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【地球ことば村・世界言語博物館】

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世界の文字

アラム文字 英 Aramaic scripts


広義には,アラム語の直接資料に用いられた文字のうち,フェニキア文字から派生した,線形単音文字体系を指す。前 8 世紀前半までの古アラム語の碑文は同時期のフェニキア語碑文と同じ文字で書かれているが,アラム語を表記しているものは古アラム文字(Old Aramaic scripts,または,フェニキア・アラム文字(Phoenician-Aramaic scripts)と呼ばれることもある。[松田 2001, p. 59]

この文字が,前 8 世紀後半以後,すなわち古アラム語時代の後期から後述のような字形の実用的簡略化の道を歩み,前 5 世紀にその極に達する。といっても,この時代にアラム語はアッシリア,新バビロニア,ペルシア各帝国の公用語であり,その文字も帝国全土でほぼ統一されていた。そして,ペルシア帝国が崩壊して,ギリシア語とギリシア文字がこの地方における共通の伝達手段となっても,アラム語とアラム文字は死滅せず,ただ統一を失って前 2 世紀以後,アラム文字は各地域ごとに多少とも相異なる方向に変化した。これらは大体その文字で書かれた代表的言語の名を冠して(方形)ヘブライ文字(聖書アラム語,パレスチナ・ユダヤ教徒アラム語,バビロニア・アラム語,パルミラ文字(パルミラ語,ナバテア文字(ナバテア語,シリア文字(シリア語,パレスチナ・キリスト教徒アラム語)と呼ばれる。上にあげた各種のアラム文字はいずれも 22 個の字母からなる文字体系であって,字形の変化の結果同形異音の音価に変化が起こったりはしたが,ある字母が用いられなくなったり新しく作られるということはなかった(マンダ文字を除いて。[松田 2001, p. 59]

古アラム文字

カナン・アラム文字の「キラムワ刻文」

フェニキア語古アラム文字でヤーディの王,カイアの子であるキラムア王子よりアッシリアの王シャルマネセル 3 世(紀元前 858~824 年)への奉納金について記している。サマル(現トルコ南部のジンジルリ・ヒョユク)出土,紀元前 825 年頃.。

キラムワ碑文 [Self-photographed / CC SA 1.0 / 出典]

ベン・ハダド碑文

ダマスカスの王ベン・ハダド碑文は,アラム語ダマスカス方言でかかれ,フェニキアの神メルカルトに捧げられてものであった。前 9 世紀中期。

ベン・ハダド碑文 [Diringer: p. 186]

テル・ダン石碑

テル・ダン石碑 [בית השלום / free / 出典]
テル・ダン石碑(Tel Dan Stele)は,1933 年から 1934 年のイスラエル北部,テル・ダンでの発掘調査で発見された石碑である。この発見は,聖書外資料として初めてイスラエルの王「ダビデ」の名前を記していることで注目されている。このアラム語の碑文は,表面が字を書くためにスムーズに加工された石板に線形アルファベットで刻印されている。現存部分は 13 行だけであり,個々の語は語分割符号である「点」によって分けられている。前 9 世紀後半。


バルラキブ王碑・ザクルの碑文

【図左】トルコのサムアル(現:ゼンジルリ Zencirli)で出土したバルラキブ王碑(131 cm × 62 cm。アラム語の地方方言で書かれている。前 730 年頃。 【図右】ハマトの王ザクルの碑文。ザクル碑文では,アラム文字の特徴は顕著ではなく,フェニキア・アラム文字と称することができる。アラム文字がフェニキア文字から分岐したのはおよそ前 8 世紀中期に始まることである。前 800 年頃。

バルラキブ王碑 [Diringer. p. 186]
ザクルの碑文 [Diringer. p. 186]

帝国アラム文字

アラム語は前 6 世紀の末にはすでにペルシア帝国の公用語として幅をきかせていた。この時期のものを帝国アラム語と称す。前 5 世紀にナイル河上流のエレファンティーネ島にユダヤ人の一団が植民していたが,ここから彼らが作成したアラム語のパピロス文書が多数発見されている。[松田 1988]

エレファンティーネ・パピルス 

エレファンティーネ・パピルスは,バビロン捕囚時にエジプトに逃れ,エレファンティーネでユダヤ人の共同体を営んでいた人たちが紀元前 5 世紀に残した,アラム語の結婚,離婚,相続などの契約文書,また,私信等の記録。下図は,破壊されたユダヤ教会の再建を懇願する書簡。 前 5 世紀。

エレファンティーネ・パピルス [ Yedoniah / Public Domain / 出典]

リュディア語‐ギリシア語墓碑 [Naveh Plate 11]

サルディス出土のリュディア語‐ギリシア語の 2 言語併用碑文。アラム語テキストは,紀元前 4 世紀のアラム石碑体文字で書かれている。[ヨセフ・ナヴェー]

[Naveh: plate 11]

現グルジア地方のアルマジから出土したギリシア語・アラム語 2 言語碑文 1 世紀

[Diringer: p. 190]
この時代にはグルジア人やアルメニア人も独自の文字を持っていなかった。グルジア文字アルメニア文字はもっと後代になって考案された。一方,パルティア人のほうは,ペルシア人もそうであったように,独自の文字を創らなかった。そこで,文字となるとギリシア文字またはアラム文字を使用した。当時アラム語はすでに話し言葉ではなかったし,アラム語の方言も生じなかったので,かれらは帝国アラム語で書き続けた。[松田 1988]

アラム文字フォント

古アラム文字と帝国アラム文字,それぞれのフリーフォントが下記のサイトから入手できる。ワードプロセッサーなどで使用する際は,右横書きの機能を必要とする。

古アラム文字 フリーフォント Early Aramaic


帝国アラム文字フリーフォント(ユニコード) Noto Sans Imperial Aramaic


ユニコード

帝国アラム文字のユニコードでの収録位置は U+10840..U+1085F である。


関連リンク・参考文献

[最終更新 2022/08/05]