それでもなお、タタール人である——祖母のことばと、ある離散の記憶
櫻間 瑞希(さくらま・みずき/Mizuki Alexandra Sakurama-Nakamura)
(大阪大学講師)
掲載年月日:2026年6月28日
ことば以前の場所から
ばらかい。幼いころ、祖母はわたしを呼ぶのに「ばらかい」ということばを使った。「ちいさいの」とでも訳せるだろうか。親しみのこもったタタール語の呼びかけである。けれども、わたしはそれが「タタール語」であることを長らく知らなかった。日本語のなかにも、ロシア語のなかにも、ぽつんと差し込まれるそのことばは、コードスイッチングという術語で説明されるよりもずっと前から、わたしのなかにしみこんでいた。祖母の手のひらの温度、台所に立ち込めるパンの匂い、その合間にひっそりと差し出される音——。
タタール研究を志した理由は、と問われると、わたしはいつもこの場面に戻る。学問的な動機を整えてみせることは可能だ。マイノリティの言語維持、ポスト・ソヴィエト空間における民族の再編、ディアスポラと「歴史的故郷」の関係。どれも嘘ではない。けれどもそれらの問いの底には必ず、「ばらかい」と呼ばれていた幼い自分が座っている。
持ち運べないものたちを抱えて
ディアスポラということばは、ギリシア語の「散らされた種」に由来するという。畑から拾い上げられ、風に乗せられ、見も知らぬ土地に落とされた種。やがてそこで芽を出すかもしれないが、もはやもとの畑には戻れない。ユダヤ人の離散を語るために用いられたこのことばは、20世紀後半以降、アルメニア人、パレスチナ人、アフリカ系の人びと、そして数えきれないほどの集団を語る術語としても広がった。タタール人もそうだ。
しかし「種」という比喩は、残酷なほどにきれいだ。きれいすぎるのだ。故郷を離れて生きるとは、もっとふぞろいで、もっと持ち運びの利かないものを抱えて生きることだ。誰かが土地を離れるとき、彼や彼女が手放さずに連れて行くのは、ことばの抑揚であったり、ある料理の塩加減であったり、祝祭の太鼓の打ちかたであったり、祖母の歌の節回しであったりする。それらは「文化」と呼ぶにはあまりに頼りなく、「習慣」と呼ぶにはあまりに切実で、そして「言語」と呼ぶにはあまりに音楽的だ。ディアスポラを生きるとは、そうした名づけきれないものたちを、新たな土地の風と擦り合わせながら、なんとか息継ぎさせ続ける営みでもある。
拡がりつつ、ひとつでもある
タタール人とは誰か、と問われると、わたしはすこし迷う。ひとまずは、ヴォルガ川とウラル山脈に挟まれた一帯を歴史的な故地とするテュルク系ムスリムの民族、と答える。今日、その公式な「歴史的故郷」とされるのは、ロシア連邦のなかにあるタタールスタン共和国だ。首都カザンには空色の屋根の壮麗なモスクが建ち、そのすぐ近くには鐘楼を持つ正教会が並んで立つ。街のあちこちにはタタール語の標識とロシア語の標識が並んでもいる。ロシア連邦に暮らすタタール人は約471万人、これはロシア民族に次ぐ規模の民族集団である。世界全体ではおそらく600万人程度になるだろうとも言われている。
タタール人の物語は、とはいえ、けっしてタタールスタンの内側だけでは語りえない。むしろ、その物語の半分は、領域の外で書かれてきた。19世紀のロシア帝国の南進にともない、商人や知識人として中央アジアに移り住んだタタール人の家系がある。革命と内戦から逃れて、極東経由で満洲へ、日本へ、トルコへ、フィンランドへと流れた家系がある。第二次世界大戦の混乱のなかで欧州へと流れ着き、戦後ドイツやアメリカに定着した家系がある。ソ連解体後の経済的困窮や民族間の緊張から、また新たな移住を経験した家系がある。そして近年ではウクライナ侵攻を契機に、ロシアを去って中央アジアや欧州へと向かう新しい波が起きている。世代を重ねるごとにそれぞれの土地の歴史や文化の一部となり、もはや単一の「タタール人らしさ」で括ることはできない。タシケントのタタール料理にはクミンの香りが立ち、イスタンブルのタタール家庭ではトルコ風のチャイが注がれ、神戸のタタール家庭では神戸のことばが織り交ぜられる。
名はゆれている
