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【地球ことば村・世界言語博物館】

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世界の文字

漢字 ― 古文・小篆

周が東に遷都(前 770)したころには全国には 200 を越える国があったが,大国が小国を併呑していくうちに小国は淘汰され,やがて東に斉,北に晋,西に秦,南に楚などの超大国とわずかの小国がたえず激しい攻防を繰り返すという状態であった。歴史的な時代分けでは,周の東遷の時をもって春秋時代の始まりとし,戦国時代は黄河中流域の大国であった晋が家臣たちの内紛によって韓・魏・趙の 3 国に分裂した紀元前 453 年から,紀元前 221 年の秦の始皇帝による全国の統一までとしている。

この時代の文字の特徴として指摘できる 1 つは,広大な中国のあちらこちらで文化が独自に展開され,文字にも地方性が現われてきたこと。もう 1 つは文字を書き記す素材の種類が増え,文字がさまざまな物に書かれるようになったことである。なお,戦国時代の東方の六国,すなわち韓,魏,趙,燕,斉,楚など,秦を除く東方諸国の文字を古文(六国文字)と総称することがある。また,広義には,漢代に使われた隷書よりも古い時代の書体を指す。狭義には,後漢の許慎による字書『説文解字』や魏の『三体石経』に「古文」として収録されている文字をさす。古文の資料としては,金文(別掲参照),鉨印(じいん),貨幣,陶文,簡帛など,資料の種類はかなり豊富になってくる。

各国の「国名」と各国独自の「書体」との対応(好奇字展)

金文

金文は長文のものは少なくなり,内容も銅器の製作年や製作主管の官吏,製作した工人名を刀で刻した刻銘が兵器を中心に増加してくる(下図:燕銅戈,楚王忎盤)。

山西省から出土した「斉子中姜鎛」(せいしちゅうきょうはく)は,斉の霊公(在位前 581~554)の時代のもので,その銘文の文字は,西周の金文に比べると筆画は線刻のように細く,かつ縦長であり,銘文は 18 行 170 字からなり,作器者が王から太史などの官に任命されたことを記念してこの鎛(鐘の一種)を作ったことをいう。文章は 1 句 4 字の表現が多く,押印している箇所も随所にある。この時代になると銘文の文章にも修辞的な技巧をこらすようになってきた。(阿辻)

燕銅戈(戦国)楚王忎盤(戦国後期)斉子中姜鎛の銘文

欒書罐

晋の景公(在位前 599~581)に仕え,14 年にわたって政務に携わった欒書(人名)が祭祀用に作った酒器で,外側の肩部から腰部にかけて 5 行 40 字の銘文がある。銘文の字体は西周の金文に近い優雅なものだが,銘文の作成方法は西周の青銅器のように鋳込んだものではなく,金象嵌といわれる技法で,金属の表面にあらかじめ設けておいたくぼみや模様に糸状の金線をあて,上から強くたたいてはめ込んだものである。銘文を銅器の外側のもっとも目立つところに,それも金文字で書いたのは,あきらかに他人に見せることを意識したものであった。(阿辻)

錯金青銅器

侯馬盟書

盟書とは,家臣に忠誠を誓わせるために行った会盟の際に作成する誓約書である。次の盟書は,1965 年にもと晋の都が置かれていた山西省侯馬(こうま)市にある晋城遺跡から発見されたものである。(阿辻)

越王匂践の銅剣

1965 年に湖北省の江陵にある望山 1 号墓という楚の遺跡から発見された銅剣で,剣の下部に「越王鳩浅自作用剣」と読める 8 字の銘文が刻まれていた。この剣は臥薪嘗胆の故事で歴史に名を残す越王匂践が作らせた銅剣だと考えられている。長さ 56.7 cm,幅 4.6 cm の長剣で腐食の箇所はなく,保存状態はよい。(阿辻)

匂践の剣の銘文の文字はこのころに南方の国々でよく使われた書体で,筆画が非常に複雑で,曲線的なものである。各文字のところどころに鳥の頭を図案化したような形がある。このような書体を『鳥書体」あるいは「鳥篆」(ちょうてん)という。

越王勾践剣

鉨印文字

鉨印文字は官印,私印の印章の文字で,大部分は銅印である。また,陶文は土器上の文字を指し,多くは焼成前の土器に陶工名などの鉨印を押したものである。ともに篆文である。

