地球ことば村
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【地球ことば村・世界言語博物館】

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芸能界業界用語事典 <1「せっしゅうする」>

●自分を大きく見せたい!
東京の代表的盛り場・浅草。金竜山浅草寺の雷門には大きな提灯がぶら下が
っています。さらに参道を進むと宝蔵門。そこには大きな仁王様。その門の裏
を覗くと、長さ4.5 メートルもある大きな草鞋が掲げてあります。仁王様がは
く草鞋だと言いますが、仁王様の身長ほどもある草鞋をどうやってはくのか?
 たぶん、早田隊員がウルトラマンに変身するように、一朝事あれば仁王様は
、待ってましたとばかり巨大化し、大草鞋をひっかけて、観音様のもとに駆け
つけるのでしょう。では、肝腎の御本尊・観音様の大きさはと言うと、身の丈
わずか一寸八分(約5センチ5ミリ)。えっ、そんなに小さいの?! と誰もが
ビックリしますが、小柄な御本尊が大きな仁王様を引き連れているところに、
浅草の観音様の有難さがあるのです。

 昭和44年(1969年)に始まったテレビ番組の『水戸黄門』の初代水戸黄門・
東野英治郎さんは小柄な方でした。小柄な黄門様が屈強な助さん格さんを左右
に従えるイメージは、観音様と仁王様のイメージに重なります。東野さんの後
、黄門役は、西村晃さん、佐野浅夫さん、石坂浩二さんと続いて、現在は里見
浩太朗さんに引き継がれて来ましたが、自分を大きく見せたいと思う気持は、
どなたも変わりません。ですから、主役を引き立てるため、工夫が凝らされま
す。

 こっそり身長を高く見せるための靴──シークレットシューズというのがあ
りますね。芸能人にも愛用者が多いと聞きますが、三波春夫さんなんかは、シ
ークレットでもなんでもなく、堂々と厚底の草履をはいておられました。
 物事を実際より良くまたは高く見せることを、『下駄をはかせる』と言いま
す。歌舞伎では、御存知伊達男・助六が高下駄をはいています。映画では、姿
三四郎、そして、伊豆の踊子の学生さんも高下駄をはいています。いずれも颯
爽とした立ち姿を目立たせるための小道具です。
 
 
 ●「せっしゅうする」 
  映画撮影の現場では、背の低い俳優を高く見せるために、踏み台に乗せて撮
影することを『せっしゅうする』と言います。また踏み台そのものも『せっし
ゅう』と呼びます。
 その語源は、ハリウッド映画の黎明期、今から90年も前にさかのぼります。
日本人初のハリウッドスター早川雪洲の名前にちなんだものです。ハリウッド
に最初の映画スタジオが出来たのが1911年。雪洲がハリウッド映画界入りした
のが1914年。雪洲はチャールズ・チャップリと同い年(1889年生まれ)で、最
高給取りのチャップリが週一万ドル稼いだ当時、雪洲はチャップリンに次いで
八千ドル稼いでいました。1919年には、ハリウッドの一角に東洋風の四階建て
の大邸宅『グレンギャリ城』を建て、ハリウッドの名士を集めて連日盛大なパ
ーティを開きました。のちに世紀の二枚目スターと言われたルドルフ・ヴァレ
ンティノも雪洲に憧れ、一時グレンギャリ城で働いていました。
 雪洲の身長は173 センチですから、当時の日本人としては決して低くはあり
ませんが、体格のよい美男美女が群れ集うハリウッドで、二枚目スターとして
のし上がった雪洲には特別の魅力があったのでしょう。スクリーン上で、アメ
リカ中の女性の憧れの視線を一身に集め、他を圧するオーラを発していたので
す。その彼の人気を文字通り足の下から支えていたのが、『せっしゅう』だっ
たのです。

 今でも、小柄な俳優を仇名して『せっしゅう』と呼ぶことがあるそうです。
親からもらった身体のことを、とやかく言われるのは腹の立つことですが、根
性のある俳優なら、そういう誹謗をものともせず、自分を売り出すための工夫
は何でもやるべきです。スターは目立ってなんぼの世界です。目立たなきゃ意
味がありません。

●オレの方が大きいゾ! 
「お客様は神様です」で有名な三波春夫さんが昭和の国民的歌手とて一世を
風靡していた頃、真偽のほどはあきらかではありませんが、村田英雄さんと、
どちらが身長が高いかでもめたそうです。当時、三波春夫、村田英雄、三橋美
智也は演歌の三羽烏と言われて絶大な人気を博していました。三波さんと村田
さんの仲違いを聞いて、心配した三橋さんが御両人の間に入り、三人揃って和
解の記者会見。めでたく三人揃って記念撮影となったのですが、はいチーズ、
となったその瞬間、どなたかは知りませんが爪先立ちをしたとか、しなかった
とか。まさにスターの鑑と言うべきでしょう。
 ことほどさように、一流を張る人たちは、いついかなる時も、自分を目立た
せる工夫を惜しまないのです。そういう努力があったればこそ、大ヒット曲が
 生まれ、昭和の歌が今もなお人々の心に刻まれているのです。