地球ことば村
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ことば村・言語学ゼミナール

言語学ゼミナール(6)
▼言語学ゼミナール

 


● 2009年2月28日(土)12時30分-13時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス大学院棟334教室
● 座長:金子亨(千葉大学名誉教授・言語学)



 今回は新しい参加者が何人かおられたので、ことば村言語学ゼミを始めた動機とか司会者の心づもりなどについて話しました。そのために予定した話がほとんど先送りになってしまいましたが、改めて初心を思い出すのはよかったと思います。

 この言語学ゼミはもともと地球ことば村をよりよく運営するための勉強会のつもりで始めましたが、始めて見ると、今とこれからの言語研究の理論と方法についてこれだけは押さえておこうという問題をいくつか論議しておくことが大切だと思われました。実際の言語記述の際のポイントや言語問題の捉え方について話をすることになりました。

 前回はちょうどサロンの予定がなかったものですから、1月のサロンと合体して11月までにゼミで話題にしていた「深層構造」の問題について話しました。大略次のような話です。前世紀の中頃から、言語構造の記述には句構造という分析手段が使われてきましたが、それは「名詞句、動詞句」などの抽象的カテゴリー、そのカテゴリー間の関係、それに語彙要素からなる形式構造とされています。句構造は何層にもなっていて、それぞれ変形・併合などの文法操作で連なっています。それを句構造の派生といいますが、その最初の、思考形式に一番近い派生形式が「深層構造」と言われてきました。最近の生成理論では「論理形式」と言われる構造です。ここで大切なのは、「深層構造」が語彙要素と抽象的文法カテゴリーの間の階層構造であるという点です。この階層構造は抽象的カテゴリーと語彙要素と、それを結ぶ構成要素関係と配列関係という二種類の関係によって組み立てられています。この考え方は過去60年ほどの生成理論の歴史で変わらない原則でした。言語記述をするとき、例えば生成文法の方法を使わずに先住少数民族言語の構造を記述する場合でも、この原則に配慮することが大切だと思います。詳しくはサロンの報告をご覧ください。

 さて2月28日のゼミでは、「深層構造」や先住民族語研究にとって大切な論点を言語研究の歴史をふまえてひとつ取り出してみました。

 フェルディナンド・ド・ソシュールが20世紀初頭に新鮮な言語記号論を提起したことは知られています。彼は言語記号が二つの側面、概念と音響印象から成り立つとして、右のような図を書いたと言われています。上が記号の概念、下が音声です。この2部分の結びつきは「恣意的」で、「木」を表すに当たって個々の言語はそれぞれ勝手な音声を使うと指摘されました。そして概念の方は言語の別にかかわらず、コンスタントだと暗黙に了解されていたようです。後にイェルムスレフが色彩語の場を引き合いに出して、概念も言語によって多少はずれると言ったのですが、今までのところ一部の「言語相対論者」を除いて、この問題はまともに論じられてきませんでした。しかしやはり概念も個々の言語によって一定の幅でずれるというのが真実でしょう。つまり「恣意性」は音声だけでなく概念の側にも原因があると考えるべきでしょう。

 ノーム・チョムスキーは1960年代の始めに「深層構造」が「全ての言語に共通」であると書きました(『デカルト派言語学』)。文の意味解釈への出力があくまで論理的構成体であると考えたからだろうと思います。この理念は今日のモデルの「論理形式」にも見られます。つまり言語による意味的偏差が原則としてパラメータに委ねられています。しかし句構造形式だけにパラメータを設定するわけにはいきません。句構造には語彙要素が含まれていますので、その個別言語的偏差にも配慮しなければなりません。文法理論の進展の今日の段階では、そろそろこの問題を棚から下ろすことを考えなければならないのではないでしょうか。とりわけ「事象意味論」や「概念意味論」のように言語と認知や事象とのインターフェースが視野に入ってきたのですから、このように概念の恣意性や意味の言語的偏差と正面から向き合ってもいいのかも知れません。

 そこで思い出すのは、かつてウィルヘルム・フンボルトが19世紀の初めに「内的言語形式」と「抱合形式」という理念を提唱したことです。ここでは概念と言語形式との個別言語性が問題とされました。またその一世紀後にはエドワード・サピアが言語構造の類型について「技術」と「総合」という軸を作って形式構造の類型を捉えようとしました。この二つの思想については後に時間を見つけて別個に論議する必要があるでしょう。そしてその議論を有用なものとするために、まず言語の形態構造について考えてみましょう。言語要素の形態構造はもともと「論理形式」の要素ですし、概念の恣意性や言語の意味論的偏差の元でもありますので、その形式的あり方を心得ていなくてはなりません。いくつかの言語についてその基本的な形態構造を分析してみたいと思います。そのために、次回は、服部四郎「付属語と付属形式」1950を手懸かりに、形態分析をやってみようと思います。

(金子 亨)