ところで、ここまで「タタール人」「タタール語」と書いてきたが、この「タタール」という名称は、実のところ、なかなかやっかいな語である。歴史をさかのぼれば、もともとは13世紀に勃興したモンゴル系の一部族の名であったとも言われる。それが、ユーラシアの草原を駆けたモンゴル帝国の波及とともに、ロシア人やヨーロッパ人の口を経て、東方からやってくるテュルク系・モンゴル系の諸民族をひと括りにする呼称へと拡張していった。中世から近世のロシア語文献に登場する「タタール」が誰を指しているかは、文脈によって大きく異なる。ヴォルガ・ブルガールの末裔であったり、シベリアのテュルク系諸民族であったり、はたまたカフカスの山岳民族であったりする。本稿で扱ってきたヴォルガ・ウラル系の人びとを指すという用法でさえ、19世紀以降の民族論的整理を経て、ようやく落ち着いた線引きにすぎない。名は、思いのほか流動的で、時代と場所によって指し示す対象を静かに変えてきた。
ヨーロッパの台所で見かける「タルタルソース」も、語源的にはこの呼称につらなるが、料理史的には現代のタタール人とはほとんど関係がない。19世紀フランスでの東方趣味のなかで、生肉や酸味の利いたソースに「タタール風」という装飾的な名がつけられたとされる。タタール人と聞いて「ああ、あの黄色いソース」と思い浮かべる人は今でも少なくないが、当の本人たちは大抵苦笑する。タルタルステーキもそうだ。生肉は食べない。
そして混同を避けるためにもうひとつ。「クリミア・タタール人」と呼ばれる人びとがいるが、彼らは本稿のタタール人とは別の民族である。クリミア半島を歴史的な故郷とし、独自の言語と歴史を持ち、20世紀のスターリン期に中央アジアへ強制移住させられ、ようやく1990年代から「故地」への帰還を始めた。近年のロシアによるクリミア併合とウクライナ侵攻のなかで、再び苦しい立場に置かれている人びとである。両者の歴史は接点をもちつつも、別個の物語として理解されている。同じ「タタール」という名のもとにいくつもの異なる集団が暮らしてきたという事実そのものが、ひとつの民族名がいかに歴史の堆積物であるかを静かに物語る。
「選択」ではなかった選択
タタール語は、テュルク語族のキプチャク語派に属する。耳に届くと、トルコ語をぐっと深く、まろやかに発音したような響きがする。母音調和を持ち、語尾を膠のように継ぎ足していくこの言語は、文学言語としての長い伝統を持ち、19世紀末から20世紀初頭にかけては、イスラーム世界全体の近代化を媒介する重要な言語のひとつでさえあった。詩、小説、新聞、神学書——そのいずれにおいても、タタール語は静かに、しかし力強い存在感を放っていた。
それが少しずつ表舞台から退いていく過程には、ソヴィエト時代の言語政策の影が深く落ちている。ソ連は建国の初期から、国家を構成する多様な人びとをいくつかの民族のカテゴリーに整理し、それぞれの民族籍を身分証明書に書き込むことを義務づけた。当時の定義では、民族とは「共通の言語、地域、経済生活、心理的構造」を分かちあう集団とされ、民族とその言語は本質的かつ不可分なものだという観念が、人びとの意識の深いところに静かに植え込まれていった。それは一面では、各民族の言語と文化の発展を支える土壌にもなった。けれども現実は、その理屈とは別の方向へとゆっくり流れていく。1958年、フルシチョフのもとで行われた教育改革のあと、子どもをロシア語の学校に通わせるか民族語の学校に通わせるかが、各家庭の「選択」に委ねられるようになった。書類のうえでは、それは自由な選択であった。
けれども、医師になるにも、技師になるにも、よい職を得て社会的に上昇していくにも、ロシア語の道のほうがはるかにひらけていた。「自分の子どもに苦労をさせたくない」と願う親が、その願いの強さゆえに、子どもを民族語教育から遠ざける──そうした「選択」が、各家庭で、各世代で、静かに積み重なっていった。これを「選択」と呼ぶことに、わたしはいつも強いためらいを覚える。誰かの肩を強く押す手が見えなかっただけで、その背後にはたしかに、押す力があった。子をよりよい人生に送り出したいと、親は願ったことだろう。けれどもその願いを叶える道筋がロシア語の側にしか敷かれていなかったとすれば、それはもはや、選んだのではなく、選ばされたと言ってよい。
