NHK教育テレビ
7/22(土)22:00〜23:29
ETV特集
「ある人間(アイヌ)からの問いかけ
〜萱野茂のメッセージ〜
少数者の声に対して「日本」はどう向き合ってきたか?」
宇梶静江さん聞き書き
「命を表す糸」
私は1933年に北海道の浦河町のアイヌの一家に生まれました。木にも川にも、山にも空にも、熊にも鳥にも神様がやどると教わり、父母といっしょに農業をしながら育ちました。和人からの差別がひどく、アイヌ同士が避けあって暮す時代でした。
その頃は、私は、「日本」の中で生きることが当然と思っていた。でも、集団就職で上京すると、そこでもいろんな差別を経験し、いつも私は緊張して生きづらかった。和人は理詰めで生きている。アイヌのお年寄りは知らないこどもでも、すっと心で抱擁してくれます。緊張を強いられる生活のなかで、私は次第に思うようになりました。親から伝えられたものを追求していこう、他のアイヌとつながろう、と。自分はアイヌとして生きないと人間になれない、と思うようになったのです。
アイヌとはアイヌ語で「人間」の意味です。自分はアイヌの文化で育てられた。親たちはすばらしい育て方をしてくれた。貧しくたって、心は本当に豊かでいられる。私にとってアイヌは人間であり、親そのもののイメージなんです。
今は英語よりわからないことばになってしまったアイヌ語の中には、「平和に生きる」ことがぎっしり詰まっています。
シャケが自然にのぼってくる場所がアイヌ語に残っています。その場所を大切に守らなくてはいけない。それを壊すと、シャケが迷う。そうすると人間も迷う。地球上のあらゆる場所に同じことがいえるでしょう?アイヌ語には大切にする場所が記憶されているんです。そして、頂いた命を大切にするしきたりがことばとして残っているんです。
例えば蝉(蝉も神様です)の泣き声が弱弱しいと、天変地異を告げていると知ったものでした。沢山の蝉が鳴きたてると、今年は豊作だと分かりました。生き物も、草や木も、メッセージを送ってくれている。それがみんな、アイヌの物語に残っているんです。子どもたちを大切にする。授かった命、みんなアイヌなのだから、と。それがアイヌの文化なんです。
60歳を過ぎる頃まで、アイヌ文化を表現することが困難な日本社会でした。生活のために、こどもを育てながらいろんな仕事をしてきました。もうだめだ、と思うことが何回もありました。ホームレスになろうかなぁ、なんて思ったこともありました。ただ、私は寒さに弱くて、冬に野宿はできない。あぁ、ホームレスにもなれないのかなぁ、と。
そんな中、63歳で改めてアイヌ刺繍を勉強しなおし、古い布を絵の具がわりにした布絵の制作を始めたのです。アイヌの魂を布絵で表現しよう、と思ったんです。
小さい時から、絵を描いたり、針仕事をしたりするのが大好きでした。昔は女の子が絵なんぞ描いていたら、嫁の貰い手がなくなると怒られたものです。だから、野良仕事の休み時間に、納屋の陰にかくれて、絵を地面に描いたりしていました。みつかるとこっぴどくしかられましたっけ。
1997年、自分の思いの集大成として、初めて出身地浦河町で、その布絵の展覧会を開きました。人に見せようというより、自分のために、自分のこれまでをまとめるために開いたんです。それが思いがけず評判になり、マスコミの取材が相次いで、いわば一夜で、私は有名になっていました。
「萱野茂さんのこと」
その展覧会の3年前、1994年11月9日、アイヌ民族から初めて国会議員になった萱野茂さんが、国会で最初の質問に立ちました。その前から、私もアイヌの同胞(ウタリ)とつながろうとして活動を続けてきたので、沢山の同胞とともに傍聴席で固唾を呑んで、始まりを待ちました。