鉨印(戦国,楚)陶文(戦国,燕期)陶文(戦国,秦)

鋳造貨幣

鋳造貨幣は春秋時代から見られるが,戦国時代に入って物資の流通が盛んになるに伴って各国で鋳造されて使用された。貨幣文字の多くは,発行した都市名と貨幣の重量あるいは価値を記す。

簡帛

「簡帛」は,簡牘と帛書とを略した呼び方であり,帛書とは帛に書かれた書物を言い,簡牘とはまた竹簡,木簡と木牘の総称である。簡は,比較的細い竹もしくは木の札のこと,牘は簡より幅の大きい札を指す。今日知られる資料で最も古いものは戦国期のものであり,しかもそのほとんどが六国の一つ楚の国のものである。楚簡はいずれも墓中から発見されたもので毛筆で墨書し,内容は副葬瓶の物品名や数量を記した一種の副葬品目録である遣策(けんさく)のほか,卜占の記録や日時の占書,古書の断簡などである。

望山楚簡(戦国)長台関楚簡(戦国)

今日知られる最古の帛書もまた楚国にもので,彩色の絵に 1 年の月の吉凶とその起源にかんする伝説を毛筆で記している。図:楚帛書(戦国,楚)

石鼓

秦はもともと周が東へ移ったあとに周の故地に土地を与えられた国である。したがって地域的には西周と秦はほとんど同じところに位置していたわけで,文字についても西周で使われた文字の影響が相当に色濃く反映されている。

戦国時代の秦の遺物としてもっとも有名なものに石鼓(せつこ)がある。秦石鼓文は 10 個からなる太鼓のような形の石に,1 句 4 文字の詩がそれぞれ 1 篇ずつ刻まれたもので,のちに流行する石碑の起源ともいえる古い石刻(石に刻まれた文字)である。石は花崗岩質で,上部は丸く平底で,大きさはそれぞれ高さ約 90 cm,直径は約 60 cm である。(阿辻)なお,始皇帝が天下を巡行して各地に立てた刻石は小篆の最大の資料である。(永田)

秦石鼓文(春秋後期,前422年)詛楚文(模刻:秦,前313年頃

秦公𣪘

秦で作られた青銅器は,兵器以外には出土例が非常に少ないが,数少ない祭器の 1 つに「秦公𣪘」(しんこうき)がある。これは 1923 年に甘粛省から発見された食品を盛るための容器で,秦の景公(在位前 576~537)の時代のものと推定される。この容器の銘文は蓋に 10 行,本体に 5 行に分けて書かれており,計 121 字で合わせて 1 文となる。内容は,秦公が祖先からの遺命を守って万民を正しく導き,秦に従わぬ国を討ち,祖霊を守るという誓いである。本体(図右)と蓋(図下)(阿辻)

始皇帝の文字統一

秦の始皇帝は前 221 年に天下を平定すると,統一政策を遂行する必要から文字の統一に着手した。その方法は当時の秦の正体字である小篆を整理して標準の書体を作り,これを統一文字として全国に普及せしめたのである。その整理と統一の任に当たったのが李斯であった。小篆という書体は,もともと秦の地域で使われていた大篆(あるいは籀文とも)を簡略化したものといわれている。始皇帝が巡幸の際に各地に立てた李斯の手になる小篆の頌徳碑は,言うなれば統一文字のテキストでもあった。(永田)

始皇帝はすべての度量衡標準器の表面に自分が全国を統一した業績を称えた詔勅を小篆の書体で書かせ,自己の功績と皇帝の権威を全国に広めようとした。20 斤(1 斤は約 250 g)の権(ごん)は青銅製で,銘文は周代の青銅器と同様に鋳造の方法で作られているが,他にも本体は鉄で作り,その表面に詔勅を刻んだ銅版を貼り付けたものもある。量(りょう,容積の単位)には陶器で作られたものもある。度量衡の標準器は各地の役所などに配布したもので,大量生産が比較的簡単な陶器が用いられた。また,周囲に書き記す詔勅は全部で 40 字あり,あらかじめ 4 字ずつに分けたスタンプを 10 個作っておき,詔勅の文章を機械的に刻む方法が採られた。

