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小学校英語教育―是非の問いからその先へ
(第三回)

「CEFRと児童外国語教育」
  吉島茂先生(東京大学名誉教授・聖徳大学英米文化学科教授)

【講演要旨】

言語については誰でも発言が可能だが、どういう立場からの発言にしろ、問題は、その発言の裏にどれだけの積み重ね、考察、認識があるかという点が重要で、専門化が進んだ現在では、それぞれの領域を出た包括的な考え方は余り期待できない。それでも、お互いに意見を交換し、時間をかけて相手の見解と批判的に対峙して行く中で、一定の方向が見えてくる可能性はある。

そうした話し合い、研究を組織的に行う良い例がCouncil of Europeの作業だろう。参加国47カ国からなるCOE、その域外のカナダの専門家もオブザーバーとして参加させ、30年以上の議論の積み重ねの上にCommon European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessment (CEFR)を2001年に発表。このCEFRで提唱されている理念を共有することを決議したCOEのメンバー国では、小学校への外国語教育の導入が始まっている。ドイツでは、かなり前から3年次から英語を教えるようになっていたが、最近では、州によっては1年次から外国語の授業が課せられている。フランスは、フランス語大事、外国語は二の次の国だが、そのフランスでもCOEの教育担当の大臣会議の1982、98年の勧告を受けて小学校での外国語教育が始まっている。COE諸国の取り組みを参考にしながら、日本の小学校英語教育への賛否をまず吟味する。

Ⅰ.小学校英語教育への賛否論

否定論1.母語の能力の発達を阻害する
これは検証を経た結論ではなく、阻害の原因を2言語の並行習得に求めるのは問題で、具体例からはむしろ教育者・保護者の不見識に理由があることがわかる。

否定論2.日本人としてのアイデンティティーの混乱
言語の現実には、様々なdimensionがあり、言語イコール文化という図式を描くのには無理がある。等号「=」の両側にはめ込む作業がIdentifyであると考えているが、「私」が左辺に置かれ=の右側の項は元来オープンである。それは、一人の人間の中でも、人間存在の様々なアスペクトの数だけその答えは存在するし、またそれは変容するものでもあると考える。

否定論3.英語帝国主義論(英語的思考に取り込まれている、英語優越主義を植えつける等)
はっきり言ってこれは被害妄想だと思う。Lingua Francaとしての位置を英語が獲得し、それが実際に使用される、つまり世界中のあらゆる人が使うようになると、その人たちは英語使用者として英語の形成に参画し、その結果英語は多くの共通語と同様の変容を経験することになる。共通語が方言より優位に立つように、Lingua Francaとしての英語も数々ある言語、national languageの中で優位を占めるでしょう。それ以上に英語を「母語」とする国がどれだけの特権的地位を勝ち取るかは、むしろ他の政治的、経済的要因に大きく左右されることと考える。

【続いて現場の小学校教諭の声-音声の真似が上手く、間違いを気にせず、体で反応して使ってみることができることや、異なったものへの鷹揚な態度、開かれた態度が養えること、また、英語回路の開通に大きな個人差があることなどを引いて、「音声面では臨界期の児童の特色、それ以外は授業の仕方にかかっている。」「個別的な対応が出来ない学習環境では、導入の時期を検討し、同時に教授法を考えねばならない」要するに「『やり方次第では成功も、失敗もする』と言うことです。ごく当たり前のことに過ぎません。」そこで、次はどういう点に注意する必要があるかに移ります。】

Ⅱ 小学校に英語教育を導入する際に解決すべき課題

1.教授法
まず第一に、考えなければ行けないことは教授法である。教育の大原則は、学習者のreadiness(動機、学習する用意、意欲)を前提にしなければならない。readinessという指標を用いて、小学生の「精神年齢」「学習のメカニズム」に合致した方法をとることである。小学生は学習の際情緒的affectiveなapproachをとり、行動actionを通して学習する、その結果授業の中では、歌、踊り、ゲーム、絵本、劇と言った「活動」が多く取り入れられることになる。この方面の小学生の精神的発達段階を意識した教材の開拓は現実にも進んでいる。

