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【地球ことば村・世界言語博物館】

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世界の文字

エラム文字 英 Elamite script


エラム語(Elamite)は,イラン西南部,現在のイランのフーゼスターン(Khūzestān)とファールス(Fārs)の一部を領有したエラム王国(紀元前 3200 年頃~紀元前 539 年)において,エラム人によって使用されていた,言語系統不詳の膠着語。孤立語であるエラム語は,3 種類の文字で書かれていた。最古のものはエラム絵文字で,今なお未解読であるが,その粘土板の出土地からエラム語を記したものであることは確実である。この絵文字より発展したエラム線文字も,現存する資料が少なく,同様になお未解読の状態である。エラム絵文字とエラム線文字をまとめて,原エラム文字(Proto-Elamite)とも呼ぶ。

一方,最後のエラム楔形文で記されるエラム語は,古代メソポタミアの重要な言語の1つ(アケメネス期王室エラム語)であり,アケメネス朝下で前 6 世紀から前 4 世紀にわたって広く使用され,文法構造もそれなりに解明されている。エラム語というときは,この楔形文字で記された言語を指す。→ 上岡 2001

エラム絵文字 英 Elamite pictogram

紀元前 3000~前 2200 年の間に,フージスターンで,シュメールの影響下に独自に発達した絵文字。エラムという名称は,旧約聖書に由来する。セムの子孫のうちの 1 人である(創世記 10,22)とともに,王を戴く国名としても用いられ(同 14,1他),「日の出の地」を意味するとされる。アッカド語で e-lam-mat,シュメール語で Numma と呼ばれる。→ 内紀 2001

最古の資料は,かつて古代エラム王国の都であったスーサ(Susa,現 Shush)の考古学上 Susa II Ch, ‘Uruk 第 III’ と呼ばれる地層(前 2900)から出土した粘土板上の絵文字である。文字数は数百あり,経済文書が多い。資料はすべて,何らかのリストまたは登録簿,目録名簿の類と考えられる。文字はいずれも絵画的で,動物,容器,壷等の文様のほかに,数字を示すと考えられる文様も多い。

〈図 1〉は,現存する,人類最古の,馬に関する記述である。発掘にあたったフランス考古学隊のシャイル(Vincent Scheil)の解釈によれば,たてがみが上に立っているものは牡馬,たてがみが垂れ下がっているものは雌馬,たてがみのかかれていないものは子馬であろう。さらに,馬の左側に描かれている親指様のものは数字の 1,小さい円は数字の 10 を示す,と考えた。数字の直後,馬の頭の隣の位置に表されている別のしるしは,馬の受け取り人かまたは所有者,すなわち,人名または官職名を示すものと考えられる。→ 内紀 2001

〈図 1〉エラム絵文字の文字見本

エラム絵文字のすべてが,上のように簡単に説明しうるものではない。数詞の部分を除いては,大多数の粘土板は読めないどころか,皆目見当がつかない。→ 〈図 2〉Nakanishi 1990,→ 〈図 3〉スティーヴン・ロジャー・フィッシャー 2005

〈図 2〉エラム絵文字 紀元前 3000 年頃

〈図 3〉スーサ出土エラム絵文字の銘板 前3000年頃

テペ・ヤヒヤ(Tepe Yahya テペ・ヤフヤー)は,青銅器時代にインダス文明とシュメール文明を結ぶ重要な交易都市であった。このテペ・ヤヒヤでは緑泥石の瓶が数々発見されただけでなく,この緑泥石の採石場とも思われる遺跡も発見されている。原エラム語で書かれたパレット〈図 4〉も数多く出土していて,テペ・ヤヒヤが自立した高度な文明をもっていたことをうかがわせる。→ Damerow

〈図 4〉テペ・ヤヒヤ遺跡出土パレット 右:同模写図

〈表 1〉は, → Kaulins(2012) によるファイストス円盤文字とエラム文字との音節文字対照表。

〈表 1〉Andis Kaulins によるファイストス円盤文字とエラム文字との対照表

楔形文字と原エラム文字の両者に共通しているものとみられる例〈表 2)。 → 杉 2006

〈表 2〉原エラム文字(左)楔形文字(右)

エラム線文字 英 Elamite linear

西暦紀元前 2900 年頃から数百年をかけて,エラム絵文字の複雑な字形と文字組織が整理され単純化されて,エラム線文字が成立した。同時期,隣接するシュメール社会においても同様の文字進展がみられるため,両地方の線文字化現象はお互いに影響しあったものとも考えられる。

しかし,この線文字も,前 2200 年に多くの碑文に登場するインシュシナク王の死とともに消滅し,シュメール・アッカドの楔形文字に取って代わられる。かつては,「原エラム文字」と呼ばれていたが,文字の形状をより具体的に示すために,あえて「エラム線文字」と呼ぶ。→ 内紀 2001 →〈図 5〉左:『人間と文字』,右:『世界の文字の図典』