こうしてソ連解体までの数十年のあいだに、タタール人を含む多くのマイノリティの家庭で、民族のことばはゆっくりと台所や寝室の言語へと退き、複雑なことを考えるための足場はロシア語に置き換わっていった。今日、中央アジアに暮らすタタール人の多くがロシア語で生活し、ロシア語で夢を見るのは、その長い経過のひとつの帰結である。タタール語は完全に消えてしまったわけではない。けれども、何かを真剣に考えようとするとき、人びとの足元に最初に現れる言語は、もはやタタール語ではない。
沈黙の下に流れるもの
そしてソ連解体ののちも、状況が大きく好転したわけではない。ロシア連邦の言語政策のなかで、タタールスタン共和国内の学校教育におけるタタール語必修の枠は事実上撤廃され、子どもたちが日常的にタタール語に触れる場は静かに、しかし確実に縮小している。ロシア国外のディアスポラ・コミュニティの状況はさらに切迫している。中央アジアの都市部では、タタール人の親子三世代がそれぞれ別の言語を主にして暮らす光景も珍しくない。祖父母はタタール語で祈り、両親はロシア語で仕事をし、子どもたちは学校でウズベク語の作文を書く。家族の食卓は、いくつもの言語が交錯する小さな境界地帯となる。
ある女性は、わたしにロシア語でこう語った。「タタール語は、わたしの祖母とのあいだにしか流れていなかった川のようなものです。祖母が亡くなって、その川は地下に潜ってしまいました。今もどこかで流れている気はするのですが、もう蛇口をひねっても出てこないのです」。失われたわけではない。けれども、汲み上げられない。タタール語のこの「地下に潜った川」のような感覚は、わたしがフィールドで何度も出会ってきた感覚であり、同時に、わたし自身のなかにある感覚でもある。
タタールスタン共和国は、世界各地のタタール・コミュニティに教師を派遣し、教科書を送り、子どもたちをサマースクールに招待している。「歴史的故郷」からの善意のはたらきかけは、しかしときに小さな摩擦も生む。タシケントのある家庭が代々作ってきた料理は「これは本物のタタール料理ではない」と評され、子どもが祖父母から受け継いだ発音は「それは間違いです」と訂正される。時に形を変えて受け継いできた自分たちの実践が、「歴史的故郷」の基準によって「逸脱」とされるとき、人びとは戸惑い、時に静かに反発する。誰が「ほんとうのタタール語」を決めるのか。「ほんとうのタタール文化」の中心はどこにあるのか。タタール人を研究するうちに、わたしはこの問いの前に何度も立ち止まり、ある中心が用意した答えに頷きそうになる自分を引き戻すことを学んできた。
どこにも完全には根を張らずに、あるいは、張れずに
わたしの父方の曽祖父母は、現在のロシア連邦バシコルトスタン共和国北西部の出身だった。革命と内戦の混乱のなか、満洲を経て、彼らは日本にたどり着いた。祖母は横浜で生まれ育った。タタール語と、ロシア語と、日本語に、英語に、ときにはトルコ語が、誰に教わるでもなく、彼女のなかでは自然と混在していた。「ばらかい」とわたしを呼んでいたとき、祖母はそれをタタール語だと意識してさえいなかったかもしれない。ただ、いちばん親しい呼びかたがたまたまその音だった、というだけだったのかもしれない。
家のなかには、いつもカザンへの淡い眷恋 のようなものが漂っていた。誰かが訪れた話、誰かから手紙が届いた話、写真のなかの遠い親戚たちの顔。けれどもそれは、強い帰還願望というよりは、ゆるやかな星座のような感覚だった。一族の若い世代は今、日本、トルコ、ドイツ、アメリカに散らばっている。「故郷」はそれぞれの場所にいくつかの形で根を張っているし、また同時にどこにも完全には根を張っていない。
「あなたの母語は何ですか」と問われるとき、わたしはいつも、ほんの一瞬、息を呑む。「日本語」と答えれば事務的な手続きはなめらかに進む。けれどもそれは、「ばらかい」と呼ばれていたあの場所、さまざまな音が「ことば」として分節される前の、感覚と音と匂いの渾然とした世界を、たった一語に圧縮することでもある。母語というラベルが想定する単線的な系譜は、わたしのなかにあることばの地層を写しとるには、どうにも目が粗すぎる。だからこそだろうか、世界のどこかで「タタール語をもう話せないが、自分はタタール人だ」と語る人びとに出会うたびに、わたしのなかで何かが小さく共鳴するのだ。彼らの「タタールであること」と、わたしの「タタール的であること」とは、もちろん同じ重さの経験ではない。けれども、ある種の、目に見えない親族関係のようなものを結んでいる気がする。
