地球ことば村
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【地球ことば村・世界言語博物館】

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ボスニア語

ボ スニア語というのはバルカン半島中央にあるボスニア・ヘルツゴビナの公用語の一つです。この国はボスニア・ヘルツゴビナ連邦とスルプスカ共和国という二つ の国から構成される連合国家とされています。ボスニア・ヘルツゴビナはかつてユーゴスラビア連邦を構成する地域でしたが、この南スラブの大きな連邦が 1991年に崩壊して、それとともにそれを構成する民族同士でおぞましい限りの内戦が始まりました。民族の独立と称して領土を奪い合い、民族浄化と称して 男子殺害と女姓の凌辱が繰り返されました。死者20万、難民200万人と言われます。緒方貞子さん率いる国連難民高等弁務官事務所UNHCRが大変な苦労 をしてこの人たちを救助しようと努力しました。この内戦の過程でボスニアの首都サラエボがセルビア軍事勢力によって包囲された時期がありました。元日本 サッカーチーム監督のイワン・オシム氏の妻子がサラエボ市内に取り残され、明日をも知れぬ日々を送ったのもそのサラエボ包囲の時期(1992年)でした。 しかしこの内戦も5年後の1995年12月になってやっと諸勢力の間で和平が成立してボスニア・ヘルツゴビナという国家が出来ました。にもかかわらず、未 だに民族対立は完全に解消されたわけではなく、ヨーロッパ共同体の軍事組織であるEUFORが治安の維持に当たっています。

     
サラエボ

ボ スニア・ヘルツゴビナの人口は約400万人強、そのうちの約40%がボシュニアック人(約170万人)、約30%がセルビア人(約130万人)、約15% がクロアチア人(約65万人)だと言われています(外務省のデータを少し切りつめました)。セルビア人は東のユーゴスラビアにも約700万人、クロアチア 人も西北のクロアチア共和国にも約400万人住んでいます。ボスニア・ヘルツゴビナではこの二つの民族はどちらかというと少数者です。一方、ボシュニアッ ク人はこの国の多数派で、ボスニア地方はこの民族の故郷でもあります。しかしボシュニアック人が民族的特性の点でも言語的にも他の二つの民族と異なってい るわけではありません。ただ彼らは15〜16世紀にこの地域がオスマントルコに支配されたときにイスラム教徒に改宗した人々の子孫であると言われていて、 多くは今日でもイスラム教徒です。そのためにボシュニアック人はムスリム系と言われます。これに対してセルビア系は正教会派、クロアチア系は新教派です。 このように三民族は宗教的な背景を異にしています。これもまた紛争時には民族的な憎しみの要因の一つになりました。

バルカン紛争を 終結させた1995年のデイトン合意によって、連合国家としてのボスニア・ヘルツゴビナが成立したのですが、この合意文書にはボシュニアック人によって話 される言語をボスニア語とすると規定されています。そしてこの言語がセルビア語とクロアチア語と並んでその国の公用語に定められたのでした。しかしこの三 言語は殆ど共通の語彙、共通の音韻、共通の文法によって構成されていて、たかだか一つの言語の方言的な差異しか持ちません。違いと言えば、ボスニア語にム スリム系の語彙が目立つくらいです。しかしクロアチア語及びボスニア語にはセルビア語と比べて一つ大きな違いがあります。それは表記法です。セルビア語は キリル文字(ラテン文字も広く使われますが)で、クロアチア語とボスニア語はラテン文字で表記されます。しかしこの両言語の表現は話し言葉ではまったく同じです。例えば、次の文例を比べてみましょう。分かり易くするために、セルビア語をラテン表記にしてあります:

日本語:      こんにちは   さようなら   問題ない(大丈夫)    ありがとう
セルビア語:     dobar dan!   do vidjenja!   nema problema       hvala

クロアチア語:   dobar dan!   do vidjenja!   nema problema       hvala

表記の違いは、漢字カナ交じり文をローマ字で書いたのと変わりありません。日本での解説本でも「セル ビア/クロアチア語」としているものもあります)(例:中島由美「セルビア語、および、クロアチア語」『世界の言語ガイドブック1』(三省堂)。

セルビア語、クロアチア語、それにボスニア語はどれも南スラブ語に属します。そしてどれもスラブ語らしく複雑な屈折形 式をもっています。名詞は6格(または7格)に変化します:例えば、中性名詞more(主格)は、mora(所有格、−の)、moru(与格、−に)、 more (目的格,−を)、morem(造格、−で)、 moru(前置格、特定の前置詞の後に付く形)、それの呼格のmoreに変化します。東スラブ語に属するロシア語と似ています。動詞には完了体と不完了体 の二つの形があって、それぞれに現在形と過去形があります。動詞の位置は原則として前から二番目です。こうした文法の基本的な仕組みはこの3言語にほぼ共 通しています。

多 少の差異が見えてくるのは語彙の面です。どちらかと言えば、セルビア語の方が共通スラブ的な要素を多く残していて、クロアチア語には反外来語的傾向がある と言います。例えば、セルビア語で「大学」は、他のスラブ語と同様にラテン式のuniversitetですが、クロアチアではsveuciliste(全 てを学ぶところ)のようにスラブ的語彙に固執するという具合です。他にも親族呼称や宗教的語彙に多少の差異があります。しかしどれか一つを学ぶと、3言語 にだいたい通じるというのは便利な話です。それにもかかわらず、この近しい民族同士の間で厳しく悲惨な内紛が5年も続いたこと、そしてその後遺症がまだ 残っているというのは悲しいことです。どうぞ、上のサラエボの集団墓地の写真を見てください。そして内戦でもこのような悲劇が起こることを肝に銘じておき ましょう。

《金子亨:言語学(2008年掲載)》