頌徳碑
20斤を示す権と,その銘文(拓本)
陶器製の量と,その銘文(拓本)

秦刻石

前 219 年,古くから神聖な山とされていた山東省いある泰山に登って「封禅」(王者が天と地の神を祭る儀式)という祭りを無事に済ませた始皇帝は,山に石碑を建て,秦の歴史の偉大さと自己の功績を称えた。

隷書の始まり

小篆は皇帝の命によって制定された国家の標準書体だから,皇帝の詔勅のような正式な文書に使われたが,小篆はもともと曲線が多く,書くのに時間がかかり,行政の現場ではかなり,不便な書体であった。そこで,小篆の字形の構造を簡単にし,曲線を直線にあらためて,より早く書けるように工夫した書体が隷書である。始皇帝の時代は,正式な文書には小篆が使われ,行政文書など普通に文字を書く時には隷書が使われるという状況であった。やがて次の漢になると隷書がますます普遍的に使われ,一方,小篆の方はほとんど使われなくなった。

1975 年,湖北省雲夢睡虎地 11 号秦墓から 1,100 枚の竹簡が出土した。内容は大部分が秦代の法律で,ほかに大事記や日書や私信などがある。この雲夢秦簡がいずれも隷書で書かれていた。墓葬の年代は始皇 30 年(前 217)頃と見られるが,竹簡の書写年代には幅があり,およそ戦国末年から始皇帝の初年頃と推定されている,図左:雲夢睡虎地秦簡(法律問答)図右;同(私信)(永田)

里耶秦簡

次に示す簡牘「里耶秦簡」は,2002 年に湖南省龍山県里耶で発掘されたもの。約 36,000 枚の簡牘のおおよその内容は,県官の文書(木當案)である。(好奇字展)

上掲資料のうち左 2 点の拡大図。

文字フォント

【簡帛文字フォント】 前掲古漢字字型2.4版に収録される《中研院楚系簡帛文字》を使用。


【古文フォント】 『説文解字注』データ(後述)のフォントを用いる。


【籒文フォント】 『説文解字注』データ(後述)のフォントを用いる。


【小篆フォント】 前掲古漢字字型2.4版に収録される《北師大説文小篆》を用いる。ここに掲載した文字は,白川静『字統』を参考にした。


説文解字とフォント

中国最古の文字学書として知られる許慎の『説文解字』(紀元 100 年成書)は,もともとは経書研究の一環として古文と今文の解釈の違いを整理するために作られたものであった。『説文解字』には約 9,300 字が収められているが,許慎はすべての字について「六書」によって文字の成り立ちを説明し,あわせてその文字がつくられたときの最初の意味(本義)を述べた。字形の解釈には小篆を基礎とし,さらに「古文」と「籒文」で補足して解釈の正確を期した。この『説文解字』に,清の段玉裁(1735~1815)が詳細な注釈を加えた書が『説文解字注』である。下図右:段玉裁撰『説文解字注』(世界書局 , 1962, 嘉慶13刊の影印)下図右:許慎撰『说文解字』(中華書局 , 1963, 同治12年陳昌治刻本の縮印複製)

【説文解字・説文解字注データベース】

【『説文解字注』フォント】

小篆フォントは,前掲の《北師大説文小篆》のほかに,『説文解字注』のデジタル化を目指すプロジェクト説文解字注データによるフォントが利用可能である。この説文解字注データは,親字・本文はほぼ全て入力されているが,注はまだ完全に入力されていない箇所が残っている。親字などの字形は説文解字注に出現する順に Unicode CJK Unified Ideographs 領域に配置される。本データのWeb上での検字には,説文解字注フォントをインストール後に 一覧表 から行う。 フォントは, Агитпункт Beu VII から SWShow.jar をダウンロード・解凍して取り出した説文解字注フォント SW.ttf を用いる。同梱されているSWShow.jnlpを利用すると,右図のように小窓に入力した文字に対応する小篆を検索し,下部にその字形を表示する。なお,上記フォントを利用しない場合は,説文解字注のページに記される小篆の上でクリックすると,その画像をクリップボードを経由して利用することができる。

下図は,SW.ttf (1行目)と画像(2行目)による出力の比較である。

関連サイト

[最終更新 2017/12/20]