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【地球ことば村・世界言語博物館】

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世界の文字

アッシリア文字 英 Assyrian script

紀元前 2 千年紀に入り,メソポタミア北部,チグリス川中流域のアッシュル(Ashur)を中心とするアッシリア地方,古アッシリア時代にアッシリア人の交易植民地だった小アジアのカネシュ(Kanesh),および,アッシリアの支配下にあった地域で用いられた文字を指して,とくにアッシリア文字と呼ぶことがある。なお,言語と文字が必ずしも一致しないことに注意を要する。たとえば,新アッシリアの王碑文は文語バビロニア語で書かれているが,文字はアッシリア文字である。

文字体系はアッカド文字に準じる。アッシリア文字の特異性としては,語境界を示す記号の使用,CVCV 文字おおび VCV 文字がバビロニア文字よりも目立つこと,バビロニア文字よりも楷書風に標準化された字形をもつことなどがあげられる。→ 池田 → 表上「世界の文字の図典」→ 表下 杉 2006

アッシリア語楔形文字

古風(古拙)文字から楔形文字へ

文字資料

ギルガメシュ叙事詩

人間の生と死や友情を主題に据えてギルガメシュの精神遍歴を描く,アッカド語文学の傑作。古代バビロニア版と中バビロニア版に続いて,前 12 世紀頃に標準版が成立する。これに先立つシュメル語のギルガメシュ作品群から,『ギルガメッシュと天の牛』『ギルガメッシュとフワワ』が標準版に組み込まれた。新アッシリア時代に,さらにアッカド語に訳され,第 12 の書板として「標準版」の末尾に付加された。右図は,ドゥル・シャルキンのサルゴン 2 世宮殿に残されたライオンを捕獲したギルガメシュのレリーフ(ギルガメシュ)。

『ギルガメシュ叙事詩』第 11 の書板で,ウタナピシュティムは神々が人類を滅亡させるために起こした洪水の話をギルガメシュに語る。エア神に洪水に気をつけるよう注意されたウタナピシュティムは船をつくり,その中に家族とあらゆる種類の動物たちをのせて難を逃れる。洪水が引いたとき,神々はウタナピシュティムが死を免れたことを知り,彼に不死の生命を与えたという。下図は洪水伝説の粘土板。アッシリア後期(前 650 年)/材質:粘土/15 × 13.5 cm /出土地:ニネヴェ 文語バビロニア語)図左:表面,図右:裏面 → 月本

次の引用箇所は上掲『ギルガメシュ叙事詩』裏面の 127 行から 131 行までで,「大洪水」のシーンである。このアッシリア語版では,文字の大部分が表音的に使用されている。表意的に用いられているのは 127 行の数字 6 (アッシリア語音では sisa),128 行の KUR (国土,アッシリア語音では mâti),131 行の AAB-BA (海,アッシリア語音では tâmti)の 3 つのみである。KUR および A-AB-BA が大文字で書いてあるのはシュメール語を借用していることを示すが,実際にはこれをアッシリア語音で読んだものと考えられる。また,ヘブライ語あるいはアラビア語と共通の単語としては,127 行の urri (昼間の意),129 行の序数第 7 を表す sibu,umu (まる一日)などが認められる。→ 矢島 1998

127 六日〔と六晩〕にわたって
128 風と洪水が押しよせ 台風が国土を荒らした
129 七日目がやって来ると 洪水の嵐は戦い〔にまけた〕
120 それは軍隊の打合いのような戦いだった
131 海は静まり,嵐はおさまり 洪水は引いた

センナケリブ六角柱碑文

アッシリア王センナケリブの行った数々の戦争を 8 回の遠征として編集配列し記録した角柱碑文である。西方のハッティ国に向けての 3 回目の遠征では,エルサレムのヒゼキヤ王に対する包囲攻撃と,同国王がセンナケリブに支払った莫大な貢物の説明が詳細に書かれている。この事件は旧約聖書の中(列王記 下 18~20)でも語られている。アッシリア後期(前 704~681 年)/材質:粘土/高さ:37 cm 幅:16.5 cm /出土地:ニネヴェ/文字:新アッシリア文字。→ 図 Sennachérib


センナケリブ六角柱碑文第 2 欄 58~61 行
ローマ字転写
1.ù ᴵṢi-id-qa-a LUGAL ᵘʳᵘIs-qa-al-lu-na
2.ša la ik-nu-šú a-na ni-ri-ia DINGIR.MEŠ É AD-šú šá-a-šú
3.DAM-su DUMU.MEŠ-šú DUMU.SAL.MEŠ-šú NUMUN É AD-šú
4.as-su-ḫa-am-ma a-na ᵏᵘʳAš-šurᵏᶤ ú-ra-áš-šú
読み下し
u Ṣidqā šar Isqallūna ša lā iknušu ana nīrīya ilāni bīt abīšu šâšu aššassu mārātīšu aḫḫīšu zēr bīt abīšu assuḫamma ana Aššur uraššu
しかし,私のくびきに甘んじなかったアシュケロンの王ツィドゥカについては,彼の父の家の神々,彼自身,彼の妻,彼の息子たち,彼の娘たち,彼の兄弟たち,彼の父の家の子孫たちを移送し,アッシリアに連れてきた。

アッシュールバニパル王のエジプト遠征

アッシュールバニパル王(Ashurbanipal)は新アッシリア王国時代のアッシリアの王(在位:前 668 年~627 年頃)である。彼自身がアッシリア史上最後の偉大な征服者であったのみならず,古代オリエントの研究は彼が残した図書館史料の解読に大きく依存しており,古代史を語る上で欠く事のできない人物である。アッカド語ではアッシュール・バニ・アプリ(Ashur bani apli)と記述され,「アッシュール神は後継者を生み出した」の意味である。図 → Borger Rykle 訳 → 杉

L I. I-na mah-ri-e ger-ri-ia [1] 私の最初の遠征において a-na(mat-)Ma-kan [2] マカン(の国)u(mat-)Me-luh-ha とメルッハ(の国)へ向かって lu-u al-lik [3] 私は進軍した。
L II. (I)Tar-qu-u [6] タルクー šar [5] 王 (mat-)Mu-ṣur [4] エジプト u と (mat-)Ku-u-si エチオピアの
L III. ša ―[7] その彼を (I)(ilu)Ašur-ahu-iddin [11] エサルハッドンが šar [9] 王にして mat Aššur [8] アッシリアの abu ba-nu-ua [10] 父,私の生みの親である
L IV. tapda-šu [12] 打ち破り iš-ku-nu-ma i-be-lu [14] 支配下においたのだが mat-su ― [13] 彼の国土を― u šu-u(I)Tar-qu-u [15] その彼タルクーは
L V. da-na-an [18] 力を (il-)Ašur (il-)Ištar u ilani rabuti [17] アシュール神 イシュタル神および大神たちの bele-ja [16] わたしの主である im-ši-ma [19] 忘れ

参考サイト

[最終更新 2019/06/20]