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【地球ことば村・世界言語博物館】

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世界の文字

ヒッタイト象形文字 英 Hittite hieroglyphic

ヒッタイト聖刻文字とも。ヒッタイト王国時代(紀元前 17 世紀末~前 1200 頃)の王国内と,王国の滅亡(前 1200 頃)後の紀元前 1 千年から前 700 年頃にわたて,小アジアや北方シリアにおいて使用された象形文字の一種である。(右図:ヒッタイト王国の都市カルケミシュの王宮外壁を飾っていたと思われる石版の一部。1 段目に「神」「太陽」など,2 段目に「牛」を表す表意文字が見られる。紀元前 15~12 世紀)

王国時代の資料は,印欧語族のアナトリア語派に属するルウィ語群に所属する言語として,象形文字ルウィ語(Luwian hieroglyphic)と呼称されている。つまり,ヒッタイト王国の滅亡後にこの地域を占めていた民族は,アナトリア語派のルウィ系の民族であったことを示している。そこで,これらの碑文に使用されている文字を,ルウィ象形文字(Luwian hieroglyphic)あるいは,ヒッタイトやルウィを含めてアナトリア象形文字(Anatolian hieroglyphic)という呼称も使用されている。

ヒッタイト語を記した文字ではなくヒッタイト人の文字でもないのであるが,国王が印章に使用するなど,ヒッタイト王国時代から使用されているので,慣用的に「ヒッタイト象形文字」と呼んでいる。

この文字は,エジプト象形文字やミノア絵文字と類型的には似ているが,類似する字形の音価の比較からは,これらの文字体系が同じ源から出たとする有力な証拠は認められていない。しかしながら,ヒッタイト象形文字がエーゲ海域の文字体系から何らかの刺激を受けていることは十分考えられる。王国時代にアナトリア西部を占めていたルウィ系の民族がエーゲ海域の文字に接触する機会がなかったとは考えられない。→ 大城 2001

文字組織

この文字の総数は約 500 個あり,それらの中で,音節構造の観点からは,「母音(V)」を示すものと,「子音+母音(CV)」の単純開音節の文字に分類される。これらの音節構造を持つ字形は,現在のところ,80 個あまり知られている。VC 型の文字の中には, wa/i,ra/i のように,母音 a を含む CVa と母音 i を含む CVi の両方を表す文字もある。VC 型や CVC 型のような末尾に子音をもつ字形がないために,語末が子音で終わる語形や語頭や語中の子音結合を正確に表記することができず,実際には発音されない母音をあえて書き記すことを余儀なくされる。→大城・吉田
ここで作表に使用したルウィ象形文字フリーフォント “LUWHITTA” および “LUWHITTB” は Luwische Hieroglyphen Fonts から入手する。表中,“U+数字” は Unicode の文字番号を示す。 なお, “LUWHITTB” に含まれる文字は文字番号の左肩に*を付す。

1) V

2) CV

3) CVC(V)

表意文字

記号

文字表記

象形文字による語形の表記には 4 通りあり,それらはそれぞれ次のように示される(たとえば,「牛」の語形 *wawis を表す場合)。

書記方向

象形文字碑文は右横書きと左横書きが交互にあらわれるブーストロフェドン(boustrophedon,牛耕式)と呼ばれる書式で書かれている。人間や動物の字形は,各行の文字の進む方向とは反対方向に向く形で描かれている。また,各行のなかの文字は上から下に読むことになっている。例は,「カルケミシュ碑文 Carchemish A 2」と分類される碑文のテキストである。→ Hawkins 2000

文字見本

ヒッタイト象形文字の字体

この文字の字体には,カルケミシュ(Carchemish,現代名 Jerablus)の碑文に代表される記念碑用の字体と,クルル(Kululu)やアッシュル(Assur)の鉛製の書版,カラテペ碑文やスルタンハン(Sultanhan)碑文などに見られる草書字体の 2 つの字体に区別される。→ Diringer

カルケミシュ出土の碑文(記念碑用字体)

カルケミシュは,当時ルウィ系民族の小都市国家群のなかの中心的な都市であった。ここから多くの石碑が出土している。下図は前 9 世紀のもので,カルケミシュで出土した中で最も美しい碑文といわれる。→ Diringer

ヒッタイト象形文字の起源

カルケミシュ町と,タルフンズ(至上者ストーム神)の名前が,各行に見える。 a. 現物の写真 → モーリス。b. 1914年ホガートによって複製された押し型 → ツェーラム

a
b

クルル鉛版書板(草書字体)

クルル出土の鉛版書板の経済文書。→ Hawkins

アッシェル出土鉛版書簡(草書字体)

アッシュルから出土した 6 点の書簡(前 8 世紀後半)の 1 つ,Taksalas 王の Kwipatiwaras 宛書簡(高さ 3.6 cm; 幅 9.9 cm)。鉛製の薄い板に文字が刻まれており,丸く巻かれた状態で発見された(1905年)。文字は,通常の石碑文がなお絵文字的特徴をとどめているのに対し,かなり線文字化されている。→ 吉田・渡辺 a. 裏面 b.模写図:表・裏 c. 翻字・訳文 → Hawkins

a
b
c

Sultanhan碑文(草書字体)

1928 年にスルタンハンで発見された碑文(前 740~730 年頃)。→ Hawkins

[Translation] I (am) [Sarwatiwaras, PN's] son, the hero Wasusarmas's servant. I set up this Tarhunzas of the Vineyard (saying): “We will set (him) up afterwards with an ox and nine monthling sheep”. When I presented him, he came with all goodness, and the corn-stem(s) burgeoned forth at (his) foot, and the vine was good here. ...