〈図 5〉エラム線文字文書サンプル

文字は多くの場合音節文字で,音節を構成しており,CV,CVC,VC などの形式をもつ。しかし,1 文字で zunkik (1 人称単数の「王」)を示す例もあり,表語文字の性格をとどめている。

文字数は全部で約 80 が存在したと推定されるが,現在の資料には,全部で 50 数個の文字が数えられるにすぎない。部分的にシュメール文字と同様の絵文字から発達したため,シュメール文字と同じ字形がみられる。ただし,同じ字形でも発音は異なる場合が少なくない。〈表 3〉は,→ Hinz 1969 「エラム線文字表」

〈表 3〉エラム線文字表(W. Hinz)

プズル・インシュシナクの対訳奉納文書 Puzur-Inshushinak

プズル・インシュシナク,または,クティク・インシュシナク(Kutik Inshushinak)は,古エラム時代のエラムの王(在位:紀元前 2240 年頃~紀元前 2220 年頃?)である。スーサで出土した彼の奉納文書〈図 6〉は,紀元前 2200 年頃のものでアッカド楔形文字とエラム線文字が併記されている。多くの文書の例にならい,文字は上から下へ書かれ,左の行から右の行へ読んでいく。→ Harris 2011

〈図 6〉プズル・インシュシナク対訳奉納文書,下部エラム線文字箇所拡大図,同模写図

〈表 4〉は,上掲奉納文書を翻字する際,文書を右に 90 度倒し,右から左への文字列を通常の左から右に並び替えて作成したものである。 〈表 5〉は Harris によるエラム文字音節表。

〈表 4〉奉納文書翻字表

〈表 5〉エラム線文字音節表

結婚祝いの銀杯に刻まれた銘

ファールス州マルヴダシュトより 1966 年に発掘されたエラム線文字の刻まれた銀杯〈図 7〉。紀元前 2240 年。イラン国立博物館所蔵。銀杯の縁に沿って左から一周するエラム線文字による銘が刻まれている。これには,戦争の女神から,アッカドのサルゴン王との結婚を迎える妹の勝利の女神に贈る助言が述べられる。→ Harris 2015

〈図 7〉 結婚祝いの銀杯

〈表 6〉刻文翻字

エラム楔形文字 英 Elamite cuneiform

前 3 千年~前 2 千年紀にもロゴグラム(表語文字)としてアッカド語楔形文字(アッカド文字)が用いられていたが,前 2 千年紀後半には文字全般の楔形文字化が進行する。その際,複雑なアッカド語の文字組織の一部を借用し,それに若干の改変を加えた上で利用している。アッカド文字の数を相対的に減らし,特に複雑な字形は排除する明白な傾向がみられる。→ 上岡 1988

前 13~前 12 世紀のエラム語楔形文字は,中期エラム文字,前 2 千年紀末以降のエラム語楔形文字は新エラム文字,前 6 世紀後半オリエントのほぼ全域を支配するのに成功したアケメネス朝ペルシア帝国治化下で使用されたエラム語楔形文字は帝国エラム文字と呼ばれる。→ 川瀬 2001

シルハク・インシュシナク碑文

スーサの神殿跡からは紀元前 1200 年ごろのシュトルク朝エラムの王シルハク・インシュシナク(Šilḫak-Inšušinak I.)が造ったといわれる青銅製の神殿模型〈図 8〉が見つかっている。この碑文からは,「我はシルハク・インシュシナク,シュトル・ナフンテの息子,インシュシナクの最愛の奉仕者,アンシャンとスーサの王,我はブロンズ製の日の出を作った」と奉献者の王名とその意味の一部を明かしてくれる。 → マイケル・ケリガン 2010  参照:ルーヴル美術館 シト・シャムシ 古代オリエント美術部門

〈図 8〉青銅製の神殿模型の右側に碑文が刻まれている 碑文拡大図

「城砦文書」「宝蔵文書」

シカゴ大学オリエント研究所によるペルセポリス発掘(1935~1939 年)の結果,前 331 年アレクサンドロスがハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)の都ペルセポリスを占領したとき,接収した莫大な貴金属が退蔵されていたと考えられる宝庫が発見された。その一室から前 492 から前 458 年の王室管轄下の労働者に対する銀支給を記録するエラム語粘土版文書「宝蔵文書」〈図 9〉が出土した。→ Cameron 1948

〈図 9〉宝蔵文書

〈表 7〉上掲宝蔵文書翻字と訳文

《訳》By order of “the king” (Darius), 14 karsha and perhaps 6 shekels of silver are here distributed through the hand of the “administrator” as wages to workmen for whom Megabates, the admiral of the fleet, is responsible.

