アフリカの言語使用事情
第3回 母語教育ってあり?
梶 茂樹(かじ しげき)
(京都大学名誉教授、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所フェロー)
掲載年月日:2026年1月21日
日本に住んでいると、母語教育と言ってもあまりピンと来ないかもしれない。小学校や中学校へ行っても、日本語以外の言語で教育を受けるというのは考えたこともないというのが多くの人の感想であろう。しかし、世界には自分の母語でない言語で教育を受けるということが普通に行われている所が多くある。
学生時代モロッコを旅行していて現地の大学生と知り合いになって話していると、日本では大学の授業は何語で行われるかと聞かれたことがあった。当時、私はその質問の意味が瞬時には分からなかった。日本語に決まっているからである。しかしモロッコでは授業はすべてフランス語で行われると聞いて、その質問に納得した。そして、日本語だよ、と答えると、モロッコ人学生は驚いた。そんな言語で大学の授業が出来るのかと言うわけである。
そう言えば日本でも明治期には大学の授業は英語や、ドイツ語、フランス語などで行われていた。それを徐々に日本語に置き換えて現在に至っている。しかし現在は英語の需要が高まり、小学校の3年から英語を学ぶようになっている。私は英語は中学校に入って初めて習った世代で、小学校で習ったのは日本語のローマ字書きだけである。しかし例えばウガンダでは、小学校の初年度から授業は原則英語で行われている。もし日本の文科省の役人をウガンダに連れて行けば、きっと驚くであろう。わぁ、英語で授業をやっている、すごい、というわけである。逆にウガンダの役人を日本に連れて来れば、彼らも驚くであろう。わぁ、日本語で授業をやっている、すごい、という感じである。
この英語の問題は思い出すたびに腹が立つ。そして日本のコメの減反政策と二重写しになる。日本人はコメを食べると言われてきたが、実は長い間コメは自給出来なかった。昭和40年代に入って初めて自給を達成したのだが、その瞬間から減反政策が始まるのである。先人たちが、みんながご飯を食べられるようにと田圃を改良し、また寒冷地でも稲が育つようにと品種改良をしてきて、やっと自給できるようになったというのに、その苦労を何と思っているのか。
話が少しずれて来たので元に戻すと、自分の母語で教育が受けられるというのは幸せである。アフリカでは、母語教育というのは原則存在しない。母語教育をやろうとすると、もし国の中に言語が100あれば、100の言語で教科書を作らなければならないし、その100の言語で授業が出来る教員を養成しなければならない。それは不可能である。キリスト教の宣教師は神の教えを現地人に正確に伝えるためには、彼ら自身の言語で説教しなければならないと思っていたので、場所によっては現地語で学校教育を行っていたこともあった。コンゴなど多くのアフリカの植民地では、キリスト教の教会が植民地政府に代わって学校教育を行っていたのである。しかし、この母語教育もあまりの多言語状況を前に止めてしまった。
国民全体が理解できる言語があればいいのだが、そういうものはアフリカにはほとんどない。稀にルワンダにように国民全体がルワンダ語を話すという国もあるが、そのような場合でも、授業はフランス語や英語となる。
タンザニアの田舎でハヤ語の調査を続けていた時、用事で現地の中学校に行く機会があり、ついでに授業を参観させてもらったことがある。タンザニアはスワヒリ語が共通語としてほぼ国全体で通じるので、小学校はスワヒリ語で授業が行なわれる。しかしハヤ語地域ではスワヒリ語が母語の人はいないので、スワヒリ語での授業自体がすでに母語教育ではないのだが、スワヒリ語はまだアフリカの言語なので許せるかもしれない。しかし、これはハヤ語地域ではなく他の地域のことであるが、生徒がスワヒリ語が分からず学業に支障をきたしているという調査報告がある (Mapunda 2023)。
タンザニアの中学校では授業は英語で行われる。私が参観した授業は理科で、人体の解剖図が黒板に掛けられ、先生が、これはlung「肺」で、これはbronchus「気管支」で、これはesophagus「食道」でと、各器官の説明を英語でしていた。私は授業を参観しながら不条理を禁じえなかった。lung「肺」やstomach「胃」などは日常語で、覚えるのも造作ないが、bronchus「気管支」やesophagus「食道」はギリシャ語起源の単語である。タンザニアの中学生はこんなものを覚えないと、人体の勉強ができないのか。彼ら自身の言語にも、肺、胃、気管支、食道などの用語はあるのだが、それらは勉強、学問、知識などとは無関係の世界の事柄である。彼らはすべての学科を英語を通して勉強する。そして英語を通してしか学問の話はできないのだ。残念なことである。その代わりと言うべきか、大学の教授など研究者は英語をほぼ完璧に身につけ、自身ネーティブと変らない感覚を持っている人が多い。
私が30代だった頃、コンゴの奥地で言語調査をしていた時である。当時私はベルギーが植民地時代に作った研究所をベースに調査を続けていた。その研究所には現地の研究者も外国人の研究者もいた。またベルギーは徴兵制があるのだが、海外協力隊員として外国で活動をすれば、兵役義務を果たすということで、20代の若いベルギー人の医学系のインターンもいた。
ある時、50代の男性のコンゴ人研究者と、20代の若いベルギー人の女性医学インターン2人、そして私とでフランス語で雑談をしていた時である。何かの拍子に、ガチョウの雛はフランス語で何と言うかという話になった。私は、それがoisonであることを知っていたが黙って話を聞いていた。すると、1 人のベルギー人女性がoisonではないかな、と言ったのだが、コンゴ人研究者は、待て待てと言うのである。そしてしばらく考えて、Tu as raison「お前の言うとおりだ」と言うのである。まるで、自分の方がフランス語のネーティブスピーカーよりフランス語をよく知っていると言わんばかりであった。
また話が少し逸れたが、私は英語を学ぶことは悪いこととは思っていない。英語によって世界が広がることは大いにある。ただ、英語を学ぶ世界の大多数の人は、ややこしい英語を求めているわけではない。無色透明な英語でいいのである。日本人は英語ができないとよく言われるが、これには英語にも問題がある。
一つ挙げるならば、ギリシャ語・ラテン語起源のややこしい単語である。なぜ我々は「食道」のことをesophagusなどというお化けのような単語で言わなければならないのか。英語の歴史や文化的背景に興味のある人なら、それでもいいかもしれないが、そうでない人は通じればいいわけである。なのでesophagusなどと言わずに、素直にfood tubeと言ったらどうか。我々は、これから「食道」のこと英語でfood tubeと言います、と宣言したら世界中から大きな拍手が来るに違いない。
文献
- 梶 茂樹 (2023)「英語について思うこと」.『京都産業大学総合学術研究所所報』17: 101-107.
- Mapunda, Gastor. (2023). “But exams are not given in Ngoni”: The place of local languages in Tanzania’s Primary education. In Reilly, C., Chimbutane, F., Clegg, J. and Rubagumya, C. (eds). Multilngual learning: Assessment, ideologies and policies in Sub-Saharan Africa.
- 第2回 人は言語を幾つ話しているか / 第4回 在来種、外来種
- ことばの世界―アフリカの言語使用事情 目次

