遠くて近い国、キルギス
アクマタリエワ ジャクシルク
(東京大学附属図書館U-PARL 特任研究員)
掲載年月日:2026年5月24日
キルギスとはどんな国か
「キルギスです」と言うと、だいたい三つの反応が返ってくる。
「ロシアですか?」
「キリギリス?」
そして、ときどき「イギリス?」である。
そのたびに少し笑いながら、「いいえ、もっと南のほうである」と説明する。何度も繰り返してきたやり取りであるが、いまではその時間も、小さな楽しみの一つである。
キルギスは、中央アジアに位置する山国であり、豊かな自然と遊牧文化で知られている国である。国土の大部分を天山山脈が占めており、「中央アジアのスイス」と呼ばれることもある。日本のように海はないが、その代わり、各地で山々の景観を見ることができる。私たちにとって山は「特別な場所」ではなく、日常の背景のような存在である。国内には透明度の高い湖や冷たい川が多くあり、人々の生活は自然と密接に結びついている。
そしてもう一つ、日本の方に知ってほしいのは、キルギスがとても多様な国であるということである。キルギス人が多数を占めるのは確かであるが、それだけではない。ウズベク人やロシア人など、さまざまな民族の人びとがともに暮らしている。家庭で話す言葉が違い、信じている宗教が異なり、食べる料理が少し異なることもあるが、それは驚くようなことではない。むしろ、「違うこと」は特別なことではなく、日常の一部である。顔立ちも宗教も言葉も少しずつ異なる人びとが、同じ市場で野菜を選び、同じバスに乗り、同じ街の中で時間を過ごしている。
日本に来て感じたこと
だからこそ、はじめて日本に来たとき、私は少し不思議な感覚を覚えた。街を歩いていると、どこを見ても「同じ顔」に見えた。もちろん、よく見れば一人ひとり異なる。しかし、そのときの私には、日本の人々がとても似ているように感じられた。それは、さまざまな人の中で暮らすことに慣れていたからであろう。
キルギスでは、見た目も言葉も少しずつ異なる人びとが一緒にいるのが当たり前である。そのため、人の違いを強く意識することはあまりなかった。一方で日本では、共通性や調和が社会の安心感につながっているように感じられた。そうした違いに気づいたとき、私は自分の国のことを、少し新しい目で見るようになった。違いがあることも、同じであることも、それぞれに意味があると感じている。
人との距離の取り方
キルギスで暮らしていると、人と人との距離は比較的近いと感じる。バスに乗れば、隣に座った人と自然に会話が始まることも珍しくない。市場でも、店の人と冗談を交わしながら買い物をすることがある。知らない人同士でも、同じ空間にいれば、言葉を交わすことは特別なことではない。
私が日本に来て最初に驚いたのは、その静けさであった。電車の中ではほとんど会話がなく、人びとはそれぞれの時間を過ごしている。隣に座っていても、互いに干渉しない。キルギスではあまり見られないことであるが、日本では隣に住んでいても、ほとんど言葉を交わさないまま過ごすこともある。どのような人が隣に住んでいるのか、よく知らないままでいる場合も少なくない。
どちらのあり方が良いということではない。人との距離の取り方にも、その社会の価値観が表れているのである。
キルギス語とはどんな言葉か
キルギス語は、私たちが日常的に用いている言葉である。文の構造は、日本語とよく似ている。たとえば、「私は本を読む」という文では、日本語でもキルギス語でも、動詞は文末に置かれる。語順が同じであるため、日本語話者にとっては理解しやすい側面がある。
さらに興味深いのは、日本語とキルギス語では補助動詞として使われる語そのものが意味的に対応している点である。
日本語には「食べてみる」「食べてしまう」のように、動詞に別の動詞を付加して意味を調整する表現がある。キルギス語にも、これとよく似た仕組みが存在する。たとえば、日本語の「この料理を食べてみる」における「みる」は、本来「見る」という意味の動詞であるが、補助動詞として用いられると「試しに〜する」という意味を表す。
同様に、キルギス語でも:
Men bul tamak-tı je-p kör-öm
私(1人称) この 料理-を 食べ-て 見る-現在-1人称
1SG this food-ACC eat-CVB see-PRS.1SG
「私はこの料理を食べてみる」
ここで使われている kör- も、もともとは「見る」という意味の動詞であり、日本語の「〜てみる」と同じく「試しに行う」という意味をもつ。つまり、補助動詞として使われている語が、両言語で同じ「見る」という語である。
このように、意味だけでなく、補助動詞として用いられる語彙そのもの(kör-、見る)が対応している点は非常に興味深い。さらに、動詞に接続形(-て / -p)を付けて別の動詞を重ねるという構造自体にも共通性が見られる。
これらの例からうかがえるのは、単なる文法形式の類似にとどまらず、「行為の捉え方」における近さである。すなわち、動作そのものだけでなく、その周囲にある意図や感情といった側面を、動詞の組み合わせによって表現する点に共通性がある。私にとって、このような対応関係は尽きることのない関心の対象であり、研究を続ける大きな動機となっている。
ただし、キルギスではもう一つ重要な言語がある。それがロシア語である。
家庭ではキルギス語が用いられる一方で、学校や職場ではロシア語が使われることも多い。会話の中で言語が自然に切り替わることも珍しくない。言語は固定されたものではなく、状況に応じて選択されるものである。このような言語使用のあり方は、日本とは異なる特徴の一つである。
キルギス人の暮らし
キルギスの暮らしは、しばしば「遊牧民の生活」と結びつけて語られる。実際に、そのルーツは確かに遊牧生活にある。現在でも、夏になると高地の草原へ移動し、ボズウイ(移動式テント)で生活を送る人々がいる。朝は家畜の鳴き声とともに始まり、温めたミルクの香りが広がる中で一日が始まる。夜には、静かな自然の中で時間を過ごす。実際に、筆者である私の実家でも、馬や羊、牛などを育てながら暮らしている。
しかし同時に、現代的な都市生活も確かに存在している。首都ビシュケクでは、カフェやショッピングモール、バザールが立ち並び、スマートフォンを使って仕事をする人々も多い。重要なのは、「昔」と「今」が分離しているのではなく、互いに重なり合いながら共存している点である。都市で働く人が夏になると草原へ行って休暇を過ごすこともあれば、山で家畜を飼う人々が携帯電話を持ち、都市部とつながっていることも珍しくない。
私が子どものころ、外国は遠い存在であった。それが現在では、インターネットによって身近なものとなっている。そして興味深いのは、帰国した際に「逆カルチャーショック」を受けることである。たとえばタクシー。かつては路上で拾うものであったが、現在ではアプリで呼ぶのが一般的である。むしろ、アプリを使わなければ利用しにくい場面もある。変化は、時に個人の記憶よりも速い。それでも、山や草原での生活は変わらない。新しいものと、古くからのものが共存している。それが、現在のキルギスである。
おわりに
キルギスでは昔から、「日本人とキルギス人の顔は似ている」と言われている。実際に日本で生活していると、「この人はキルギスにもいそうだ」と感じることがある。一方、日本では、私がキルギス人であることも、言葉を交わさなければ気づかれないことが多い。それは外見だけでなく、表情やふるまい、人との距離の取り方にも表れているのかもしれない。
違いと共通点は、きれいに分けられるものではない。もしキルギスを訪れる機会があれば、違いを探すと同時に、似ているところにも目を向けてほしい。
遠い国でありながら、どこか近い存在でもある。
キルギスとは、そのような場所である。