タルコンデモス印章

英人セース A. H. Sayce がヒッタイト象形文字を解読する際のいとぐちとなったのが,「タルコンデモス印章」の分析である。セースは「ヒッタイト解読におけるロゼッタストーン」と呼んだが,同心円の外側には楔形文字が刻まれ,内側には中央に人物の姿が描かれており,その両側に同一の象形文字が刻まれている。象形文字と楔形文字は同じ内容を表していると考えられるため,楔形文字部分から「エルメの国の王タルコンデモス ᵐTar-rik-tim-me šar ᵐᵃᵗEr-me-e」と読むことができる。これをふまえて,「王」と「国」を表す楔形文字で書かれた表意文字に対応する,象形文字の表意文字をセースは決定した。→ 吉田和彦 「象形文字ルウィ語の解読と歴史と現状」

ヒッタイト象形文字・フェニキア文字対訳碑文

1947 年に,ボッセルト Helmuth Theodor Boussert により,トルコ東南部のタウロス山麓に位置した 8 世紀のヒッタイト王国後期の古代城塞都市のカラテペ(Karatepe)の発掘で,かなりの量のヒッタイト象形文字とフェニキア文字で書かれた碑文が発見された。これによりヒッタイト象形文字の解読は一気に促進した。→ モーリス a. 北門東壁のフェニキア文字 b. 西壁のヒッタイト象形文字。→ 参照 Karatepe c. 模写図 → Hawkins

a b
c

以下に,カラテペ碑文の原文・翻字・日本語訳を示す。ただし,テキストは原文ではなく,ボッセルトによって左横書きに編集して公刊されたものである。→ 大城・吉田

(1)EGO-wa/i-mi (LITUUS+)Á-za-ti-i-wa/i-tà-sá (DEUS)SOL-mi-sá CAPUT-ti-i-sá (DEUS)TONITRUS-hu-ta-sa mí-ta4-sá
私はアツァティワタ,太陽神に寵愛される者,タルフント神のしもべ,
(II)Á-wa/i+ra/i-ku-sa-wa/i REL-i-na MAGNUS+RA/I-nu-wa/i-ta Á-TANA-wa/i-ní-sá(URBS) REX-ti-sá(URBS)
アダナの町の王であるアワリクが愛顧してくれた者である。
(III)wa/i-mu-u (DEUS)TONITRUS-hu-za-sa Á-TANA-wa/i-ya(URBS) “MATER”-na-tí-na tá-ti-ha i-zi-i-tà
タルフント神はアダナの町のために私に母と父をつくってくれた。
(IV)ARHA-ha-wa/i LA+x-nú-ha Á-TANA-wa/i-na(URBS)
そして私はアダナの町を栄えさせた。
(V)(“MANUS”)la-tara/i-ha-ha-wá/í Á-TANA-wá/í-za(URBS) “TERRA”+x-wà/ì+ra/i-za zi-na (“OCCIDNS”)i-pa-mi VERSUS-ya-na zi-pa-wá/í (ORIENS)ki-sà-ta-mi-i VERSUS-ya-na
私は一方でアダナの地を西に,また一方で東に拡大させた。
(VI)á-mi-ya-za-há-wa/i (“DIES”)ha-lì-za Á-TANA-wá/í-ya(URBS) OMNIS-MI-ma (BONUS)sa-na-wa/i-ya (“CORNU+RA/I”)su+ra/i-sa LINGERE(-)ha-sa-sa-ha á-sá-ta
そして私の治世には,アダナの町にすべての良き物と豊富と贅沢があった。
(VII)(“MANUS”)su-wá/í-ha-ha-wá/í Pa-há+ra/i-ní-zi(URBS) (“*255”)ka-ru-na-zi
そして私はパハラの町の倉庫をいっぱいにした。

解読

この文字の解読は,1876 年の上記セイによるハマト(Hamath)石碑文の研究により始まった。1930 年代から 1940 年代になると,メリッジ(P. Meriggi),ゲルプ(I. J. Gelb),フォラー(E. Forrer)。ボッセルト(H. Th. Bossert)らの研究がでてきた。メリッジはすでに 1932 年に,この文字で書かれた言語はヒッタイト語によるルウィ語に近いことを指摘し,「象形文字ルウィ語」という名称を提案している。1947 年には,ボッセルトによって,フェニキア語との待望の併記碑文が東キリアのカラテペの,8 世紀のヒッタイトの丘陵要塞の発掘で発見された。
さらに,1960 年代になると,ラローシュ(E. Laroche)の象形文字資料の研究と字形分類,メリッジの語彙集や文法書などの公刊によって,この文字研究は飛躍的な進歩をとげた。 → 大城 2001

参考サイト

[最終更新 2018/10/20]