2.小・中学校間のギャップの解消:一貫性
従来の英語教育は中学校から始められ、そこではcognitiveなapproachが取られる。つまり、文法が前面に出てきて、授業の中でも演繹的な理解活動が多く求められ、それまで多く取られてきた帰納法的な理解とのギャップが生じる。子供の発達は急に、一つの段階から次の段階にと進む訳ではないので、漸次的な移行がもとめられることになる。
そうしたことを意識して、具体的にカリキュラムを作ろうとするとき助けになるのがCEFRの言語能力レベル表であり、もし社会・政治状況が許すならCEFR に基づいたLanguage Portfolioの導入である。すなわち学習者と教師が話し合って学習者の到達レベルをCEFRの評価表に位置づけ、そのCEFR評価と実際の作文などをまとめた自分のポートフォリオを学習者が保管し、さまざまな機会にそれを自分の能力の表現として提出するという方法である。
ギャップ解消のもう一つの解決策は、一貫校への組織替えである。すでにフィンランドでは、小学校・中学校間の連携、移行をスムーズにするために、全国的に9年の一貫教育制度に改革した。問題は、子供の各発達段階での差違を踏まえた教授法を身につけ、さらにそれを教室の場で実行出来るオールラウンドの教員の養成である。

3.担当教員 教員養成
小学校での英語の教育を誰に担当させるかについては二つのタイプがある。担任教師が英語も受け持つ。いくつかの実験校では実際その形を取っている。もう一つは専科教員が英語を教えるタイプである。
クラス担任が英語も教えるのが理想的だとする考えが理論的には優位で、特に小さい子供は寄りかかることが出来る一定の人物(学校では担任)が必要であるとされている。担任が英語も担当するとなれば、カリキュラムで指示されている時間を適宜分割して、他の教科と組み合わせて英語を教えることも出来る。(例:イタリアの学校)重要なのは、掲げた目標をどうしたら一番よく達成出来るかにかかってくる。イタリアの北部、ドイツ語圏のBozen、Alto Adige自治州は、経済的に恵まれていることもあって、専科教員制度を採用しているが、しかし、それと平行して、教員間の連絡は緊密に取られている。この州では他の教科でも3人の教師が二つのクラスを担任するModul didatticiという制度を採用している。もちろんこの3人が一体となって二つのクラスに責任を持つので、いわゆる「お父さん子」「お母さん子」あるいは「おばあさん子」があるように、むしろ子供たちにとってよいように向くはずだと言う。教科の方も得意の教科を受け持つのですから、悪いはずはない。

4.政府、行政側がすべきこと
国家の文教政策の一環としての外国語教育に対して、国がなすべきことの中でも一番重要なのは教員養成である。一方教育上のインフラを充実するのは比較的楽だと言える。中国や韓国の調査で気がつくのは、視聴覚・コンピュータ関係の設備の充実だが、しかし、教室の机の配置などを見ると相変わらずの対面式であったりする。Softwareの問題については、業者任せの、技術者先導のsoftwareあるいは設備はたいていの場合半分しか機能しない。それを使う現場で教える教員が当然関わらねばならない。こうした問題を解決するには、行政府がしっかりした意識をもって教員養成に、政策の実施に当たる必要がある。
その意味で参考になるのはフィンランドやフランスである。とりわけフランス政府が外国語教育を小学校に導入するに当たって立ち上げたHomepage (Primlangue)は大いに参考になると考えている。(日本からでもアクセス可能)フランス文部省が半年の間に2億ユーロの支出をして、立ち上げたもので、これから小学校で外国語教育を担当する教員たちのために、コンサルタント機能を、教材アーカイブ、また教員同士の意見交換の場としてのforumをも持ったものである。対象となる言語は6ヶ国語だそうだが、その全てに同じ学習原理を適用して作ってある点が疑問ではあるが、それでもそうしたものを作ること自体が第一歩と云える。ドイツではGoethe-Institutを中心として、外国語としてのドイツ語教育のためのCD版ができている。Deutsch Profileというもので、これはCEFRの能力表に対応した、語彙、テクスト、文法などを収録しているが、残念ながらPrimlangueのようなForumは無い。できれば日本語版Primlangueが政府の主導で、さしあたって英語のためだけでもできればと思う。