その後,1969 年にあらたに「城砦文書 Fortification Tablets」が公刊された。「城砦文書」は,前 509~494 年,すなわちダレイオス 1 世治世 13~28 年の,北はエラム東部から南はパールサに及ぶ地域(ペルセポリス王室経済圏)を対象とする王室の管理文書である。これらの文書は,ダレイオスやクセルクセス王時代の,王宮建設のときの人夫の給料,計算書の類が多数出土し,ペルシア帝国時代の王宮造営を中心とする経済状態がわかるという貴重な資料となった。→ 川瀬豊子,→ Hallock 1969

〈表 8〉城砦文書に現れる文字例

〈表 9〉数字の例

3 言語併用碑文

前 3 千年紀以来,イラン高原における最大政治勢力であったエラムの言語学的系統については,今なお不明な点が少なくない。しかし,アケメネス期では,第 3 代ダリウス(ダレイオス)1 世(在位 前 522~前 486)の即位宣言碑文(ベヒストゥン碑文)を初めとする王碑文の多くが,古代ペルシア語,アッカド語とエラム語との 3 言語併用で作成されていることを考えるならば,前 1 千年紀後半においても,エラム語がイラン高原南西部の人々にとって「権威」の表徴の1つとして認識されていたと理解される。

ベヒストゥン碑文 Behistun Inscription

 〈図 10〉ベヒストゥン磨崖
世界文化遺産に登録されている巨大なベヒストゥン磨崖 (英: The Behistun Inscription, ペルシア語: Bīsotūn)には,アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス 1 世が,自らの即位の経緯とその正当性を主張する文章とレリーフが刻まれている。イラン西部のケルマーンシャー州にある。

ダレイオス 1 世の碑文は地上 100 m 以上の高い場所にあり,高さ 3 m・幅 5.5 m の浮き彫りの周辺に,同じ内容の長文のテキストが,エラム語,古代ペルシア語,アッカド語(新バビロニア語)という 3 つの異なった言語で書かれている。当初はエラム語の碑文のみであったが,壁画像を追加する段階でアッカド語と古代ペルシア語の碑文も増補されたと見られている。エラム語は 2 箇所にほぼ同じ内容のものが書かれ,第 1 のものは 323 行,第 2 のものは 260 行からなる。アッカド語は 112 行からなる。古代ペルシア語は合計 414 行からなる。ベヒストゥン碑文は古代ペルシア語の現存する最古の碑文である。

ベヒストゥン碑文の解読には次のような経緯があった。イギリス軍武官のヘンリー・ローリンソン(Sir Henry Rawlinson)は 1835~1837 年にかけて彫像の下に刻まれた(第一種)碑文を写し取り,ついで,1844 年夏にはこれを校訂し補足するかたわら,さらにその左側にある(第二種)碑文をを写すために岩によじ登った。ローリンソンの研究報告は,付図 5 葉とともに 1847 年の『王立アジア学会誌』に掲載された。それは,第一種碑文である古代ペルシア語部分の碑文の写本と翻訳を含むと同時に,文法・語彙・字解をも説明したものであった。ローリンソンはまたエドワード・ ヒンクス(Edward Hincks)の研究を元にして,彫像の左側にある(第三種)碑文であるアッカド語部分の解読を 1851 年に発表した。第三種の解読に多忙であった彼は,第二種の膨大なエラム語研究資料をすべてイギリス人ノリス(Edwin Norris)に贈与してしまった。

〈図 11〉ベヒストゥン磨崖の碑の全景
① 第一種碑文:古代ペルシア文字 ② 第二種碑文:エラム文字 ③ 第三種碑文:バビロニア文字 ④シカゴ大学調査隊によって複写される,⑤彫像

ノリスは,ローリンソンから贈与された資料をもとにして,1855 年の『王立アジア学会雑誌』に,楔形文字の原文とその翻字の図版各 8 葉ずつと,文法の梗概のほか,原文の翻字と翻訳と詳しい注をつけた論文を発表した。かれは,この文字を 102 個の音節文字よりなるとした。その言語はヴォルガ・フィン語に似ていることを指摘して文法の秩序的説明を試みたのであるが,正解しえた文字は 57,まあ正しいと思われるもの 21 で,24 は間違っていた。しかし,彼の研究は多くの欠点を含んでいたにもかかわらず,解読の基礎を作ったものということができ,のちの学者の研究はかれの欠点を補正するにとどまった。ノリスの論文はMemoir on the Scythic Version of the Behistun Inscriptionを参照。→ 杉(2006)

〈表 10〉ノリスによるエラム語文字表(冒頭)

次に,各言語第 1 コラム第 1 節を → Sculptures and Inscription より引用する。

ベヒストゥン碑文古代ペルシア文字
§I. I am Darius, the great king, the king of kings, the king of Persia, the king of the provinces, the son of Hystaspes, the grandson of Arsames, the Achacmenian.
ベヒストゥン碑文エラム文字
§I. I am Darius, the great king, the king of kings, the king of Persia, the king of the provinces, the son of Hystaspes, the grandson of Arsames, the Achacmenian.
ベヒストゥン碑文バビロニア文字
§I. [I am Darius, the great king, the king of lands], the Achaemenian, the king of kings, the Persian, the king of Persia.

