裏と呼ばれた。
 浅黄色とは浅い緑青色のことで、英語でいえば、ブルー・ターコイズである。
 浅黄は元は浅葱と書いたが、平安中期以後、浅黄とも書くようになった。
 浅黄は間違いで、浅葱と直すべき、と学者は主張するが、もしかしたら、黄色を青系統の色とした、古くからの慣習がそのまま引き継がれて、そうなったのか もしれない。
 浅黄裏以外にも、武左衛門、新五左衛門、略して武左、新五左など、いずれも地方出身の武士達を「田舎侍」と揶揄した軽蔑語である。

しみじみ味わう 江戸のことば
(その五)「口も八丁 手も八丁」
「通い馴れたる土手八丁」(長唄『吉原雀』)

 よし原雀というのは葦切り(よしきり)の異名で、その「よし原」という名称と、かまびすしい鳴き声を付会して、吉原へやってくる嫖客 のことを指していった言葉である。
 土手というのは日本堤の土手で、元は暫々氾濫する荒川の防水堤として元和六年(1620)に築かれたもので、土手の北側に山谷堀があった。
 土手八丁の八丁とは江戸八百八町などと同類の表現で、実際の距離は十三丁だったという。吉原の大門は土手の中程にあった。
 口も達者で、何をやらせても上手にこなす人をよく「口も八丁 手も八丁」というが、これは「大門口まで八丁 土手八丁」の洒落である。
 同じ「吉原雀」に又、次のようにある。

 「見ぬようで見るようで
      客は扇の垣根より
        初心かわゆく前渡り」

張見世については前回(その四)に述べたが、六ツ時(酉の刻)になると、鈴を鳴らし、それを合図に三味線番の新造が菅掻(すががき)と いう賑やかな曲節を弾き始めると、遊女たちは道に面した格子の間に行って並んで坐った。
 新造ちは姉女郎付きの若い遊女のことで、菅掻とは清掻とも書き、唄のない三味線だけの演奏を意味した。
 男たちは格子越しに女性たちの品定めをしながら道を往来する。
 その中で、若いウブな男は恥ずかしくて、遊女達の顔をまともに見ることが出来ず、扇で自分の顔を隠しながら、扇の紙の張っていない、要(かなめ)近くの 骨の間から覗き見しながら、格子先を歩いて行くといった風景であるが、「扇の垣根より」という表現が何とも心憎い。

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     (その四)「ひやかし」

 「千早ぶる
かみすき橋を夕越えて
八百善にてや 月 待乳山(まっちやま)」

これは太田蜀山人の狂歌である。かみすき橋とは山谷堀に架かっていた橋で、八百善とは云うまでもなく江戸随一の料亭で、かみすき橋の更に下流の吉野橋(昔 は山谷橋といった)のたもとにあった。

 有名な「夕暮れ」という端唄に、「月に風情を待乳山」と詠われている月の名所待乳山は八百善のすぐ目の前だった。(山谷堀は今、埋め 立てられて山谷堀公園になっている)

 かみすき橋は紙漉き橋で、その辺りに紙漉き場があったことから、その名がついた。其処で漉かれる紙は浅草紙といわれる、紙としてはあ まり上等なものではなかった。

 紙漉きには材料を冷やして置く工程があり、その間、紙漉きの職人達は何もすることがないので、近くの吉原へ出かけて行って軒を並べた 妓楼の前をぶらついて時間つぶしをした。

