地球ことば村
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【地球ことば村・世界言語博物館】

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ウイルタ語(サハリン島)


網走市郊外にジャッカ・ドフニという名の小さな博物館がある。第二次世界大戦直後サハリンから強制移住されたウイルタ族の人々によって苦労の末1978年になってやっと建てられたウイルタ文化の博物館である。ウイルタの人たちは遙か昔からサハリンの北と南に住んでいた。北はサハリン北部のワール村近辺、南はポロナイスク(日本名:静香)の近くに住んでいる。ウイルタの祖先は、何千年も昔にアムール(=黒竜江)の中流と思われる故地を出て、何年もかけて川の南北を挟んで移り住み、おそらく川の北部でトナカイの飼育を生業と定めてから、それをもってサハリンに着いたのだろう。サハリンの南北に分かれたのがそこへ一緒に着いた後なのか、違った集団が別々に着いたのかについては定説がない。いずれにせよ、ウイルタ語がアムール下流南部のオルチャ語と大変似ていることもこの移動の経路の問題と何らかの関係があるのだろう。

ウイルタ語(オロッコ語とも呼ばれた)はツングース諸語の一つで、ツングース・満州語族が紀元前何世紀かに北東に移動し始めたとき、その最初のグループの一つだったという説がある。南部のオロッコ族の言語文化については江戸末期には日本側の記録がある。そして最初の文法書は中目覚『オロッコ文典』1917だった。その頃ウイルタの人口は300人から400人と言われた。1989年のソ連人口統計では総人口190人、そのうちウイルタ語(統計ではオロク語と言う)を母語にするものは85人とされている。現在では家庭内でもロシア語しか使われていない。若い世代がまったくウイルタ語を知らないからである。北部でウイルタの若者が修業する先は、目の前の沖で展開するサハリン石油天然ガスプロジェクトに関係する仕事が多い。この傾向は今後さらに強まり、古い生業のトナカイコルホーズに興味を持つ若者はもうほとんどいない。南部のウイルタの生業は日本領時代から漁業だった。今日本の市場に「ロシア産」と産地表示されている海産物の多くは多くが非合法のロシア漁業会社の物品であるが、現在ウイルタの若者のよい就職先がそこである。こうした状況で民族の文化や言語について語ることは茶番にさえ見えてくる。

しかしウイルタ語の維持と復興に関心をもつ人々もいた。1993年ロシア連邦サハリン州北方民族局長(ニヴフ出身のライグン氏)から池上二良さん(北大名誉教授)に突然の依頼があった。ウイルタ語のために書記法を定めたいので協力をして欲しいというのである。池上先生のプロジェクトは翌年ロシア連邦アカデミーの承認を得て、それに基づいてサハリン政府はさらに池上さんの協力を得て教材の開発に乗り出した。また2003年にはウイルタ人の協力によって『ウイルタ語・ロシア語-ロシア語・ウイルタ語辞書』も刊行された。こうして、ほとんど諦められかけていたウイルタ語に教科書と辞書ができた、池上さんの長年の学術研究を土台にしてである。このことばをこれからどうするかはウイルタの若い人たちにかかっている。

《2006年掲載》