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アフリカの言語使用事情
第4回 在来種、外来種



梶 茂樹(かじ しげき)
(京都大学名誉教授、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所フェロー)
掲載年月日:2026年2月4日  


私が京都大学大学院に勤めている時、そこはフィールドワークをベースに研究を進めるという研究科で、文科系、理科系の様々な分野の教員、学生が切磋琢磨する場であった。アジア・アフリカ地域に出かけてはフィールドワークを行い、研究をまとめてゼミで発表する。そして現地で様々な発見をする学生も多い。

そういった学生の一人にケニアのカンバ族のトウモロコシを調べた学生がいた。そしてトウモロコシにヨーロッパ起源のものとキカンバという在来種があることを発見した。これは学生にとっては大きな発見であったが、その学生はキカンバというのはトウモロコシの在来種を意味していると思ったようである。しかしこれは間違いである。学生はトウモロコシだけしか見ていなかったため、キカンバを在来種のトウモロコシと思ったのであるが、キカンバというのはトウモロコシだけなく、何についてでもあるのだ。

これを理解するにはキカンバという単語の構成を知る必要がある。この単語はki-とkambaの2要素から成っている。ki-は名詞の接頭辞で「~風」を意味する。kambaはカンバ族のkambaである。カンバ語を含むバンツー系の言語では、名詞は一般に「接頭辞-語幹」という構造をしており、接頭辞の部分を色々変えることによって様々な意味の違いを表す。例えば「スワヒリ語」というのはスワヒリ語ではki-swahiliと言わなければならない。最初のki-の部分が言語を表している。swahiliは名詞語幹なので、swahiliだけでは単語にならない。もし接頭辞をm-にしてm-swahiliとすれば「スワヒリ人」という意味になる。接頭辞m-が人間を表しているわけだ。

上で述べたようにkikambaというのは、単に「カンバ風」と言っているに過ぎない。実際、伝統的なものはすべてkikambaなのだ。トウモロコシのコンテキストで言えば、kikambaは在来種トウモロコシであるし、ニワトリで言えばkikambaは在来種のニワトリである。もしコンテキストを外して単にkikambaと言えば、それはカンバ語である。言語が最もカンバ的なのだ。スワヒリ語のkiswahiliも同じことである。

そして在来種と外来種の区別は、アフリカではどこにでもあるものだ。私が調査したウガンダのニョロ族では、世の中はすべて在来種と外来種に分かれていると言う。ニョロ語では在来種はキニョロ (kinyoro) 「ニョロ風」で、外来種はキジュング (kijungu) 「イギリス風、ヨーロッパ風、外国風」である。

わかりやすいのは、先ほどのニワトリである。在来種のニワトリとは、そこいらじゅうを走っている地鶏である。外来種とはケージに入れられて育つブロイラーである。ビールも同様である。外来種ビールとは、われわれが通常飲む、工場で瓶詰めされ王冠で栓をしてあるビールである。それに対して在来種ビールは、バナナジュースをカヌーのような形をした木製醸造桶で発酵させたバナナビールで、ヒョウタンのコップで飲む。

注意すべきは、この在来種と外来種というのは単に在来対外来という違いではないということだ。価値判断を含んでいる。つまり、在来種というのは伝統種で質が悪い。それに対して外来種はヨーロッパ風の改良種で質が良いという価値判断である。実際、彼らは地鶏は体が小さくて肉が固くでまずいが、ブロイラーは体が大きく肉が柔らかくておいしいと言う。そしてブロイラーの方が値段が高い。ビールももちろんヨーロッパ風のビールの方が高級で値段も高い。

人間にも在来種と外来種がある。在来種はニョロ人で色が黒くて能力が低いが、外来種のヨーロッパ人は色が白くて能力が高い。言語に関しても、ニョロ語は在来種で何の役にも立たないが、外来種の英語は改良種で何でもできる。

どうしてニョロ人、そして一般にアフリカ人がこのような物の見方をするのか。それは植民地化による徹底した差別主義による。彼らはイギリス人に対する劣等感を徹底的に叩き込まれたのである。植民地時代、イギリス人は偉くやることはすべてよくて、ニョロ人はダメだとずっと教えられてきた。在来種対外来種というのは、別の言い方をすれば伝統種対改良種であり、それは伝統対近代ということでもある。近代風とはすなわちヨーロッパ風であり、そしてヨーロッパ風はよい。だから近代的になるには、ヨーロッパ風になるしかない。これが結論である。しかしニョロ人はニョロ人でありヨーロッパ人にはなれない。

しかしやり様はある。ニョロ人も背広を着てズボンにアイロンを当てハットを被り靴をピカピカに磨けば、改良種風になる。しかしそうはなっても完全にはなれないところが腹立たしい。首都カンパラの街に行けばハーバード中学校などという名前の中学校がある。しかしハーバード大学とは何の関係もない。名前だけあやかっているのだ。またハーフ・ロンドンという名のバーもある。これもロンドンになりたいけどなれないというジレンマの命名である。

もう40年も前になるが、私が東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(通称AA研)に勤めていた時、ブルンディの国連大使が東京に来た折、アフリカのことを研究している研究所があるということでAA研を訪ねて来たことがあった。その第一声の質問が、あなた方はアフリカに行く前、ヨーロッパ人の書いたものを読んでいたと思うのですが、実際にアフリカに行ってどういう印象を持ちましたか、というものであった。もっと言えば、ヨーロッパ人はこういう風に書いていたけれど、それは間違いだ、ということがあれば教えて欲しい、というものであった。これは物の見方、そして発展の仕方というものはヨーロッパ風以外にもあるのではないかというアフリカ人の魂の叫びではなかったか。

こういった外国・ヨーロッパ風対現地風という区別、そして、それに対する価値判断は、植民地時代の負の遺産である。これを打破するにはどうすればいいか。

私は言語学者なので、現地語の調査をするわけであるが、彼らに言わせれば、これがまず普通では考えられないことである。なぜ改良種(私のこと)が価値もない伝統種の言語に興味を持つのか。私は今のアフリカの学校教育を憂えている。学校教育とは近代的制度の中でのことである。だから例えば理科の授業では試験管やビーカーを用いる。しかし試験管やビーカーは割れるし消耗品である。しかし今の学校の先生はヨーロッパ至上主義にどっぷりと浸かっているので、試験管やビーカーがなければ理科の授業はできないと言うのである。

私はこれではいけないと思い、ニョロ語の調査のあとキガ語の調査で語彙集を作る時、現地の伝統的な台所用品や農具などを細かく観察しその使い方を聞き、そしてスケッチをしていった。伝統的なものをどうすれば近代的学校教育の中で活かせるかを考えるためである。そして語彙集に添えたいと考えていた。結局は、私に絵心がなかっためスケッチは断念し写真にしたが、現地でこれに興味を持つ1人の青年がいた。私は彼を主インフォ―マントにお願いし調査を進めた。いつの日か、ブロイラーより地鶏の方がおいしいという時代が来ることを願いながら。


文献

- 梶 茂樹・小沢 剛(共著)2010『ウガンダ・ノート』広島:大和プレス.