エラム語楔形文字・音価とそれに対応するアッカド語楔形文字(新バビロニア語文字)を表す文字対照表と,ベヒストゥン碑文のダレイオス記念碑のエラム語楔形文字の文例を挙げる。→ 『世界の文字の図典』

〈表 11〉エラム語楔形文字・アッカド語楔形文字対照表

クセルクセス・ペルセポリス碑文

〈図 12〉クセルクセス門
ダレイオス 1 世とアトッサの息子クセルクセス 1 世(古代ペルシア語: Hašayārašā - ハシャヤーラシャー, 英語: Xerxes I,在位:紀元前 486 年~紀元前 465 年)が造ったので「クセルクセス門」または「万国の門」と呼ばれる,世界文化遺産に登録されているペルセポリスの宮殿入り口の高さ 10 m の門柱。門柱には人面有翼獣身像と牡牛像の彫刻が見られる。

牡牛像の内側上部に左から古代ペルシャ語,バビロニア語,エラム語の 3 言語の楔形文字の碑文が刻まれている〈図 13〉。
「予は偉大なる王,王者の王,全民族を含めての王であり,大地の王である。予はアカイメネス朝ダレイオス大王の息子,クセルクセスである。予を守る神,アフラ・マズダ(Ahura Mazdā)の恩寵により,征服せる全世界の国々の記念門としてこの門を作る。予のなせる仕事はすべて神アフラ・マズダの恵みによるものである。」→ マイケル・ケリガン (2010) 参照: Persepolis Stairway to the Gate of All Nations & Xerxes' Inscription

〈図 13〉左:クセルクセス・ペルセポリス碑文 右:上部拡大図

〈図 14〉トルコ東部の都市ヴァンのクセルクセス 1 世 3 言語対訳碑文 参照

ペルセポリス宮殿定礎碑文

1930 年初め,ダレイオス 1 世がパサルガダエに代わる新都ペルセポリスを建設したときに埋めた定礎碑文〈図 15〉が発見された。ダレイオス 1 世はアケメネス朝ペルシア帝国の偉大さを誇るが,主権は光明の神アフラ・マズダにあるとして,神の守護を求める祈りが,古代ペルシア語,エラム語,バビロニア語の 3 言語で併記されている。→ マイケル・ケリガン 2010

〈図 15〉ペルセポリス宮殿定礎碑文

ナグシェ・ロスタム碑文

ナグシェ・ロスタム〈図 16〉(Naqsh-e Rostam)とは,ペルセポリスの北西 6 km にある巨岩の遺跡。岩壁の高いところに十字形をした 4 つの墓が彫られている。これらはアケメネス朝の王の墓で,そのうちひとつは墓誌銘からダレイオス 1 世のものであることがわかっている。残りはクセルクセス 1 世,アルタクセルクセス 1 世,ダレイオス 2 世のものと言われている。

〈図 16〉ナグシェ・ロスタム全景

〈図 17〉はダレイオス 1 世の陵墓の全容だが,1 本の樹木も見られない峨々たる絶壁の中腹を穿って設けられた王墓である。十字形に削平した中央部を宮殿に模して,4 本の柱を岩壁から刻みだし,柱上には双牛柱頭を同じく岩壁から刻みだして載せ,列柱の中央に玄室への入り口を開く。そして入り口の上部には最高神アフラ・マズダに守られた大王が,聖火壇上で燃える聖火を拝している姿が彫られる。また,入り口の両脇には,3 言語による碑文が刻まれている。ベヒストゥン碑文に並ぶ古代ペルシアの主要な碑文である。セレウコス朝時代にはさらにアラム語の刻文が追加された。→ マイケル・ケリガン 2010

ダレイオスは,帝国における支配を確立するために戦い,彼が達成したことを記録するためにも,多くの楔形文字碑文を残した。そのなかで彼は,自らをマズダー礼拝教の敬虔な信者であるとし,宗教面でのゾロアスターに対応する権威を現世でもって,世界を支配するよう神の委任をうけたと確信していたと考えられる。碑文には「偉大な神はアフラマズダで,彼はこの地を創り,かなたの天空を創り,人を創り,人のために幸福を創り,ダリウスを王,多くの王の上の唯一の王,多くの主の上の唯一の主とした……」と刻まれている。→ メアリー・ボイス 2010

〈図 17〉ダレイオス 1 世の墓

関連リンク

[最終更新 2018/10/20]