 吉原の遊女屋は道に面した所が格子造りになっていて、その中に店の遊女達が並んで坐って客待ちをしている。それを張見世(はりみせ) といった。

 男達は格子の外から女達を眺めて、気に入った女性がいれば、客として登楼するが、いなければ、他の店を覗いて廻って相手捜しをする。

 しかし、紙漉き職人達は時間かせぎに来ただけで、客になる気は初めからないのである。

 今では一般の商店などで、品物を買う気もなく、ただ見て廻るだけの客を「ひやかし」というが、これは山谷堀の紙漉き職人の暇つぶしか ら出来た言葉だといわれている。

 素見(すけん)という言葉もあるが、これは文字通り、ただ見るだけの意である。

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     (その参)「岡場所」

 吉原は幕府公認の遊廓だった。従って、吉原の遊女は公娼である。

 吉原は初め、今の人形町、堀留の辺りにあったが、明暦二年(1656)浅草寺裏の山谷近くの地に移された。移転後の吉原を新吉原、旧 吉原を元吉原といって区別している。

 幕府は治安上、風紀上の理由から、公娼制度をとり、一定の場所、江戸では吉原遊郭だが、その吉原以外の場所での売春を禁じたが、江戸 市中には私娼も大勢いた。

 私娼の取り締まりは町奉行所の役割で、暫々(しばしば)私娼狩りを行って、検挙した女達は罰として吉原に収容して遊女とした。

 この私娼の手入れを警動(けいどう)といった。

 度々警動を実施しても、結局はいたちごっこで、私娼を根絶することはできなかった。

 公許の吉原を除いた、私娼達の巣くう場所を岡場所といった。「岡」とは正規でないという意味で、今でも岡惚れ、岡目八目といった言葉 に残っている。

 岡っ引き、というのも、彼等が正規の役人ではなかったからの称で、町奉行所の町廻り同心などが手先として使った一種の雇い人で、その 費用は奉行所の廻り方の経費から出ていたという。

 家来の家来を又者という。同心は直参だが、岡っ引きは又者である。スケールは違うが、大名の家来の所謂陪臣も又者である。直参の幕臣 達は陪臣を軽く見ていたようだが、陪臣の中には大名に匹敵する高禄の者もいた。大名というのは禄高一万石以上の者で、幕末にはに二百六十七家あった。萩藩 毛利家の家老、吉川家は岩国六万石で、六万石以上の大名は八十一家(三割弱)しかなかった。吉川家の江戸出府の時の行列は、二本槍を先頭に立てての由緒あ る大名並みの格式だったという。

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     (その弐)「御見(ごげん)」

「またの御見をたのしみに
帰したあとでふうわりと鳥が啼く
君は今 駒形(コマカタ)あたりなんとなく
昔も今も変わらじと
人のなさけと恋のみち」

 これは、小唄「またの御見」の歌詞である。「御見」とは逢うことで、唄い出しは、「また逢う日を楽しみに男と別れた後で鳥が鳴いた」 というのである。この文句からだけでは、帰した君が男なのか、女なのか、分からないが、続いて前回(その壱)に挙げた「君は今 駒形あたり ほととぎす」 という高尾の句が出てくるので、この唄は吉原の女性の気持ちを詠ったもので君というのが客の男性と想像がつく。

 好いた同士なら少しでも長く一緒にいたいと思うだろうから、別れるのが辛い筈だが、この唄の女性は割りとさっぱりしているようだ。廓 の女だからだろうか。

 男女が逢って別れる時、男と女とどちらが未練がましいだろうか。やはり女性だろう。

 別れるのが辛いといってメソメソされたら、それを振り切って行くこともできず、男は当惑してしまう。そんな時、キザな男はこういうそ うである。

「別れなきゃ、また逢えないじゃないか」

 正に、逢ってうれしいのは別れていたからに外ならない。

 キザは気障(きざ)と書く。気障は初め、気懸かりという意味だったが、気障(ざわ)りという意味に変わってしまった。

 気障と似たような言葉に、けうといという語がある。語源は、気疎い からきているというが、けうといと書いて、きょうとい と読む。 興醒めとか、不愉快の意である。

 気障という言葉は今でもたまに耳にするが、けうといは死語になってしまった。

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     (その壱)「いふし」

「いふしは波の上の御かいらせ
屋形の首尾は如何おはしまし候や
忘れねばこそ思いださず候
              かしく
君は今駒形(コマカタ)あたりほととぎす

 これは吉原三浦屋の遊女、高尾が仙台侯伊達綱宗に送った、有名な手紙である。

「いふし」(発音はyu-shi)のしは接尾語で「昨夜(ゆうべ)」のことである。主として遊里の女性たちが使ったことばで、「今日 (きょう)」は「けふし」(kyo-shi)、「先刻(せんこく)」を「せんし」などと使った。
 いつも貴方のことを思っていて忘れたことなどないので思い出しはしません、という殺し文句である。

 日本人はこのロジックが好きだとみえて、室町末期の『閑吟集』に「思い出すとは 忘るるか 思い出さずや 忘れねば」とあり、また江 戸時代末のドドイツには「思い出すよ(やう)じゃ 惚れよ(やう)がうすい 思い出さずに忘れずに」と出ている。

 伊達綱宗の吉原通いは17世紀後半のことであるが、綱宗の相手は高尾ではなく、高島屋の薫という遊女だったという。

 それが史実だとすると、高尾の手紙はありえない。

 有名な高尾の手紙は後人の誰かの偽作ということである。

 最後に手紙の文句の「波の上の御かいらせ」についてだが、当時仙台藩の屋敷は今の新橋駅付近にあったので、船で吉原通いをしたとみて 「波の上の御帰らせ」といったのである。