「もとから」と「あとから」のあいだの「あわい」
ディアスポラを生きるタタール人の生のなかには、変容しながら生き延びる、という静かな技がある。ウズベク料理の影響を受け、ロシア語を生活の真ん中に置き、ときには「歴史的故郷」の規範から「逸脱」と評されるような実践を編み出してきた。それでもなお、自らを「それでもタタール人だ」と語り続けてきた。変わらなかったのではない。確かに変わった。けれども、その変容そのものが、かれらの、わたしたちの、タタール人であることのかたちのひとつであった。
そしてそれは、けっして楽な道だったわけでもない。変容するということは、何かを失うことでもある。ことばを忘れた祖母を見送り、子に教えるはずだったレシピを思い出せず、祭礼の歌詞をいつのまにか歌えなくなる。喪失と引き換えに、新しい何かが芽吹くこともあるが、その「新しい何か」が確かに自分のものだと信じられるまでには、ときに二世代、三世代を要する。あわいに生きるということは、しなやかさの賛歌であると同時に、苦さや痛みを引き受けることでもある。
そのような変容のかたちは、多様な背景の人びとが新たに隣人となる今日の社会にとって、ささやかな手がかりになりうるのではないかと、わたしは思う。世界の各地で、自他の境界を硬く閉じようとする声が日に日に大きくなっている。「もとからここにいた者」と「あとから来た者」とを峻別し、後者を排そうとする論調があちこちで顔を出す。けれどもタタール人の歴史を眺めていると、そのような線引きが、実のところ歴史のスケールではいかに脆いものかが見えてくる。19世紀に中央アジアにやってきたタタール人は、当時の地元民から見れば紛れもなく「あとから来た者」であった。それが今では、その地に四世代、五世代を重ね、現地の文化と編み合わさった独自の存在となっている。「もとから」と「あとから」のあいだに引かれる線は、長い時間のなかで何度でも書き直される。
そしてこの「書き直し」は、変わる側にとっても、迎え入れる側にとっても、ともに痛みを伴う作業である。あとから来た人びとだけが一方的に「同化」を求められる、というかたちでは、新しい社会や文化は立ち上がらない。もとからの人びとも、自らが慣れ親しんできた風景のいくらかを、新しい隣人とともに書き換えていく覚悟を、どこかで引き受けてきたからこそ、タタール人はタタール人であり続けてこられた。その双方向の変容のなかにしか、おそらく、わたしたちが多様であることを誇りにできる社会は立ち上がらない。タタール・ディアスポラの人びとが歩んできた道筋は、その意味で、いまを生きるわたしたちがそっと耳を傾けてみたい先行例であろう。
どこにも完全には属さないままに
タタール・ディアスポラを研究することは、結局のところ、ひとつの民族の物語をなぞることではないのだと思う。それは、人がどのように自分を名づけ、ときに名づけきれずに生き、それでもその名づけきれなさのなかで何かを伝えようとするのかという、より普遍的な問いを照らし出す営みでもある。グローバル化の時代にあって、「故郷」と「移住先」、「中心」と「周縁」、「正しさ」と「逸脱」という対立は、ますます揺らいで、曖昧なものになりつつある。タタール・ディアスポラを生きる人びとが日々編み出している、複数の故郷を抱えて生きる作法は、けっして辺境の特殊事例ではない。わたしたちがいずれ直面することになる問いの、先行例ともなりうるかもしれない。
「ばらかい」。祖母のあのことばは、いまも辞書のどの言語の項目にも完全には属さないまま、わたしの内に残っている。それを「タタール語」というラベルに収めきらずに、しかし「タタール語」というラベルから完全に切り離しもせずに、書き続けること。たぶんわたしのタタール研究は、そういう、いつまでも決着のつかない作業なのではないか。
そして、いつまでも決着がつかないこと——。それこそが、人がその名を名乗り続けていることのもっとも誠実な根拠ではないかと、わたしはこのごろ思っている。
参考文献
櫻間瑞希 2025「多中心的真正性の交渉:ウズベキスタンのタタール人コミュニティにおける言語・文化継承の動態」『言語政策』21: 1-20.