Ⅲ 英語教育導入の理念的前提

早期に小学校に英語、外国語教育を導入する理由は、何を目標とするかで大きくその答えも変わって来る。それには現在我々が持っている外国語観を振り返ってみる必要がある。

明治時代の「和魂洋才」の考え方のように、外国語を単なる技術と見ようとする立場は、日本だけでなくいろいろなところに見られるが、もし英語の力、言語の技術的側面、いわゆる4技能の習得にその目標を見ようとするなら大きな疑問がわいてくる。日本のように「国際化」がそれほど進んでいない地域で、第二言語としての地位がほとんどない地域で、外国語を早期に導入することの必然性は高くないと言える。

文科省の指導要領の中では現在のところ「総合的な学習の時間」の中の「国際理解」での英語との取り組みは、英語を教えることではないとされている。

小学校での外国語の位置づけは、様々だが(cf.『外国語教育 Ⅲ』)、文科省が提案しているのは「出会いの言語」に組み入れることが出来ると考えられる。そこでは異文化を知ること、ふれあうこと、そして「異なるもの」への「気づきawareness」を第一に掲げている。

外国語・異文化理解を通じて子供たちの心の面に何を植え付けることが出来るか、その可能性を認識することが、小学校に外国語教育を導入する理念上の根拠になると考える。その答えは私の中で、まだ完全な形をとっては出ていないが、今の段階で言えることは、ドイツ語で言う「Relativierungsvermogen」英語ではability to relativiseだろうか「相対化能力」だと思っている。これはしばらく前に聞かれた「複眼的思考」に通じるものだとも考える。

この相対化の能力は、実は、子供たちが将来の諸科学と取り組む中で、非常に重要な役をしめることになる。場合によっては「批判的精神の涵養」と言ってもいいと思う。異文化を知ることから、その中で自己の規範に真っ向から反対するものにも出会い、それとの対峙を余儀なくされ、自分との対決をへて、批判的態度も生まれ、またそうした現実を認めることから「相対化」の能力も生まれ出て来ると思う。この能力はメタ能力であり、簡単に身につくものではないだろう。今までの一般教育の中でもっとも欠けていたのはこの面だと思う。

相対化の能力を育成するという意味での、異文化理解を含んだ外国語教育は、直接子供の心に呼びかけるものとして全ての教科の中でもっとも大きな可能性を持っていると考える。

その意味での外国語教育に取り組んでいる例としてEOLE(Eveil au langage/Ouverture aux langues; l'Education et l'Ouverture aux Langues a l'Ecole)がある。これはイギリスのHowkinsの提唱に源を発し、スイス、スペイン(カタラン州)、フランスで実践が試みられている方法である。そこでの特徴は1言語を対象とするのではなく、同時に複数の言語を、同時にそれらの文化的表出も扱うことで子供たちに人間の存在の多様性を教えようとしている。その一方で、そこから生まれ可能性のある先入見、stereotypeを除去した上で、子供たちの日常の中から、身近なところから題材をとり、異文化理解につなげて行くには、教師の健全なセンスと努力が要請されるだろう。

このEOLEの手法、同時に複数の言語、文化と対峙するやり方は、身の回りに多くの異文化からの人々が住んでいるところでは、取りやすいが、日本では、外国との交流が頻繁になったと言っても、まだまだ教育の裏打ちをするまでの力はないだろうから、単一の言語を扱いながらでも、この方向に進む可能性を考えねばならない。それはstereotypeとの取り組みの中から生まれるのではないだろうか。

stereotypeを作ってもそれを相対化する用意、それを新しいより包容力のあるものに代えてゆくこと。いろいろな項目、テーマを扱うより、少数の項目でも複数の範例、exampleを扱って、相対的にものを見る力を養った方が、結局は本来のholisticな教育としての小学校教育の目標を達成することが出来るのではないかと考える。現在では知るべきことはますます増え、それらに網羅的に対応することはもはや不可能である。むしろ重要なのは未知の領域に対処する能力、CEFRがいう学習能力Savoir-apprendre とその前提となるものに向かう態度Savoir-etreなのである。

以上
(要旨文責・事務局)