演説が始まりました。アイヌ語が聞こえてきました。そのときの気持ちは、なんとも形容できません。アイヌ語で話したのは私の親の世代まで。私は聞けるけど、うまく話せません。萱野先生の口から流れ出るアイヌ語を聞くうちに、私は、話しているのが萱野先生だけではなく、遠くから、見えない祖先が先生につながって話している!と感じました。祖先だけでなく、そこにいる私たちも、そこにいない同胞たちも、みんな先生につながって話しているんだと感じました。アイヌの魂が議事堂に流れて広がっているのです。
アイヌ民族は、長い間和人に侵略されてきました。明治32年発令の「北海道旧土人法」が最後の打撃でした。でも、萱野先生のアイヌ語を聞きながら、私は実感したのです。100年や200年では、私たちの心は壊れないんだ。馬鹿にされても、心は汚れないでいるんだ。戦いの道具を持つことを拒否したアイヌの伝統は脈々とつながっているんだ、と。
差別はわずらわしいものです。教育も受けられないできました。でも、私たちは「援助される人」ではない。自らの生き方がどうであれ、人権を持って、このすばらしい文化を自主的に伝えたい。団子ひとつ作るのでも、大事に作りたい。その思いがふつふつと沸いてきました。
あの演説は、アイヌ理解の始まりでした。他の議員さんの顔を見ると、わかった、という表情が見えました。今も忘れません。あの瞬間から、どれほどのアイヌが生き生きと活動を始めたか。民族のエネルギーが、あの瞬間から、私を今も生かしてくれているんです。私だけでなく、多くの同胞にそのエネルギーがつながっているんです。
それまでの気張った気持ちが楽になりました。自然になり、開放されました。でもまだ、苦しんでいる人たちもいます。自分ひとりが解放されても意味がない。同胞がみな、解放されて始めて喜びがあります。愛は強くなくては愛ではありません。
萱野先生は今年、亡くなりました。先生が残してくれたもの、それは「崇高さ」だと思います。アイヌ語の辞書やアイヌの博物館、アイヌのルーツをそういう形で先生は私たちに残してくれました。それは「崇高さ」です。人間としての崇高さだと思います。
「命を表す糸」
アイヌのルーツを、私は親からも学びました。学校にも行けなかったけど、親はそういうことはきちんと教えてくれたんです。「アイヌなんか生き埋めにしてしまえ」と言われたとき、「自分は埋められても、アイヌの魂は埋められない」と言い返すと、和人は黙って去っていったという話も聞きました。
アイヌは文字をもたないといわれますが、家紋のようなもの(イトッパ)、絵の中などに、祖先からの記憶がしまわれています。一人の人間の血管をつなぎ合わせると世界をぐるっと一周するほどの長さがある、といいますね。私が刺繍する糸も、命を表しているのです。命を大切に表すのです。その糸でもって、アイヌの昔話やアイヌの文化につながる今の物語をつむぎだしているのです。
アイヌの村では村長は世襲制ではありません。みんなで話し合って、ふさわしい人を選ぶのです。また、さっきも言いましたが戦争をする道具は作りません。自然からのメッセージを受け取り、大切に守る暮らし。今の社会に伝えたいことばかりです。
私は今住んでいる千葉・鴨川の家のそばにある橋を、毎日渡ります。その時、声には出しませんが、「川の神様ありがとう。橋の神様ありがとう。土の神様、空の神様ありがとう」と唱えています。娘が「お母さん、ここに来ると、いつもなにか言ってるねぇ」と笑います。私が歩いていると、鳥が何処までも梢をわたって、付いてきます。バードウォッチングのひとたちが、どうして?と不思議がります。アイヌにとって、鳥も神様です。そういう気持ちが鳥に伝わるのでしょうか?
娘は、今、トンコリなどアイヌの楽器や歌の演奏と、詩の朗誦などの公演を、頼まれるとほうぼうでやっています。弟・治造は、千葉・君津市の山のふもとに「カムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)」を、地域の人達、家族、友人とともに作りました。アイヌの伝統民具やアイヌアートに触れる場所です。こうやってアイヌの文化が広く理解され、多くの同胞が気張ることなく、解放されていく、それが、私の何よりの喜びなのです。
